2021-09-19 引き抜き、また建てるため

2021年 9月 19日 礼拝 聖書:エレミヤ1:1-10

 私たちが生きている時代は大きな変化の波にもまれているような時代です。わずか30年まえは大変な好景気で、その前にも高度経済成長の時代がありました。みんなが贅沢に暮らせたわけでなくても、ちゃんと働いていればそこそこの暮らしができるし、新しい技術がさらによい生活をもたらしてくれるように思えました。

しかし、バブル経済は崩壊し、リーマンショックは世界経済を大混乱に陥れ、東日本大震災と原発事故があり、新型コロナの世界的パンデミックが今なお収まってはいません。

昔は定年まで働いたら、あとは贅沢さえしなければ年金でまあまあやっていけると、なんとなく安心できましたが、今は年金だけでは当てにならない。老後に必要な資金が何千万とか言われても、考えることすら諦めてしまいそうな時代です。

私たちは戦後繁栄し続けて来た国が、ゆっくり衰退していく時代に生きているのかもしれません。

以前差し上げた分裂王国時代のチャートを見ていただくと、エレミヤの生きた時代が、まさに自分の国が衰退し、滅びに向かっていく時代であり、その様を目の当たりにしたことが分かります。嘆きと涙の中で、同じ時代を生きた同胞たちに、何を語るように神様はエレミヤを遣わしたのでしょうか。それは、今日の私たちにとって何を意味しているでしょうか。

1.エレミヤの召命

第一にエレミヤは、今まさに神様がイスラエルの民をこの地から引き抜こうとしていることを告げさせるために預言者として立てました。

1:1~10は、「エレミヤの召命」と呼ばれる箇所です。それは南ユダ王国のヨシヤ王の時代、紀元前620年頃のことです。それ以来、最後の王であるゼデキヤ王の時代にバビロン軍によってエルサレムと王国が滅ぼされ、人々がバビロンに捕囚となって連れていかれるまで、神のことばがエレミヤに与えられ、彼はそれを語り告げました。

主はエレミヤに語りかけました。「わたしは、あなたを胎内に形造る前から あなたを知り、 あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、 国々への預言者と定めていた。」

聖別というのは、きれいにするというより、選び分けておく、神のために特別に選んで他のものとはわけておくことを意味します。神様は、エレミヤが生まれる以前から選び、いのちを与え、神の働きのためにとりわけ、預言者とすることにしていたことが示されています。

この「生まれる前から」知っていてくださるということは、ダビデも詩篇139篇の中で歌っていますし、後のバプテスマのヨハネについて、天使が父ザカリヤに告げていたことにも通じます。

これは、すべての人の人生について、神様があらかじめどんな職業につくべきかを定めている、宿命があると言っているのではありません。神様は私たち人間が置かれた環境や親から受け継いだ性質、身につけた能力、与えられた機会をフル活用して、どんな人生でも選ぶことができる自由を与えてくださっています。そのような人たちも、ダビデが歌ったように、生まれる前から神に知られていて、神が目を注ぎ、一人の人のいのちをお母さんのお腹の中で育み、成長させ、生まれさせてくださった、神様にとっての大切な存在だということはできます。私たちが生まれる前から私たちをご存知の神様は、特別な語りかけはなくとも、私たちを救い、神の子どもとするために生まれる前から選んでいてくださいました。私たちはそのことを救いを探し求める中で気付かされて行きます。

しかし、エレミヤやバプテスマのヨハネのような、特別な働きのために召された人のことを生まれる前から選んでいるということがまれにあります。神様が、ご自身の特別な御用のために選んでいた場合には、神様が直接、あるいは御使いを通して、そのことをはっきりと告げます。エレミヤの場合も、ヨハネの場合も、パウロの場合もそうです。

そのような人々は、自分にするようにと示されている働き、負うようにと置かれている責任について、その大きさ、重みをはっきりと分かった上で、神の召しに応えることを求められます。

エレミヤは自分がそんな務めにふさわしい者とは思えませんでした。だから6節で答えます。「ああ、神、主よ、 ご覧ください。私はまだ若くて、 どう語ってよいか分かりません。」

これはイザヤがイザヤ書6章で経験したことと似ています。イザヤは神の聖さに触れて恐れましたが、エレミヤは神の選びと委ねられた務めゆえに恐れました。しかしイザヤのときと同じように、主はエレミヤの口に触れ、恐れを取り去り、ことばを授けました。

2.エレミヤの嘆き

第二に、エレミヤは主がお遣わしになるすべてのところに行き、おそらく人々が聞きたがたらないことを語らなければなりませんでした。神がお選びになり、育て導いて来られたイスラエルの民をこの地から引き抜くというさばきの預言であり、エレミヤ自身がそれを嘆きながら目撃者とならなければならないのです。

9節後半から10節の途中までにはこうあります。

「見よ、わたしは、わたしのことばを あなたの口に与えた。見なさい。わたしは今日、 あなたを諸国の民と王国の上に任命する。」

主が彼を預言者として任命した目的は、まずは、「引き抜き、引き倒し、 滅ぼし、壊」すためというのです。

そのとおり、1章から24章までにエレミヤはイスラエルが神との契約をやぶり、神に背を向け偶像を拝み、堕落した王をはじめとする指導者たちのために社会には不正がはびこり、弱い立場の人たちが打ち捨てられてしまいました。

中でも重要なのは7章のエルサレム神殿で礼拝に来ているすべてのユダヤ人に対して語られた厳しい非難のことばです。これはエレミヤの個人的な思いを吐き出しのではなく、神様が語るように命じられたことば、神様のイスラエルへの非難です。

主はエレミヤを通して、イスラエルの民が生きるためには、神の前に生き方と行いを改める必要があるとはっきりとおっしゃいました。どれほど「これは主の宮だ、神殿だ」と言ったとしても、そこに本物の信仰はありません。彼らの行いに見られるのは、外国人や孤児、やもめたちを虐げ、濡れ衣を着せられた人のいのちが奪われ、盗み、殺人、姦淫、偽りの誓い、バアル礼拝など、十戒に定められたありとあらゆる罪がまかり通っていました。

11節にはイエス様が宮きよめをなさったときに引用されたことばがあります。「わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた」

16節で主は、祭司であったエレミヤに、彼らのためにとりなしの祈りを捧げるなと命じます。それはこの神殿で礼拝を捧げたあと、彼らがエルサレムの町やめいめいの町に帰ってからすることがあまりにひどいからです。かれらは主の御名によって祈り礼拝したすぐあとで、神殿の外では偶像に礼拝を捧げ、それどころか自分の子どもをいけにえとして神々に捧げるような忌まわしいことさえしました。

そのために、イスラエルに対する神様のさばきはもはや避けられないものとなってしまったのです。

前回、イエス様が私たちの罪のために死んでくださったので、私たちの個別の罪に対して、さばきとして神が苦しめることはないというお話をしましたが、神が備えてくださった悔い改めの機会に背を向け、赦しを受け取らないなら、偶像礼拝や弱い者をないがしろにするような行い、社会、文明に対して神様が怒っておられ、最終的にはさばきをなさるということを私たちは知っておくべきです。私たちが神のことばに耳を傾けなければならないのは、キリストが身代わりとなってくださったという愛のゆえだけでなく、今も変わらす神は義なる方であり、悪に報いる方であることのゆえであることを忘れてはいけません。

3.再び植えるため

第三に、エレミヤは神のさばきの警告とともに、希望を伝えるために遣わされました。10節の最後の行にこうあります。「建て、また植えるために」。

エレミヤの時代の人たちにとって、神がイスラエルをさばき、エルサレムの町と神殿を破壊し、人々を捕囚として連れ去るという警告は、「ありがたい警告だ」と受け取られるようなものではありませんでした。むしろ人々は耳をふさぎました。王も人々も、もっと耳障りのよいことばを聞きたがりました。6:14には偽預言者や祭司たちが人々に偽りの安心感を与えていたことが印象的に描かれています。「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」

しかし神がエレミヤを通して与えた警告は現実のものとなります。それが25章以降の、大きな歴史のうねりとともに記されています。ネブガドネツァルがアッシリア帝国にとって代わって新しい帝国を起こしました。神様はバビロン帝国をイスラエルへの裁きのために用いると宣言されます。25:9~11。

エレミヤは最後の最後まで、人々に警告を発しますが、それでも王や民はエレミヤのことばに耳を傾けず、エレミヤを捕らえて監禁したり、殺そうとしたりしました。エレミヤ同様、イスラエルの民に警告を発していた他の預言者は殺されてしまいました。

イスラエルが破滅に向かって行く様子、そして同様に偶像礼拝と悪にそまった周辺の国々がバビロンによって征服され、滅ぼされていく様子や諸国への神の裁きのことばは49章まで続きます。そして神のさばきの器として用いられたバビロンさえもがその高慢さのゆえに滅ぼされることが50~51章のとても長い詩を通して描かれます。

そんな暗く悲しい響きが続くエレミヤ書ですが、その真中と、一番最後に、希望が描かれます。「建て、また植えるために」とはどういうことなのかを神はエレミヤを通して告げます。

それが30~31章に記されている回復の預言を、捕囚となって牢に繋がれていたエホヤキン王が解放される話です。

主のことばははっきりしています。30:3「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──主は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」

また31:27~28は今朝読んだ1:10へのアンサーソングといえる箇所です。「「見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る──主のことば──。」

そして31節にあるように、新しい契約が結ばれ、イスラエルだけでなく、すべての人々に救いと赦しが与えられます。

エレミヤ書の最後は、バビロンに捕囚となった最後の王エホヤキンが37年後に牢から開放され、地位が保証される話で終わります。ダビデの子孫からメシヤが起こされるという神のことばが、このような状況でも生きていて、つながっていることを記してエレミヤ書は閉じられます。

適用 嘆きの中で

私たちはエレミヤ書を読む時に、イスラエルが味わった苦難と自分の人生の苦しみを重ね合わせるよりも、破滅に向かっていく時代のさなかに生きたエレミヤの嘆きに自分自身を重ね合わせて読むのがふさわしいように思えます。それは単なる印象の問題ではなく、十分に理由があることだです。

確かに、私たちの人生にも苦難があり、悩みがありますが、それらは神のさばきというわけではありません。しかし、この時代、この世界は今なお、義なる神様のもとにあります。イエス様が十字架ですべてを背負ってくださったとはいえ、人々がそれを最後まで拒むなら、罪と悪に対する怒りは避けられないというのが、聖書全体を通して示されていることです。

私たちはそういう中で、イエス様による救いを受け取り、エレミヤが告げた新しい契約のもとにあるわけです。ですが、さばきを免れて助かった、よかったとほっとしている場合ではないのです。

私たちはエレミヤのように神様の声を直接聞いたわけではありませんが、聖書によれば、私たちはエレミヤと同様、生まれる前から神に知られていました。エペソ1:4「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」。

私たちはエレミヤやバプテスマのヨハネ、あるいはパウロのような特別な役割を与えられたわけではありません。しかし歩むべき良い行いをするようにと召されてもいます。エペソ2:10「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」

そして、神様がエレミヤをとおして、一度引き抜き、そして再び植え、建て直したものに私たちをも加えて下さったのです。同じ2章11節から22節です。

つまり、私たちはエレミヤが預言した希望の約束が果たされた祝福の中にいるのです。そして、私たちが生きている今の世界は、エレミヤが生きた時代のイスラエル同様、この世界を創造された神に背を向け、外国人や孤児、やもめたちを虐げ、濡れ衣を着せられた人のいのちが奪われ、盗み、殺人、姦淫、偽りの誓いであふれています。周りを見渡して、いちいち具体例をあげたら、エレミヤ書と同様、暗く悲しく重苦しいものになるのは目に見えています。

私たちはエレミヤ同様、こういう世界で生きていくわけです。なんとなく周りに合わせ、目立たないようにした方が生きやすいかもしれませんが、主はエレミヤに言われたように、私たちにも言われます。「彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すから。主のことば。」

私たちはみことばに従って生きようとするなら、他の人達とは生き方が違ったものになるでしょう。神様の義と救いをまじめに受け取るなら、私たちは人混みにまぎれてお茶を濁して人生を終わらせるのではなく、少なくとも、神様が与えてくださる機会に、福音を伝えたり、教会に誘ったり、聖書を読むようすすめたり、質問に答えようとしてみるべきではないでしょうか。

私たちも自分のこと、自分の生活や自分の悩みで精一杯です。しかし周りを見渡せば、平安がないのに、めいめいが好きなものにすがって安心、安全といい、神様なんかいないから裁きなんか気にしないで好きなように生きればいいと、偽りの希望がまかり通り、ますます社会には不公平と不公正が広がっています。

エレミヤ書から私が受け取るメッセージは何でしょうか。私はどう答えたら良いのでしょうか。

祈り

「天の父なる神様。

恐れと嘆きの中にあったエレミヤが破滅に向かっていく同胞のために語った神様の警告と希望のメッセージが、今もこの時代に響いています。

私たちが自分自身の問題や大変さから少し目を上げて周りを見渡す時、私たちがいただいた救いや慰めを持っていない人たちがどれほど多いことでしょうか。神様に背を向けた世界がどれほど傲慢で混乱し、罪深くなっていることでしょうか。やがて訪れる終わりの日のために何の備えもない人達の間に私たちが生かされていることの意味を考えさせれます。

神様が私たちを生まれる前から知っていてくださり、ありがとうございます。イエス様による赦しと救いを与え、この世で何かあなたのために、隣人のためになすべきことがあることを教えて下さいました。恐れず、応答するものであらせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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