2021-09-26 勇気を出して

2021年9月26日 礼拝 聖書ヨハネ16:31-33

盛岡みなみ教会牧師 大塚史明

1.苦難において

今朝、北上のみなさんとご一緒に礼拝をささげられる恵みに感謝します。私たち一人ひとりに用意されたみことばの恵み、力をごいっしょに味わいましょう。この場面は、主イエスが十字架にはりつけにされる前日(過越の祭の前13:1)です。13章から弟子たちの足を洗われ、17章からは祈りに入りますので、これが弟子たちに直接お話になる最後のまとまった言葉とも言えます。「世にあっては苦難があります」。これは「もはやわたしを見なくなる」(10節)ことから来る苦難です。弟子たちの目の前からイエスさまがいなくなり、それも十字架で殺されてしまう。その失望感、絶望はまさに音を立てて心の牙城が崩されるものです。「あなたがたは今は悲しんでいます」(22節)と描き出されているのは、弟子たちの表情にまで、悲しみや弱さがにじみ出ていたことがわかります。私たちにも同様の苦難があります。神の計画がわからないとき、孤独を感じるとき、暗闇に取り残されるとき、はっきりと悲しみが顔色や表情、うつろな返事や気力のなさに出てきます。神さまに不信感を抱いてしまうことだってあります。しかし、その苦難をなかったことにせず、優等生ではなく、悲しみをしっかりと悲しむことをイエスさまは教えてくださっています。「それぞれ散らされて」(32節)という言葉もとても象徴的です。今、コロナによって貧富や階級、環境の違いがはっきりと出てきています。職種や立場の違いによって強いられる生活や背負う重荷も違います。不公平さややるせなさに怒ったり、胸が苦しくなったりします。今朝、その私たちを見ているかのようにして、イエスさまは言われます。「世にあっては苦難があります」。これをしっかりと受け止めて、次に進みましょう。主が導かれる解決の道が見えてきます。

2.勇気を出して

苦難があるから諦めなさいでは救いがありません。だから「苦難」に続いて「しかし、勇気を出しなさい」(33節)とイエスさまは言われます。これは他の箇所では「しっかりしなさい」と訳されてもいます(マタイ9:22、14:27等)。心弱り、悲しんでいる者の目の前に来てかけてくださるのがこの「勇気を出しなさい」という言葉です。あなた自身や周囲、地域や社会の中で、病や混乱に押しつぶされそうな場面、こらえきれない苦境がのしかかっている状況があることを知っています。しかし、私たちはその現実だけではなく、ここに来て「しっかりしなさい」「勇気を出しなさい」と語ってくださるお方がいることも知っています。この方に会うことが、この方の声を聴くことがまさに礼拝です。現状にかき消されることなく、この声を私たちもしっかりと聞き、受け止めます。神を見失い、自分の視野で見えるものに飲み込まれてしまうことがありませんように。

3.世に勝利する

困難にあって勇気を出すことは、私たちを落ち着かせるためだけではありません。それだけなら、世にある書籍でも気晴らしでも、メンタリストの言葉でも取り入れれば済みます。しかし、聖書があなたにもたらすのは「主にある平安」であり「主にある勝利」です。「あなたがたがわたしにあって平安を得るため」(33節)と詳しく言っておられるのはそのためです。私たちの平安や満足は、一時的なものでごまかされそうになります。けれど、それが本物かどうかを見極める必要もあります。たとえば、病気のときにはそれが治ることが平安ですが、自分の人生を考えたときには病気になるかならないかが、重要ではなくなります。もし、あなたが今日死ぬとしたら、自分に対してどんな質問をするでしょうか。「私は世でうまくやっただろうか」「病気にも事故にもあわなくて本当によかった」と満足するものではないはずです。それよりも「自分の人生に本当に意味があったのだろうか」「自分が生きたことが他の人に良い証しになっただろうか」そういうことを考えるのではないでしょうか。イエスさまとお会いするとき、聖書から語られるとき、私たちは普段からこのようなことを考えられる恵みの場に引き出されるのです。そして「世に勝ちました」と主イエスが言われたのは、長寿や富を築いたという意味ではありませんね。世の圧力、誘惑に屈することなく、父なる神のみこころに従い通した栄冠です。この勝利を目指して、私たちも行くのです。

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