2021-10-31 捕囚の地で

2021年 10月 31日 礼拝 聖書:ダニエル6:1-10

 私たち日本のクリスチャンと捕囚時代のユダヤ人との間には共通点があります。信仰や基本的な価値観の異なる文化の中で、いかに周りの人達を尊重しながらも、神の民として自覚しながら歩めるか、という問題がありました。

今日ご一緒に学んでいくダニエル書は、エゼキエルより少し前に、最初にバビロン捕囚につれて行かれた頃から支配権がペルシャに移った後までが舞台となります。エゼキエルはケリテ川のほとりの捕囚地でしたが、ダニエルはバビロンの政権の中枢にいました。

1:1~7に、まだ南ユダ王国がかろうじて生き延びていた時代に、バビロン軍がエルサレムを包囲し、エルサレムの優秀な人材を捕囚として連れ帰ったことが記されています。その中に4人の若者がおりました。この預言の書を記したダニエルと、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤのあわせて4人です。彼らにはバビロン風の新しい名前が与えられました。シャデラク、メシャク、アベデネゴのほうが有名なくらいです。

歴史に翻弄され、次々と状況が変わる中で、どのように生きたら良いか迷うような中でダニエルたちがどう生きたのでしょうか。

今日はダニエル書に出てくる3つの救出の物語と、幻の中でたびたび登場する獣とはいったいなにかということ見ながら、私たちに神様は何を約束しておられるのか、ご一緒に学んで行きます。

1.3つの救出

ダニエル書には3つの「救出」の物語が描かれています。

最初の試練と救出は、バビロンに移って間もない頃のことでした。ダニエルと仲間たちは、食卓に並ぶ食べ物の中に律法で食べることを禁じられていた動物の肉が並んでいることに気づき、食べようとしませんでした。世話役は、彼らが風変わりな信仰のために栄養が十分に取れず、そのため他の民族の子どもたちより不健康になってしまうことで、自分自身が監督不行き届きで王の怒りを買うことを恐れました。しかし、4人は、10日間自分たちを試すよう申し出ます。10日後に神の律法に従った4人は他の誰よりも元気で、しかも優秀さを示したので王に仕えることになりました。

この物語のポイントは、聖書の教えとはまったく異なる世界で生きるときに良く起こってくる葛藤です。現代において肉を食べることは何の問題もありません。しかし聖書の教えとぶつかる価値観や習慣に直面することはあります。そのような時、神に従うことで不利になりそうでも、そのような者を神様は高めてくださいます。

2つ目の救出の物語は3章に出て来ます。バビロン王ネブカドネツァルが自分をかたどった金の像を建て、全国民にこれを拝むよう命じました。この命令に反する者は燃える火の炉に投げ込まれるという恐ろしい処刑が定められました。

このときやり玉に挙げられたのがダニエルの3人の友人たちです。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴというバビロン名で登場します。王は激しく怒って3人を火に投げ込むよう命じますが、3人は17~18節で有名な言葉で応えます。神が彼らを燃える火の中で守ってくださるのを目の当たりにした王は、彼らの信仰と、彼らの神を称賛し、彼らをこれまで以上に帝国の中で重用しました。

この救出劇のポイントは権力が人間の分を超えて自らを神のごとくにしてしまったときに、私たちは神に従うか権力に従うかということです。それでも主に従うと告白した3人の姿が鮮烈です。

3度目の救出はダニエルのもので、6章に出て来ます。バビロン王朝は滅び、変わってメディア人ダレイオスが権力を握っていました。情勢は変わっても引き続きダニエルは王に重んじられていました。彼を妬んだ人たちがダニエルを追い落とすために策を練ります。彼が日に三度祈っていることを知っていた人たちは、一ヶ月の間、王以外何ものに対しても祈ってはならない。破った者は飢えたライオンの穴に投げ込まれるという命令を出させたのです。ダニエルを罠にはめるためのものだと知らずに王は署名をしましたが、後の祭りです。すぐにダニエルがいつもどおり祈っているのを確認した人たちは王にダニエルを訴えます。

泣く泣く王はダニエルをライオンの穴に投げ込むよう命じますが、このときも神は天使を遣わし、ダニエルを腹ペコのライオンから守ってくださいました。神が彼を救ったことを知った王は、ダニエルを穴から引き上げ、逆に姑息な方法で罠にかけた人たちをライオンの餌食にするよう命じるのでした。

この3つ目の救出劇のポイントは人間の悪意です。もちろん破ったらライオンの穴に投げ込むなんて法律は恐ろしいですが、それをもたらしたのは正義ではなく悪意です。おそらくダニエルはそれに気づいていましたが、人の悪意や刑罰の恐ろしさに屈するのではなく、いつもどおり祈り、生きておられる神に信頼しました。

2.獣の幻

ダニエル書には、3つの救出劇の間に挟まれるように、ダニエルの見た幻や、王が見た不思議な幻の解き明かしの話が出てきます。それらの中で特に重要なのが「獣」のイメージです。

2章に最初の幻が出て来ますが、これはバビロンの王ネブカドネツァルの見た恐ろしげな夢でした。異常な輝きを放つ巨大な像は、様々な金属でできていました。しかしそれは跡形もなく破壊されます。これはバビロンに続く様々な王国を表していますが、それらの国々は傲慢さ故に神の前に打ち砕かれることを意味しています。

次は4章です。繁栄を極めていたバビロン王ネブカドネツァルは再び悪夢に悩まされました。巨大で立派に繁っていた木が、天から降りてきた聖なる人物によって切り倒されてしまうのです。そして七つの時の間、人間の心に変えて獣の心にされるというのです。

再びダニエルがこの夢を解き明かします。繁栄によって傲慢になった王が神の前にへりくだることを知るために野の獣のようにされるという警告でした。ネブカドネツァルはその警告を理解しましたが、傲慢なままでした。そのため彼は理性を失い、王宮から追い出され、まるで野の獣のような見た目とふるまいをするようになってしまうのです。しかし神が定めた期間が終わった時に理性が戻り、神の前にへりくだることを告白し、再び王位に戻るのでした。

しかし跡継ぎである息子ベルシャツァルは、父ネブカドネツァルの経験を知りながら、神の前にへりくだることを拒否します。その様子が5章に記されています。傲慢なベルシャツァルが贅沢な宴会を開いている時、皆の前に人間の手のようなものが宙に現れ、壁に文字を描きはじめました。その光景の異様さに王も人々も青ざめ、直ちに呪文師、占星術師など知者と呼ばれる人たちが招集され、解明に取り組みますが誰もわかりません。最後にダニエルが王の前に立ってその文字の意味を解き明かしました。神が王の時代を終わらせ、王国はメディアとペルシャという新興勢力に与えられる宣告であることを告げました。その夜、ベルシャツァルは暗殺されます。

次にライオンの穴事件の後でダニエルの見た幻のことが7章と8章に記されています。時期的には前後していて、ベルシャツァル王の時代であることがそれぞれの章の始めに書いてあります。

2つの幻には海から上がって来た四頭の大きな獣と、いびつな角を持った雄羊と雄ヤギが登場します。

角は権力や力の象徴で、獣はダニエルの時代以降に次々と現れる強大な国家を象徴しています。その特徴は傲慢さです。7:8には4つの獣のうちの4番目の獣がもっている10本の角の一つが他の角より強く、大言壮語する口があったとあります。また7:21には「聖徒たちに戦いを挑」む者であることが記されています。8章に出てくる2つめの幻の中で、いびつな角をもつ雄羊と雄ヤギが登場しますが、これらの特徴も8:4には「思いのままふるまって、高ぶっていた」8:8「この雄やぎは非常に高ぶった」と、やはりとても傲慢であったことがわかります。

これらの幻を見た時ダニエルは恐れ、具合が悪くなるほどでした。これらの幻は細かいところまで様々な象徴が書かれていますが、バビロンの後に続く様々な国々がいかに傲慢であり、その権力の絶頂にあるときにへし折られ、次の支配者にとって変わるというこれからの歴史の移り変わりを描いているようでした。

3.神の勝利

しかしダニエル書の目的は、単にバビロン捕囚後の世界史の計画を示すためのものではなく、その意味を示すことにありました。

神の前にへりくだることを拒んだネブカドネツァルが人間性を失ってまるで獣のようになってしまったように、バビロンに続く国々はどんなに栄華を誇り、繁栄したとしても神の前にへりくだらないなら、人間性を失った獣のようになってしまうのです。しかし、神様はそうした獣を滅ぼし、勝利され、神に信頼する者たちを救ってくださるという希望を与えるのがダニエル書です。

ネブカドネツァルがいっとき理性を失い、獣のようにされた経験を通して学んだことは、主が永遠の主権者であるということでした。4:34~35です。神はイスラエル民族の神であるだけでなく、全世界の主権者なのです。

息子ベルシャツァルは、バビロン帝国が滅ぼした小国にすぎないイスラエルの神が、バビロンの神々より偉大であるということを認めたくなかったのかも知れません。その後に続く、メディア、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった国々もユダヤ人の神などちっぽけで古臭い律法に固執する面倒な神だと考えたかも知れません。

しかし、それらの国々が起こっては倒れる歴史は、ただ各民族の力のバランスの変化で起こるものではなく、その背後には、天地の造り主である神がおられることをダニエル書は教えます。

圧倒的な力の前に捕囚となったダニエル、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを苦境から救ったのは神ご自身であることは何度も繰り返され、王たちは彼らを苦境から救った神を称賛します。

5:26ではベルシャツァルの治世を終わらせるのは神であることが明言されています。

また、7章の恐ろしげな獣の幻の後で、7:9には天の座に着かれる「年を経た方」の幻が出て来ます。この方こそ天の神であり、13節では、この方の前に立つ「人の子のような方」に永遠の主権が与えられることが示されています。イエス様がご自分を「人の子」と呼んだのは、まさにこの箇所を意識してのことです。

この恐ろしげな獣は聖徒たちを苦しめますが、年を経た方によって打ち倒されることが22節に記されています。8章で次々と現れる国々を表す獣たちを砕くのは人の手によるのではないことが天使ガブリエルの言葉で語られます。

こうした幻はダニエルを悩ましたが、9章~12章で、次々と示される幻を通して、神がそれらの傲慢で神に逆らう者たちに完全に勝利し、民を救ってくださることが示されます。

細かくは見られませんが、12:1~4を開いて見ましょう。

3節の「あの書」とは別の箇所では「いのちの書」とも言い表されるもので、神を畏れ敬う人々、イエス・キリストを信じる人々の名前が記された天の書物です。神に信頼する者たちの救いが変わることのない契約であることを象徴しています。その日、救いは生きている者だけでなく、すでに死んで眠った者たちのも及び、3節にあるように、その姿はまったく新しいものとなります。

4節にあるように、ダニエルに託された預言は「秘められ」「封じ」られたもの、つまりその意味の多くは実現する日まで隠されたものですから、はっきりと断言できない面はあります。しかし、神が獣に勝利し、信じる者を救うことは確かな希望なのです。

適用 ライオンに囲まれた時

さて、ダニエル書は私たちにとってどのような意味がある書物なのでしょうか。

ある人達は、これは世界の終わりに向かっていく神のご計画を預言したものだと考えますし、ある人たちは私たちから観たら過去の出来事、紀元前のシリアによる圧政の時代を描いたものとか、西暦70年のローマによるエルサレム陥落のことだと考える人もいます。

神様がこれを封じよとダニエルに言ったのですから、完全にこれが正しい解釈だと言いきることはできないでしょう。

イエス様はダニエル書を引用して当時の宗教指導者や民の長老たちを非難していましたし、ヨハネの黙示録でもやはりダニエル書を用いてローマ帝国や未来のすべての悪しき帝国を非難しています。

人間が神を恐れ敬い、へりくだることを拒否するとき、悪の力が増します。それが権力と結びつく時、民を守り、養い、導くはずの国は人間性を失った獣のようになって、自らの権力と貪欲をむさぼるものとなってしまいます。それはバビロンやペルシャ、ローマだけでなく歴史上、何度も繰り返し現れていくものと言えます。近代や現代にも、そうやって国家や権力者が国民を踏みにじり、搾り取り、支配する姿を何度も目にしています。決して大昔の話でも遠い世界の話でもありません。

とはいえ、国家権力が獣のようになってしまうことより、私たちはもっと日常的に直面する問題のほうが切実かもしれません。そこにも神を恐れることをしない人間の悪意や圧力が牙を向き、私たちに迫って来るように思われる時があります。

それを単に怖い人、嫌な人という問題ではなく、ダニエルが指摘している、自分の力や知恵に頼り、神を恐れず、人を踏み台にすることを恐れない人たちとして見ればこそ、そこに希望があるのです。なぜなら、神様はそうした者たちがどれほど頑なであっても永遠の主権者なのであり、そうした悪に報いないままでいることはないからです。そして、ダニエルやシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴのように、そうした悪意や圧力の中でも神を信頼し、神の民とし生きることを選び、たとえ不利になったとしても神を信頼することを辞めない者たちを救い出すと約束してくださっているのです。

最後にダニエルの個人的な苦悩に神がどう応えてくださったかを観て終わりにしましょう。

7~8章での恐ろしい獣の幻を見た後、8:27でダニエルは幻を理解できず、精神的に耐えきれず病になってしまいました。悩みの中でダニエルはエルサレムに70年の荒廃が定められていることを知ります。そこで彼は断食して祈り始めました。9章の前半にはダニエルがイスラエルの犯した大きな罪の数々の悔い改めと、神のあわれみを求める、ほとばしるような訴えが祈りとして記されています。

その断食がどれくらい続いたのかわかりませんが、祈りの中に御使いガブリエルがあらわれ9:23でこう語っています。「あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが出された」。

重要なポイントは、祈り始めたときにはすでに祈りは神に届いていたということです。ダニエルが断食をし、必死に祈っている最中には祈りが聞かれている手応えはなかったかもしれませんが、祈り始めた時にはすでに神は聞いておられ、ことばを届けるため動き出していていたのです。

神様はそのように祈りを聞いてくださっている方です。手応えが感じられず、実際にどんな答えが備えられているのかも定かでなく、いつまで待たなければわからないとしても、私たちの悔い改め、嘆き、訴えをちゃんと聞いていてくださいます。

祈りは決して無駄でも無力でも空に向かってむなしく言葉が消えていくものでもなく、神の救いと助けをいただく最も確かな道であり、どんな世界、どんな状況にいようとも、私たちが神の民であることをはっきりと表すものなのです。

祈り

「天の父なる神様。

今日はともにダニエル書を学びました。

私たちがライオンに囲まれるかのような経験をする時でも、この世界が獣のような恐ろしい面を見せて迫って来るようなことがあっても、主は変わらず世界の主権者であり、王なる方。すべての悪に勝利し、私たちを救ってくださる方です。

私たちは苦難の中で祈ることしかできないときがあり、それすら無力に感じることがありますが、しかしダニエル書を通して祈りこそが力ある道であり、私たちの祈りは主のもとにすでに届いていることを教えてくださり感謝します。

どうか、その信仰と望みをもって祈り続ける者であらせてください。そして主の救いが私たちのうちにもたらされますように。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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