2021年 11月 7日 礼拝 聖書:ヘブル11:23-29
多くの人にとって、人生は順風満帆な日々が続くということはなく、予想外の波風に翻弄されることが多いかも知れません。
聖書の中にも、そうした波乱万丈な人生を送った人たちがたくさん出て来ますが、今日とりあげるモーセもその代表的な人物だったのは間違いないでしょう。
生まれは奴隷化された民族の出身でありながら王宮で成長しました。大人になってから民族意識が高まり、使命感に駆られますが、義憤からとはいえ人を殺してしまい逃亡者となってしまいます。外国に身を隠して生活し、羊飼いとなりました。もう老人になったころになって神の民を救い出すリーダーになれと神様から迫られます。頑固で言うことを聞かない群れを率いねばならず、数々の試練、困難、苦労の末にようやく約束の地を見渡せるところまでたどり着きます。しかし、約束の地を目の前にしながら、お前はもうこれ以上進めないと神様に釘を刺され、生涯を終えました。
ヘブル書の著者が、アブラハム、イサク、ヤコブといった族長たちに続いて、このモーセを取り上げたのはもっともなことです。
信仰によるその時々の決断がモーセの波乱万丈な生涯を決定づけたと言えますが、信仰があったからこそそんな人生であってもしっかり歩めたとも言えます。今日はご一緒にこのモーセを通して信仰が変える人生についてまなびましょう。
1.恐れに打ち勝つ
第一に、信仰は恐れに打ち勝って大切なものを守り通します。
初めに取り上げられるのは、モーセの両親の信仰です。ここの箇所は毎回読むたびに考えさせられます。
もともとの話は出エジプト記2章に出て来るのですが、そこには信仰の「し」の字も出て来ません。我が子のいのちを惜しみ、守ろうとした親としての当たり前の姿が描かれているだけのように見えます。しかし、ヘブル書の著者はその行為を「信仰によって」なされたものと断言しているのです。
ことの次第はこうでした。アブラハムの孫ヨセフの子どもたちの一人、ヨセフによってエジプトは大飢饉から救われ、その功績が認められてイスラエルの一族はエジプトで特別待遇を受けていました。エジプトに寄留していたイスラエルの民は次第に増えて行きます。しかし、時代とともにヨセフの功績を知らない新しい王が誕生すると、イスラエルの民はだんだん目障りな存在になってきました。
当時、アブラハムの子孫、イスラエルの民はヘブル人と呼ばれておりましたが、このヘブル人の力を削ぐために、エジプトのファラオは重労働に借り出し、奴隷として扱います。どれほど過酷な労働を課してもヘブル人は減ることがありませんでした。
それでファラオはヘブル人の助産婦たちに、出産のときに女の子なら生かし、男の子なら殺すよう命じました。しかし神を恐れる助産婦たちはなんとかごまかして男の子を殺さずにすませようとがんばります。
すると今度は、親たちに生まれた男の子をナイル川に投げ捨てるよう命じたのです。
そんな過酷な時代に、ある夫婦のもとに男の子が生まれました。すでにこの子の前にお兄ちゃんのアロンとお姉ちゃんのミリアムがおりました。アロンはファラオの命令が出る前に生まれたか、助産婦たちの機転によって生き延びた子でしょう。
しかし、今度出された命令は逃れようがなく、すでに多くの親たちが泣きながら我が子をナイル川に投げ入れていました。赤ん坊の両親は生まれてきた子を見て、ほんとうに可愛らしくてどうしてもナイル川に捨てることができませんでした。3ヶ月の間、隠して育てたのです。
この行為をヘブル書の著者は信仰によるものと見ています。これはヘブル書の著者の勝手なこじつけではないはずです。ヘブル人の助産師が王の命令に逆らって生まれた男の子を生かしたのが神を恐れるゆえであったのと同じように、モーセの両親が王の命令を恐れず、生かしておいたのは、かわいいという親としての当たり前の本能だけでなく、神を恐れるゆえであったということです。
さらにこの「かわいい」ということは使徒7:20でステパノの説教の中でも強調されており、約されている言葉には優雅さとか、まれに見る美しさという意味があります。何かしら、神に選ばれた、特に神に愛された何かを感じさせるものがあったということなのでしょう。彼らは、この子はなんとしても生かさなければと信じて育てたのです。この信仰は王の命令を恐れるよりも、大切なものを守り通そうとする力を両親に与えました。
2.神の民として生きる
第二に、信仰は目の前の富や豊かさより、神の民として生きることを選ばせます。
両親によって命を得た赤ん坊はでしたが、隠しきれなくなり、やむなくナイル川に流すことにしましたが、水浴びに来たファラオの娘が泣いている赤ん坊を見つけ自分の子供として育てることにしました。王女はこの子にモーセと名付けました。
大人になったモーセは、ファラオの娘の子として、第何番目かの王位継承者として生きるよりも、同胞であるイスラエルの民とともに苦しみを担いたいと願うようになりました。
このことをヘブル書の著者は信仰による行動だと言っています。
出エジプト記の記事を見ると、モーセの志はだいぶ空回りしていたことがわかります。奴隷として重労働についている同胞が現場監督のエジプト人に虐待されているのを見かけました。モーセはおそらく正義を行ったつもりで、そのエジプト人を殺してしまいます。
しかしそういうことが逆にヘブル人を困らせることを想像できませんでした。ヘブル人同士が争っているのを仲裁しようとしても、「昨日のように俺たちを殺す気か」と責められます。
モーセのしたことはファラオの耳にも入り、彼はお尋ね者となってしまいます。それで彼は国外に逃亡し、実に40年も隠れて羊飼いとして暮らし、外国人の妻をめとり、家族を得ることになります。
その姿は気持ちが空回りし、誰にも理解されず、指導者や救世主になるのではなく、犯罪者、逃亡者となった、失敗した姿です。
しかしヘブル書の著者は、エジプトの王位継承者ではなく、イスラエルの民と共に歩むことを選んだことを「信仰による」選択として評価します。そのように評価される理由が26節に記されたモーセの考え方と態度です。
もちろん旧約聖書には「キリストのゆえに受ける辱め」とは記されていません。同胞の力になりたいという動機があったとしてもエジプト人を殺してしまったことが良しとされているわけでもありません。そうした大きな過ちがあったとしてもなお、イスラエルを救い出す器として神に選ばれ、両親の信仰によって命を守られ、その使命を自覚しながら、人々に理解されたなかった姿を、キリストの受けた苦しみを重ね合わせています。そんな目にあっても、彼が王宮を捨てたのは「与えられる報いから目を離さなかったから」だとヘブル書の著者は説明します。
地上で得られる富や豊かさ、地位、人々からの称賛、認められることよりもずっと価値があり、廃れることのない報いがあるとモーセは考え、いつもそれを見ていたのです。だから彼は失うものや損なことが多くても、神の民として、神の民と共に生きることを選びました。
現代のクリスチャンの中には、イエス様を信じるけれど教会への所属はしたくないという人が増えているそうです。教会の一員として生きれば、自分の時間やお金を犠牲にする面はあるし、お互いに対する責任も生まれます。それをデメリットと考えるなら、都合の良い関わり方をするかも知れません。しかし、この世で味わう楽しみや自由より大事なものがあることを信じて、目を離さず、神の民の一員として、神の民である兄弟姉妹と歩むことは、確かに信仰によって変えられた人生の真実な姿です。
3.勇敢に振るい立つ
第三に、信仰は勇敢に奮い立たせます。
27~29節でモーセがイスラエルを率いてエジプトを脱出する場面が変わります。
当時のエジプトはその地域一体の盟主であり、圧倒的な経済力、軍事力を誇っていました。その頂点に立つファラオの権力と言ったら大変なものでした。
しかしモーセは「信仰によって‥王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去り」ました。
イスラエルの民を奴隷としていた王の支配から逃れたのです。しかし、今回はモーセがかつて王の前から逃げたようにではなく、堂々と、立ち向かい、まさに立ち去ったのです。それをさせたのは目に見える王を恐れるのではなく、目に見えない神を見るようにして、すべての困難、戦いを忍び通したからだとヘブル書の著者は指摘します。
私たちも恐れを覚える場面に出くわすことがあります。恐れの対象は人かも知れないし、状況かもしれません。その時、恐れに飲み込まれずに勇敢に振るい立つには、目に見えない方を見るようにして信頼することが大事です。
28節に出てくる話は、エジプトにくだった10の災いの最後のものです。ファラオがヘブル人の男の赤ちゃんを皆殺しにしようとしたことへの報いのように、最後の災いはエジプト全土の男子の初子の命が奪われるというものでした。神様はモーセにその災いを逃れる方法を示しました。今でもユダヤ人に受け継がれている過越しのまつりの元ととなったものです。傷のない小羊をほふり、その肉を発酵させずに作ったパンと一緒に食べ、ほふられた羊の血を各自の家の入り口に振りかけるというものでした。それは、この家の長子の血はすでに流されたということを象徴し、小羊のいのちが、男の子のいのちの身代わりとなったのです。今でこそ私たちはそれが、イエス様の十字架の贖いやそれを記念する主の晩餐に結びついていることを理解していますが、最初にそれを命じられた人たちは、そんなことで災いを逃れられるかどうかわからないのに、信じるしかなかったわけです。
29節は、エジプトを立ち去った後、ファラオが行かせてしまったことを後悔して追いかけた場面です。エジプト軍の追手が迫る中、目の前にはエジプトとアラビア半島と隔てている紅海が行く手を阻んでいます。人々は恐怖と混乱に陥りましたが、モーセは神を信じよと呼びかけ、手にしていた杖を海に差し伸ばします。すると海が別れ、乾いた道が現れ、人々はそこを通って対岸に渡ることができました。
エジプト軍もまねをしてそこを通ろうとしますが、再び押し寄せた水によって滅ぼされました。まことの神にへりくだり信じることをしないくせに、用意された救いだけは自分のために利用しようとするものには救いは与えられないのです。
こうしたモーセの偉業は彼のリーダーシップや人生経験からにじみ出る深みとか、人をひきつける特別な魅力や能力によるのではありませんでした。そういう面がなかったわけではないと思いますが、しかし、彼が勇敢に立ち向かう事ができたのは、神への信仰によったのです。
適用 信仰によって海を渡る
さて、今月も今年度の主題にあわせて、ヘブル書11章の信仰の偉人たちに焦点をあてて学んで来ました。今日のモーセの信仰の歩みから何を学ぶことができるでしょうか。
私たちの人生とモーセの人生はまるで違ったものです。しかしヘブル書の著者は、困難の中にある初代教会のクリスチャンたちに、信仰がもたらす大きな力と可能性、そして希望を指し示し、励ますためにこれらの人々を取り上げています。そして、神様はその励ましを今日の私たちにも神のことばとして語りかけています。
ヘブル書にかかれている「信仰によって生きた人々」と、旧約聖書に描かれている実際の物語を比べると、ヘブル書のほうはだいぶ美化しているように感じるかも知れません。
もちろん、最初にこの手紙を受け取った人たちは、そうした旧約の物語を良く知っていました。モーセや他の信仰の父たちが、多くの過ちを犯し、ときには責められるべきことや恥ずべきことさえしてしまう、不完全で弱い面がある人たちでした。初期のクリスチャンたはそのことをよくわかっていましたし、私たちも聖書をよく読めばすぐに気づきます。しかし、そのような人たちであっても、その人生を振り返った時に最も際立って見えてくるのが、彼らの欠点ではなく、信仰なのです。そして、その信仰が恐れを乗り越えさせ、損と思えるように見えても神の民として仲間と共に歩ませ、迫りくる海を渡らせたのです。
私は葬儀の時に、主のもとに召された兄弟姉妹の人生を振り返りながら説教を考えます。その時に、このことの意味がよくわかります。長く交わりあがった人ほど、その人が欠点もあり、いろいろな間違いや迷いがあったことを知っています。しかし、主のもとに召された人の歩みを振り返るときに、そうした欠点や失敗より、信仰によって変えられた面、信仰によって生きた道のりの方が際立つことをよく感じます。
それは私たちにとっても大きな励ましです。神様は私たちが不完全で弱さがあることを良くご存知です。それでも神様は私たちがおかした過ちや失敗、欠点によって私たちを低く評価し、祝福を減らすのではなく、欠けだらけの私たちでも主に信頼し、勇気をもって立ち上がったこと、足を前に進めたことを喜び、祝福してくださるのです。そうして私たちの人生と私たちの心とをさらに良きものへと変えてくださるのです。
ヘブル書の最初の読者であるクリスチャンたちは、迫害を始めとするさまざまな苦難の中で、まるで怒り狂うエジプトの王や目の前に立ちはだかる海に直面したのと同じような恐れを覚えたことでしょう。しかし、信仰によってあの海を渡ったモーセと民のように、神様に信頼するならここを渡り切れると神様はヘブル書を通して励ましました。同じように、私たちも立ちはだかる海があるかもしれないし、力を振りかざして迫ってくる恐ろしい王様のような存在に恐れを覚える時があるかも知れません。
それでも、信仰は、たとえ小さな信仰であったとしても、神様はご自身を信頼する小さき者を励まし、強め、道を開いて救い出し、人生とその心とを変えてくださいます。ですから、目に見えない神様ですが、私たちもこの方を目で見るようにして信じ、従い、ともに歩ませていただきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
モーセの信仰を通して、信仰がいかに私たちに励ましと力、導きをもたらし、私たちの人生を、私たちの心を変えるものであるかを学びました。
私たちも、怒れる王や立ちはだかる海のようなものに直面し恐れることがあります。しかし、神様はご自身を頼る者を決して見捨てず、見放さず、むしろ強め、勇気を与えて立ち上がらせてくださいます。
どうか、そのことを信じ、神様ご自身と約束された大きな報いから目を離さず、この地上での歩みをしっかりと歩ませてください。
主イエス様のお名前によって祈ります。」