2021-11-14 あなたを癒やし、喜ぼう

2021年 11月 14日 礼拝 聖書:ホセア14:4-9

 ホセア書のテーマは、神様の人間に対する、あきらめない愛と言って良いのではないかと思います。

そのようなことが強調される背景には、人間の真逆の性質、頑固で、冷めやすく、愛に背を向けてしまう性質があるからです。

聖書のメッセージから神の大きな、深い愛を受け取る時、私たち人間は大きな感動と喜びを味わいますが、同時に、恐れと不安も感じることがあります。私たちはそのような完全な愛を経験したことがありません。子どものころは完全な愛と思っていた親の愛も、親の不完全差を知るにつれ、割り引いて受け止めなければならないことに気づきます。私たち人間が持っている愛が、限りある、変わりやすいものなのに、そのような愛を基準に考えたり、実際にこれまでの経験で親子、家族、周囲の人々との関係で経験した愛に傷ついた経験から、不安や恐れを感じているかも知れません。

神様はそのような私たちに、ホセア書を通して、人間の性質と神のご性質を鮮やかに描き、希望を与えるために書かれました。

ホセア書は、旧約聖書の最後の12巻、「小預言書」と呼ばれる区分の最初のものです。小預言書といっても大預言書と呼ばれるイザヤ~エゼキエルと比べて重要さが小さいという意味ではなく、分量が少ないから、というだけの意味です。今日は、ホセア書をご一緒に味わって行きましょう。

1.偶像礼拝は不貞

ホセアが活躍したのは、ヤロブアム王が北イスラエルを治めていた頃からおよそ60年間のことです。

ホセアは北王国に遣わされた預言者でした。ヤロブアムの時代の北イスラエル王国は数世代にわたって少しずつ周辺の国々に削り取られていた領土を回復し、表面的には繁栄した時代でした。

そんな繁栄の一方で、ヤロブアム王を筆頭に、北イスラエルの民は偶像礼拝にすっかり染まっていました。そんな時代に遣わされたホセアの役割は、神の愛に背を向け、契約を破り捨て他の神々に想いを寄せるイスラエルの民の罪深さをはっきりと示すことでした。

ホセア書は大きく3つに区分され、それぞれの終わりに希望のことばが記されています。

最初の区分は1章から3章で、ここでは預言者ホセアがゴメルという姦淫の女を妻に迎えなさいという神様からのびっくりするような命令で始まり、ゴメルとの結婚関係を土台に話が進みます。

最初にホセアに語られた主のことばが1:2に出てきます。ホセアがゴメルを娶のは、イスラエルの不信仰と偶像礼拝を指し示す、一種の象徴的な行為でした。淫行にふけっている、というのはまことの神様の愛に背を向け、他の神々に心を寄せているイスラエルの姿を痛烈に批判するたとえですが、ホセアは実際にゴメルと結婚することを求められました。その多くの苦しみと痛みを伴う結婚生活を通して、神の痛みを味わいつつ、預言者として語るべきことをホセア自身がはっきり理解することになります。

ゴメルとの間に生まれた三人の子どもたちの名前は、イスラエルへの裁きとイスラエルに対する神の怒りを表していました。イズレエルは流血の土地に由来する名前、ロ・ルハマとロ・アンミは「あわれまない」「わたしの民ではない」という衝撃的な名前です。

2:5を見ると、この子どもたちはホセアの子ではなく、姦淫によって生まれた子どもたちであったらしいことが分かります。そしてゴメルが愛人たちからもらう食べ物や着る物とひきかえに彼らのもとに通ったことが指摘されます。それはそのまま、バアルを初めとする、豊かさをもたらすと言われる神々への偶像礼拝、神々に仕える祭司たちとの性的な儀式にふけっていたことへの非難です。

しかし1:10には、そうした呪いとも言えることが逆転し、いつの日か訪れる救いの希望が語られます。ロ・アンミ「わたしの民ではない」と言われたその場所で、「生ける神の子ら」と呼ばれるようになり、散らされた人々が再び一つに集められ、救い主が訪れ、裁きがなされた忌まわしい記憶がつきまとう場所が、栄光を受けるようになるというのです。

しかしホセアが目にしているイスラエルは、そんな希望からは遠い、見るも無惨な姿をさらしていました。2章では妻ゴメルが夫を裏切り、売春婦になってしまったように、イスラエルの民が神の愛に背を向けている現実が描かれています。神様は彼らを愛し、養っておられたのに、その愛に気付かず、裏切り続けました。

それでも3:1で主はホセアに「夫に愛されていながら貫通している女を愛しなさい」と命じます。そして5節にこうあります。「そして終わりの日には、主とそのすばらしさにおののく。」いつの日か、彼らが神の愛と恵みの豊かさに気づく希望が示されて最初のまとまりは締めくくられます。

2.神の愛を知って欲しい

2つめのまとまりは4章から11章までです。ここでもイスラエルに対する非難と警告が繰り替えされますが、最後11章の後半には神様の愛とあわれみの心があふれ出るように語られ、希望が記されて終わります。

この2つめのまとまりの大きなテーマは、イスラエルの民が気づかずにいた神の愛を本当に知って欲しいということです。

4:1にホセア書が指摘するイスラエルの民の本質的な問題が記されています。

「イスラエルの子らよ、主のことばを聞け。主はこの地に住む者を訴えられる。この地には真実もなく、誠実さもなく、神を知ることもないからだ。」

真実がない、誠実さがない、というのは分かります。神の愛に背を向け、はじめの契約を破り他の神々に心を向け、世の中からは正義も憐れみも失われていたのです。しかし「神を知ることがない」とはどういうことなのでしょうか。イスラエルの民は数百年にわたってアブラハムを召し祝福を約束された主なる神を礼拝し、その神の臨在のしるしである神殿がエルサレムにありました。

しかし北イスラエル王国はエルサレムを中心とする南の王国から離反し、自分たちで北イスラエル王国を別に建て、エルサレムの神殿とは違うところに勝手に聖所を造りました。それだけならまだしも、その聖所に金の子牛を置き、これが自分たちの神だと言い出したのです。しかも聖所と金の子牛を2セット作って、北と南の町に置いて「もうエルサレムにいかなくてもいいよ」と民をそそのかしたのです。そして金の子牛という偶像を作った彼らの信仰はほどなく、カナン人があがめていた神々へと移って行きます。

イスラエルの王と民の心はまことの神様から異教の神々に移り、バアルを初めとする偶像が大地の実りや家畜の繁殖をもたらしてくれると信じるようになりました。また、そうした神々に仕える祭司たちと性的な関係を結ぶことがさらに豊かさをもたらすという教えにのめり込んでさえしまいます。偶像礼拝が姦淫に喩えられているのにはそうした事情もありました。

さらに安全保障という面では、エジプトの手から救い出した神様ではなく外国の強い国々に忠誠を誓うことで安心を得ようとしました。たとえば隣国の脅威から身を守るためにアッシリヤに頼ったりするのですが、やがてそのアッシリヤによって滅ぼされ、捕囚とされてしまうことなど、考えもしませんでした。

ホセアはそうしたことを様々な言葉、譬えを用いながら厳しく批判し、神の民であり、約束の地に生きる人々が、まことの神様のことをまるで分かっていない。その愛をまるで分かっていないという意味で「神を知ることがない」と批判しているわけです。そして、そのような神の愛を知ろうとしない民に対して警告を発し、このままで滅びを免れないと告げるのです。

しかし、11章までのふたつめのまとまりも、最後は希望で締めくくられます。「親の心、子知らず」と言えるイスラエルの描写に続き、11:8で神様はご自身の揺れる胸の内を明かしておられます。「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」 そして、アッシリヤの捕囚となった人々を連れ戻し、主のもとに住まわせると約束してくださるのです。

3.頑なさと反抗

ホセア書の3つめのまとまりは12章から最後の14章までの三章になります。

ここでも更にイスラエルに対する非難と警告が繰り返されますが、特にイスラエルの歴史を振り返りながら、いかに彼らがいつも神様に反抗し続け、嘘をつき、裏切る者であったことをこれでもかというほどに指摘します。

しかし、ここでもそのような非難の目的は、ただ彼らを罪に定めるだけでなく、彼らが偶像礼拝の愚かさと神の愛に気付き、神のもとに立ち返るようにと呼びかけることにあります。

12:1で東風を追うエフライムという言い方で、東の大国であるアッシリヤやエジプトの傘の下で安全を得ようとするイスラエルに偽りと暴力が満ちてしまった現状を嘆いています。愛してくださる神様、これまで導いてくださった神様がおられるのに、それに気付かず、あるいは無視して、自分の目に良さそうに見えるもの、助けになってくれそうなものを追いかける時の私たちの愚かさにも当てはまる言葉です。

続く箇所では13章まで、先祖ヤコブの嘘と裏切り、荒野の旅の中でのイスラエルの民の頑固さや反抗、最初の王サウルが行った愚かな行動など、旧約聖書の中の馴染みのエピソードを題材にイスラエルが何度も何度も頑なさ、不信仰、不誠実を繰り返してきたことを非難します。ちょうどホセアの妻ゴメルが何度も何度も裏切ったのと同じです。

イスラエルの民は神に背を向け、結果として惨めさや苦難を味わう中で悔い改めるのですが、それが長続きしないのです。それでも主は、その都度イスラエルを憐れみ、助け、赦そうとします。苦難から救い出します。何度も家を飛び出し、不貞を働いたゴメルを何度も連れ帰ったホセアのように、何とか救おうとしたのです。

ホセア書は最後の14章でもう一度悔い改めを呼びかけ、主ご自身の救いと祝福の約束を記して希望を与えます。

まず1~3節は主に立ち返り、自分たちの罪を告白して赦しを求めるように呼びかけています。2、3節の祈りの言葉は、私たちが主の前に悔い改めをするときの良い例文になると思います。

悔い改めの祈りに対する主の応答が4~8節です。

主は彼らを赦し、癒やし、喜びを持って愛すると約束しておられます。これまでも愛してこられましたが、その愛には常にイスラエルの背信という痛みがありました。もちろん神様も、痛みをもって愛するより、喜びをもって愛したいのです。

そしてイスラエルは大きな木のようになり、その枝や葉っぱの茂みは、そこに宿る者に豊かな祝福をもたらします。神様がアブラハムにあなたの子孫を通して世界が祝福されると言われた通りです。

イエス様がからし種の喩えをお話しくださったとき、このホセアの預言も念頭に置かれていたと思います。小さな種がやがて大きくなり、鳥が枝に巣をかけるくらい大きくなるように、主の御国は初めは小さくとも、やがて大きく拡がります。その祝福は、確かに私たちにも届きました。

8節で神様は語りかけます。「エフライムよ。わたしと偶像との間に、どういう関わりがあるか。」神様の愛は揺るがずはっきりしています。あなたもはっきりさせないさいと言われているのです。

適用 あなたを癒やし愛する方

さて、最後の14:9は、ホセア書の結びの言葉になります。

「知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。」

ホセア書に記された神様の聖さと正義、憐れみ深さ、赦しと愛、そして人間の罪深い性質を気をつけてよく理解しなさい、悟りなさいと語りかけます。そのメッセージは今は経済的に絶頂期にあっても霊的な死んでいた北イスラエルの王や人々に対する警告や希望であるだけでなく、どんな時代の人々にも、もちろん私たちにも語られている警告であり希望です。

神様はただ一人、私たちを癒し、回復させてくださる方、本当に私たちを愛してくださる方です。イスラエルが頼ったアッシリヤやカナン人の神々は、豊穣や安全を約束したかもしれませんが、そんなものは一時的なものに過ぎませんし、むしろその関わりがもたらしたさらなる偶像礼拝や道徳的な堕落は目に余るものでした。その上、それらがイスラエルの民を本当の意味で愛することなどなかったのです。

私たちはどうでしょうか。こうして教会につどっておられる皆さんですから、神様を知らない、神様の愛について知らないということはないかもしれません。けれども、ホセアが娶るようにと言われたゴメルの立場に身を置いてみて、そんなゴメルをホセアが痛みながらも愛したように、神様が私たちを痛みを覚えながらも愛してくださり、私たちを癒し、回復させ、喜んで愛するようになりたいと熱い心で向き合ってくださっていることに気づいて、経験しているでしょうか。

キリスト教の信仰は、ただ聖書に書いてある命令を守ること、つまりクリスチャンらしい行動を表面的になぞることではりません。それでは律法を守りながら心が新しくされていないために直ぐに不信仰になり、神様から心が離れ、やがて聖書の教えを守ることさえ馬鹿らしくなってしまいます。それをそのままにしておけば、そのうち表面的にも、形だけでも守って来たものさえ捨ててしまいます。そして、まるで聖書の価値観とは異なる他の習慣を取り入れたり真似したりするようになることさえあります。

私はある時期、若い頃ですが、自分の信仰がとても表面的で、教会の方々から認めてもらうために求められる姿を演じているだけではないかとずいぶん悩んだことがあります。そのもやもやは簡単には晴れなかったのですが、ある時気づかされたのは、そういう曖昧でどっち付かずに見える自分をも神様は愛していてくださるということです。自分で自分の信仰が確かなものか良く分からない、感じている喜びや満足感が神様からのものではなく、単に心理的なものかも知れない、そんな頼りないものであるかも知れません。そして、そんな気分になることは今でもあります。ただ、分かったことは、神様は私の信仰の確信の確かさや意志の強さ、明確な理解を元にして私を愛しているのではなく、神様が愛なる方だから私をも愛してくださっているということです。

ホセア書は私たちに呼びかけます。「これらのことを悟れ」。人間の弱さ、罪深さという性質、そして神の誠実さと愛のご性質。私たちを喜んで愛したいという溢れるような願い。このことを知ることが、平らで真っ直ぐな主の道を歩むことです。心を頑なにして、平らな道で躓いたりしないようにしましょう。主は私たちを本当に癒し、回復させ、喜んで愛したいと心から願っておられるのです。

祈り

「天の父なる神様。

預言者ホセアを通して、イスラエルの民だけでなく、私たち人間の弱さ、罪深さ、それをも覆う神様の愛と恵みの大きさをもう一度教えてくださりありがとうございます。

どうか知識としてだけでなく、自分自身の愚かさ、頑なさ、罪深さを悟り、神様の愛を感じとり、経験することができますように。あなたが私たちを喜んで愛したいと願っておられるように、私たちも喜んであなたと共に歩むことを願う者であらせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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