2022-01-16 最初のささげもの

2022年1 月16日 礼拝 聖書:創世記4:1-7

 よく献金についてクリスチャンでない方やはじめて教会においでになった方に対して、「これは会費やお賽銭ではありませんので、準備のない方はパスしていいですよ」という説明をします。

ところが、洗礼を受けて教会員になると「十分の一献金をしてください」「教会会計が満たされるよう祈ってください」と言われるようになります。自由献金とはいえ、毎月のことでもありますし、会費と何が違うのかよく分からず、やんわりとしたプレッシャーもかかってきます。

私たちにとってお金は生活のあらゆる面で必要とされます。お金だけでは幸せになれないと言っても、お金がないと出来ることは相当限られてしまいますから、やっぱりあったほうがいい。

そうなると、献金という、自分のために使うわけではないお金をどれくらい献げたらいいのか悩むことがしばしばあります。

しかも「神様に献げるのです」と言われても、実際の使い道は、半分以上が牧師の給料だったりすると、お寺のお布施と何が違うのか、という考えが湧いてくるのもしかたがありません。

先日青森でご奉仕させていただいた時にお話した献金について、今日から3回にわけてお分かちします。今日は創世記に記された、最初のささげ物の場面から、献げることの意味合いを学んでいきたいと思います。

1.恵みと祝福の中にある感謝

今日開いている、最初のささげ物の物語は、エデンの園から追放されてしまった出来事の直後に置かれています。天地創造の後にアダムとエバは神様のたった一つの簡単な命令に背いてしまい、その代償として罪と死の呪いが人類を覆ってしまい、神様との豊かで麗しい交わりの場であったエデンの園から追放されてしまいます。

さて、エデンの園を追放されることになったとき、アダムとエバ、その子孫である人類は呪いとも言うべいくつかの罪の報いを受けることになります。それが3:16~19に記されています。出産には苦しみが伴うようになり、夫婦の対等な関係は壊れ、労働にも苦しみが伴い、やがて人は死んでいく者となってしまいました。神様との永遠の祝福された交わりの場であったエデンの園から追放され、いのちの木に至る道は完全に閉ざされてしまいます。

この出来事は私たち人間が直面している人生の様々な苦悩の始まりを描いているのです。

しかしエデンの園を追い出されたアダムとエバは、すぐに死んでしまうことはありませんでした。むしろ厳しい裁きの言葉以上に、神の恵みがしっかりと描かれ、最終的には神の恵みによる救いの希望があることが示されていました。

その一つは、アダムとエバがいちじくの葉っぱをつづり合わせた服もどきの代わりに、神が動物の皮で作った服を着せてくださったことです。人が献げる前に神がまず犠牲を払ってくださったのです。もう一つは蛇に対するさばきの中で、やがて女の子孫がかかとを噛まれるという傷を負いながらも蛇の頭を打ち砕くという宣告です。いずれもそれらはキリストによる贖いを彷彿とさせるものです。もちろんアダムとエバはそこまでは知りませんが、しかし、自分たちが神の恵みの中にあって、罪ある者となった今も赦しの中で生かされ、希望が残されていることに気づかされていたのです。

さらに注目すべきは人々が神に背を向けた後も、まだ神の祝福の中にいたということです。「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」という言葉は、ずっと後の時代に洪水によって世界のほとんどが滅びた後、救い出されたノアへの祝福の中で繰り返されています。つまり、最初の祝福は人間の罪とその報いにも拘わらず、取り消されたわけではなかったのです。

事実、アダムとエバには死が訪れると言われていましたが、それを味わうのはもう少し先のことになります。その前にカインとアベルという新しい命の誕生を経験します。死に行く者にもいのちのつながりという希望が感じられます。

ですから苦労はあったでしょうが、子どもたちが生まれ、働いた分だけ得るものがあり、大地の実りを味わうことができました。死に定められているとはいえ、完全に神に見捨てられたのではなく、なお祝福の中にあることをそうした暮らしの中で味わうことができたのです。神の祝福という言葉は使っていませんが、彼らはそうしたものが神の祝福であり恵みであることを知っていたし、実感し、家族の中で共有されていたのだと想像することができます。

カインとアベルが収穫の季節になったときに神にささげ物を持って来たのは、エデンの園という完全で平和な神との交わりが罪ゆえに傷付き失われた後でも、なお恵みと祝福の中に置かれていることへの感謝の表れだったと考えることができます。

2.ささげ物のふさわしさ

第二に、神へのささげ物には「ふさわしさ」があります。そのふさわしさは、ささげる物自体ではなく、ささげる人自身の問題です。

カインとアベルが神様の前にささげ物を持って来たとき、主はカインのささげ物には目を留めず、アベルのささげ物に目を留めます。穀物や野菜より羊のほうがささげ物として優れていたというわけではありません。しかし新約聖書のヘブル11:4によれば、アベルのささげ物には、アベル自身の信仰と正しさが表れていたということがわかります。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」

アベルの信仰はアダムとエバから受け継いだものです。この世界が神によって造られ、人の罪ゆえに労苦と死から逃れられなくても、なお恵みと祝福の中に生かされていることを教えられていたことでしょう。そして後の時代ほど明確でなくても、神の恵みと祝福の中に生かされ、いつの日か与えられる救いについて何らかの希望があることを知らされていたはずです。アベルはそうしたことを信じて感謝を表したのです。それが彼の正しさとみなされました。

一方、自分のささげ物が受け入れられなかったことに腹を立てて顔を伏せているカインに7節で神様が語りかけた言葉に注目しましょう。

「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。」

この言葉は、カインがささげ物を持って来るより前のカイン自身の行動か態度、あるいは心の思いにおいて何かしら良くないものがあったということを示しています。それが具体的に何であったかははっきりと言われていません。問題は、その「良くないこと」がカインの心と行い全体を支配しかけていたことでした。その兆候はささげ物の選び方にも現れていることが示唆されています。

アベルは羊を選ぶ時に「初子の中から、肥えたもの」を持って来ました。恐らく、最も価値のあるものを選んだという意味ですが、カインのささげ物にはそのように最上のものを選んだり、注意深く選んだりしたような記述はありません。決して要らないものを持って来たということではないでしょうが、選び方にぞんざいなところがあったのだと思われます。プレゼントやお土産を選ぶ時に、相手を喜ばせようとよく考え吟味して選ぶのと、駅前のコンビニに飛び込んで間に合わせのものを手に取るくらいの違いがあります。

ですから神様は、カインのささげ物自体ではなく、カイン自身を気に掛け、このままでは小さな罪の芽がカインを完全に支配してしまうことになると警告しているのです。

神の恵みと祝福の中に生かされているというへりくだった心、収穫を天地の造り主に感謝する心、人間のうちにある罪の根への自覚と救いの希望。そうしたことを軽んじたままのささげ物は、神様の前にふさわしいものとは認められませんでした。

使徒パウロは献金についてコリント教会にこう教えています。「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」

3.レプタ銅貨二つの献金

神様にとって羊も穀物も別に必要なものではありません。でも人が神様の恵みや祝福に感謝を表すなら、喜んで受け取ってくださいます。後の時代の律法でも、その人の経済力や財産に応じて、ささげ物は高価な牛から割と安価な鳥まで選ぶことが出来ました。神様はそれらを等しく受け入れてくださるのです。しかし、ささげ物が受け入れられるかどうかは、献げる人自身が神様の前に相応しいかどうかにかかっているのです。そして恐らく、ささげ物を選ぶ時、現代であれば財布の中をのぞいて金額を決める時の私たちの心や態度は、私たちの日々の暮らしの中での神様との関係を映し出すことになります。

ここで福音書(ルカ21:1)に記されているささげ物についての有名なエピソードを思い出しましょう。イエス様がエルサレムを訪れ、そこで礼拝している人々を観察しておられました。イエス様の時代の礼拝はカインとアベルの時代の素朴な礼拝と大分雰囲気が違います。しかし、ささげる人自身のふさわしさが問われるという点では何も変わってはいません。

イエス様が見ていると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていました。そこに一人の貧しいやもめがやって来ました。イエス様が見ていると、彼女はレプタ銅貨2枚をそっと献金箱に投げ入れます。金持ちたちのあざ笑うような視線が目に浮かぶようです。

この様子を見ていたイエス様は一緒にいた弟子たちにこうおっしゃいます。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」

このエピソードのポイントは何でしょうか。神に喜ばれるのは金額の大きさやささげ物の種類によるのではありません。金持ちたちが有り余る中から献げたことと対比して、やもめが乏しい中から「生きる手立てのすべて」を投げ入れたことに注目します。

気をつけなければならないのは、収入に対する献金の割合が多ければ喜ばれるという事でもないということです。金持ちにとっては、かなりの額であってもそのために生活が苦しくなることはなかったでしょう。自分の信仰深さをアピールする程度に大金を献金できたのです。そういう大きな献金に必要なのは信仰ではなく虚栄心です。しかし、やもめという社会的にも経済的にも非常に困難な状況が想像される人にとっては、生きる手立てのすべてを献げることは、神への信頼、明日の生活を神に委ねる信仰を表しました。旧約聖書最後の書になるマラキ3:10にはこんな言葉があります。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、 わたしの家の食物とせよ。 こうしてわたしを試してみよ。 ──万軍の主は言われる── わたしがあなたがたのために天の窓を開き、 あふれるばかりの祝福を あなたがたに注ぐかどうか。」彼女はこの信仰を実践したのです。

もう一度カインとアベルの話しに戻ります。カインの問題は、神への感謝や信頼という信仰を表すものではなく、献げるという事実だけを残そうとしたと言えます。一方、アベルのささげ物は最も価値のあるものを手放すことで神の恵みへの感謝と共に、神が再び祝福してくださるという信仰を表していたと言うことが出来ます。

適用 ささげる心

さて、今日ご一緒にカインとアベルのささげ物をめぐる物語を中心に、神様にささげ物を献げることの意味について学んで来ました。最後に、これらのことを現代の私たちの献金に当てはめて、3つの原則を挙げて終わります。

第一に、私たちの献金は神の恵みと祝福への感謝でなければなりません。私たちがどんな形で暮らしを立てているとしても、私たちは神の恵みと祝福の中に生かされていることを覚えて献げましょう。なによりも、私たちは罪と死に捕らわれている者なのに、キリストにある神の大きな赦しの中にあり、いのちを喜び、互いの交わりを喜び、神様のくださる様々なものを楽しむことができます。美味しいものを味わったり、美しい景色に感動したり、面白いことにワクワクしたりできる楽しみさえ与えられています。病や死から逃れることができず、そのために苦しんだり悲しむことはありますが、その痛みの中で祈りの力を知り、癒やしや回復を経験することもあります。悲しみの中でさえ愛や慰めを知ることができます。そうした神の恵みと祝福を日々の暮らしや人生の様々な場面、様々な形で感じとりながら、感謝して献げましょう。

第二に、神様がご覧になるのは金額や割合より、私たちの心や歩みが映し出すものです。私たちの信仰の歩みが、他のクリスチャンたちの目にどう映るかということを気にしての歩みなら、献金の時も気になるのは神ではない何かなっています。人の目かもしれないし、規則に従っているかどうか、皆はどれくらいかと言うことかも知れません。神様が目に見えるかたちで私たちのささげ物を拒むということはないでしょうが、私たちが神様を怖れ、尊敬し、信頼し、みことばを真剣に受け止めているかどうかは神様の目には明らかです。献金のためのお金も、金額だけじゃないと考えて、我が家では月定献金を献げる時はピン札か、ピン札がなくてもできるだけ綺麗なものを選んで献げるようにしています。それはともかく、神様は喜んで献げる人を喜んでくださいます。

第三に、私たちが献げることは、明日の生活について神に信頼することです。イエス様がご覧になっていたやもめほど厳しい状況ではないかもしれませんが、私たちも限られた収入の中から献金することには信仰が試される面があります。我が家でも給料をもらうとまずは定期的に献げる分をとりわけますが、それ以外にもローンやら様々な支払いやらが手ぐすね引いて待っています。だいたい、もらったその日のうちに大方の行き先が決まっています。献金に回している分を貯金や他の必要に当てたらけっこう生活にゆとりができるんじゃないかと考えたことがあります。それでも神様が暮らしを守り、ゆとりさえ与えてくださると信じて献げていくと、やりくりする知恵が与えられたり、何が大事かを判断できたり、不思議な助けが与えられたりするものです。そうしたことは実際に信仰をもって献げた人しか経験できないことです。

献金をささげることには何かしらを犠牲にする面はありますが、それ以上にこの現実世界の中で神様の恵みと祝福の中を生きていることを味わい、神様が私たちの信頼に応えてくださる方であることを経験できる、すばらしい恵みの機会です。そして、私たちより前に。まず神が犠牲を払ってくださったことを決して忘れないようにしましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日はカインとアベルのささげ物を通して、私たちが神様に献げることの意味、そして恵みを学んで来ました。

私たちは今なお罪と死が支配する世界に生きており、私たち自身にも弱さがあり、様々な苦難の中で痛み、嘆く者ですが、それでも憐れみ深いあなたの大きな恵みと祝福の中に生かされています。何よりも、あなたは私たちにひとり子イエス・キリストをお与えになり、そのいのちの代価によって私たちの罪を赦し、新しいいのちを与えてくださいました。

私たちは、あなたの豊かな恵みと祝福を心から感謝して、喜んでお献げしますので、どうぞ私たちをさらに祝し、この世にある限り、あなたの恵みをますます喜ぶ者としてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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