2022-03-13 わたしを誰だと言うか

2022年 3月 8日 主日礼拝 聖書:マタイ16:15-17

KGKという大学生や専門学校生のための働きがありまして、先週はその東北地区の春期学校というものにお招きいただき、3回のメッセージを担当してきました。「わたしを誰だと言うのか」というとても大切なテーマでしたので、そこでお話したことを整理して3回に分けて礼拝の中でお話ししていきたいと考えています。

イエス様とはどういう方なのか、それは自分にとってどういう意味があるのか。これは私も向き合ってきた課題です。はるか昔の事ではありますが、学生時代や青年期に悩んだ面もありますが、今もなお、その意味合いをたずね求めてもいます。先週の春期学校に集まった学生たちのほとんどはすでにクリスチャンでしたし、その中のかなりの割合がクリスチャンの両親のもとに生まれた子たちでした。わたしがよく知っている方々のお子さんたちも何人かいました。それでも、この質問は深く考えさせられるテーマだったようです。

イエス様とは誰かという質問への答え自体はすでにこの聖句の中にあります。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」というイエス様の問いに、ペテロは仲間の弟子たちを代表して答えました。「あなたは生ける神の子キリストです。」

問題はそれがどういう意味で、そしてそのように答えることは私たちにとってどういう意味があるかということです。

1.マタイの仕事

まずはじめに、どうしてこのようなやり取りがマタイの福音書に記されたのかを考えてみましょう。

十二使徒の一人であるマタイがイエス様の教えや働きをまとめて一冊の書物に書き上げた時代は、教会をとりまく世界が大きな転換期を迎えていました。

その一つは世代交代です。イエス様を直接知っている世代から、イエス様にお会いしたことのない世代、また地域へと教会は拡がっていました。最初の世代のユダヤ人クリスチャンが集まってエルサレムで教会を形造ったころ、彼らがイエス様について語る時は、それは実際に会って目と目を合わせて話しをし、ふれ合った方として語ります。しかし、次の世代の人たちやユダヤ人以外の世界へと教会が拡がっていった頃には常に、「聞いた話し」であるわけです。キリスト教信仰の中心的なことがらを繰り返し聞き、イエス様が教えたことを教えられて来てはいても、最初の生々しさは次第に失われつつあったと想像できます。

これは、福音書が記された時代以降、現代にも共通することです。もちろん、キリストはイエス様を信じた人々と共にいてくださいますが、イエス様を目で見て、手で触れて、耳で聞いたということとは明らかに違います。イエス様のことやイエス様の教えは、関節的で、伝えられた教えとして学ぶものになってしまいます。下手をするとイエスの教えなのか、使徒たちの教えなのかと言った論争にもなりがちです。時が経てば経つほど、そうしたことは大きな問題になります。

もうは、紀元70年にあったエルサレム陥落です。ローマ軍によってエルサレムの町は破られ、その中心にあった神殿も破壊されてしまいました。

キリスト教信仰はイエスによって始められた宗教ではなく、創世記から綿々と続く神の約束と教えの延長にあるもので、律法と預言の成就と言えるものです。そしてエルサレムの街と神殿は生きて働く神が、まさにこの世界に語りかけ、みわざを為して来たことの象徴的な場所です。みんなが気軽に聖書を手元に置いておける時代ではありません。エルサレムに神殿がある象徴的な意味合いは私たちの想像以上です。

新約聖書の時代、初代教会のクリスチャンたちはそのエルサレムと神殿が滅んだことをどう受け止めるべきか問われました。そして改めて教会は、自分たちの信仰が旧約聖書の教えとどう関係しているか整理しなければならない状況になったのです。

マタイはそのような時代状況の中で、そしてその後、どの世界、どの時代でも共通して抱えるこれらの問題に答えるよう導かれ、福音書を書きました。クリスチャンとは、そして教会とはどこに根ざしているのか。自分たちが信じますと告白したイエスというお方はどんな方なのか。その問題に答えるよう聖霊に導かれたのです。

ですからペテロがイエス様の質問に答えて「あなたは生ける神の子キリストです」と言ったのはテストの問題に答えを書き込むのとはわけが違います。イエス様を誰だと言うことが、私は誰なのか、どこに結びついているのかということを決定づける重要な問いであると、この福音書を読む人たちが受け止めることを期待して書いたものなのです。

2.父なる神によって

それでは、ペテロはどのようにして、イエス様を神の子、キリストと信じるに至ったのでしょうか。この時点でのペテロのキリスト理解は不完全でした。彼はまだ救い主が十字架で死なれるということを知りませんでした。文字通り死んで三日目によみがえるということも知りませんでした。この後、十字架の苦難と死とよみがえりについてイエス様から何度か話しを聞かされるのですが、十分には理解できなかったようです。むしろキリストが死ぬという考え方自体受け入れられなかったようです。それでも、イエス様が神の子である、キリストであると言えたのはなぜでしょうか。

17節でイエス様はペテロの告白に答えて言われました。それは天の父なる神様によることです。イエス様をキリストと受け入れる信仰自体が神様の贈り物です。

まずイエス様は「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。」と言われました。イエス様をキリストであると悟ることができるのは決して当たり前のことではありません。「幸いなこと」とイエス様が言っていることばは、有名な山上の説教で「悲しむ者は幸いです」とか「貧しい者は幸いです」とおっしゃったときと同じ言葉を用いています。この世界の常識や基準からは幸せになれそうもない人たちが、慰められ、神の子どもとされる幸いを与えられるとわたしが言ったその幸いを、お前も得たのだよと教えているのです。

実際、イエス様の周りにいた多くの人たちはペテロや弟子たちとは違った見方をしていました。細かな点で違いはありますが、大方の見方は、旧約聖書の時代の預言者のような方だということです。旧約聖書の伝説的な預言者に勝るとも劣らない方に思えましたが、あくまで私たちと同じ人間ということです。おそらく当時の状況では、そう考えるのが常識的な、まっとうな結論だったのだと思います。ですから、それを飛び越えて、イエス様は神の子であり、約束されたキリストだと悟れたことについて、イエス様はそっと指摘しました。「このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」。

人間的な力、勉強して理解したり、論理的に考えて結論に至ったり、伝える人の熱心さや巧みな話術で悟るのではありません。もちろん、福音が言葉で語られ、それを聞き、頭で理解し、心で受け入れるという人間らしい営みが伴います。しかし最終的に「ああ、そうなんだ、イエス様って神様で、救い主なんだ」と分かるというのは神様の力によるのです。

みなさんがすでにイエス様を神の子キリストであると信じているのはクリスチャンホームに生まれたからかも知れないし、友達に誘われて教会に出入りするようになったからかもしれません。それらは幸いなことです。しかしどの場合も偶然や誰かの熱心さによってではなく、神様の贈り物、神様の恵みなのだということです。

私はクリスチャンホームで成長し、自分がいつイエス様を信じたかはっきりとこの日だといえる記憶がありません。同世代の他の教会の人たちが何か劇的な出来事でイエス様を知るようになり、信じるようになったと話すのをとても羨ましく感じていました。そういうのがあればもっと自分の信仰に自信が持てるんじゃないかとも思いました。けれども、今分かります。神様は一人一人、その人にふさわしいタイミングとやり方で気づきを与えるのです。

3.人となられた神の御子

それではペテロの告白したことばの中身について考えてみましょう。ペテロは目の前に立ち、まっすぐ自分を見つめているイエス様にこう答えています。「あなたは生ける神の子キリストです。」

とてもシンプルな言葉です。しかし考えさせられる言葉です。

今日、特に注目したいのは、この告白がなされた状況です。

目の前には、私たちと何ら変わることのない人間の姿のイエス様がいます。もちろん、ユダヤ人として生まれましたから、ユダヤ人らしい外見的な特徴があったことでしょう。そして聖書には書かれていませんが、弟子たちは一緒に旅をし、生活を共にしていましたから、イエス様のもっと人間らしい振る舞いを見ていたはずです。目の前にいるのは人間であるイエス様です。お腹も空くし美味しいものに感動もする。元気なときもあれば疲れもし、痛みを覚え、喜び、笑い、悲しみ、怒りました。弟子たちと一緒にいることを楽しみ、しかし時には一人になる必要もありました。

そんな方を「神の子」ですと告白したのです。「~の子」とは、その性質を宿しているという意味合いがあります。つまり、イエス様は神の性質を宿す人だと言っているのです。これは大事件です。人間を神と呼ぶことは越えてはならない一線を越えることを意味しました。

イエス様の教えの内容にも教える姿にも権威があり、確かにそんじょそこらの宗教指導者とは違いました。病人を癒し、悪霊につかれた人を解放し、特定の病気で汚れた者とされていた人を癒やしきよめました。嵐の湖を鎮めたり、パンを増やしたりしました。でもそれは旧約聖書になじんだユダヤ人から見れば、過去の預言者達の行った奇跡と重なるものです。なにより聖書自身が、終わりの日にはエリヤのような預言者が遣わされると告げていたのです。だから多くの人たちは、14節にあるように、絶えて久しい昔の預言者のような方として理解したのです。

それをペテロは、ただの人間ではなく、立派な預言者というのでもなく、神の性質を宿す方だと受け止めたのです。

それは神様が明らかにしてくださらなければ決して到達できない結論です。なぜならそこには人間の常識的な感覚だけでなく、ユダヤ人が長年受け継いで来た信仰からの大きな飛躍が求められたからです。

これまで聖書を通して一貫して教えられて来たのは、神はただ一人であり、神は霊的な存在で目に見える体をもたない。だから神を何かの像になぞらえて作ってはならないということでした。ところが、ペテロの心には、目の前にいる、人間の姿をしておられる方が、父なる神とは別の存在として、しかも神の性質をもった方として立っていると告げる、内なる声が響いています。説明も証明もできないから、信仰によって受け止めるしかないことです。ただ、内なる心の声が、この方は確かに人間の存在を超えた方、神が人となられた方だと告げていました。そしてペテロ自身がイエス様とご一緒に歩む中で聞いたことば、見た行い、その人格から感じ取れるすべてのものが、確かにそうだと告げるのです。

だからこの箇所は、ペテロの「信仰告白」と呼ばれるのです。ただ質問に対する正解を言い当てたということではなく、イエス様を神であり、救い主である方と信じますと告白したのです。

適用:内なる声に聞け

マタイの福音書に限らず、他の福音書もイエス様を知っていた人たちが証人としてイエス様について語っています。イエス様にお会いし、イエス様から教えられ、イエス様から呼ばれ、イエス様に赦され、そしてイエス様が確かに死なれたのを目撃し、復活のイエス様にお会いした。そういう人たちが、イエス様から聞いたこと、イエス様が見せてくれたこと、イエス様によって明らかにされたこと、そしてイエス様から託されたことを当時の教会に向けて書きました。

しかしこれらのことは単に知識として受け継がれて来たのではありません。イエス様を神の子キリストと信じた人々の心と生活に小さな、しかし確かな変化が表れ、クリスチャンの共同体である教会の交わりの中に表れる愛と恵みが、今もなおキリストが生きておられ、奇跡を起こし続けていることを証ししています。

だからイエス様に直接お会いしたことのない人たちも「私もイエス様にお会いした。イエス様はいまも生きておられる」と証言することができたし、それを聞いた人はまた聖書に立ち戻って、そのイエスとは誰かと問い始めるのですそのようにして「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」という問いは、時を超えて私たちに向けられた質問となるのです。

しかし、その時、私たちは心の中に、様々な考え、思いが沸き起こってくることを感じます。この時代に神の存在を信じるなんて馬鹿げているという声が聞こえるかもしれない。宗教なんてものはどれもろくでもない。あなたの自由を売り渡すのか。キリスト教なんて独善的だ。いい教えかもしれないけど、現実にはあわない。けれども、そうした外から内からあふれ出てくる様々な声のずっと奥の方から、静かに語りかける声があるのです。その声を聞かせるためにイエス様は弟子たちを大勢のとりまきから引き離し、周りにユダヤ人や知り合いがいな場所知っている人のいない地方に出ていかれました。私たちも、ほかの声をまずは脇において、その小さな声に耳を傾けてみるのです。

私自身はイエス様のことをごく小さいうちから耳にし、教会の交わりの中で育ち、わりと自然に信じて来ましたが、それでも、その信仰を本当に自分の心からのものとして告白するかとか、信じて来た信仰に立ち続けるか問われる場面は何度もありました。自分のふがいなさ、愚かさに、こんな信仰は本物かと悩むこともありましたし、教会の中にも嫌な出来事があったし、がっかりすることもありました。失望したり、傷付いたり、打ちのめされることはあります。それらは「イエス様を信じて何になるのか」とささやきかけます。けれども、その都度立ち止まり、内なる声に耳を傾け、そして「それでもあなたは生ける神の御子キリストです」「あなたは私の主です」と答えてきました。人間の愚かさや弱さがみせる醜い面より、神様が日々の生活や、教会の生きた交わりの中で示してくださる真実のほうがやっぱり確かなのです。

ここにいるほとんどはすでにクリスチャンとして歩んでいますが、もう一度、イエス様の問いかけに自分は何と答えるのか、よく考えてみましょう。その答えを口にする前に、心の奥深くで語りかける神様の御声に聞いてみてください。そしてその御声に心の奥深くにいる自分が何と答えているか、耳を澄ませてください。

祈り

「天の父なる神様。

いま、あなたがここに集まったお一人お一人に何を語りかけているでしょうか。その声をかき消そうとする、どんな思いが一人一人の心のうちに溢れているでしょうか。

どうか、一人一人が私にとってイエス様とは誰なのか、その問いに心から応答することができますように。

ペテロの心を開き、その目を開いて気づかせたように、今日もあなたが私たちの心と目を開いてくださり、語りかけてください。

そして、様々なネガティブな声があったとしても、あなたの呼びかけに応答する信仰を与えてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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