2022年 3月 27日 礼拝 聖書:ヨハネ15:12-17
今日は信仰を告白することが私たちの人生にとってどういう意味があるのかをご一緒に考えていきます。
自分の立場を明かすことは、自分の生き方との整合性が問われることです。
この春から高校生になる人もいますが、私が高校生になったとき、担任の先生や生活指導の先生から口をすっぱくして言われたことは、うちの高校生であることを自覚しなさいということでした。いろいろと問題の多い時代でしたので、生徒が学校の外でいろいろしでかすことがあります。するとだいたい制服をみれば「ああ、あそこの高校だな」ということで分かりますから、学校の評判にすぐにつながります。制服を着ていなくても高校生くらいだと分かりますから「学校はどこだ」と聞かれるわけです。
そういうことは大人になっても変わりません。社会的に問題になるようなことをすれば「職業はなんだ」「どこの会社の人間だ」と問われます。スピード違反して警察官に職業を聞かれ「牧師です」と答えることは何と気まずく、恥ずかしかったことでしょうか。
自分の立場を明かすことは、自分の生き方、行動との整合性が問われるのです。
というわけで、イエス様を神の御子、キリストですと、信仰を告白することは、私たちの生き方に大いに関わることです。
1.最後に伝えること
今日開いている箇所には有名な聖句がちりばめられています。
どれも素敵なことばですが、重要なのはその関連性です。それを無視すると私たちはめいめい好きな節だけを自分のお気に入りとして覚えて、イエス様がほんとうに伝えたかったことを聞き損ねてしまいます。そこで、少し大きな文脈を確認しておきましょう。この箇所は13章から17章まで続く最後の晩餐での弟子たちとの対話と祈りの中に位置づけられています。
この食事に先立って、13:1~11にはイエス様が弟子たちの足を洗う場面が出てきます。その説明の中で「世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された」とあります。足を洗うことはその家のしもべの役割でした。イエス様がしもべのように一人一人の足を洗ってあげる姿はとても印象的です。その姿は愛するということは身を低くし相手に仕える者になることを表していました。それを実践して見せたのです。そして弟子たちに、互いに同じようにするよう言いました。互いにへりくだり、相手を敬い、仕えるような愛で愛し合いなさいということです。
その後、13:18~33でユダの裏切りについての話しをされ、イエス様の最後の時が近づいていることを告げます。そしてその直後の34~35節で「新しい戒め」として有名な「互いに愛し合いなさい」という命令を与えています。
14章では天の御国の住まいについての希望を示し、イエス様を通してのみ、父のみもとに行くことができること、続けて助け主としての聖霊が与えられることが語られます。
15章では有名なぶどうの木と枝の喩えが出てきます。豊かな実を結ぶ者になるためにイエス様にとどまることが肝心だという喩えです。そして再び、今日お読みした箇所で、互いに愛し合いなさいという戒めが繰り返されているのです。
16章からは、やがて直面する迫害や苦難をどう受け止めたら良いのか、聖霊によるどんな助けがあるのかが語られます。
弟子たちはお話を聞いている間、全部を理解できたわけではありませんでした。特にイエス様にもう会えなくなるのではないかと不安になっている感じが伝わって来ます。しかし苦しみの後に喜びが待ち受けていること、この喜びのためにこそイエス様は十字架に向かおうとしていることを教え、わたしを信じているあなたがたを父なる神ご自身が愛しておられると優しく告げます。しかも弟子たちが十字架を前にイエス様を置いて逃げ出すことまでご存じですが、それでも勝利を確信し、勇気を出すようにと励まします。
そして17章ではイエス様の祈りが記されます。ご自身のために、使徒たちのために、そしてやがて彼らを通して教会として集められるすべての人々のためにとりなしの祈りを捧げ、それから十字架に向かっていきます。
これらのメッセージと祈りは、イエス様が天に挙げられた後の教会を励ますために書き残されました。彼らを力づけ、大事にすべきことをもう一度言いきかせ、やがて再び戻って来ることを約束し、必ず勝利が訪れることを確信させるためです。
その文脈の中でイエス様が去ってしまった後の教会とクリスチャン個人にとって、もっとも大切な使命として、また存在の仕方として、互いに愛し合うということがいかに重要かが分かって来ます。
2.主が私を選び友となった
その重要さは、互いに愛し合うという新しい戒めに従って生きる人々をイエス様が「友」と呼んでくださることによっても表れます。しかしその真意はなんでしょうか。
友というのは、与えられるよりは与えようとするものです。自分は与えず、もらうことばっかり考えるような関係は友情ではありません。
13節でイエス様は友のために、つまり私たちのためにいのちを捨てると言われました。これ以上の愛はありません。イエス様は友である私たちを救うため、私たちの罪の代償を十字架の上で肩代わりしてくださいました。
もう一つの友の特徴は、心の内を見せるということではないでしょうか。もちろん私たちの友情関係はもろいところがあるので、友情にひびが入るんじゃないかと恐れて言いたいことを言わず、秘密を抱え、打ち明けられずにいることがあります。しかし、もしその心にあるものを打ち明け、それが友情を壊すのではなく、受け入れられた時には、逆に友情や信頼関係は強くなります。
イエス様は15節でしもべと友の違いを例として挙げています。しもべは主人の考えを知りません。しかし友は互いの考えを打ち明けあいます。私たちとイエス様が友であるのは、イエス様がご自身のお考えを私たちに打ち明け、私たちはイエス様の思いを知っているからです。その思いとは、私たちが互いに愛し合う者になって欲しいということです。もちろん、イエス様は私たちの思いも、私たちの人間としての弱さも知っておられ、受け入れておられます。
世界中の指導者が、その地位に就くと有力な国々の指導者を訪問し、笑顔で握手した映像や写真をマスコミに流します。そしてファーストネームで呼び合うことにしましたと、友人関係になったことをアピールします。それがほんとうの友情かどうかは別として、そういう演出が大事だとされています。みせかけの友情は、今世界で起こっているような争いの中で化けの皮が剥がれます。しかし、イエス様の友への愛は十字架によって証明され続けています。
イエス様はこうやって、ご自分の方からいのちを与えるために来られ、そしてご自身のお考えを私たちに明らかにし、私たちを受け入れ愛してくださいました。では、友とされた私たちはどう応答すべきでしょうか。差し伸べられた手を振り払って、ほっといてと言うのか、それとも受け入れるのか。
16節でイエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。」とおっしゃっています。弟子たちは、自分がイエス様から呼ばれた時のことを思い出せたに違いありません。
ペテロは漁師としてガリラヤ湖で一晩中頑張って何も獲れなかった時にイエス様が声をかけてくれた時のことを思い出したでしょう。ヨハネは、浜辺で網を繕っている時に両親と舟を残してイエス様について行った時のことを。マタイは収税所で座って、嫌な顔をされながら税金を集めていた時に「ついて来なさい」と言われたのを思い出したでしょう。弟子たち一人一人には、それぞれの場所でそれぞれの人生を送り、心の中にある切実な求めを感じながらもどこに求めたらよいか分からない時にイエス様が声を掛けてくれた、そんな物語がありました。皆さんはどうでしょう。
3.他者を愛する歩みへの招き
そのようにして私たちを友としてくださったイエス様には、私たちのための計画を持っていました。イエス様は私たちを「他者を愛する歩み」へと招いてくださったのです。
「それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」
実を結ぶというのは、何かしらの結果を生み出すことを指しているのですが、いったいどんな結果を期待しておられるのでしょう。
「実を結ぶ」というたとえは15章前半の「ぶどうの木と枝の喩え」と関連があります。
この喩えのキモは「とどまる」ということです。イエス様続けて説明しておられます。7節「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」。9節「わたしの愛にとどまりなさい」。19節「あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです」。
葡萄の木に枝がとどまるようにイエス様に留まるとは、私たちを愛してくださるイエス様の愛につながり続け、イエス様が私たちに与えた戒め、「互いに愛し合いなさい」という教えを私たちの行動の基準とすることです。イエス様が私たちを愛したような愛で・弟子たちの汚い足をしもべのように跪いて洗って愛を示したような愛で・友のために命を捨てるような愛で・互いをうやまい、仕え、与え、愛しなさい。そうすれば豊かな実を結ぶ者になるし、あなたがたがなんでも願うものは与えられるし、父なる神様も栄光を受ける。逆に言うなら、私たちが互いに愛し合っていることで、私たちがイエス様の愛に留まっていることが明らかになるし、私たちもハッピーで、父なる神様もお喜びになるのだと言っているのです。
聖書は一貫して「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と言われて来ましたが、イエス様の新しい戒めである「互いに愛し合うこと」は、その愛の本当の素晴らしさをより明確に、具体的に表すものになります。「互いに愛し合う」とは決して内輪で仲良く和気藹々とするような小さな意味ではありません。
「あなたの隣人を自分を愛するように愛しなさい」という命令は、相手が誰であっても神に造られ、いのちを与えられた同じ人間として、弱く限りがあるけれど、存在が許され、大切にされるべき者として慈しむ視点があります。しかしこれは一方通行になる場合もあります。神様の願いはその愛が、互いに向き合うものになること、交わりの中に愛が満ちることです。
自ら友となり、仕える者となったイエス様の愛を知った人たちが、イエス様が愛したように互いに愛し合うなら、そこに本来の愛の交わりの素晴らしさを表せるのです。その愛の交わりは閉じたものではなく、絶えず拡がり、周りの人々を招き続けるものです。
クリスチャンや教会の使命は「福音宣教」だ、イエス様を宣べ伝え、証しすることだと言われます。それは間違いではありません。けれどその先があります。神の愛を知ることを通してイエス様は私たちが互いに愛し合う者へと回復されていって欲しいのです。自分勝手な罪によって神と人との関係をズタボロにしてしまう私たちが神の愛に触れて互いを受け入れ、敬い、仕え合うような、愛の交わりへと招いているのです。
適用 新しい生き方へ
ヨハネの福音書を記した使徒ヨハネは、十二使徒の中でも最も長生きしました。彼の最晩年にまつわる伝説の一つにこんなのがあります。
高齢となった使徒ヨハネは説教の時、人々の前に立つと、ただひとこと、「子どもたちよ、互いに愛し合いなさい」とだけ語ったというのです。嘘か誠か分かりませんが、彼の手紙の中には確かにこう書かれています。
「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」(1ヨハネ4:7~8)
しかし、ヨハネ自身が、生まれつきそんなに愛情深く、優しく穏やかな性質だったわけではありません。
イエス様は弟子たちとの旅の途中、ある出来事をきっかけにヨハネと兄ヤコブに「ボアネルゲ」というニックネームをつけました。意味は「カミナリの子」です。
イエス様がエルサレムに向かうのを歓迎しなかったサマリヤ人につて「天からカミナリを呼んで彼らを焼き滅ぼしましょう」なんてイエス様に言ったためです。
別の場面では、仲間でない人々がイエス様の名を使って悪霊を追い出しているのをみかけ、仲間でない人たちだから止めさせましたと自慢げにイエス様に報告して叱られたことがありました。
また、ヤコブとヨハネは相当の野心家でもありました。他の10人を出し抜くようにして、イエス様が王位についた暁にはその左右に座らせてくださいと願ったりもしました。
ヨハネ自身が生まれ持って、その人生の中で身につけた性格や態度は、短気で暴力的で、人を偏り見、心が狭く、それでいて野心家という、リーダーにしちゃいけない人の典型のような人物でした。
しかし、「カミナリの子」と言われたヨハネは「神の子ども」に変えられました。神の子どもとしての立場を与えられただけでなく、イエス様の愛に触れて、神の子どもらしいイエス様に似た性質と態度を身につけることができました。
それは、十字架を目前に控えたあの最後の晩餐で、イエス様ご自身が自分たちの前にひざをかがめ、足を洗い、このように互いに愛し合いなさいと教えてくださったことに応えたからです。愛することを学ぶ長い旅路は身近な所からはじまりました。
十字架上のイエス様から、イエス様の母マリヤを託されたこと。イエス様を知らないと裏切ったペテロや逃げ出した他の使徒たちを責めるのではなく、寄り添い苦しみを共に味わうところから始まりました。それから、教会に宛てて大事なのは互いに愛することだと重ねて書くようになるまで数十年経過しました。互いに愛することがイエス様の私たちへの願いであるということが、変わらない確信であり続け、学び続けるものでありました。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
この問いかけに、「あなたは神の御子、わたしの救い主キリストです」と応えることは、他者を愛する新しい歩みへの招きに応えることです。その一歩は身近なところから始まります。あなたがまず愛し、敬い、仕えるべき方々は、あなたのすぐ近くにいます。
祈り
「天の父なる神様。
今日は、最後の晩餐でイエス様が弟子たちと、続く時代を生きる全ての世代、すべての世界のクリスチャンと教会に託したことがらを学びました。
イエス様を私の神、私の救い主と告白することは、その付託に応えることです。主は私たちを、他者を愛する新しい歩みへと招いてくださっています。
どうぞ、イエスはキリストと告白する度に、主イエス様と祈る度に、イエスは主と賛美する度に、あなたがどのように私を愛してくださったかを思い出し、その愛に触れ、他者を愛する者となるよう召されていることを思い出させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。」