2022-05-01 いのちの木

2022年 5月 1日 礼拝 聖書:黙示録22:1-7

 部屋や物置を片付けていると、すっかりその存在を忘れていた大事なものを見つけることがあります。それは思い出の品であったり、とても便利な道具だったりします。また街中で、あるいは何かの集まりで、思いがけない人と再会することがあります。何十年ぶりかで会って、その人と過ごした日々や一緒に経験したことがとても素晴らしかったことを急に思い出します。

よく出来た物語には、そういう忘れられていたちょっとした出来事や登場人物が後になって現れ、実はとても重要な役回りを果たすということがあるものです。

今日開いている黙示録には、聖書の中で長い間見失われていたあるものが突然姿を現し、「あ、ここにあったのか!」と思わされます。それが「いのちの木」です。最初に登場するのは天地創造の場面で、エデンの園の中央に、食べることを禁じられた善悪の知識の木の隣りに生えていました。人が罪を犯してエデンの園を追われてからは、いのちの木に至る道は閉ざされ、聖書の表舞台からは消えます。そのいのちの木が天国を描く場面で再登場するのです。

今年度の主題は「主の回復の年」ですが、ここ数年に失ったものを元に戻したいということだけでなく、主が聖書全体を通して回復させようとしていることは何か、月に一度くらいのペースで見ていきたいと思います。いのちの木の再登場はその回復の象徴です。

1.人が失っているもの

第一に、天地創造のアダムとエバの時以来、私たち人類は失っているものがあります。その象徴が聖書の最初の書である創世記に登場したいのちの木に至る道が閉ざされた出来事です。そして、聖書の一番最後の書である黙示録の中で、最後の最後に再び登場することで、神様は人類が失ったものを取り戻させ、回復しようとしておられることを描き出しています。

人類が失ったもの、失ってしまっているものが何かについて、人は必ずしもはっきり分かっているわけではありません。何を探していたか分からなくなっているのに、「何を探していたんだっけ」と焦りながら、家の中をあちこちひっくりかえしているようなことを人間はやり続けています。

人が失っているものは、本来の人間らしさ、神のかたちに造られた人間としてのいのちを形造る大事ないくつかの面です。

いったい何を失ってしまったのか、あらためて創世記に立ち戻って確認したいと思います。創世記3章が問題の場面ですが、その前に1章と2章で人間が創造された時のことを見ておきましょう。

1:26~27で人間は「神のかたち」に造られたことが分かります。その意味についての説明はありませんが、他の動物と明らかに違うものとして、神の性質のある面を宿すものとして造られたのです。2:7では、大地のちりで形造られた人間が神様のいのちの息を吹き込まれることで生きる者となったことが記されています。神様との特別な交わりの中でこそ人は本当の意味で生きていると言えるのです。その直ぐあとでエデンの園に場面が移り、園の中央にあるいのちの木と善悪の知識の木にスポットが当てられます。

ご存じの通り、エデンの園でなる実は何でもとって食べて良かったのですが、善悪の知識の木の実だけは禁じられました。

そこに蛇が現れ、アダムとエバを惑わし、彼らはついに禁じられた木の実を食べてしまうことになります。

創世記3章を見ていくと、そこで神のかたちとして造られ、神のいぶきによって生きる者とされた人類の失ったものが何であるかが見えてきます。

最初に彼らが見失ってしまうのは、自分たちが神のかたちに似た存在であることです。蛇は巧みに誘惑します。木の実を食べれば目が開かれて神のようになるとささやきます。すでに神のかたちに似せて造られていうことをなかったことにして、この誘いに乗れば神のようになれるとたぶらかすのです。それ以来人間は、愛することや何かを生み出す創造性、一人一人の個性的な美しさを素晴らしいと感じながらも、それが神様のご性質に由来するものだという肝心なことを見失っているために、ちぐはぐなことや、あるべきではない姿へと陥ってしまうのです。

さらに、いのちの生吹を吹き込まれた人間は罪を犯すことによってその神との生きた関係を失ってしまいました。神様の目を避けるようになり、恐れ、逃げ、隠れます。

ことの次第を知った神様は人間が背負わなければならない呪いを告げます。生めよ増えよ、地を従えよという祝福のうちにまだいますが、同時にそれが苦しみを伴うものとなってしまう。生きることが祝福でありながら同時に呪いをはらんでいるという矛盾の中に私たちは置かれることになったのです。

2.天国にはいのちの木がある

しかし第二に、天国にはいのちの木があります。そういう未来に私たちは向かっています。

アダムとエバの罪の結果、3:22で神様は、二度と人がいのちの木から実を食べ、永遠に生きることがないようにしようと言われ、エデンの園から追放した上で、そこに戻る道を閉ざしてしまいます。

では黙示録に戻ってみましょう。21:1に「新しい天と新しい地」そして「新しいエルサレム」が登場します。そこでは、かつて失われた人間と神様との揺るがない交わりが回復し、もはや死もなく、涙も悲しみも過去のものとなることが告げられています。

それから新しいエルサレムの様子が描かれていきます。黙示録という書物の特徴は様々な象徴を組み合わせることでメッセージを託していくものなので、これらは実際の天の都の設計図というより、天の都が大きく、完全で素晴らしいものであることを表していると言えます。

そして今日開いた22章で天の都の中心部を流れるいのちの川とそのほとりにうわっているいのちの木が登場します。

いのちの木そのものが天の都にあることは実際そうなのだろうと思いますが、12の木が毎月一つの実を結ぶとか、葉っぱがすべての人を癒すというのも、何か象徴的な意味がありそうです。というのも、既に天の御国には死も苦しみもないわけですし、夜もなければ太陽もないのに季節や癒やしはあるという、実際的に考えるとちょっと矛盾した描写があります。これらは、神とキリストからもたらされるいのちによって潤され、回復させられ、豊かに、完全に祝福されている様子を象徴したものと読むほうが筋は通ります。

大事なことは、この世界の終わりに姿を現す新しい天の都に、かつて失われ、閉ざされたいのちの木が、再び登場し、しかも惜しげもなく、川の両岸に何本も育ち、豊かに実を結んで人々をいやしているというイメージです。

イエス様は弟子たちに、そして私たちに「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と言われました。イエス様を信じて救いを頂いても、この不完全で罪と死がまだ力を振るっている世界では困難があります。この世にあってイエス様の復活のいのちの力を頂き、困難の中でも忍耐し、平安と喜びを握って生きることはできます。それでも、苦難は残るのです。私たちは癒され、慰められる経験をし、希望を持つことができますが、この世にある間は痛みと悲しみが完全にはなくなりません。

私たちがこの世界の歪みと不完全さ、罪深さゆえに味わう苦しみや、私たち人間の、人間としての弱さゆえに味わう病、痛み、老いがすっかり取り除かれる希望は、この世で生きている間ではなく、その先の天の御国にあるのです。

一昨日、日本の教会音楽に大きな影響を与え、リードしてきた小坂忠先生が召されたと知りました。数年前に最初にがんが見つかって、奇跡的に生還した後も全身にひろがったがんとの闘病生活の果てに召されました。どんなに素晴らしい働きをするような信仰の人でも、完全な癒やしと慰めは天に行くまで待たねばならないのです。しかしその希望があるから、今の時をがんばれるのです。

3.主はすぐに来られる

第三に、主イエス様はすぐに来られると言われます。

今日読んだ箇所の最後、7節にはこうあります。「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」

これは12節でも繰り返されています。「見よ、わたしはすぐに来る」。そして黙示録の最後もこの約束で終わっています。「これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」

黙示録は教会に大きな迫害が迫っている緊迫した状況の中でクリスチャンたちを励ますために書かれました。特に今のトルコの西海岸沿いに点在する7つの教会とクリスチャンたちを意識して書かれています。彼らが間もなく経験するエルサレムの滅亡もローマ帝国による組織的な迫害も、その後何度も繰り返される苦難や迫害の一つです。出産の時にむかって痛みが何度も押し寄せるように、新しい天と新しい地、天の都が訪れるまでには産みの苦しみが何度も押し寄せて来ます。その都度、クリスチャンたちはイエス様が間もなく来られるという約束を希望に耐え忍んで来ました。

しかしここで一つの疑問が浮かんで来るかも知れません。「イエス様はすぐに来ると言われたのに、全然こないじゃないか」。

子どもの頃、親に「すぐやってあげるから」と言われても、なかなかやってくれなくて「いつ?すぐって言ったじゃん」と文句を言った事があるかも知れません。逆に「早くやりなさい」と言われ、「すぐやるから」と口答えしたのに、なかなかやらずに「すぐやりなさい」と言われ「分かってる」とまた口答えする、そんな経験があるかも知れません。イエス様の「すぐ」と私たちが考え期待する「すぐ」にはズレがあります。

神様にとって千年は一日のようであり、一日は千年のようです。神様の救いのご計画では、私が救われ、慰めと回復をいただけることだけでなく、まだ福音の届いていない人々、世界へと福音が届けられるまでは終わりにはしないということです。ですからそれまでは「もうちょっと待ちなさい」と言うことです。

黙示録でイエス様が「すぐに来る」というのは、時間的にあっという間にということではなく、その時が来れば速やかに、確実に来られるという意味といえます。それは、私たちがやりたくないことをぐずぐずと先延ばしにして「すぐ行くから」と言うのとは違います。その時が来るまで今なすべきことをしっかりやりながら準備万端整え、今がその時となったらすぐに来るのです。

17節に「御霊と花嫁が言う。「来てください。」これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」とあります。

今は困難があり、苦難があっても、必ずイエス様が来られ、すべてを新しくし、完全な回復を与えてくださる時が来ます。いのちの木の実がもう一度私たちをいやすものとして与えられる時が来ることを確かな希望として持っているようにと、聖書は私たちを励ましているのです。それまでの間もいのちの水は渇く者、求める者に与えられると約束されています。完全な回復までの間、いのちの水をいただきながら私たちは歩み続けるのです。

適用:待ち望め主を

迫害の時代に生きたクリスチャンたちは、「主よ来てください」という言葉、アラム語で「マラナ・タ」という言葉を合言葉に励まし合いながら生きたと伝えられています。私たちもまた主を待ち望んで、主よ来てくださいと告白し、祈りつつ歩みたいと思います。

時として聖書の物語は壮大すぎたり時代が違い過ぎて、私たちの歩みとどう関係するか見失ってしまいがちです。特に黙示録は様々な象徴が織りなすイメージに振り回されて、その意味は何だろうかと謎解きのようなことに走り、未来にはこんな出来事があるに違いないと想像たくましくしてしまいがちです。

いつかまた聖書を順番に開いていくシリーズの中で黙示録を取り上げることになりますので、その時には黙示録の読み方を見ていくことにします。

今日私たちが見てきたのは、創世記に登場し、失われたいのちの木が黙示録で再登場したことを通して、神様がなさろうとしていることです。神様に背を向けた人類が見失ってしまったもの、神のかたちとして造られた存在であること、そして神との生きた交わりを回復させることが、神様のもたらそうとしている回復の中心にあります。それがいのちの木の再登場に象徴される内容です。

つまり、私たちが今経験しているすべての苦しみ、悩みは、人類が見失ってしまったこと、罪の結果としてこの世にもたらされた苦しみに結びついています。そして神様は私たちがそうした苦しみによって痛み、悩み、嘆いていることを知っておられ、完全な回復をもたらそうとしておられます。

大事なことは、神様は単に将来、遠い将来に新しい天の都が到来した時に癒やしを与えるから、今はただ耐えなさいと言っているのではないということです。

黙示録が描く未来の回復は、完全な回復です。やがて主イエス様が王となって世界を治める時には、この世で報われることのなかった労苦や癒されることが叶わなかった痛みもすっかり拭い去られます。しかしながら私たちが生きているこの時にも助けは与えられるのです。ですから17節で「これを聞く者も「来てください」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい。」と勧められています。イエス様ご自身、誰でも疲れている者は「わたしのところに来なさい。休ませてあげます」と言われました。「マラナ・タ」「主よ、はやく来てください」と願いながら今渇いている者にはいのちの水が与えられるのです。

それは山上りの途中での休憩や、長旅の途中でのリフレッシュに似ています。山頂にいかないと得られない休息と絶景があるのですが、そこに到着するまでの間に、おりおりに挟む小休憩や、歩きながら口にする水のように、私たちをリフレッシュさせ、歩く力を与え、疲れを癒すものです。

たとえ今与えられるものが完全な回復でなくても、赦され愛されている事実、主が共にいてくださる安心感や、休息や逃れの場がどれほど私たちを回復させてくれるでしょうか。報われると分かっている希望、人を通して、またみことばを通して折々に与えられる助けや励ましがどれほど力と勇気を与えてくれるでしょうか。

今月の歩みも、それぞれに負わねばならない労苦がありますが、主を待ち望み、慰めと希望をいただきながら歩みましょう。

祈り

「天の父なる神様。

主を待ち望む者に備えてくださる回復をありがとうございます。

やがて天の御国がおとずれる時に完全ないやしと回復が与えられる希望があり、それだけでなく、今この時も私たちの祈り、必要に応えて、助けを与え、いのちの水を与えてくださることを心から感謝します。

特に、今困難の中にあるお一人お一人に、癒やしや慰め、具体的な助けと導きを必要としているお一人お一人に、あなたの確かな助けがあり、いのちの水が湧き出るように渇きをいやしてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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