2022-05-08 憂国の祈り

2022年 5月 8日 礼拝 聖書:ハバクク2:1-4

 皆さんはこの世を憂うことがあるでしょうか。最近、うちの近所でゴミの出し方でいらっとすることがありました。たぶん引っ越し関連のゴミだと思うのですが、テレビとか回収されないゴミが出され、放置されています。地域の決まりではそういうのはゴミ当番の人が処理をすることになっていますが、なんだか酷い話しだなと思います。それはまあ大したことではないけれど、世の中にはもっとひどいことがあります。もちろん被害者になることもあり得ます。

そのような世のひどさを目にしたときの反応の仕方として、反対運動をしたり、きちんと調べた上で意見を表明する、わりと健全な意思表示をする人がいます。一方であまり調べず、偏った情報を鵜呑みにして誰かをこき下ろし、ただ非難する人もいます。健全とは言えませんが、怒りの表現の一つです。

今日開いているのは、南ユダ王国が滅亡に向かっていく最後の数十年に活躍した預言者ハバククの書です。ハバククもまた世の中の悪や不正、不条理に直面しました。しかしハバククは他の預言者たちのように非難し、さばきを警告し、悔い改めるよう語りかけるために遣わされたのではありませんでした。ハバクク書の最大の特徴は全体を通して嘆きと神への問いかけです。そして最後は神への踊るような賛美で終わります。いったいどんな変化がハバククにあったのでしょうか。

1.王国への憂い

第一にハバクク書は自分の国、南ユダ王国のひどい有様への憂いではじまります。1:1には「宣告」とありますが、ユダ王国を非難する言葉を並べるのではなく、神がこの有様を放って置かれることへの嘆きを祈っているのです。

ハバクク書は短い書物です。1章前半で自分の国、南のユダ王国の堕落ぶりを神が放置していることを嘆き、なぜ放って置かれるのかと訴えます。

それに対して1章中程、5~11節で神はハバククに答えます。神は南王国をそのままにはせ、ずカルデヤ人、つまりバビロン帝国の軍勢によってユダ王国の悪事をさばくと宣告されます。

ハバククの目に映る祖国の姿はハバククの心を刺し貫きました。2~3節には「暴虐」、「不法」、「暴行」、「争い事」、「いさかい」といった言葉が並んでいます。悪事はどんな時代にもありますが、社会の中で暴力が平然とまかり通るようになってしまうと、もう歯止めがかかりません。

法律や常識、理性、良心が機能していれば悪事を働く者がいたとしても、社会全体がブレーキ役を果たせます。しかし、一度、力でものを言わせることができるとなれば、社会は簡単に壊れてしまいます。4節では、そのようにして主の「みおしえ」つまり律法と聖書が麻痺してしまい、まっとうな政治が行われなくなり、力のある悪い者が、正しくても力のない弱い者を圧迫する。しかも公権力がそれを見逃し、助長するという格差社会なんてものではない歪んだ社会が生まれてしまいます。現代社会の姿にも重なりますが、歴史上の大国がだいたいそうやって落ちぶれ、滅びてきました。

しかしハバククが何より心を痛め、神に訴えるのは、祖国のそのような姿を神様が放置しているように思えることでした。

2節でハバククは搾り出すように祈ります。「いつまでですか、主よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。」

ハバククがいくら祈っても神様は「救ってくださない」「苦悩を眺めておられる」のはいったいどういうことですかと訴えます。

確かに、私たちは人生には喜びや楽しみだけでなく、苦しみも悲しみもあることは知っています。それは当たり前のこととして受け止めているつもりです。しかし、辛いのはイエス様を信じているのに、どうして助けてくださらないのか、どうしてこんな酷い目に遭うまで放っておかれたのかということかも知れません。今ウクライナで起こっている戦争や、昨年ミャンマーで起こったクーデターの時にも多くのクリスチャンが祈りました。しかし、戦争はやまず、争いを引き起こしたリーダーたちは今も権力を振るっています。そして罪なき人々がまさに暴虐と暴行によって傷付き、命を奪われています。

信仰に反対したり、軽んじたりする人たちのよくある言い分に「神なんか信じたって何もいいことがない、無駄だ」というものです。しかし、それは時として私たち信仰者、クリスチャンの悩みでもあり、嘆きでもあるのです。なぜ、神はこのようなときに答えてくださらないのか。なぜ、神様はこんな酷い状況を私たちに見させるのか。

預言者ハガイの憂いは私たちの嘆きでもあります。

2.神の裁きへの疑い

第二にハバククの嘆きに答えて神が宣告した裁きについて、ハバククが今度は疑問を投げかけます。

5節から11節はハバククの憂いと嘆きの訴えに神様がお答えになった言葉です。神様はハバククの時代に驚くようなことをすると告げます。それはカルデヤ人、つまりバビロン帝国を用いて神のことばを捨て暴虐に満ちたユダ王国にさばきを下すと宣告なさったのです。つまり、神はハバククの祖国のひどい有様を傍観しているのではない。悪事に対しては必ず報いるとおっしゃっているのです。

紀元前586年にバビロン帝国が強大な兵力をもってイスラルの地を蹂躙し、占領していった様子は神様が語られた通りでした。鷲が獲物に襲いかかり奪いさっていくように、大軍勢があっという間にエルサレムと南ユダ王国を襲い、あっという間に去っていきます。その時彼らはユダの人々を捕囚として連れ去っていくのです。

ところが、神がバビロンを用いてユダ王国を裁くと聞いたハバククは「神がようやく正義を行ってくださる」と納得したのではなく「え?バビロンですか?」と驚き、疑問をいだきます。ハバククの疑問が1:12から2:1まで記されています。

「バビロンって、ユダ王国よりもっと酷い国じゃないですか、なぜ、そんな悪名高き帝国を用いて裁きをなさるのですか。それで神の正義が成り立つのですか」と疑問を抱きいらだちを見せます。

13節にはそのハバククの戸惑いと、いらだちが現れています。

「あなたの目は、悪を見るにはあまりにきよくて、苦悩を見つめることができないのでしょう。なぜ、裏切り者を眺めて、黙っておられるのですか。悪しき者が自分より正しい者を吞み込もうとしているときに。」

神様は正しすぎて、悪を正すのにもっと悪い悪を用いるのですかと疑問を投げかけているのです。祖国ユダ王国が自らの罪と悪が正されるのは良いとして、選りに選ってそのために用いられるのがさらに悪いバビロン帝国というのはどういうことですか!

それで2:1でハバククは物見やぐらに立って、自分の訴えに神がどう答えるか、何を語られるかしっかりと見張ろうと構えます。

ハバククの嘆きも、神がなさろうとすることへの驚きといらだち、あるいは疑いも分かります。ハバククの願いは神の御名が掲げられた祖国において平然となされる悪事の数々、暴力をふるう者たちへのさばきであって、国が滅びることではなかったはずです。悪が放置されることへの嘆きなのです。

それは私たちも共感できることではないでしょうか。政治家の汚職や疑惑、経済格差、人種や民族の差別、弱い立場の人たちへの配慮・支援の足りなさ、働いても豊かになれない社会、いろいろとおかしいと思うことはあります。まことの神を畏れる心も敬う気持ちもありません。悪事を働いて権力や金を手にして大手を振っている人を見れば、どうしてこんなことがまかり通るのかと思い、この国はおかしいと感じます。

それでもこんな国滅びてしまえばいいとは思いません。神様がこの国の悪事を正すためといって、どこかのもっと酷い国を用いたら、いやいやそういうことを願ったわけじゃない。そんなことをしたら神様の正義はどうなるのかと感じます。

3.必ず訪れる救い

第三に、主はハバククに真の正義の回復と救いが必ず訪れることを約束されました。

2:2~4はハバククの戸惑いと疑いに対する主の答えです。

2節の「板の上に書き記して、確認せよ。これを読む者が急使として走るために」というのはおそらく当時の伝令、王宮からの重要なメッセージを各地に知らせるためのしくみを喩えとして用いているのでしょう。昔の粘土板や木簡と呼ばれる記録用の板が時々発掘され、当時の様子が現代に伝わることがあります。それらは間違いなく記録され、正しく伝えられるためです。

主がハバククの戸惑い、いらだちに答えた内容には二つの大切なポイントが含まれています。

まず、定めの時があり、その時は思ったより遅くなるが必ず訪れるということです。「ほんとはいつになるか分からない」「実は何の計画もない」ということではなく、神様にはちゃんと計画があり、その時に向かっているとうことです。あなたに必要なのは、遅いと感じても、いらだちを抑えてその時を待つことだと主は言われます。そして預言者としては、その定めの時が来ることを語らなければなりません。

もう一つのポイントは、その定めの時にはハバククがおかしいんじゃないかと感じたような戸惑いや苛立ちが解消されるということです。バビロンのようにうぬぼれて暴虐な者、天地の創造者の前にへりくだることをしようとしないすべての悪が正され、信仰によって生きる人には生きる道があるということです。

この二つの視点は、今まさに直面している祖国の酷い有様やもっと悪いバビロンを用いてさばきを行うことへの不満や疑問をただちに解消するものではありませんでした。世界はなおも矛盾しており不条理です。それでもいらいらするのではなく、神の定めの時を信じ待って、あなたのすべきことをしなさいと主は言われるのです。

ハバククは、神様が続けてお見せになった幻を言われたとおりに記録していきます。それが2:5から2章の終わりまで続きます。その幻の中で彼が見たことは、バビロンのようなうぬぼれた者たちの終わりでした。それは5節で酔っ払った兵士に喩えられるようなものです。良い気分にさせるけれども足元をふらつかせるぶどう酒のようで、力ある勇士は自分の強さに気分を良くし高慢になっているけれども、その足は定まることがありません。

自分たちの分を超えて他国を侵略し、地境を広げようとし、不正な利得を貪り、罪のない者の地を流して自分たちの都を築く、そんなバビロンに対して、主の右の手の怒りに満ちた杯が注がれます。その時、彼らが行った暴虐がそのまま彼らに返されます。

18~19節はそのようなときに木や石で造られた偶像に助けを求めますが、もの言わぬ偽りの神々は何の助けにもならないと、自分で作った神々に助けを求める愚かしさが告げられます。現代なら神々ではなく、核兵器や最新鋭の防衛システムかも知れません。

それに対して20節で「しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前に静まれ。」と、主なる神様の揺るぎなさと、聖さの前に全世界に静まるようにと呼びかけます。世界中の国々、人々が自分の利益、自分の権利、自分の正義を主張して大騒ぎしていますが、生きておられる神の前で静まるべき時が来るのです。

適用 希望の祈りへ

さて、ハバクク書の最後、3章は再びハバククの祈りで終わります。希望の祈りです。

この祈りは最初の嘆きや苛立ちの祈りではなく主のみわざに対する畏敬の念と、そのみわざによって与えられる回復のゆえの感謝と賛美に変えられています。

もしハバククがあくまでも、イスラエルよるも邪悪なバビロンによって祖国が滅ぼされるのは、いかに祖国の罪に対する報いだとしても納得できない、という立場を取るなら、決して彼の心には感謝も賛美も生まれず、希望を持つ事は出来ませんでした。

ハバククにはすべてのことが理解できず、なぜ、今このとき主ご自身の手で正義を行わないのか、なぜこの世の矛盾を我慢しなければならないのか分からないとしても、「主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の前に静まれ。」という言葉が自分にも向けられていることを理解したのだと思います。だからこそ彼は神に問うことよりも、神が語ることに耳を傾けたのです。そうしなかったら、彼もまたバビロンと同じように、思い上がった者になってしまったことでしょう。

しかし、自分がついさっきまで不満を述べ、いらだちを示していた神様が聖なる方、揺るぎなく全地を治める方であることを思い出したハバククは、主への畏敬の念を新たにしました。

そして、主が語られた正義を実現してくださいと祈るのです。神様がこの世界に聖さと力を持って来られるなら、神にさからい、傲慢で思い上がった者たちは縮み上がり、それぞれの暴虐と罪の報いを受けることになります。しかし、待ち望む者には救いが与えられます。バビロンによるイスラエルへの裁きが現実のものとなっても、神様が約束された、すべての正義を回復する定めの時を静かに待つと心に決め、祈ります。

ですから17~19節、祈りの結びのところで、たとえその裁きによって豊かな実りが失われ、家畜がいなくなったとしても、「私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主は、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所歩ませる。」と賛美と誇らしさに満ちた祈りを捧げることができました。

ハバククの憂い、神様はこの状況を見て何もしてくれないのかという嘆き、神様がなさることが時として悪を正すのにもっと酷い悪を用いているのではないかと思えるような苛立ち、そうしたことに現代の私たちも共感できる。少なくとも理解できるなら、神様のことばによって憂いと苛立ちから賛美と希望へと祈りが変えられたように、私たちの心も祈りも、希望の祈りが出て来るようにさせていただきたいと思います。

私たちの心の中に様々と起こってくる嘆き、疑い、いらだちなどがあるかもしれませんが、「主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前に静まれ。」という呼びかけに応えて、それらをひとまず脇において、静まりましょう。静まるためには、いらいらを引き起こすテレビやネットから入ってくるニュースや情報からしばらく遠ざかること、イエス様がなさったように人混みや多くの人の要求から距離を置いて一人になること、そして神様のみことばにちゃんと聞こうと心を整えることが大事です。

神様は「遅くなっても、それを待て」と言われました。神様の定めの時が来るのを待つだけでなく、そのご計画が私の希望となるまで心を静めて待つことも必要です。そのようにして、私たちの心の思いと祈りとが、嘆きや苛立ちから希望に変わるとき、喜びが取り戻されます。

祈り

「天の父なる神様。

今日はハバクク書にあなたのみことばを聞きました。

私たちの生きている今のこの世界も、ハバククの時代同様に、悪しきことに溢れ、神様がそれを野放しにしているようにさえ思えることがあります。

またたとえ一つの問題が解決したかのように見えても、事態はもっと悪くなっているというような矛盾はこの世界ではありふれています。しかし、神様はすべての悪を正し、待ち望む者を救ってくださる定めの時を備えておられます。静まって待つようにとおっしゃっておられますから、どうぞ私たちも心を静め、待つことを教えてください。それが私たちの望みとなり、この悪に溢れた世界でも喜びを絶やさずにいられる信仰を与えてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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