2022-05-15 神の正義と愛が織りなす希望

2022年 5月 15日 礼拝 聖書:ゼパニヤ3:9-20

 「そこに愛はあるのか」という台詞が耳につくある企業のコマーシャルがあって、好きではないのですが、すっかり覚えてしまいました。利率の高いキャッシングの会社に本当に愛があるとは思えないのですが、意味深な問いではあります。というのも旧約の預言者達が神の正義や裁きを語る時、そこに恐れや厳しさを感じこそしますが、神様の愛をありありと感じられるかというと、それはなかなか難しいと私個人は思っています。

旧約聖書を一書ずつとりあげるシリーズも終盤になり小預言書が続いています。一つ一つの書物はそれほど長くありませんが、今これらの預言書を読むと、預言者の時代の光景と連日ニュースで見聞きする戦争の情景とが重なってしまい、とても重苦しい気分になります。都合良く正義を振りかざす人たちの愛のない振る舞いに恐ろしさを覚えます。侵略され、家や土地を奪われた人たちのために兵士たちが戦い、反撃し、一部取り戻したなんてニュースに拍手喝采する人もいます。もちろん、奪われたものを取り戻す権利はあるでしょうが、そこにはやはり暴力でしか取り戻せない現実があり、実際の戦場はニュースの映像や写真で見るよりずっと残酷なはずです。そこにどんな神の愛があるのだろうかとも思います。

今日は南ユダ王国が滅びに向かっていく最後の数十年に活躍したゼパニヤの預言から神の正義と愛について思い巡らします。

1.残された者たち

第一に、神の正義はイスラエルに厳しい裁きをもたらしますが、その中でも残される者たちがいると告げられました。

この書は1:1にあるように、ヨシヤ王の時代に活躍した預言者ゼパニヤに語られた主のことばと応答の詩をまとめたものです。

ゼパニヤについては短い系図がついていて、なんと南ユダ王国第14代の王ヒゼキヤの子孫であること、王家の血筋を引く者であることが記されています。ヨシヤ王にとっては遠い親戚です。

ヒゼキヤ王は、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされるのを目の当たりした王でした。そのアッシリヤ軍にエルサレムを包囲されるという危機に直面しますが、主に拠り頼んで危機を脱したという経験をしたのです。ヒゼキヤもそうですが、ゼパニヤにいたる先祖たちの名前にはすべて「ヤ」がついています。これは神の名である「ヤハウェ」の短縮形で、名前にこの文字が入っているということは、王位を継ぐことのなかったヒゼキヤ王の子孫たちが、より大切な神への信仰は受け継いでいたと見ることもできます。

しかしゼパニヤの時代、南ユダ王国は最悪な王の一人で、わずか2年で謀殺されてしまうアモン王の影を引きずった時代でした。アモンに変わって王となったヨシヤは失われた礼拝を取り戻し、国中から偶像を取り除きました。いわゆる宗教改革を断行したのです。あちこち壊れ、朽ちかけていた神殿を修復し、久しく行われていなかった過越の祭を再開するのです。

ところがゼパニヤ書の出だしは非常に厳しいものでした。1:2「わたしは必ず、すべてのものを 大地の面から取り除く。―主のことば―」。続く2節は神様の裁きが世界全体にまでおよび、まるで神様がお造りになったすべてのものがきれいさっぱり取り除かれるかのような内容です。そして人間については特に「断ち切る」という強い言い方が用いられています。エルサレムと南ユダ王国が徹底的に滅ぼされることを告げているのです。

ヨシヤ王の努力によって王国は一見良くなったように見えましたが、偶像礼拝は根強く人々の心と生活を捕らえていました。

4節に「バアルの残り」という言葉が出てきます。徹底した宗教改革が行われたはずですが、バアル礼拝の影響は根深く、人々の心から取り除くことはできなかったのです。実際、ヨシヤ王が死んで次の代になるとすぐにバアル礼拝は復活しました。

ですからゼパニヤは他の預言者たちも告げていたように「主の日は近い」「さばきの日は近い」と警告し続けるのです。

しかし、そういう厳しさの中にあっても別の「残された者たち」がいます。2:1「ともに集まれ、集まれ。恥知らずの国民よ。」とずいぶんな言われようですが、しかしこの呼びかけに応じて集まる人々こそが「残された者たち」です。

残りの者たちとは、堕落し滅びていくイスラエルの中で、ずっと信仰と聖い生活を守り続けた人たちということではありません。ひょっとしたら周りの人たちと変わらないくらい、偶像礼拝や罪と暴力にはまっていたかもしれません。しかし「恥知らずの国民よ」「あなたは神の前に罪人だ」と指摘され、呼びかけに応じてへりくだり、悔い改め、主を求めるようになる人々が「残された者たち」と呼ばれるのです。どれほど堕落し、罪深くなっても帰って来いと呼びかける神の愛に応答する者を神は見捨てないのです。

2.燃える火

第二に、神様の正義は燃える火となってすべての悪に向かって燃え広がりますが、その燃える火は同時に、残された者たちにとっては希望となります。

神様の怒りは罪深いイスラエルだけでなく、イスラエルへの裁きとして用いられたバビロンにも、その他どんな時代でも起こってくるすべての暴虐で高慢な国々に向けられます。

2:4以降はその燃える火が傲慢な国々を舐め尽くした後で、そこに平和がもたらされるという内容が繰り返されています。

4節から11節には、ペリシテ、モアブ、アンモンといった長年イスラエルと敵対して来た周辺国の名前が出てきます。彼らの罪が何であったかあまり具体的に書かれていませんが、8節には主が「そしり」や「ののしり」を聞き、彼らの高ぶりをご覧になったことが記されています。興味深いポイントは、イスラエルの周辺諸国が主ご自身をののしり、そしったことではなく、主がご自分の民、ご自分の国とされた人々をののしったことをご自分へのそしりと受け取っていることです。私たちもいろいろ問題があったとしても他人から子どもや家族を侮辱されたら悲しくもなるし、腹も立ちます。まるで自分を否定されたかのように傷付きます。イスラエルの国も民も、まっとうな預言者たちの目には酷い有様で、誰からののしられても仕方がないような状態でした。それでも彼らをご自分の民としておられる主は、主の民への侮辱をご自身への侮辱とみなされるのです。そこに神様の変わらない愛が見てとれます。

だからといって、罪深いイスラエルの民が何もなかったように助かるということではなく、彼らにも報いはもたらされるのです。ですから、ここで言われている救いと回復は、先ほど触れた残りの者たち。神の前にへりくだって悔い改める者たちに与えられます。

2:12~15は神様の燃える火がイスラエルから遠く離れたクシュ、アッシリアといった国々にも向かいます。神様の義は、神と神の民の間だけの問題ではなく、神と神が造られたすべての世界の問題なのです。

そして3章では神の怒りの燃える火がいよいよ王国の都エルサレムに向けられます。彼らの罪に対する非難はよりはっきりと、強い口調で告げられます。神の呼びかけにも応えず、主に近づこうともしない。政治的な指導者も、行政を行う者たちも、預言者や祭司たちでさえも己の欲のままに生きて聖書をないがしろにしています。

6節には神の燃える火によってエルサレムと王国に訪れる運命の厳しさが描かれています。しかし、それでもまだ7節に希望が残されています。イスラエルの民がどれほど神に背き、繰り返し繰り返し悪事を行ったとしても、もう一度主を恐れ、みことばを受け入れるなら、たとえエルサレムへの怒り裁きが激しくても、完全には断ち切られないのです。

この回復の希望は70年後の捕囚からの帰還だけを指しているのではありません。現代の私たちも目の当たりにしている傲慢な国々が起こっては滅びる歴史の繰り返しは永遠には続きません。主が最終的なさばきと回復の時を用意しておられるのです。今の世界は本当にどうなっていくか分かりません。矛盾と不条理、不公正がまかり通るような世界です。しかし、主に拠り頼む私たちには常に希望が残されていると聖書は力強く語りかけます。

3.回復は主の喜び

第三に今日司会者に読んでいただいた箇所から回復の希望を見ていきましょう。

8節には主の燃える火が全地を焼き尽くすと告げられています。その時、まるで火によって金が精錬されるように、「諸国の民の唇を変えて清くする。」と言われています。しかもそれはイスラエルの「残りの者」だけでなく、あらゆる国々から主を呼び求め、仕える人々が集められ、彼らの唇が聖められるのです。

また、かつて行ったすべての罪、神様への背きにために彼らが再び裁かれることはなく、そのことで恥じることもありません。彼らの中から罪は取り除かれ、不正も偽りもなく、その暮らしには平和が満ちています。主ご自身が王となって、もう何を恐れることもありません。そうした救いと回復の約束中に、私たちも諸国から集められる者の一人として、すでに入れられています。イエス様を信じた人々は、どの国の人であれ、どんな時代であれ、そしてどれほど罪深かったとしても、神様に背を向けることがあったとしても、聖められ、14節にあるように、心の底から喜び歌う者とされるのです。

ゼパニヤが描いている未来の回復のビジョンは、他の預言者たちが告げたものと共通していますが、際立っている点があります。この回復を神様ご自身が心から喜んでいるということです。

16節と17節「その日、エルサレムは次のように言われる。『シオンよ、恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる』と。」

天国の情景を描いた預言はいくつもあります。その中には、御国に迎え入れられた民が主を賛美して歌う場面がよく出てきます。しかしゼパニヤは、むしろ主ご自身が高らかに歌って、私たちのことを喜んでくださると言うのです。

たとえば黙示録にはこんな描写があります。天国には透きとおる水晶に似たガラスの海のような場所に堂々と据えられた御座があります。御座についておられる神の栄光が輝いています。そんな荘厳な光景の中で、あらゆる国々、民族から集められた白い衣をまとった人々が、栄光の神とキリストに向かって「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」と大声で叫び、天使たちが「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。」と賛美しています。

ただただ神様の栄光が讃えられ、賛美されるのです。しかしゼパニヤは、天国が荘厳で栄光に輝くだけでない温かさがあることを思い出させてくれます。神様も私たちの存在を喜び、その愛ゆえに私たちに平安を与え、私たちのために歌って喜ぶというのです。それは神様もまたその回復の時をどれほど待ち望み、忍耐し、ようやく成し遂げたかという感動と喜びを表しているようです。

この希望があり、神様の愛があるのだから、この世界にあっては、様々な困難あがり、心痛むことがあったり、自分自身のふがいなさや弱さに嘆いたり、気力を失ったり、恐れたりすることがあっても、もう恐れることはなく、気力を失うこともないのだと聖書は私たちに語りかけています。

適用:悲しむ者たちへの慰め

人は正義を求めますが、他方で正義をうとましく感じます。それは人間のうちにある罪の性質から来ています。正義が声高に叫ばれるとき、愛は忘れられてしまうようです。しかも人間は絶対的な正義を持っていませんので、立場によって正義が違います。

例えば今ヨーロッパで起こっている戦争でも、仕掛けた側にはそれなりの正義があります。たとえそれが嘘や誤魔化しに飾られたものだとしても、彼らの正義を通すために武力に訴えたわけです。対する側には自分たちの命と財産、国土を守り奪還することを正義と考えるでしょう。そのために武力を用いることは正当なことだと主張するはずです。

どちらがホンモノの正義かという話しは答えのない議論です。議論で解決できないから戦争になったわけです。どちらの言い分のほうが、より筋が通っていると判断するくらいしか私たちには出来ません。けれど、それもまた見る者の視点によってずいぶん答えが変わって来ます。

あらゆる争いには正義を求める思い、自分のほうが正しいという思いが土台としてあり、そこに自己中心な欲が絡みついています。ですから正義を振りかざす者同士の争いほど醜く残酷なものになりがちです。正義が叫ばれるとき、愛はうち捨てられ、何なら邪魔なものとされます。優しさ、赦し、思いやり、寛容さは正義と相容れないもののようになってしまいます。

それは戦争や争いだけではありません。学校や会社、社会の秩序や伝統を守るという一種の正義感のために、なじめない人や弱さのある人たちがまるで邪魔者のように扱われたり、ああいう人たちはしょうがないなんだと打ち捨てられることがあります。それは残念ながら教会の中でも起こり得ることです。

そういうのを私たちは日常的に体験し、歴史からも学んでいますから、同じような感覚で神様の正義についても考えてしまいがちです。神様に正義を求めつつ、神様が正義を回復するためにさばきを行うと、それは酷すぎないか、厳しすぎないかと文句を言うのです。しかし神様は人の気持ちや事情を無視して正義を振りかざし、容赦なく裁きをくだすのではありません。神様の正義の底には愛があります。イスラエルが何度背を向け、厳しい裁きがくだることになっても見捨てはしなかったように、つねに愛故に救いと回復の道を備えてくださいます。

最後に18~20節を味わって終わりましょう。

神様は悲しむ者たちを集め、彼らを苦しめていた者たち罰し、弱っていた者を救い、恥を栄誉に変えます。何度も、連れ帰る、集める、元通りにする、栄誉を与えると繰り返してゼパニヤ書は閉じられます。

今日、私たちを悲しめ、苦しめるのは誰か信仰ゆえに非難する人や迫害する人ではないかもしれません。病気や災害のように、誰を責めることもできないもが私たちを苦しめることもあるでしょう。そのようなものであっても、やがて神様はそのすべてを正義ゆえに取り除き、そして愛ゆえに私たちを回復させてくださいます。悲しみや痛みの中で、こんな姿でクリスチャンとして恥ずかしいという思いさえも取り除き、回復してくださいます。神様は私たちが辛い思いをしたり恥じていることを責めたりはなさらず、いやし、栄誉を与えてくださいます。この希望をもって、この不完全な世界で悲しみを抱きながら、やがて喜び歌える日、神様が私の存在を喜んで歌ってくださる日を待ち望んで歩みましょう。その信仰が悩み多いこの世の歩みの中にも新しい歌を歌わせてくれるに違いありません。

祈り

「天の父なる神様。

今日はゼパニヤ書を通して、神様の正義の奥底にある私たちへの深く変わらない、そして忍耐強い愛を覚えさせてくださり、ありがとうございます。

いつの日か、私たちが天の御国に集められ、故郷に帰るように帰った時、私たちはあなたの救いと恵み深さを心から喜び歌います。その時、あなたも私たちを喜んでくださり、ついに約束した平安と回復をもたらせたことを喜び歌ってくださいます。

その日を待ち望みながら、信仰を持ってこの地上の歩む私たちをどうぞ守り支えてください。悩み多い私たちを強め、希望を持ち続けさせてください。そして今日を生き抜く力を与えてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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