2022-05-22 よく考えてみよ

2022年 5月 22日 礼拝 聖書:ハガイ1:1-14

 私たちの教会は来年70周年を迎えます。70年というのはかなり長い年月です。今私たちの教会に70年前当時の教会の様子を知っている方はもういなくなってしまいました。数年前に来られたポールさんでもわずか2、3歳。実は、来年お姉さんのほうも北上を訪ねてみたいという願いがあるのだそうですが、それでも5歳くらいだったでしょうか。

しかし幸いなことに、70年前に神様が始めてくださった働きは今も続いています。戦争が終わってまだ数年という時期に、北上市ではなく黒沢尻町だった時代に宣教が始まり、今にいたるまで、日本の社会は大きく変わりました。

そういう年月が、イスラエルも国を失い捕囚となってから経過していました。新しい時代になったイスラエルの民と、当時の指導者であった総督ゼルバベル、大祭司ヨシュアとに神のことばを伝えるために預言者ハガイは立てられました。

いちど滅びた古いイスラエル、エルサレムに変わって新しいエルサレムが起こされると預言者たちが告げた神のご計画がいよいよ実現すると期待された時代です。その時、人々はどのように過ごしていたのでしょうか。そしてハガイを通して語られたことは現代の私たちにどんな意味があるでしょうか。

1.再建の時代

第一にハガイ書はイスラエル再建の時代に告げられた主のことばです。しかし実はあまり上手くいっていませんでした。

震災から11年経って、被災地の多くは道路も土地も整備されましたが、なかなか人が戻って来なくて、せっかく整備した住宅地も空き地が多いと聞きます。

11年という年月は個人的にも社会的にも大きくな変化をもたらします。ピカピカの一年生だった子どもたちは高校生です。20代だった青年たちは結婚して学校に通うほどの子どもがいるかもしれません。50代の働き盛りだった人も、還暦を過ぎ、からだのあちこちに不調を覚えることがあります。避難先で始まった新しい生活は、一時的なものから日常に変わり、新しい人間関係が作られ、友だちもできます。故郷を離れた所に家を建てたかも知れません。それは誰のせいでもなく当たり前の変化です。土地の整備が済んだので帰って来てくださいと言われても、難しいと感じる人がいるのは当然です。帰って来ても前と同じというわけにはいきません。

イスラエルの民は捕囚から70年が経ちました。それは11年どろこではない年月です。

エルサレムを滅ぼしたバビロン帝国は紀元前539年にペルシャによって滅ぼされ、新たにキュロス王によるペルシャ帝国がユダヤの民を支配しました。

キュロス王はそれまでのバビロンの政策をひっくり返し、各民族を自分たちが元々いた土地に帰還させる政策を採りました。無理やり民族を融合させるのではなく、各民族に自治を与えつつ、それぞれの神々にペルシャと王の繁栄を祈るよう通達を出したのです。エズラ記1:1~4を開いてみましょう。

これによってユダヤの民もエルサレムに帰還を果たすことができました。帰還したユダヤの民にペルシャ王キュロスが与えた勅令はエルサレム神殿を再建することです。もちろんこれはまことの神様によることで、預言者エレミヤによって預言されたことが実現されたということでした。

ところがハガイ書に戻ってみると、ユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアに告げられた主のことばには残念な響きがあります。「この民は「時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は』と言っている」というのです。何があったのでしょうか。エズラの記述からは「いよいよ主の約束された時が来た」という興奮さえ感じられるのですが、せっかくはじまった工事は基礎が据えられた後、二年間ストップしたままになっていました。

70年という時の流れは、神の約束を語り告げ、待ち望む時でしたが、同時に人々はそれぞれ自分の人生を持ち、世代交代しながら自分たちの暮らしのほうが大事になっていました。彼らはせっかくエルサレムに戻って来たのに、自分たちの家を立派に立て、豊かな生活を再建することには一生懸命になりましたが、神殿再建のほうには心を向けなくなっていたのです。

ハガイは、彼らが優先順位を間違えていると非難しています。あなたがたがエルサレムに帰されたのは再び主を礼拝する場所を再建するためじゃないか。良い家に住むことや豊かな生活が悪いとは言わない。けれど、そっちがメインになって、本来すべきだったことがおろそかになっているではないかとハガイは非難しました。

2.うち捨てられた神殿

第二に、その結果、エルサレム神殿の基礎は据えられたものの、廃墟のままうち捨てられてしまいました。

4節「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか」と、主は民に問いかけます。

人々は自分たちの生活を変えられずにいました。板張りの家というのはまあまあの豊かさがあったということを表してします。しかし彼らが自分たちの生活に満足出来ていたかというとそうではありませんでした。

多くを蒔いても期待したほどの収穫が得られず、お酒も服もお金も彼らの心を満たしてはくれませんでした。いつも何かが足りないような気がする。何かが欠けている。これが本物の豊かさや喜びではないような気がするのに、失うのが怖くて手放すことができない。そんな矛盾した心を抱えて生きていました。

そんなイスラエルの民に対して主は「あなたがたの歩みをよく考えよ。」と、5節と7節でも繰り返し呼びかけます。人々がこの世にあって期待したほどの祝福を得ていないのはなぜか。わずかばかり手に入れたものを失うまいと必死に握りしめ、ますます頑なになり、さらに祝福を逃しているのはなぜか。それは彼らが、はっきりなすべきこととして示されていた神殿の再建を放置し、自分たちの暮らし向きにばかり関心を向けていたからでした。

神様は私たちの暮らし向きがどうなってもいいとか、そんなことを気にするなとか言っているのではありません。ものごとには優先順位があり、それをひっくり返すと約束された結果は得られないということです。

ここにハガイ書が教えてくれる大事な原則があります。

神様はご自分の民を恵みによって一方的に選び、祝福を約束してくださいました。それは永遠に変わらない約束です。しかしながら、神の民がこの世界で生きている間に、その祝福を十分に味わうことが出来るのは決して自動的なことではありません。神の前にへりくだり、みことばの教えに応答し、行動するかどうかが大きく影響するということです。

イエス様は別な言い方でこう教えました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

だから、ハガイを通して主は「あなたがたの歩みをよく考えて見よ」と言われます。不幸の原因がいつでも私たちの不信仰や不従順にあるわけではありません。信仰の歩みには試練も伴うからです。

しかし苦難の中でなおも心を満たすものがあるなら、そこには信仰を通して与えられている祝福があります。不運なことであれ、ラッキーなことであれ、心を満たすものがなく、何かが欠けていると感じるなら、私たちは自分の歩みをよく考えてみる必要があります。私たちには神殿再建の命令は与えられていませんが、御霊の宮とされた私たち自身の体と生活をふさわしく建て上げなさいと命じられています。それは私たちの神殿再建です。これをおろそかにし、廃墟にしたままで他の何かに満足を求めようとしても、そこにはいつも満たされない欠けがあるのです。

12~15節を見るとハガイの預言を聞いた人々はもう一度立ちあがり神殿再建に取りかかったことが分かります。

3.目の前のことに落胆せず

第三に、目の前の結果に落胆せず、神が成し遂げてくださる救いとすべてが報われる日を待ち望むよう励ましています。

2章の預言は人々がハガイの告げた主のことばに奮い立って神殿再建工事を再開してからおよそ一ヶ月後に与えられました。新しい神殿が少しずつ姿を現しはじめたタイミングです。

主はこう切り出しました。3節『あなたがたの中で、かつての栄光に輝くこの宮を見たことがある、生き残りの者はだれか。あなたがたは今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。』

70年前に破壊された神殿のもとの姿を知っている人々がいくらか生き残っていました。彼らの目には再建され始めた神殿が前のものに比べてあまりに小さいことに落胆しました。

実はこの落胆、二年間の工事中断前にもあったのです。エズラ3:12~13には、神殿の礎が据えられたことを祝った時の様子が描かれています。大声で喜びの声を挙げている若い人たちと対照的に、あまりの落胆に大声で泣いている老人たちがいました。その落胆は神殿再建工事が再開されてもまだ続いていたのです。

これはよく聞く話し、経験することです。神殿再建に限らず、神様のことばに従ってやり始めたけれど、思っていた結果とは違うことに落胆することがあります。同じ神殿建設という事業であっても、ダビデが十分に資材も人材も準備していたソロモンの時代と、やっと捕囚から解放されたハガイの時代では人材も経済力も異なります。大事なことは神殿の立派さではなく、主への信仰と礼拝が誠実に行われることなはずです。しかし人は上辺を見るものです。

主の働きは、それぞれの時代の人々を通して行われますから目の前に出来上がるものには当然の違いがあります。昔の誰々がやったような華々しい成果や、信仰の先輩たちが見せた力強い勝利を思い描いても、ぜんぜんそうならなかったなんてことは普通にあります。しかし、神様は目の前の結果に落胆することはないと言われます。2:4「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。…大祭司ヨシュアと、強くあれ。…すべての民よ、強くあれ。…仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。」

神様の約束は変わりません。6節にあるように、神様がもう一度すべてを揺り動かして新しくする日が必ずやって来ます。そのとき、今はみすぼらしく見える神殿であっても主の栄光が満ち、平和がもたらされます。私たちの信仰の成長であれ、伝道の働きであれ、世の中に貢献することや、あるいは会堂建築のような事業であれ、何でも同じです。今私たちに出来ることは、かつての偉大な働きと違うのは当然です。それを越えなければならないということもありません。主に従った結果が期待外れに見えたとしても、やがてそれは来るべき日に祝福と平和に満ちたものとされます。

だから、私たちは過去のすばらしいケースや、自分が思い描いていた理想と比べることなんかしないで、今神様がするようにと任せてくださったものを、私たちのできるやり方で、私たちの持っているものを捧げて行えば良いのです。そうすれば、神様はこの世にあって、今私たちを通してみわざを行い、祝福をもたらしてくださいます。私たちの心にあった欠け、満たされなかった心を、私たちの想像を越えて豊かにあふれさせてくださいます。

適用:私たちの選択

最後にハガイ書はちょっと変わった問答で終わります。神殿再建の工事再開から3ヶ月後のことです。主はハガイに祭司たちに律法について質問しなさいと言われました。

ハガイが祭司たちに尋ねたのはレビ記に記されている汚れと聖さに関する規定のことでした。

まず12節は、聖なるものを運ぶために服の裾でくるんだり、その途中で何かに触れた場合、聖さは触れたものに移るかと問います。答えはノーです。聖なるものが触れたからといって自動的に何でも聖くなるわけではありません。

一方、13節の質問は、汚れたものが何かに触れたら汚れるかという質問でした。答えはイエス、汚れます。死の汚れは、触れたものにうつり、触れたものすべてを汚すと見なされました。

もちろん祭司たちは専門家ですから、これらの律法には精通しています。ハガイの質問に迷うことなくスラスラと答えました。

しかし、ハガイが質問したのは彼らの律法の知識を試すためではありません。聖さと汚れについての律法は原則を示しているに過ぎません。本当の問題は、せっかく神殿を再建してもこの民はなおも汚れたままになっているのではないかということです。

神殿を再建したからといって自動的に民が聖くなるわけではありません。15節、18節で再び「よく考えよ」と呼びかけます。工事が再開される前にイスラエルの間にはびこっていた不正や主への無関心がそのままになっているのではないかと問いかけているのです。神殿再建はもちろん大事なことだし、彼らがすべきこととして主が与えた務めではあります。しかし形だけ信仰者らしく振る舞っても祝福はありません。本物の悔い改めとみことばに対する誠実さこそが主の真に求めていることではないかと問いかけているのです。それこそが神様の約束された祝福をもたらすものです。

同じ日に神様はハガイにもう一度、やがて訪れる救いの完成の日の約束をお示しにになって預言は閉じられます。

ハガイ書が私たちに語りかける重要なメッセージは、「自分の生き方とみことばに対する態度をよく考えてみなさい」ということです。優先順位は間違っていないか?形だけ、表向きだけの信仰の歩みになっていないか?悔い改めるべきことを放置していないか?なすべきことをほったらかしにしていないか?祝福が感じられないなら、心が満たされていないなら、何かと比べたり、落胆する前に、自分自身に問いかけてみるべきではないかと語りかけます。

先週、同盟総会とチームワークミーティングがあり、他の教会の先生方とよい交わりを持つことができました。以前はこういう集まりに行くと、他の教会の話しを聞いて妬んだり、うらやんだり、優越感に浸ったりと、あまり健全な心の状態ではなくなっていました。そして、形だけもちゃんとやっているように見せようとか、神様が本当に願っておられることは何か心の奥深くまで覗くこともないまま、やったほうが良さそうなことを次々とやっては失敗し、心も満たされない、そんな時が長く続いたことを思い返します。

今でも、もちろん再建された神殿を見て落胆した人たちのように、やったこと、その結果が思うようではなくがっかりすることはあります。そうだとしても、今は自分の中で、少しずつでも神様に近づき、主の日の希望へと心を向けられるようになったことを感謝するのです。

今でも聖書は私たちに「あなたがたの歩みをよく考えよ」と語りかけています。自分の生き方、心のありよう、優先順位、聖書のことばに対する態度、それらを見つめ、よく考えてみましょう。神様は今日私たちに何を語ってくださるでしょうか。

祈り

「天の父なる神様。

今日は私たちに、自分たちの歩みをよく考えよと語りかけてくださり、ありがとうございます。

心に満足がないとき、現実が理想と異なる時、私たちは自分を見つめる前に神様に文句を言ったり、疑ったり、失望してしまいがちです。けれどもハガイ書を通して、あなたのみわざが私たちの信仰、私たちのみことばへの応答を通してなされることを教えてくださいました。

今一度、私たちがそれぞれ自分の心と生活を見つめ、よく考え、主が何を語っておられるかよく聞き取ることが出来るように助けてください。そして、主の前にへりくだり、みことばに応答して歩めますように励ましてください。そして、いつの日か主が成し遂げてくださる救いの完成と希望を覚えながら、どんな状況にあったとしても、この世にあってあなたが与えてくださる祝福と喜びを味わうことが出来ますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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