2022年 6月 5日 礼拝 聖書:第一ヨハネ3:1-3
以前も話したことがありますが、アフリカの飢餓で苦しむ子どもたちのために、アメリカの著名なアーティストたちが一晩でレコーディングした有名なレコードがあります。当時仙台で下宿生活を送っていた私は、今湯沢で牧会しているK先生とレコードプレーヤーの前に二人で正座してじっくり聞き入ったのを思い出します。
歌詞の中に「私たちは神の大きな家族の一員」「私たちは神の子どもたち」というフレーズが出て来ます。クリスチャンもそうでない人も含めた人類みな兄弟、みな神の家族という意味で言っています。聖書はイエス様を信じた人たちを「神の子ども」と呼びますから、二人で「これはどうなんだろうねえ」と微妙な顔をしまた。
しかし、今はもう少し別の視点でこういう歌詞を味わうことができます。私たち人類は、クリスチャンもそうでない人も、善人も悪人も、みな神のかたちとして造られた者です。そういう意味では、確かに偉大な神の家族の一員と言えなくもありません。ただし、聖書が指摘するもう一つの事実は、罪のために人類のうちにある神のかたちが損なわれ、人々は神のかたちであることを忘れているということです。しかし神様にはそれを回復する計画があります。「主の回復の年」という年間主題にちなんで、今日は神のかたちの回復についてヨハネの手紙から学びます。
1.損なわれた神のかたち
第一に、私たち一人一人のうちにある神のかたちは損なわれ、忘れられていると聖書は教えています。
私たちみなが神の家族の一員であり、神の子どもたちであるのなら、なぜ未だに戦争が絶えず、貧困がはびこり、飢餓で死んでいく子どもたちが絶えないのか。その問いに対する聖書の答えは、人間が神のかたちとして造られた存在であることを忘れ、人のうちにある神のかたちが損なわれしまっている、ということです。
先月、年間主題に基づく月一度のシリーズを始めるにあたって、天の御国の都に「いのちの木」があることを見ました。それは天地創造の時にエデンの園にあったもので、神に造られた世界の完全でいのちあふれる姿の象徴的な木でした。しかしアダムとエバが神のことばに背いて以来、それは失われてしまいました。人は、今も神のかたちとして存在しているのに、損なわれたものとなっています。神や最も親しいはずの人との間にさえ壁ができ、疑い、恐れ、怒り、苦しみ、そして死が付きまとうようになりました。
そのような呪いを人類に招き入れてしまったアダムとエバをそそのかした蛇がいました。その正体はサタンや悪魔として知られています。悪魔がアダムとエバをそそのかすときに言った言葉はこうでした。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、あなたがたが神のようになって善悪を知る者になることを、神は知っているのです。」
悪魔のささやきはまったくの嘘でした。いのちの主である神に背を向け、離れてしまったら、人は死ぬ者になります。むしろ、神との生きた交わりを失っていることを死と呼ぶのです。
善悪の知識の木の実を食べるとき、神のようになると言っていますが、それも嘘です。人はすでに神のかたちとして造られたもの、神のご性質を宿す者だからです。そして善悪を知るようになるというのも、確かに人類は神様ぬきに自分で善悪を判断するようになりましたが、それを正しくすることができないのです。それが現在世界で起こっているあらゆる混乱と破壊の根本にある問題です。
私たちは人間が悪いだけの存在ではないことを知っています。
わずか19歳のウクライナ兵が首都攻防戦で大怪我をし、ロシア軍から逃げ回る間に凍傷にかかった末にロシア軍の捕虜になってしまいました。ロシア軍の外科手術を受けて一命をとりとめますが、両足を失い、両手も右の薬指をのぞいて自由が利かなくなったそうです。解放されるまでロシア軍の病院にいたそうですが、その間に、手術に関わったロシアの衛生兵が真剣な表情で彼のベッドに近づいて来て、「神のご加護を」と言って小さな十字架の首飾りを首にかけてくれたのだそうです。解放された後もロシアへの怒りや捕虜の時の辛い記憶がよみがえって来ますが、なぜか毎日その十字架を首にかけてしまうのだそうです。そして「心が通じた気がする彼には善良に生きて欲しい」願うのです。そんな新聞記事がありました。とても良いエピソードだし、きっとそのロシアの衛生兵にも善良な心があり、若きウクライナ兵にも赦したいという気持ちがあるのでしょう。善良さは確かに残されているのです。しかし、戦争という狂気は間違いなく彼らの人生と心に侵食してもいます。神のかたちに造られた人間には神の良き性質は残されているものの、損なわれ、不完全なものとなってしまっているのです。
2.私たちはすでに神の子
第二に神様はそのような私たちに、もう一度神の子どもとされるために素晴らしい愛を注いでくださいました。
今日の箇所である3:1をあらためて読んでみましょう。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。」
言われていることは明白です。神様が私たちを神の子どもとするために与えてくださった愛は、ひとり子イエス・キリストを与え、そのいのちを私たちの罪を赦すための代価とするほどの愛です。
「神の子とする」というのは養子に迎えるという意味ですが、大事なのはその順番です。神様はまず私たちを愛してくださり、その愛ゆえにイエス様をお与えくださいました。その恵みを信仰によって受け取った私たちは神の子どもとされたのです。神の子どもとしてから愛したのではありません。
何人かの友人、知人がいろいろな理由で子どもを養子として迎え、我が子として育てています。共通していることは、彼らの家にやってきた赤ん坊は、まず愛され受け入れられてから養子になるということです。
日本の特別養子縁組の制度では、養子として迎えたい赤ちゃんがいてもすぐには親子関係になりません。数ヶ月の期間の中で、事情によって我が子を手放した生みのお母さんがやはり自分で育てたいという場合には、そちらが優先されます。そんな事情もあって、法的には里親と里子という関係で親子の生活が始まり、ひょっとしたら養子縁組が成立しないかも知れないという不安を抱きながら子どもを養育していきます。子育てに必要とされる労力と愛情は何も変わりませんから、法的に親子になる前に、親としての愛情を注ぐのです。引き離され、傷付くリスクを承知で愛を注ぎます。そうやって家庭状況を含め幾つかの調査検討の末にようやく裁判所から特別養子縁組が認められ、法的にも親子になっていくのです。
養子にするというのは、法律的な事柄であっても単に書類上親子になりました、というだけのことではありません。同じように、神様が私たちをご自身の子にするというのは、まず私たちへの愛が先にあったのです。
聖書の中で最も有名な聖句の一つ、ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」。原文では「神は愛された、この世を」と記されています。その後で、それは御子を信じる者が滅びずに永遠のいのちを得るためだと続きます。その愛が私たちを子とするための計画と行動を引き起こし、そして新しい契約を結ばせるのです。
それは旧約聖書でも同じです。申命記7:7には神様がエジプトで苦しんでいた民を救い出したのは愛の故だとはっきり記されています。「主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから」と、やはり愛が先行しています。
私たちが教会の門を叩いたり、聖書の言葉や福音そのものに触れる、そのずっと前から神様は私たちを愛していました。神のかたちであることを忘れた私たちを子として取り戻すために神様はすべてを備え、導いてくださったのです。愛しているからです。その愛ゆえに今すでに私たちは神の子どもとされているのです。
3.やがてキリストに似た者へ
第三に、私たちは名実共に神の子どもとなっていきます。私たちがキリストに似た者にされていくことによってです。
ヨハネの手紙に戻りましょう。3:2の「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。」に続いてこうあります。「やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」
私たちはイエス様によって新しく生まれ、神の子どもとされましたが、神のかたちを完全に回復するのは、イエス様が再びおいでになって私たちがキリストに似た者にされる時です。それは未来の約束であり、希望です。でも私たちがこの世にあってどうなっていくかは分かりません。赤ちゃんが生まれたときに、子どもの未来についていろいろ想像したり期待しても本当のところは分かりません。同じようにクリスチャンもどんな歩みを辿り、どんな姿にまで変えられていくか、あらかじめ分かっているわけではありません。
1節の後半にも「世が私たちを知らないのは」と書いてありますが、私たちの周りの人たちはクリスチャンとは一体何者か知りません。だから近くにクリスチャンがいると警戒したり、怪しむことがあります。しかし、クリスチャンである私たち自身も、自分がこれからどうなっていくか。クリスチャンとは何者であるか、完全には分かっていません。だからこそ迷ったり、恐れたりもします。
私たちは神様の子どもとされたあと、すぐに自分の中にいろいろと問題があるということに気づきます。赤ん坊が生まれたとき、その子は完全に人間ですが、成熟するまでには体の成長とともに、様々な生活の技術、知的な成長、人との関わり、感情の豊かさとコントロール、知恵や判断力など様々な成長を遂げるための経験と時間が必要です。特に思春期の頃は自分が何者なのか分からなくなり、苛立ち、何かにつけて反発するという時期がありますが、それも大事な時です。
同じようにイエス様を信じた者は完全に神の子どもとされていますが、神のかたちが完全に回復しているわけではないのです。神の子どもとして生まれた時の状態と、キリストに似た者に完全に変えられる時の間には大きなギャップがあります。そこに私たちが成長し、新しく変えられ続ける喜びとととみ悩みもあるわけです。古い人から新しい人へと変えられるプロセスの長さと大変さは人によって違います。順調にいく時だけでなく、なかなか進まない時もあります。ちょうど赤ちゃんがどんどん成長していくように、信仰をもった直後は新しいことをどんどん吸収するかもしれませんが、ある時期は成長のスピードががくっと落ちます。
私は神学生の時、自分の信仰は本物だろうかと本気で悩み、それは数年間続きました。ただ親からの受け売りで、自分の信仰ではないんじゃないかと恐れたのです。けれどもそういう時を経験することは決して悪いことではありません。ゆっくり回復し、悩みながら取り扱われ、時間をかけて向き合うべき何かが私の中にあるということです。幹や葉っぱを伸ばす時があれば、根を深く降ろすことに費やすべき時もあるのです。
しかし、私たちは最後にはどうなっているか知らされています。私たちはキリストに似た者に変えられるのです。
適用 長い治療とリハビリ
最後に3節を見て終わりにしますが、使徒ヨハネはやがて私たちがキリストに似た者に変えられるという希望を持つ者の歩みがどういう性質のものになるかを示しています。それは長い治療とリハビリの生活のように、本来の神のかたちが回復されるのを目指す、息の長い歩みです。
「キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」
続く4節から18節を見ていくと、自分を清くするということの意味が分かります。罪から離れ、正しいことを行い、互いに愛し合う者になるということです。
使徒ヨハネの書き方には特徴があり、分かりにくい文章なのですが、ヨハネが言いたいのは、キリストはこの罪を赦すだけでなく取り除くために来られたのだから、やがてキリストに似た者となることを約束されている私たちは、生き方においても罪から離れた心と生活を求めていくべきだということです。「罪を犯しません」「罪を犯すことができない」と訳されているギリシャ語は厳密に訳せば「罪を犯し続けることがない」「罪を犯し続けることができない」となります。神様の子とされた人が現実に罪を犯さないというより、罪を犯すことがあるのだけれど、それがキリストにある者とされた自分には合わないこと、神のみこころに反していると分かるので、続けられないのです。そういうことを続けてしまうと、私たちは自分で自分の心を引き裂いてしまうことになります。
しかし、正しさを求めると、愛のない厳しく冷たい人間になってしまったり、何かと他者と衝突しがちでです。聖さには、愛が伴っている必要があります。それで使徒ヨハネは11節から18節の中で互いに愛し合うことを改めて強調しています。
ただし私たちはそういうことを完全にはこなせないことを知っています。罪から離れるという点でも、正しいことを行うという点でも、真実に他者を愛するということにおいても、私たちは不完全で、なかなか離れられない罪があり、やりたいと願っている正しいことが出来なかったり、逆に正義を振りかざして争いを引き起こしたり、心から人を愛することができなかったりします。
長いリハビリ生活の中で、固くなった筋肉がなかなか解れなかったり、思うように筋肉がつかなかったりして歩くのに難儀するのに似ています。
使徒ヨハネはそうしたクリスチャンの現実をよく知っていました。19~20節です。キリストを信じ、新しい生き方を求め、人を愛する者となりたいという願う私たちは確かに真理に属する者だし、その確信があれば心が安らかです。しかし、ちゃんとできていない自分がいることも分かるので、時として良心の呵責を覚えます。しかし、愛の神というはるかに大きなお方が私たちのことを全て知っておられ、なおも愛し、なおもキリストに似た者へと変えられる旅路を歩ませてくださっていると分かる時に、私たちはまた平安を取り戻します。
このように、損なわれ、忘れられていた神のかたち、人間の在るべき姿を取り戻していく歩みは、キリストに似た者へと変えられていく歩みです。しかしそれは真っ直ぐ突き進むというより、浮き沈みがありながらも、確かにゴールに向かっている歩みです。
皆さんがいまどのあたりにいるのか、どんな問題に直面しているか、また何かとくに時間をかけて取り扱われている何かがあるのか、それはめいめい異なります。たとえそれがどんな歩みであろうとも、私たちは神様が注いでくださった素晴らしい愛の中にいて、やがてイエス様が帰って来られる時にはイエス様に似た者に変えられる希望と約束の中にあることを確信しましょう。
祈り
「天の父なる神様。
私たちをあなたの子としてくださったこと、そのためにどれほどの素晴らしい愛を注いでいてくださったか、本当に心から感謝します。
しかしそれは私の心が癒さやれ、悩みから救われるためだけでなく、この世界のすべての人々が忘れてしまい、傷付いてしまった神のかたちを回復させ、取り戻させる大きな救いのご計画であることを覚えます。
どうか終わりの日に私たちをキリストに似た者としてくださる希望を持ちながら、私たちに与えられた人生をより良く生きることができるように力を与え、また神様の愛を知らない多くの方々、神のかたちとして造られた素晴らしさを知らずにいる多くの方々がイエス様を知るために私たちを用いてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」