2022-06-26 救いの物語(旧約を振り返って)

2022年 6月 26日 礼拝 聖書:ルカ24:13-27

 長い間教会に通っても、聖書を学んでも、神様のことが分からない。イエス様のことが分からない、ということがあります。それはその人の理解力に問題があるわけでもないし、特別に頑なで反抗的だからでもないかもしれません。

今日の箇所は聖書の中でも最も有名な箇所の一つで、イースターの時によく読まれますが、これはただ美しい物語であるだけではありません。心の目がふさがれてイエス様を見分けられなかっただけでなく、イエス様がどんな方なのか分からなくなっていた二人の弟子たちが、イエス様をはっきりと知るようになる物語です。彼らの心の目を開くためにイエス様がなさったことは旧約聖書全体からお話するということでした。

先週で旧約聖書を一書ずつ通して読んでいくシリーズを終えましたが、どうして私たちが旧約聖書が一つのメッセージが込められたものだと言うことができるかというと、学者たちがよく研究して発見したからではなく、イエス様がそのように言われたからです。

今日はこの旧約聖書全体を振り返って、神様が様々な時代を通して、いろいろな方法で、いろいろな人たちを通して語られたことを一つの救いの物語として見ていきたいと思います。今日は新しいことはありません。何度も繰り返されたことをもう一度噛みしめ、心に定着させたいと思います。

1.見えていない二人

「エマオの途上」として有名なこの物語に出て来る二人の弟子たちは、目の前にイエス様を見ていながら真実が見えていません。

二人のうち一人は「クレオパ」という名前が18節に出て来ます。クレオパは当時の諸教会の間ではよく知られた人物だったと推測されます。なにしろ復活のイエス様に直接会った弟子たちの一人です。もう一人の名前が出てこないのは二人が夫婦だったからではないかというのが最近のもっとも有力な説明です。とにかく、最後の場面で家に泊まっていってくださいとイエス様を誘い、食事の準備までしていますので、二人連れだってエルサレムからエマオにある自宅に戻るところでした。

彼らが歩きながら話していたことは、イエス様の最後についてや、朝方、マリヤたちがイエス様に会ったと信じがたい話しをしていたことについてでした。そんなふうにしてエマオへの道のりを歩き始めると、一人の人が近づいてきました。たぶんまだ振り返れば丘の上の美しいエルサレムの街並みが見えたあたりです。しかし、彼らにはその人が誰であるか見分けられませんでした。

目の前にいつも一緒にいたイエス様がいるのに、イエス様だと分からないというのは実に不自然です。

これはとても不思議なことで、多くの学者たちが様々な意見を出しています。ルカは単に「二人の目はさえぎられていて…分からなかった」と記しているだけです。

イエス様の話しを聞いてもよく分からなかったり、腑に落ちなかったり、他の人が言うほど身近に感じられなかったりするのはよくあることです。何かが心の目を塞ぐのです。何が目を塞いでいるかはその人によって異なるので、一概には言えません。しかし、これほどイエス様のことを聞いているのによく分からないと感じたら、何かが目を塞いでいるのだと気づきましょう。イエス様は確かにそこにおられるのですから。

イエス様は、二人に近づき「何を話していたのですか?」と声を掛けました。二人は立ち止まり、「あなたもエルサレムから来たのでしょう?今、エルレム中がこの話題で持ちきりなのに、知らないんですかと」驚きました。

それで19節から24節までのところで、クレオパは何があったかを話して聞かせます。ここには、イエス様についての彼らの今の理解が現れています。そして福音書を書いたルカは、クレオパの発言を借りて、当時の弟子たちみんなが抱いていたイエス様についてのイメージがこんなだったよと示しているのです。

まずイエス様はナザレ人だと言っています。人種のことではなくナザレ地方出身だということです。生まれたのはベツレヘムですが家はナザレにありました。

そしてイエス様は確かに行いにもことばにも神の特別な力を持った預言者であることは間違いないことでした。しかし彼らはそれ以上のことをイエス様に期待していたのです。この方こそ、イスラエルを支配者の手から解放してくれる方ではないかと望みをかけていたのです。ところが、イスラエルのリーダーたちは十字架にかけて殺してしまったのです。しかし驚くべきことに三日目の朝に女の弟子たちが墓は空っぽで天使たちの幻を見、イエス様はよみがえったと告げられたというのです。弟子たちは混乱していました。

2.旧約聖書が示すこと

そこでイエス様は混乱している弟子たちに旧約聖書全体がキリストについて告げていることを説き明かしました。

弟子たちが混乱していた原因の一つは聖書を通して神様が告げていることを正しく受け取り損ねて、彼らが一方的に抱いていたキリストへの期待や勝手なイメージで見ていことでした。そのため、目の前にキリストがおられ、三年半ものあいだ寝食を共にし、その働きとわざをつぶさに見てきたのに、その本質を理解出来なかったということです。

現代の人々にも同じ問題があります。日本人は旧約聖書の背景も知識も知りませんからユダヤ人の弟子たちとは別の種類の難しさがあります。どちらかというと無関係だと思っている人が大半です。

しかしクレオパにとってはイエス様はどういう方だったのか、ちゃんと知りたいと思っていました。どうでも良くなったら、歩きながら議論したりはしません。

それでイエス様は、十字架の苦しみと復活は預言者たちが言っていたことだったじゃないかと、モーセつまり律法からはじめ、すべての預言者、つまり聖書全体からキリストについて語られていることを丁寧に解き明かしてくださったのです。先週、マラキ書の最後をとろにモーセとエリヤの名前が出て来たのを覚えているかと思います。そのこともここにつながっています。モーセが告げ、エリヤをはじめとする歴代の預言者達が指し示していることがイエス様につながっているのです。

モーセ、つまり創世記から申命記までは、神の救いの物語の始まりが描かれます。神様はこの世界を良いものとしてお造りになりました。人を神のかたちとして特別にお造りになり、この世界の管理を任せました。しかし、人は何が善で何が悪かを神にまかせず、自分で決めることを選択してしまい、そこから堕落が始まりました。その罪深さは行き着くところまで行ってしまいます。そこで神様はアブラハムを選び、その子孫を通して全てを回復し祝福するご計画をはじめました。その約束が最初に具体的にかたちになったのがモーセを通してなされた出エジプトです。神様とイスラエルの民は契約を結び、すべての人々を回復し祝福するという神のご計画の器に相応しい民であるために律法が与えられます。

しかしイスラエルの民は、この契約をたびたび破り、ついにはイスラエルの国は滅ぼされます。ヨシュア記から歴代誌までの歴史を取り扱った書物にはそうしたことが描かれています。きらっと光る信仰の勇者や美しい物語はあるものの、全体としては頑なで破滅に向かっているイスラエルの民の姿が描かれています。

そして預言者たちを通して捕囚となる民に、油注がれた者、新しいダビデ、新しいモーセ、新しい預言者、主のしもべなどと呼ばれる救い主キリストによる新しい神の国の訪れが約束され、苦難の中にある人々に希望として指し示されるのです。その約束が果たされるために、主のしもべであるキリストは人々の罪を担い、苦しみを受け、罪の代価となって死なれますが、神はキリストを死の中からよみがえらせ、栄光を与え全世界の王とされます。

まさにクレオパたちが理解できず混乱していたイエス様の十字架と復活こそが、神の救いの物語において要となる出来事だったことを明らかにしてくださったのです。

3.目が開かれるとき

第三に、求める者には目が開かれる時が訪れます。

クレオパたちに聖書全体からお話していたイエス様ですが、エマオにつくとそのまま分かれて行ってしまいそうになったので、クレオパたちはイエス様に家で食事をして泊まっていってほしいと熱心に頼みました。もっと聞きたいと願ったのでしょう。

そしてイエス様が食事の時によくなさっていたことがクレオパたちの前でなされます。イエス様がパンのための祝福の祈りをささげたあとでそれを裂いて二人に渡されたのです。祝福を祈ってからパンを裂いて分けるのはユダヤ人にとっては普通のことで、それ自体は別段変わったことではありません。しかし、普通と違うのは、祈ってパンを裂くのは家の主人だということです。本来はクレオパの役割でした。しかしイエス様が何のためらいもなく、当然のように祝福の祈りをささげパンを裂いた時に、二人の目が開かれ、「私たちの主だ」と気づいたのです。イエス様の振る舞いが彼らの心に触れたのか、あるいはパンを裂いた時に手の平に釘の跡を見つけたのか、きっかけは分かりませんが、それが彼らの目が開かれるときでした。

そしてまるで目の前の方が誰か気づいたら十分とばかりにイエス様は彼らの前から消えてしまいました。ただ彼らには気がついたことがありました。イエス様がいろいろな話しをしてくれた時も、聖書を説き明かしてくださっていた時も「心は内で燃えていたではないか」というのです。この目が開かれる経験の最も有名なもう一つの例が、同じルカの記した「使徒の働き」でも出て来ます。使徒パウロです。まだサウロという名前で呼ばれていた頃のことです。彼は最高の教師のもとで聖書を学び、若くしてユダヤ人の議会であるサンヘドリンの議員にまでなっていました。旧約聖書に精通していたパウロですが、彼もまたイエス様のことを理解出来ていませんでした。クレオパたちのようにイエス様の弟子になったけれど十字架と復活のニュースで混乱してしまっていたというのではありません。確信をもってイエスはユダヤ教信仰の敵だと考え、イエスの教えに従う教会を撲滅しようと熱心に活動していたのです。

そんな彼がやはり道の途中、ダマスコの手前でイエス様に出会います。イエス様のほうから近づき、目で直視できないほどの光に包まれたイエス様から「なぜわたしを迫害するのか」と問われ、そこで彼の確信が揺らぎます。パウロの場合はダマスコの街に住んでいた弟子の一人でアナニヤという人の家に向かうようイエス様から言われ、そこで改めて福音を聞きました。パウロの場合は、目からうろこのようなものが落ちて、本当に目が開かれるわけです。それは彼の心の目が開かれ、旧約聖書が指し示している救い主が間違いなくイエス様であり、十字架と復活によって神の救いの物語が成就するということがはっきり理解できたということです。まるで複雑なジグソーパズルが、あるピースがはまったのを境にどんどん組み上がっていくように、イエス様が聖書が約束した救い主だと分かった途端に、聖書全体がはっきりと理解できたのです。

そのような時、人の心は燃えます。聖霊が活発にその人の中で働かれるのです。私たちの心と頭に働きかけ、聖書を通してイエス様の姿をはっきりと示してくれます。同時に、聖書が語る神の義、私たちの罪と裁きについて、自分ごととして分かるようになります。

適用 たしかなこと

さて、先週で創世記からマラキ書まで読み継いでいくシリーズは終わりましたが、皆さんはどんな感想を持たれたでしょうか。たぶん人によっては始めて開いたという箇所もあったことでしょう。特に後半の小預言書のあたりはだいたい、裁きと警告が続きますから、そこに希望も記されているとは言っても、苦行に近いものがあったかもしれません。

39巻もありますし、かなり長いものもありました。物語形式で書かれたのは見慣れない文化や習慣があってちょっと混乱しますが、全体としては読みやすいです。その分、神様が何を伝えようとしているか分かりにくい時があります。律法のような法律文書では神の命令はかなり明瞭です。しかし現代の法律でも分かり憎いのに古代の法律文書ですからなおさらわかりにくさがあります。詩や知恵文学はヘブル語の美しさや面白さはなかなか日本語では理解しがたく、心に残る箇所を味わうのが精一杯かもしれません。

預言書は様々なタイプの預言者がいました。神が語れと言ったことをストレートに語るタイプ、わけの分からない幻を見せられて震えながら記録する預言者、神の命令に腹を立ててそっぽを向いた預言者、恐ろしい裁きの場面をこれでもかというほど書き連ねる預言者。なぜこんなことをさせられるのか分からないまま変な行動をするよう命じられた預言者。聞き馴染みのある聖句が預言書に多いのは、新約聖書でイエス様のことを説明したり、教会のこと、信仰生活のことを説明するために旧約聖書が用いられているからです。そういうところにもイエス様がクレオパに説明したことがおそらく映し出されています。

そんな旧約聖書ですが、少なくとも、こんなに多様な旧約聖書が一つの大きな筋道を描いており、それがイエス様による救いに繋がっているということが分かったらそれは大きな発見です。それを気づかせてくださったのは間違いなく聖霊様の働きです。その確信は大切にしましょう。

いろいろと難しいところのある旧約聖書ですが、確かなことは、神様が長い時間と、イスラエルの過酷ともいえる歴史を通して旧約聖書が記され、残され、聖書を通して神様がそれぞれの時代に語りかけ続けて来られたからこそ、イエス様が救い主であることも、教会がこの世界で神様が救いの御わざの続きをなさる鍵であることも理解できるし、確信できるということです。そして単に理解を助けるだけでなく、私たちに希望を与え、励ましを与え、忍耐する力を養ってくれるということです。難しい箇所を読むから忍耐力がつくのではなく希望によって忍耐することができるのです。

使徒パウロはローマ15:4でこう記しています。「かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです」。ここで「かつて書かれたもの」「聖書」と言われているのは旧約聖書のことです。

ですから、これからもぜひ旧約聖書に親しんでください。聖書通読に挑戦する人は途中で投げ出さず、この物語や預言がどんな希望や励ましを与えるかを思い巡らし、味わい、イエス様に結びついていることを思い出しましょう。

次は新約聖書に移って行きます。神様がご計画された救いの物語がどのように実現し、どのように拡がっていくものなのか、また一書ずつ見ていくことにしましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日は、エマオの途上の物語から、イエス様が旧約聖書全体がご自身を指し示していることを旧約のそれぞれの箇所を思い出しながら見て来ました。

大変な分量ですし、難しいところもあり、すべてが理解できるわけでもありません。しかし、私たちはこれは知っています。神様はこの世界をお造りになり、私たちを愛しておられ、失ってしまった祝福と、神のかたちとしての素晴らしさを取り戻させようと救いのご計画を備えられました。今もなお私たちが読んで来た旧約聖書を通して神様は私たちを教え、忍耐と希望を与えてくださいます。

これらを読む時、どうか弟子たちやパウロの目を開いてくださったイエス様が、聖霊によって私たちの目も開いてくださいますように。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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