2022-09-04 私たちの交わりの回復

2022年 9月 4日 礼拝 聖書:使徒の働き2:37-47

 人生の悩みのほとんどは人間関係の問題です。生まれて間もない赤ちゃんもお母さんから引き離されお父さんの手にわたされることに不安を覚えささやかな抵抗をします。子ども時代から大人へと成長する中で関わる人は増え、親しい友と出会えることもありますし、新しいグループの中での自分のポジションに悩んだり、特定の人との関係が上手くいかなかったりもします。

大切な人が出来て結婚してもそれは幸せのゴールではなく、全く新しい人間関係の悩みのスタートでもあります。

もちろん、進路や健康などの問題もあるにはあるのです。しかし私たちの心を最も悩ませ、揺さぶり、傷つけるのは人間関係です。大きな病気をしても心が傷付くことは滅多にありません。そんなときに心を傷つけるのは誰かの心ないひと言だったりします。家族や社会の一員として他人との関わりを避けて通れない私たちはどんな問題をかかえ、イエス様は何を与えてくださるのでしょうか。

今日は9月の第一週目ですので、月一度の年間主題にちなんだ聖書の教えを取り上げることにします。今日私たちが聞くのは人間関係の回復について聖書が語ることです。

このテーマは、創世記の初めに描かれた人の罪によって失われたものを取り戻す神様の救いのご計画と深く結びついています。

1.人間関係の回復

第一に、人間関係の回復はキリストの救いがもたらす最も重要な恵みです。

聖書は、私たちの罪が人間関係にヒビを入れ、絆を破壊してしまうと告げています。ちょっとした嘘や誤魔化し、えこひいき、不誠実な行いなどが夫婦関係、親子関係、その他大切な人たちとの関係をぎこちなくし、しばしば怒りや妬みを引き起こします。親しかったはずの人との間にできた薄いベールは放って置くと簡単には壊れない分厚い壁になってしまうことがあります。最初は何か気になるなあ、もやもやするなあという程度だったのが、イライラになり、怒りとして感じるようになり、爆発したり冷たく凍り付いたりするともう人間関係は壊れてしまいます。

罪といっても必ずしも道徳的な悪を指しているわけではありません。聖書は神とともにあるべき私たちが神から離れた状態にあることを罪と呼びます。まことの神様との関係や、家族や友人とあるべき関係がうまく築けないがために引き起こす不安や恐れが、他の人との人間関係に深く影響を及ぼします。家庭がうまく行っていない時に職場の人間関係にハラスメントを引き起こしたりするのは分かりやすい例です。幼少期に受けた虐待や機能不全な家族関係のために思春期や大人になってから他人とうまく関わりが作れなかったりすることは本当によくあります。

なぜそんなことになったのでしょうか。聖書の一番初めの天地創造の物語の中で、アダムとエバが神の命令に背き、人間が罪ある者、呪われた者となってしまった経緯が記されています。

へびにそそのかされたアダムとエバは神に信頼し、神のことばに聞くことに背を向けて、禁じられた木の実に手を伸ばしてしまいました。初めにエバが実を手にとりました。ヘビが言うには、神のようになれるというその木の実はじっくり眺めて見るととても美味しそうに見えました。そして食べてはいけないと分かっていながら食べてしまいます。止めようともしないで様子を見ていたアダムもエバがすぐに死なないのを見たからかどうか分かりませんが、彼女に勧められるままに食べてしまいます。

その結果、彼らは自分たちが裸であることを知ります。服を着ていないということではなく、神から離れた途端に自分たちがまったく無力で、無防備であることを知ったということです。恐れのために神を避けて隠れ、罪の責任を他人に押しつけ、早くも夫婦の間にすれ違いと争いが生まれます。

神に背を向けた人間に対して神様は罪がもたらす死とは何かを教えます。それは単に肉体的に死ぬことではなく、人生の中に入り込んだ、あらゆる苦難と労苦のために神の祝福から遠ざけられてしまう姿です。その一つに「妻は夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」という言葉があります。これは単に夫婦の問題に留まらず、あらゆる人間関係の中で主導権争いやすれ違いが引き起こされる現実を指しています。

神様はこうした罪がもたらす呪いから私たちを救うためにキリストを遣わしてくださいました。そのためにアブラハムの子孫を通して備えをしてくださったのが旧約聖書の物語の中心です。しかし、イエス様の時代に至るまで、アブラハムの子孫であるイスラエルの人々は絶えず神の言葉と働きに反抗し、頑なでした。

2.心を刺された人々

第二に、キリストの十字架がようやく人々の心を刺し、本当の悔い改めをもたらしました。

今日読んでいただいた箇所の前の箇所にはペンテコステの朝の出来事が記されています。2:14~36では、使徒たちが様々な国の言葉で福音を語るのを驚き怪しんで見ている人たちに、ペテロが語った説教が記されています。その内容を見ると、旧約聖書の中心的なメッセージに沿っていることが分かります。神様は救い主についてご計画したことを預言者を通して告げ、その約束はイエス様において実現しました。ここではヨエルやダビデの預言が取り上げられています。ダビデはイスラエルにとってのヒーロー、理想の王でした。そのダビデ自身が持っていた希望はイエス様を指していたこと、神ご自身が十字架で死なれた後三日目によみがえらせることでイエスこそが約束のキリストであることを証ししてくださったこと、そして預言者ヨエルが預言した通りに聖霊によって今使徒たちが証しするようになったことを次々と示しました。

ペテロの同胞たち、つまりユダヤ人は旧約聖書が指し示しているメシヤ=キリストについてまったく誤解していました。彼らは先祖たちが律法に不忠実だったから裁きに合い、苦しみの中に置かれている。ここから救い出してくださるのは約束のメシヤだ。この方の救いを受けるためには自分たちが神の律法に忠実であることを証明しなければならない。そんなふうに考えていました。対してイエス様は、ユダヤ人が神の前にへりくだり、互いに愛し合って歩むのではなく、律法を誤解し、表面的に規則を守ることに終始していることを非難し、無意味な言い伝えや伝統を否定したのです。人々はそれを、神への冒涜だと怒りました。

けれどもイエス様が約束されたメシヤ=キリストであることは、落ち着いてみれば明らかでした。そしてペテロは聞いている人々に、あなたがたはそんな方を十字架につけて殺してしまったのだと厳しく突き付けました。

これを聞いてようやく人々は神様が旧約時代を通して先祖たちに語りかけ約束し、実現してくださったことを何にも分かっていなかったことに気づいたのです。それで彼らは37節で「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と訊ねたのです。

なすべきことはシンプルです。38節「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け」ることです。

バプテスマを受けなさいということは儀式を受ければ救われるという意味ではなく、悔い改めてイエスをキリストとして信じ受け入れることを決意し、告白するという意味です。

聖霊が与えられるとは、神ご自身がその人とともにあるということで、神に受け入れられ、愛され、そのいのちと祝福がその人とともにあるということです。賜物として聖霊を受ける、という言葉を聞いた時、ユダヤ人は一つのエピソードを思い出したと思います。モーセを補佐する70人の長老たちが神の霊を受けて預言しはじめたとき、ヨシュアがそれを妬むのですが、それに対してモーセは「主の民がみな、預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに」(民数記11:29)と答えたのです。

しかもイエス様がもたらす救いと恵みはユダヤ人だけでなく、すべての民族に与えられ、誰でも受け取れるものとされたのです。

3.教会の姿

第三に、キリストの救いの実は、まず教会の姿に表れます。特に、交わりの回復として実が結ばれていきます。

ペテロの勧めを聞いて受け入れた人々は信仰の証しとしてバプテスマを受け、その日だけで三千人ほどが仲間に加えられました。三千人というのは私たち日本人からすれば驚きの数字です。ですが、ペンテコステの日にエルサレムに集まっていた人たちは、救い主について大きな誤解と間違った希望を持っていたとしても、待ち望んでいた人たちです。聖霊の特別な働きがあったということはもちろんですが、それ以前に彼らはまことの神を敬う人たちであり、神が約束された救い主を待ち望み、聖書にも十分慣れ親しんでいました。聖書を読んだことも見たこともほとんどないし、キリスト教なんて西洋の宗教だと初めから求める気持ちもない多くの日本人とは違うのですから、比べても仕方がありません。ある意味、彼らは十分に備えられた人たちです。

イエス様がキリストであることを理解し、信仰を告白した人たちは、バプテスマを受けることで120人ほどいた弟子たちの仲間に加えられました。

32~47節には誕生したばかりのエルサレム教会の様子が描かれていますが、32節に教会が教会であるための重要な要素が何であるかが示されています。使徒たちの教え、交わり、パン裂きつまり主の晩餐と祈りを中心とする礼拝です。使徒たちの教えは今私たちが新約聖書として持っているものです。教会はみことばを学び、実践し、交わりの中で互いに愛し合い、励まし合いました。また主がするようにと命じた主の晩餐を中心とする礼拝を捧げました。

その結果、教会の交わりの中には、神を恐れ敬う心が与えられ、不思議な奇跡もたびたび起こりました。神への恐れは互いを愛し敬うという別な意味での奇跡を交わりの中に起こしました。

44節「信者となった人々はみな一つになって」とあります。当時、エルサレムで生まれたばかりの教会には、イエス様が十字架につけられる前から弟子として従って来た人々を中心に、120人ほどが加わっていました。そこに一気に3000人以上の人たちが新たに加えられ、日々新しい人たちが加えられました。その人たちの中にはペテロが指摘したようにイエス様を十字架に付けることに賛成した人たちがおり、「十字架につけろ」と叫んだ人たちもいたことが容易に想像されます。

以前の弟子たちなら、最初に弟子たちになった自分たちと後から加わった人たちの間に、何らかの隔たりを作ったことでしょう。「私たちは最初にイエス様を信じた」という一種の優越感があったり、逆に「私たちはイエス様を十字架に付けてしまった」という負い目を負ったかも知れません。しかし、彼らはそういうことを越えたところで心を一つにしました。使徒たちの教えから共に学ぶこと、そしてともに主の晩餐に加わることで、様々な違いを超えて共にキリストによって赦され、受け入れられた者たちであるということを日々、再確認することが重要な役割を果たしました。

彼らが神を畏れ、心を一つにすることは、すぐに互いの助け合いや交わりの麗しさとして表れました。そんな姿はユダヤ人であっても見たことがない驚きであり、うらやましい姿でした。自然と、そんな交わりを求める人たちが教会に加えられていったのです。

適用 回復を願い求めて

もちろん、エルサレムの教会の人たちが財産をすべて献げてすべてを共有していたことが理想的な姿だというわけではありません。当時のエルサレム教会にはかなり貧しい人たち、収入のないやもめたちが大勢いたようでした。そうした中で、イエス様が教えた「互いに愛し合いなさい」という原則を具体的に実践する方法として、その時はそうしたということです。現代の日本でこれをやろうとしたら、社会的に大きな問題となるに違いありません。大事なことは、互いに愛し合うとか隣人を愛するということをただの標語に終わらせないで、交わりや地域社会の中で実践すべきこととしたという点です。

こうしてみると、交わりの回復がイエス様による救いにとって、あってもなくてもいいオマケではないことが分かります。イエス様による救いは私たちの罪が赦され、私たちの心が自由にされるだけのものではなく、私たちが関わる人たちの間にある様々な隔てを乗り越えて豊かな交わりに至らせるものです。交わりを歪め、破壊していた私たちの中にある罪を取り除く力があるものです。

初代のエルサレム教会は自分たちの間にある問題を解決し、交わりをうわべだけでなく、違いや立場を乗り越えて一致し、真に励まし合い、支え合うものにしようと具体的に取り組んだのです。

しかし現代の教会は、交わりをうわべだけのものにしてしまったり、今現実にある人間関係の問題は後回しにしがちかもしれません。普段の生活の中にある人間関係だけでも精一杯だから、せめて教会の中では平穏に、穏便に済ませたいということかも知れません。しかし神の愛を知った私たちこそが、まず互いに愛すること、和解すること、違いを超えて仕えることを実践できなかったら、たとえ外の世界で隣人を愛そうとし、なにがしかのことが出来たとしても、絶えず私たちの心には満たされない空白が残ったままです。

私たち夫婦は地域のチャリティイベントにかなり深く関わっています。その中で、仲の良い夫婦として評判になっているみたいです。しかし他人のために一生懸命やっていても、お互いのためにとなると、時には忙しさにかまけて適当に済ませたり、あるいは互いに不満があったり、関係が悪い時もあります。それを修復するのがしんどかったり、時間がかかってしまうと、外でいい顔をしていることに自己嫌悪を覚えたり、「偽善者だなあ」と自分で思うこともあります。それらを解決し、良い関係を取り戻せば、家でも外でも平安でいられます。

ぜひ皆さんも思い巡らしてみていただきたいのです。過去の人間関係の問題、あるいは今直面している人間関係の問題の中にどんな罪があるのか。相手の罪については私がどうこうすることは出来ませんが、自分の罪については真摯に考える必要があります。また、どうしても今その関係を回復していくだけの気力や知恵がないということもあります。残念ながら、相当長い時間を要する根深い問題もあるのです。しかし、キリストのゆえにいつかはこれも回復されるのだという望みは捨てないようにしましょう。それは天国に行った時になるかもしれないし、思いもかけない形で和解の時がやって来るかも知れません。しかし、もし、今すべきことがはっきり示されたら先延ばしにしては行けません。

交わりの回復、人間関係の回復は神様にとって大きな願いです。神様は私たちと神様との間だけでなく、人と人との間にも平和があることを願ってひとり子を十字架に送り出したのです。私たちもイエス様を十字架につけてしまった者の一人だということを忘れてはいけないし、それ故に又希望があることも忘れてはいけません。

祈り

「天の父なる神様。

今日は最初に誕生したエルサレムの教会の姿を通して、イエス様による救いが私たちの交わりに回復と喜びをもたらすことを学びました。

私たちのうちにある罪や足りなさのために壊れたり、歪んでしまった人間関係を癒やし、回復したいとイエス様が願っておられます。大切な人たちとの関係が癒される経験を通してイエス様の救いの素晴らしさを味わうことができますように。私たちには難しすぎて問題を先延ばしにしたり、諦めてしまうこともありますが、どうかキリストゆえに希望を持つことができますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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