2022-09-11 よく分かってほしいこと

2022年 9月 11日 礼拝 聖書:ルカ1:1-4

 今日は聖書を順番に一緒ずつ読んでいくシリーズに戻りたいと思います。神様がルカの福音書を通して私たちに願っていることは、私たちがイエス様について聞いたこと、信じたことが、本当に確かなことだと確信することです。

私たちはすでに信じていても、本当にこれで良いのだろうかと考えたり、今の私たちの信仰の歩みや教会の姿はイエス様が願ったようなものだろうかと迷うことがあります。ルカが福音書の宛先としてあげたテオピロという人もそんな迷いの中にありました。

しかし福音書はこれで4つめです。ですから内容的には「これは前も読んだ」と思うような出来事や教えがたくさん出てきます。1節から推察されるように、それは著者であるルカも承知のことでした。少なくともマルコの福音書はすでに出来上がっていたと思われますし、マタイの福音書も出ていたかもしれません。それ以外にも聖書には含まれなかったけれども、イエス様の教えと働きを文書にまとめようという試みはいくつかあったようです。

ルカが注目するのは、イエス様がなさったことは「私たちの間で成し遂げられた事柄」だということ。別の言い方をすれば約束の成就だということです。私たちもルカの福音書とその続きである使徒の働きを通して、何が成し遂げられたのか、イエス様はどんな道を示してくださったのか再確認していきましょう。

1.二つの誕生物語

ルカの福音書は二回に分けて学んでいきたいと思います。今日は前半の1章から9章までの内容に注目します。

私たちがよく分かるべき第一のことはイエス様の誕生が神の約束された救いの成就であることです。そのことを示すためにルカは二つの誕生物語を並べて書いています。

二つの誕生物語はバプテスマのヨハネとイエス様の誕生です。

1:5~2:52でヨハネの誕生とその後の成長、イエス様の誕生とその後の成長までが描かれます。

どちらも子どもが生まれるなんて考えられない二人の女性から誕生します。一人は不妊症のために子どもが与えられず年老いてしまった祭司の妻エリサベツ。もう一人は結婚前の処女マリヤ。

そして二人の男の子誕生に際して、御使いが表れ妊娠と誕生、名づけるべき名前、神によって与えられた特別な務めが語られます。

ヨハネについては父ザカリヤに、妻エリサベツが身籠もること、ヨハネという名を付けるべきこと、聖霊にみたされ神の約束の成就に人々を備えさせる役割を果たすことが語られます。

イエス様については母となるマリアに、神の恵みによって身籠もること、イエスと名づけるべきこと、いと高き神の子と呼ばれ、ダビデの王位を受け継ぎ、神の民を永遠に治める者となることが告げられます。

ザカリヤは信じられず、ヨハネが誕生するまで口が利けなくなりますが、マリアは御使いのことばを信じ「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と答えます。

1章の後半にはマリアとザカリヤの賛美が記され、それぞれ「主が約束を忘れずに果たしてくださった。この主を讃えよう」と歌います。

ヨハネの誕生もイエス様の誕生も、それを知った人たちに大きな驚きをもたらしました。1:80でヨハネが成長し、聖霊による力をいただき、公に表れるまで荒野で備えていたことが記されます。

イエス様の誕生はさらに大きな衝撃をもたらします。神の約束が果たされキリストが誕生したことは野に伏せっていた羊飼いたちに告げられます。このことはルカが特に強調している「貧しい者たちに救いが与えられる」ということを印象づけます。

誕生から一週間後、ユダヤの律法に従って赤ん坊のイエス様に割礼の儀式が執り行われますが、ここにも神の約束の成就を待ち望む老人たちが登場します。シメオンは赤ん坊を抱いて神を称え、今約束が果たされた。もう思い残すことはないと賛美し、女預言者アンナは約束の成就を神に感謝し、待ち望んでいたすべての人にイエス様の誕生を知らせます。

2章の最後ではイエス様が成長し、神と人のいつくしみの中で備えられていたことが記されています。

こうしてルカの福音書は神が約束された新しい御国に備えさせる者としてヨハネが誕生し、御国を治めるメシヤとしてイエス様が誕生したことを私たちに示しています。ルカは優秀な弁護士が多くの事実を示し、それらを丁寧に結び合わせて一つの真理を浮かび上がらせるようなやり方で、イエス様の誕生が神の約束された救いの成就であることを証明しているのです。

2.全ての貧しい人に祝福を

第二に、私たちがよく分かるべきことは、イエス様が全ての人、特に「貧しい人」に祝福をもたらす方であることです。

全ての人に、ということではルカ3章に記されている系図もそのことを示していますが、重要なのは4章のナザレでの教えです。

4章で悪魔の誘惑を退けたイエス様は聖霊の力を受けてガリラヤ地方に戻ります。その評判はたちまち周辺に拡がります。それからイエス様は故郷であるナザレの会堂に向かいます。イエス様はイザヤ書から朗読し、注目が集まる中、人々に向かって言われたのです。21節「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」

これは衝撃的な宣言でした。地元の人たちは、「大工の子が何を言うか」と不満を言いますが、イエス様は続くお話の中でエリヤやエリシャの例を取り上げながら、神の恵みは頑ななイスラエルの民には与えられず、異邦人であっても、敵だとしても、神に拠り頼む者には神の恵みが与えられたことを示されます。それは聞いた人々をさらに怒らせました。しかしイエス様は、福音はまずユダヤ人に語られるべきだとしても、民族や血筋によってではなく、救いを求めるすべての人に祝福をもたらす方であることを最初からはっきりさせる意図があったのです。

そしてイエス様がナザレの会堂で朗読したイザヤ書の言葉が4:1に記されていますが、ここに「貧しい人に良い知らせを伝えるため」とあります。

この「貧しい人」は単に経済的に困窮しているというだけの意味ではありませんでした。結果的にはそういう場合が多いのですが、社会的にのけ者にされていたり、地位が低い人たちのことを指していました。ユダヤ人の社会の中でガリラヤ地方の人たちは田舎者と蔑まれていました。ルカの福音書には様々な場面に病人や悪霊につかれた人たちが登場します。立場は様々ですが、彼らもまた本人か両親の罪ゆえに呪われていると見なされ、疎外されていました。ツァラアトに冒されている人なんかはその典型でした。

4:18にあるように、イザヤの預言はこのような貧しい人たちが「解放」され「自由」にされると告げています。これらの言葉は旧約の「ヨベルの年」という律法に基づいています。イスラエルでは50年に一度「ヨベルの年」が定められ、すべての奴隷は解放され、犯罪人には恩赦が与えられました。貧しさのために土地を売った人も、ヨベルの年には無償で取り戻すことができるはずでした。解放と自由が与えられ、不公平が正される年です。

すべての貧しい者、捕らわれた者が解放され自由にされるという素晴らしい律法ですが、旧約聖書には実際にヨベルの年が守られた形跡がありません。極めて人間的な理由で、一度手に入れた奴隷や土地を無償で手放したいという人は誰もいなかったのでしょう。しかし、イエス様はその解放と自由を与えると宣言なさいました。その宣言通りに、病や汚れ、人々の差別や抑圧に捕らえられていた人々、つまり貧しい人々を解放してくださったのです。そのようにしてイエス様は罪によって失った神の祝福を取り戻させる方として、神が遣わした者であることを証しされたのです。

医療や社会が進歩した現代でも、人間は聖書が言う貧しさの中にあり、解放と自由を必要としていることに変わりはありません。

3.新しい神の御国

私たちがよく分かるべき第三のことは、主イエス様が新しい御国をもたらすことです。イエス様によって自由にされ、解放された人たちはこの新しい御国の一員とされるのです。

新しい御国の姿は6:12以降の12使徒の任命から始まります。イエス様の目指した御国が常識を越えたものであることはまず弟子たちの人選に表れています。

12人の名前が出ていますが、彼らはガリラヤ出身です。あとで中央の人たちに「ああ、ガリラヤ人か」と馬鹿にされたような言い方がされていますが、訛りのきつい田舎者で、正規に学んだことのない学のない人たち。漁師や取税人や熱心党員といった背景は宗教指導者がリーダーとして選びそうもない人たち。むしろこんなチームでは問題が起きるのが目に見えているような人選でした。

しかし彼らはイエス様の招きに応えた人たちです。イエス様がもたらす恵みと祝福を信じ、イエス様がもたらす御国を信じました。

6:17からは「平地の教え」と呼ばれている教えが続きます。マタイの福音書の「山上の説教」と内容的にはよく似ています。

ルカはそこに集まった人たちに注目しています。ユダヤ全土の各地から、エルサレムから、また海岸地帯のツロやシドンといった異邦人の暮らす町々から人が集まっていました。はっきりは書かれていませんが、ユダヤ人だけでなく異邦人も含まれていたと思われます。また、神殿や会堂からは疎外されていた病気の人、悪霊につかれた人も集まって来ました。「全ての人」がそこにいたのです。

そしてイエス様は有名なことばで語り始めます。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものです」

イエス様が起こそうとしていた新しい神の御国は、その土台となる使徒たちが異例の人選ででした。しかしそれだけでなく、御国が誰のものか、という点でも常識を越えていました。

どの国の指導者たちも「すべては国民のために」といったことを語りますが、現実には力と富は一部の人たちに偏ります。誰もヨベルの年の規定を守ろうとしなかったように、差別や不平等は固定化されてしまいます。「親ガチャ」なんて嫌な言葉がありますが、生まれた環境を選べないことの本当の問題は親自身より、その社会が持っている歪みです。その根本には人間とその社会の罪があります。しかしイエス様はそうやってのけ者にされた人たち、貧しい人たちをこそ喜んで迎えました。

その逆転のもっと重要な意味合いは、誰が神に受け入れられるかというところに現れていました。どの宗教もだいたい同じですが、イスラエルの民もこの世で良い生き方をした人が神の祝福、天の恵みにあずかることができるというよくある勘違いから抜け出られませんでした。ですから、律法や伝統を守らない者、守れない者をのけ者にし、病気や障害を持った人たちを罪の結果として蔑みました。もちろんイエス様は罪ある者を何の問題もないとは言いません。罪は罪です。しかし人の罪深さは人間の尺度で簡単に決められるものではありません。人の目に立派そうに生活している人たちの偽善ぶりはイエス様がもっとも厳しく非難したものでした。しかし罪や弱さゆえに救いのない人たち、貧しい者、植えている者、泣いている者をイエス様の新しい国に招き、招きに応答する者を御国に迎え入れると宣言されたのです。

適用:新しい出発

すべての人のために来られたイエス様は、この世にあって望みのない人、助けが必要な人、何よりも罪あることを自覚しへりくだる人を救い、御国に迎え入れ、祝福なさるのですが、そのためにイエス様は十字架の道に向かわなければなりませんでした。

ルカの福音書の後半、エルサレムに向かう旅に出発する前に、一つの出来事がありました。それはこれからイエス様が果たそうとする新しい出発がどのようなものかを表す特別な出来事でした。それが9章に記されています。

ペテロがイエス様はキリストであると告白してから、イエス様は直ぐにキリストは十字架で死ななければならないことを告げました。その一週間後のことです。

三人の弟子を連れてイエス様は山に登りました。そこでイエス様の姿が変わり、モーセとエリヤが表れ三人で話しをしているのです。三人が話していたのは31節にあるように「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」でした。

この最期と訳されている言葉は、「出発」や「脱出」という意味のギリシャ語で、私たちがよく知っている「出エジプト」を言い表す時に使われる言葉なのです。つまり、イエス様の十字架は新しい出エジプトだというわけです。

エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を過越の小羊によって贖い、救い出したように、神様はすべての罪と死、悲しみと苦しみに支配されている人類を、イエス様ご自身の贖いによって救いだそうとしておられるのです。モーセとエリヤが登場するのは、律法と預言者の代表という意味ですから、イエス様が受けようとしている十字架の苦しみによって人々を救い出すことが、旧約聖書全体が指し示している神のご計画であることが分かります。

ルカはテオピロがこのことについて確信を持って欲しいと願いました。テオピロがどんな人物かはっきり分かりませんが、初代教会の一員で、教会が宣べ伝えているイエス様ご自身のことも、なぜ福音を世界中に届けなければならないかについても、はっきりと理解する必要がありました。今日の私たちが、クリスチャンにはなったけれど、実際の生活に何か意味があるのだろうかとか、宗教に対して批判的な目が注がれている時に、自分はキリスト教ですと言いにくいとか、教会に誘うのがためらわれるというような時に、神様はやはりもう一度確信を持って欲しいと願っておられるのではないでしょうか。私たちは今もイエス様ご自身を信じ、宣べ伝えるべきだということを確信して欲しいのです。

神様は全ての人を祝福したいと願っておられます。私たちを苦しめ悩ませているあらゆるものから助け出したい、恐れや不安から解放したいと願っておられますし、何より私たちを縛っている罪と死から、罪に対する永遠の報いから救い出したいと願っておられます。イエス様は出会った一人一人の貧しさ、弱さや痛み、逃れられない状況、そして何より罪と死に縛られている者たちをご覧になり、一人一人を憐れんでくださいました。そして今も、そんな私たちを見つめていてくださいます。この私を見つめて十字架の苦しみを受けてくださいました。その目には私たちだけでなく、家族や友だちのような私たちにとって大切な人たちも、対立している人も含まれます。もし神の救いがないなら、全ての人は、それぞれの貧しさの中に捕らわれたままです。人を縛っている罪と死は永遠に私たちを縛り続けるでしょう。そうならないようにと、イエス様は十字架の道に出発なさり、新しい出エジプトとして私たちを解放してくださいました。

これがイエス様を信じるべき理由であり、またすべての人に福音を宣べ伝えるべき理由です。イエス様の物語を昔あった良い話しで終わらせず、今もなお語り続けるべきこと、信じるようにと祈りと願いをもって伝え続けるべき福音の物語として確信しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日はルカの福音書を通して神様が私たちに確信して欲しいことについて学びました。

あなたがどれほど私たちを憐れみ、すべての人の救いを願っておられるか。そのためにイエス様が十字架の道へと向かってくださったか。あなたの深いみ思いとご計画、その愛を心から感謝します。

どうぞ私たちがあなたのご愛だけでなく、全ての人が背負っている貧しさゆえに救いが必要なことを確信させてください。先にイエス様の恵みを知った者として、イエス様の救いを確信し、語り続けさせてください。

イエス様のお名前によってお祈りいたします。」

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