2022-09-18 私たちの旅路

2022年 9月 18日 礼拝 聖書:ルカ24:44-53

 しばしば人生は旅に喩えられます。

最近あまり読まれなくなったような気がしますが、ジョン・バニヤンというイギリスの信徒説教者が獄中で書いた「天路歴程」という物語は信仰の歩みをまさに天を目指して歩む旅に喩えたもので、若い頃に読んだという人もいることでしょう。また、ある世代以上の方々にとって、「人生の海のあらし」という讃美歌はとても心に響くものです。

人生を喩えるものとしての旅は、私たちを惹き付けます。聖書の世界観を色濃く反映したトールキンの指輪物語では主人公たちが世界の危機に翻弄されながら旅を続けます。最近のものは分かりませんが、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーといった人気のゲームシリーズも冒険の旅をしながら主人公たちが成長していく姿を楽しむことができます。

今日はルカの福音書の後半を見ていきますが、ここでも旅が重要な舞台となります。イエス様がエルサレムに向かって旅する姿は、物語の舞台となるだけでなく、旅路そのものがイエス様と共に歩む人生、教会の歩みとはどのようなものであるかを教えるものとなっているのです。道中イエス様がなさる働きや教えを通して、なぜイエス様が旅を続けるのか、この旅の果てにある十字架の苦しみが何をもたらすか、少しずつ明らかにしていきます。

1.共に旅する者は

第一に、イエス様と共に旅する者は、イエス様と心を一つにすることが求められます。

ルカの福音書の後半は9:51から始まります。開いてみましょう。「天に上げられる日が近づいて来たころ」とあるように、ルカの後半はイエス様が十字架の苦難をはっきりと意識し、そこに向かっていく旅を描いていきます。

エルサレムに向けての旅が始まってすぐに、何人かの人たちがイエス様の旅に同行したいと申し出てきました。57節です。

自分から申し出た人もいましたし、イエス様に声をかけられて旅を共にしようとする人もいました。しかし、ここに登場する三人はそれぞれの事情でイエス様と一緒にいく上で、自分たちなりの条件を持っていたようです。最初の人は快適さを願っていました。次の人は父親の埋葬を済ませることを願いました。3人目は出かける前に家族に別れを告げることを求めました。

一見するとイエス様の返事はかなり冷たく、厳しすぎるように感じられます。しかし、イエス様が言わんとしていることは、イエス様と一緒に歩もうとするなら、これからエルサレムにいって十字架の苦難を通してもたらされる神の国というゴールに目が向いている必要があるということです。

快適な暮らしや家族のことは別にどうでもいいというのではありません。それは確かに大切なことです。しかし私たちがイエス様を信じて生きるとか、教会が教会として歩むというならば、イエス様がなさろうとすることに心を合わせていなければなりません。

ではイエス様は神の国をもたらすというゴールに向かう旅路で何をして歩まれたでしょうか。それがルカ10章後半から19章前半までに描かれていることです。

イエス様は前に十二使徒を選びましたが10章ではさらに72人を別に選びました。民数記に72人の長老たちがモーセの補佐役として選ばれた出来事が記されています。その時神の霊にみたされた長老たちが次々と預言をし始めるのですが、イエス様は72人の弟子たちをイエス様の代理として遣わしました。そして彼らに委ねたことはイエス様がなさろうとしていることです。平安を祈り、病人をいやし、福音を宣べ伝えることです。イエス様がこれまで貧しい人々、つまり病人や悪霊に捕らわれた人々をいやし解放し、神の国が近づいたから悔い改めるように呼びかけたのと同じことを弟子たちにもさせたのです。そしてイエス様は彼らの働きの成果を聞いた後21節で父なる神に賛美し、こう祈っています。「あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに表してくださいました。そうです、父よ、こはみこころにかなったことでした。」福音は富む者ではなく、貧しい者に表され、委ねられ、受け入れられていったのです。それが神のご計画だということです。

そしてイエス様自身も、旅の途中、これまでと同様、貧しい人たちに仕えられたのです。

特にイエス様の働きの意味をよく表す一つのたとえが印象的です。15:11以下の「放蕩息子」のたとえ話です。父の言うことに従いながら不満を心に隠していた長男と、自分勝手な生き方をしながらも悔い改めて父の元に帰って来た二男。父が二男を受け入れ喜んだように、貧しい者たちを受け入れ祝福してくださるのです。

2.失われた者を捜して

第二に、イエス様は「失われた者を捜して救うために来られた」方です。

エルサレムに向かう旅の最後は19章になります。エルサレムに程近いエリコという町でザアカイという一人の取税人との出会ったことが記され、それに続く「ミナのたとえ」と呼ばれるたとえ話で締めくくられます。

ザアカイは経済的に貧しくありませんでした。むしろ相当な金持ちでした。しかし、彼はイエス様の視点に立てば貧しい人でした。彼は取税人の頭としてローマ帝国に協力していたため、同胞からは嫌われのけ者にされていました。はっきりとは記されていませんが、背が低いザアカイを誰ひとり人混みの前に出してイエス様が見えるようにしてあげようとしなかったことや、人々が彼を「罪人」と言っていることから、普段からどんなふうに思われていたかは明らかです。そして彼の財産も綺麗なものではありませんでした。取税人の頭としての正当な報酬だけでなく人から脅し取った金で財産を築いていたのです。後からそれを4倍にして返すと言っていますから、彼の心のうちには「悪い事をしている」という自覚はあったのです。しかし、人々の仕打ちに対する怒りや反感からでしょうか、あるいは取税人の頭として立場を利用して儲けるのは誰もがやっているからという理屈なのでしょうか、彼はその悪事を正当化して、自分をごまかしていました。まさに彼もまた貧しい者の代表のような人でした。

ザアカイが仕方なくいちじく桑という木に登って見物していると、イエス様が近づいて来て、「今夜はあなの家に泊まらせてもらう」とおっしゃるのです。誰もザアカイに親しくする人はおらず、たぶん招いても誰も行きたがらないのに、イエス様のほうから近づいてくださったのです。

喜んで迎え入れたザアカイは自分の財産を貧しい人に与え、脅し取った分は4倍にして返しますと申し出ます。それがザアカイにできる精一杯の悔い改めの実でした。イエス様は彼の信仰を見て「今日、救いがこの家に来ました。…人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」とおっしゃいます。ザアカイのような人、本当の意味で貧しい者を捜し出し、罪の赦しと祝福を与えるためにイエス様来られたのだし、そのために十字架に向かっています。そしてイエス様と共に歩む者たちに、このようにしなさいと示しておられるのです。

しかし、こういうイエス様のやり方が気に入らない人たちがいることをイエス様は知っていました。その者達の手によって十字架に引き渡されるのです。

そこで旅の終わりに一つのたとえを話されます。ミナのたとえです。タラントのたとえによく似ていますが、このたとえの鍵は、王位を授かる旅に出た主人をよく思っていない人たちが、残されたしもべたちに「あの人には王になって欲しくない」と言うところです。それを受けて一人のしもべは預かったものを、主人の願った意図に反して正しく用いませんでした。主人が王位を受けて帰って来た時に、それを望まなかった敵どもはその敵意と企みの報いを受けることになります。それはメシヤである王として遣わされたイエス様を拒んだユダヤ人たちの運命を警告するものです。

3.苦しみと復活を通して

この警告を語り終えてから19:29で「これらのことを話し終えてから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。」とあります。福音書はいよいよクライマックスであるエルサレムのでの最後の一週間を描き始めます。

第三に、苦しみと復活を通して、主イエスは王としての栄光を受け、最も弱い人々、貧しい人々には赦しと自由が与えられ、神の御国がもたらされます。

ミナのたとえのように、イエス様はろばの子の背にのって平和の王としてエルサレムに入場されます。しかし、祭司長や民の長老たちはイエス様を拒絶します。それに答えるようにイエス様は41節で涙を流しながらエルサレムの滅亡を予告されます。エルサレムにいる間、祭司長や律法学者といったユダヤ教指導者がなんとかイエス様を訴える口実を見つけようと論争を挑む場面が続きます。

しかしイエス様は20:45で人々に警告します。キリストを拒絶した宗教指導者たちの本質は、神への恐れや聖書に対する真剣さではなく、人からちやほやされるのが好きで、見栄っ張りで自分たちの立場と権利を守りたいだけの人たちです。

彼らと対照的な、神に喜ばれる人の特徴をよく表しているのが21:1~4の貧しいやもめの、僅かな、しかし神への信頼に根ざした献げ物でした。

イエス様の十字架が、救いを待ち望む貧しい者たちにとっての新しい出エジプトであることがよく表れているのが、最後の晩餐の場面です。

最初の出エジプトを記念して行われる過越の食事の席で、イエス様は「主の晩餐」を定め、これを記念するように言われました。イエス様の十字架の死と流された血によって新しい契約が結ばれます。ルカは他の福音書より、最後の晩餐の場面を丁寧に描くことで、教会が行っている主の晩餐の意義を明らかにしています。

新しい契約のもとでは、律法を守りきることのできない人々、罪に定められた人々、貧しい者たち、弱い者たちが御国に招かれ、罪の赦しと祝福を受けます。その代表的な人物がイエス様とともに十字架につけられた犯罪人です。自分が罪ある者であることを認め、「あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」とイエス様への信頼と救いを求める思いを表した犯罪者に、イエス様は「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」とお応えになり、彼のような人にもイエス様の救いが与えられることをはっきりとお示しになりました。

十字架の死から三日目によみがえられたイエス様がご自身の姿を現したのは、当時の社会では人数に数えられなかったガリラヤの女性たち、エルサレムから離れて自分たちの生活に戻ろうとしていた弟子たちでした。しかし、イエス様はエマオの途上で、悲しみ、失意の中にあった弟子たちに聖書全体から、約束された王なるキリストは、十字架の死と復活を通して赦しと自由を与え、新しい御国をもたらすはずだったのだということを明らかにされました。

そうやって今日、最初に読んでいただいた、ルカの福音書のまとめの箇所に至ります。十字架で死なれ、よみがえられたイエス様の名によって、あらゆる国の人々に罪の赦しが与えられます。その福音を弟子たちに委ねてイエス様は離れて天に上げられます。

適用 旅の続き

イエス様が天に上げられる前に49節で弟子たちに与えると言っておられる「わたしの父が約束されたもの」とはイエス様の代わりに送られる聖霊のことです。

ですからルカの福音書の終わりは、弟子たちが大きな喜びとともに神をほめ讃えつつ、言われた通りにエルサレムに留まって約束の聖霊を待っていた、という場面で終わっているということになります。そして約束の聖霊が来られた後、イエス様がもたらした神の国がどうなっていくかは、使徒の働きで明らかにされます。イエス様の始めた旅は形を変えて続き、今は私たちの人生や教会の歩みとして続いているのです。

先週もお話したように、ルカはテオフィロという人物に宛てて、彼がすでに聞いた福音が確かであること、教会がいま行っていることがイエス様のお働きの続きであることを確信できるようにと福音書を記しました。もちろんイエス様が救い主であることはすでに知っていたわけです。しかしもちろんまだ新約聖書が完成する以前のものです。使徒たちの教えは主に口伝えで伝えられていました。マルコの福音書は完成していたと思われますし、パウロの初期から中期の手紙も書かれていました。

それらの、ある意味バラバラに伝わっていた教えが、ひとつのまとまったものとして、そしてきちんと意味のある関連付けと順序で書かれることで、自分が聞いて来た福音と旧約聖書のメッセージがしっかりと結びついており、教会が全世界に向かって福音を宣べ伝える使命をイエス様ご自身から与えられ、誰でもキリストの赦しと解放を受け取ることができることを確信する必要がありました。

これを読む現代の私たちは、イエス様の旅路と自分の歩み、イエス様の道のりと教会の歩みを見比べて、同じ旅を続けているかどうかを確認することができます。

イエス様には私たちの生活と人生に赦しと自由を与え、神の国をもたらしたいと願っています。それは私たちを一方的に支配し、自由を奪う宗教や国家権力のようなものではなく、私たちを本来の人間としての喜び、聖さ、栄光を取り戻させ、神とともにある平安と祝福の中にいさせものです。

そして、神の民とされた私たちを集め、教会としてこの地上に置き、私たちを救った良い知らせを他の人たちにも宣べ伝えるようにと励ましておられます。それがイエス様の歩まれた道です。

イエス様は弟子たちを祝福しながら天に上げられていきましたが、その祝福は今の私たちにも注がれ続けています。そしてこの祝福をまだ受け取っていない人たちにも広げて欲しいと願っています。

私たちは、自分が貧しい者であるということは分かっているかも知れませんが、キリストの恵みを受けるべき他の人々に心と目が向いているでしょうか。ひょっとしてザアカイのような人たちをずるして金儲けした嫌な人たちとしてしか見ていないでしょうか。病気や障害があったり人間関係を上手に出来なかったりするために社会から疎外される人、平均的な人とは違う多様な人たちが当然の権利が奪われていても「困った人」とみてしまってはいないでしょうか。イエス様は貧しい人たちがイエス様のもとに来るのを妨げることを許しませんでしたが、救いの必要な人たちが教会に来にくくなってしまうようなものを知らずのうちに作ってはいないでしょうか。ルカの福音書を通して示されたイエス様の人々に仕える姿を学び、その旅路を学びながら、私はそんなことを示され、課題として与えられたと思っています。皆さんはいかがでしょうか。

祈り

「天の父なる神様。

ルカの福音書を通して、イエス様がたどられた道のりを学び、私たちそれぞれの歩み、そして教会の歩みを顧みる時を与えてくださりありがとうございます。

イエス様が常に人々に目を注ぎ、人々のために仕えてくださり、罪の赦しと祝福を与え、神の国の種を蒔き続けておられたように、私たちも周りの人たちに目を注ぎ、仕えることができますように。

神様の大きなご愛とイエス様の豊かな恵みを証しし、祝福の種を蒔き続けることができますように。

もし私たちの中に、誰かがイエス様の恵みに触れることを妨げるものがあるなら、気づかせてくださり、取り除いてください。教会がイエス様の旅の続きを歩むことができるようにいつも守っていてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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