2022年 11月 27日 礼拝 聖書:コリント第二 5:17-21
手紙を書くのにはいろいろな理由があります。感謝を伝える、思いを伝える、お願いする、意見をする、思い出を綴る。パウロにもコリント教会に手紙を送る理由がありました。
先週まで見ていた第一の手紙はパウロがコリント教会を建て上げてから他の街へと働きの場を移した後で、コリント教会に問題が起こっていると報告を受けたことから手紙を書く必要が生じました。
この第二の手紙は、その後のコリント教会の反応を見てもう一度書く必要を覚えたために記したものです。
実際には、手紙の内容を見ていくと、第一と第二の手紙の間にパウロは一度コリント教会を訪問しています。2:1に、それがコリントのクリスチャンを悲しませるような厳しい訪問になったことが分かります。そして2:2と7:8から、今日開いている第二の手紙の前に少なくとももう一通、聖書には含まれていない手紙をコリント教会に書き送っていたことが分かります。その内容もまた厳しいものでした。
それはコリント教会を生み出したパウロに対して、自分たちの指導者とは認めようとしない人たちがいたためでした。それが単にパウロのプライドを傷つけるというような個人的、感情的な問題ではなく、キリストの十字架の理解に関わる本質的な問題だったので、改めて手紙を書く必要が生じたのでした。
1.十字架に倣う生き方
では、コリント第二の手紙の内容を見ていきましょう。
まず1~7章はパウロとコリント教会との和解を訴える内容になっています。
第一の手紙を書き送った後で、コリント教会を訪問しました。その様子が挨拶のあとで2:8までに記されています。コリント教会の様々な問題を取り扱った手紙と訪問は、多くの悔い改めを促しました。パウロはその結果悲しみを覚えた人たちが押しつぶされてしまわないよう、彼らを赦し、慰めるように勧めます。
多くのクリスチャンたちはパウロの訪問と涙ながらの手紙で間違いに気付き、悔い改めましたが、その悲しみの傷がまだ残っていたため、パウロは今でも彼らを愛していることを伝えようと、手紙を書いたのです。しかし一部の人たちはなおもパウロに反抗しました。そこには教会の指導者には見栄えが良く雄弁で成功者っぽい姿をしていて欲しい間違った価値観と願望が横たわっていました。
3:1にはパウロに対して推薦状を要求した人たちがいたことが暗示されています。これは指導者としての権威や資質を保証する権威ある誰かからの推薦状を求めるもので、キリストによって使徒とされたパウロに対する公然とした疑いを差し挟むものでした。
現代風に言うなら、福音を正しく教えることができ、生活においても非難されるところがなく、豊かな実を結んでいる働き人に対して「相応しい車に乗ってますか」「いいスーツ着てますか」「指導者らしい学位持ってますか」と聞くようなものです。
しかし、これはまったく可笑しな話しでした。パウロがいなければコリント教会はそもそも存在していなかったのです。産み育ててくれた親に対して親としてふさわしいことを証明しろというようなことです。しかしパウロは3:2で推薦状が欲しいというのならあなた方こそが推薦状だと言います。キリストのいのちが彼らの内に与えられ、彼らの心に記された変わることのない救いと生まれ変わらされたという証しが、何よりの推薦状だというのです。
パウロは人を新しく生まれ変わらせることのできるこの務めを大きな栄光と考えていました。その務めをパウロは何ら恥じる事はありませんでした。
そして4章で、この栄光ある務め、素晴らしい福音を宝に喩え、自分自身の弱さや欠けを土の器に喩えます。4:7は有名な聖句の一つですが、弱さや欠けのある者を通してこの素晴らしい福音を明らかにすることが神様の知恵深いご計画であることを明らかにします。4章から7章にかけてパウロは様々な言い方を使いながら、十字架が私たちの考え方や生き方の土台であり、古い考え方や生き方を新しく造り変えるものであることを説明します。
今日司会者に読んでいただいた5:17は有名な聖句の一つです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。神がキリストに十字架を負わせたことで、すべての罪は赦され、神との間に和解が成立しました。そして私たちを新しい者として新しい生き方へと造り変えていくのです。和解はその大きなしるしです。パウロは単にぎくしゃくした人間関係をほぐしたいのではなく、コリント教会のクリスチャンたちのうちに、この十字架による新しい創造が起こり続けることを願っているのです。
2.捧げる心
第二に、パウロはコリント教会に捧げる心を取り戻して欲しいと願っています。8章と9章でこのことが取り上げられています。
この献金の話題は第一の手紙16章の挨拶でも触れられていました。エルサレムを含むユダヤの地方に飢饉があり、エルサレム教会の兄弟姉妹やその家族たちが大変な困窮の中にありました。そこで諸教会が献金を集めて届けることにしたのです。
これには現代の募金やボランティア以上の意味合いがありました。ほとんどユダヤ人だけで構成されるエルサレム教会に、ほとんどが異邦人のアジアやギリシャの諸教会が献金を送ることでキリストにある兄弟姉妹に愛を示すこと、そしてエルサレムからはじまったこの良い知らせが届けられたことへのいわば恩返しの意味があったのです。
彼らにとって良いお手本は8:1~5に出て来るマケドニアの諸教会でした。彼らは自分たちの貧しさをわきにおいて、喜んでエルサレムの兄弟姉妹たちのために捧げました。
私は、日本は世界の各地でどこかの教会や人々が災害や困難に直面し、献金のお願いをすると、本当に皆さんがよく捧げてくださることにマケドニアのクリスチャンたちと同じ心を見て、いつも感動しています。
9~12節を見てみましょう。
献金をするということは、イエス様が豊かな恵みによって救われたことを知っているクリスチャンが、自分たちのために貧しくなられたゆえに多くの恵みをいただけたことを思い出し、その姿にならう意味があるのです。
ですから、余裕があったらするものとか、気まぐれにするものではありませんが、同時にどこかのカルト宗教で問題になっているように借金してまで家庭を破壊するような捧げ方をしたり、強制されてするようなものではないのです。
コリント教会には奴隷の身分の人たちもいましたが、割と裕福な人たちも多かったようです。彼らはその経済的な豊かさを自慢したり、貧しい境遇にある人たちへの思いやりを欠いた態度を取っていました。
しかし、私たちのために貧しくなられ十字架にかけられたイエス様によって永遠のいのちと永遠の富を与えられたのですから、イエス様にならって、より豊かに捧げる者に造り変えられていくのです。
9:6~9には捧げることについてのもう一つの原則が教えられています。豊かにまく者は豊かに刈り取るという、畑仕事の原則は献げ物と神様からの恵みについても当てはまります。
ただし、神様はすでに私たちに多くの恵みをくださっています。すべての罪を赦し、神の家族に加え、キリストのいのちにあずかる新しい人生をくださいました。しかし、その恵みに応え、その恵みを与えるために貧しくなってくださったイエス様にならって豊かに与えるなら、神様はもっと豊かな恵みを与えてくださるのです。
9:11には、献げ物という務めが「キリストの福音の告白に対して従順で」あることを証しするのだとあります。惜しみなく与えてくださったイエス様のように、喜んで捧げる者にさせていただきましょう。
3.弱さを誇る
第三に、クリスチャンは自分の力や立場ではなく、弱さこそを誇る者でいようと語りかけています。
10章から13章が、このテーマを中心とする最後の勧めになっています。
10:1を読んでみましょう。「さて、あなたがたの間にいて顔を合わせているときはおとなしいのに、離れているとあなたがたに対して強気になる私パウロ自身が、キリストの柔和さと優しさをもってあなたがたにお願いします。」
ちょっと皮肉っぽい響きがあります。実は、これこそがコリント教会でパウロの権威を認めない人たちの主張の一つでした。
パウロはコリントの兄弟姉妹たちに権威を振りかざすような接し方はしませんでした。それが「おとなしい」と見えたのでしょう。10節には「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない。」という反対者たちの意地悪な評判が書かれています。
しかしパウロが偉そうな振る舞いをしなかったのは、彼自身が望まなかったからです。パウロは兄弟姉妹たちから誉められたり祭り上げられたりするのを望んではいません。愛と恵みに満ちた親しい交わりが欲しかったのです。
ところがコリント教会では、11:5に登場する「大使徒」と自称する人たちが大手を振って歩き、コリント教会の一部の人たちはそういう人を理想の指導者と考えていました。
パウロは彼らと比べたら確かに話し方は素人でした。ギリシャには雄弁家という話しのスペシャリストがいましたが、それに比べたらいかにも素人っぽかったのでしょう。
そして7節にあるように「自分を低くして、報酬を受けずに」福音の働きをしていたことが、コリント教会の人たちには貧乏くさくて惨めに見えたのです。パウロはただコリントの人々に負担をかけないよう自分で働いていただけなのですがコリントのクリスチャンたちは指導者には成功者のようであって欲しかったのです。
そこでパウロは言うのも恥ずかしいのだけれど、と11:21以下で自分がその自称大使徒たちに決して劣らない資質を持っていることを挙げ始めます。ヘブル語の理解、生粋のイスラエル人としての血筋、キリストのしもべ、労苦と人生を捧げ尽くす奉仕、すべての教会への心遣いなど、人間的な基準で評価されるようなものを挙げたらパウロは本当に素晴らしいリーダーです。さらに12章ではパウロが天に挙げられ、素晴らしい啓示を与えられた経験を語ります。しかし彼は「そんなものはこれっぽっちも重要じゃないし、誇れることではない」と言います。そして12:5で「私自身については、弱さ以外は誇りません」と断言します。
そして彼がその身に負った肉体的な弱さの中で真剣に神に祈り、与えられた答えによって、自分の弱さを大いに喜ぶようになりました。9節です。「しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
弱さはイエス様の恵みが溢れる大きな穴です。弱さを隠せば穴はとじますが、恵みもあふれ出ることはありません。
適用:自己評価
今日はコリント第二を見て来ましたが、13章は手紙の結びになります。第一よりも厳しい感じの終わり方になっていますが、それでも11~13節の挨拶文を見ると、やはりパウロの基本的な態度はコリント教会の兄弟姉妹たちへの愛に溢れています。
しかし、パウロはコリントの兄弟姉妹たちの、しっかり自分を省みて、自己評価することを求めています。
13:1で三度目のコリント訪問を計画しているパウロは、このままだと未だにパウロが本物の使徒であることを疑う人々に対して厳しい態度を取らざるを得ないと警告し、5節で「信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。」と勧めます。
コリントのクリスチャンたちは当時の文化に流され、指導者に成功者のイメージを求め、自分自身の生活については、自分の満足にだけ心を向けがちでした。しかし、パウロは問います。「あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられること、自覚していないのですか。」
現代の私たちは、コリントの人たちとまったく同じ生き方はしていないかもしれませんが、似ている面も結構あります。
現代の、特に西洋文化の影響を受けている人々は日本人も含め「自分らしく生きる」という言葉の呪縛に捕らわれているかもしれません。伝統や社会に押しつけられた生き方から自由になるというのはある面では正しいものです。イエス様も律法に捕らわれていたユダヤ人たちを自由にしました。しかし一方で自分らしさということに何の規範も基準もないと、コリント教会に見られたように他人の躓きや不快感をまったく顧みない自己中心な振る舞いになったり、自由であることを主張するためにわざわざ反抗的になったり、道徳的な道を踏み外す者もいます。「これが私らしさだ」と言えば法律に反しない限り、周りの人たちも「しかたがない」と言わざるを得なかったり、あえて反対すれば「パワハラだ」「モラハラだ」と反撃されたりするような世の中です。
しかし私たちは、自分の心の真ん中にイエス様がおられる者だ、私らしさの核にはイエス様がいる、ということを自覚しなければなりません。イエス様抜きの自分らしさは、ただの自己中心に成り下がり得ます。しかしキリストに似た者にされるクリスチャンの自分らしさは個性を保ちながら神のかたちを現す者にされていきます。それが、5:17にあった「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」ということの大事な意味合いです。私たちのうちにキリストがいて下さることで、私たちの心も生き方も再創造されていくのです。
パウロはコリント教会に問いました。「あなたがたは、信仰に生きているか」。信仰に生きるとは、イエス様を信じ、神に拠り頼んで生きるというだけでなく、信じている通りに生きるということです。福音を信じ、福音によって生きているかと問われているのです。
それは、私たちの救い、再創造のため、回復のために、すべての栄光と豊かさを捨てて貧しい者となってくださったイエス様の大きな恵みを受けた私たちが、自分の高慢さや強さに価値を置くのではなく、弱さを誇り、誰かのために貧しい者、仕える者になっていく、イエス様の十字架に倣う生き方です。
十字架によってすべては変えられました。私たちの生き方もまた変えられ続けていくために、イエス様の十字架の道を辿っていきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
今日からアドベントです。私たちに豊かな恵みを注ぐために、すべての栄光と豊かさを捨てて貧しい者となり、しもべのように歩まれ、十字架の死にまでも従ってくださったイエス様のお姿を思います。
どうか私たちもそのような者にしてください。私たちのうちにおられるイエス様が私という人間らしさの真ん中におられるように、私たちを造り変えてください。
私たちはいろいろな高慢さや自分勝手な思いに迷いやすい者ですから、よくよく自分自身を吟味し、へりくだることができますように。
主イエス様のお名前によって祈ります。」