2023年 3月 19日 礼拝 聖書:テモテ第二 4:1-8
皆さんは聖書の話しから「ライフワーク」なんて言葉が出て来るとは思いもしなかったかも知れません。そもそも「ライフワークって何?」という人もいることでしょう。
ライフワークとは、一生の趣味のようなものではなく、自分が人生を通してやり遂げるべきだと信じて身を捧げているもののことです。皆さんにはそのようなものがあるでしょうか。
多くの人が、自分の仕事とライフワークの違いが分からず、定年退職を迎えた後で人生の目的を見失ってしまったり、今やっている仕事に意味を見いだせなかったり、仕事と信仰があたかも対立するものであるかのように勘違いして葛藤したりします。
もちろん聖書には「ライフワーク」という言葉自体は出て来ません。しかしイエス様が私たちに教えた神の民、弟子としての生き方についての原則はまさにライフワークについてなのです。
そして聖書各巻を取り上げるシリーズはテモテへの手紙第二に入りました。パウロの書いた手紙の中では最後のものです。そしてテモテという愛する弟子との深い個人的なつながりが良く分かるこの手紙では、パウロが自分のライフワークをどう理解し、テモテに託そうとしているかが分かります。今日はパウロがテモテにどうやってライフワークをやり遂げるよう教えたかを学びながら、私たち自身のライフワークについて考えてみましょう。
1.あなたへの召命
第一に、イエス様は私たち一人一人にライフワークを与えてくださっています。それを自分のものとして受け取りましょう。
自分のライフワークを知るための鍵となるのは、これまで歩んで来た道のりと、神様から与えられた「賜物」です。テモテへの手紙はエペソ教会の指導者として立てられていたテモテを励ますために書かれたものですが、1:1~2:13までは、神様がテモテに与え、召した働きにしっかり留まるよう教えています。
パウロは3~8節でテモテに、どのようにして彼のうちに信仰と賜物が与えられたかを思い出すよう命じています。テモテの信仰は祖母ロイスと母ユニケから受け継いだものです。人は誰でも、どのようにしてイエス様への信仰を受け取ったかの物語を持っています。テモテのように家族を通してかもしれないし、飛び込んだ教会の牧師やクリスチャンを通してかもしれません。聖書の教えを全部わかって信じたのではないけれど、最も重要な部分は理解して、自分が神の前に罪があり、そのためにイエス様が死んでくださり、よみがえって私たちを赦し、新しく生かしてくださると信じたその信仰は偽りのないものだったはずです。
そのような信仰を与えてくださった神様は、神様ご自身のご計画と恵みによって、私たちを「聖なる招きをめもって召してくだ」さったと9節に記されています。アブラハムに約束された、彼の子孫を通して全世界に祝福をもたらすという大きなご計画、全世界に出ていって福音を宣べ伝えなさいという大宣教命令に、それぞれの仕方で貢献し仕えるように、世界の祝福となるように、私たちに賜物と聖霊による助けを与えてくださるのです。
神様が私たちのこれまでの人生経験や聖霊によって与えてくださった賜物、能力があります。それをただ得意なことを活かせる職場を見つけるというだけでなく、そうしたものを通して神様の救いのご計画やこの世界の祝福にどう貢献するよう導かれているだろうかと考え、見定めることがライフワークを見つけることです。テモテは聖書を教え教会を導く能力であり、使命でした。皆さんの場合はどうでしょうか。どういう仕方で神の子どもとして成長するだけでなく、他の人々に仕えていくよう召されているでしょうか。
ライフワークに取り組む時、困難もつきものです。テモテはエペソ教会の中にあった問題に揺れ動き、しかも恩師であるパウロが犯罪者として扱われていることで人々がパウロを見限る中、自信を無くしてしまっていました。かつて仲間だった人たちの中にも、パウロを疑ったり非難する人たちが出て来ていたのです。
しかしパウロは自分のことより、テモテがそれで揺らいでしまっていることを心配しました。ですから13節にあるように、キリストにある信仰と愛によってテモテに託された健全な教えをしっかりと保ち、委ねられた良いものを守るよう励ましているのです。
ライフワークを成し遂げるには2:1~7にあるように、兵士の忠実さ、アスリートの熱心さ、農夫の忍耐強さが求められます。このことは誰にも当てはまることです。
また2:11~13節の詩は、キリストと共に歩む者を励ます力強い詩です。テモテだけでなく、すべての人々にこのことを思い起こさせるよう命じています。イエス様は私たちに対して常に真実ですから、私たちもイエス様とともに生きていけるのです。
2.聖書によって整えられる
第二に、私たちは聖書によって整えられることで、ライフワークを成し遂げることができます。人生を通して何かを成し遂げようとすれば様々な困難があり、迷いもあります。そんな私たちを聖書が整え、導いてくれるのです。
2:14以下で、エペソ教会を悩ませていた偽教師の問題に対処するため、聖書の教えにしっかり留まるよう励ましています。第一の手紙では偽教師が律法をへんてこに解釈することで結婚を禁じたり、食べ物の禁止リストを作ったりして教会を惑わしていました。今回の偽教師たちは、当時流行の思想に影響されて聖書の教えを歪めてしまっていました。その主な主張は2:18にあるように「復活はすでに起こった」というものです。ヒメナイとピレトという二人の人物の名前が出て来ますが、おそらくもともとはエペソ教会の指導的な立場だったのでしょう。それが間違った教えをするようになってしまったのです。
「復活はすでに起こった」というのは、大まかにいうと、復活というのはイエス様を信じたときにすでに霊的に新しくされたことだという主張のことのようです。当時流行した思想から影響されて、肉体より魂のほうが価値が高く、肉体の復活など意味が無いと考えるようになった人たちが、そんな風に復活の信仰と希望を歪めてしまったようです。一見霊的で信仰深そうに聞こえる話しですが、実際には歪んだ信仰は生き方をも歪めてしまうのです。22節から3章にかけてに幾つかの注意や警告が記されていますが、歪んだ信仰がクリスチャンの生活に及ぼす影響は想像以上に悪いものでした。
復活が未来の希望や目指す目標でなくなってしまうと、現状に満足し、これでいいじゃないかと、新しい人として生きる努力をしなくなります。具体的には2:22以下で戒められているように情欲におぼれたり、争いを引き起こしたり、3章でさらに警告されているように古い罪の性質に囚われたままの生き方を生み出してしまうのです。
教会に混乱をもたらすような人たちに対抗するためにパウロは自分をモデルにするよう教えます。3:10~11で「しかしあなたは、私の教え、生き方、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、また、アンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました。」とあり、14節で「学んで確信したところに留まりなさい」と命じています。相手を論破したり政治的なパワーゲームで追い出すのではなく、聖書に教えられた真理と、真理に基づいた生き方に留まり続けることが、偽りの教えに対抗する力です。ですから、パウロがそうしたように聖書によって教えられ、戒められ、整えられ、訓練されることが重要なのです。
16~17節はあまりに有名な聖句です。「神の人」というと特別な人たちの事で、自分には関係ないと思わないでください。私たちは誰であっても神様からそれぞれに選ばれた者たちであって、私たちの信仰と生き方を聖書によって整えられ、使命を果たす尊い器となるべき者たちです。
聖書を教える立場の人たちだけでなく、教会の役員や、家庭で子どもの模範となるべき親、未信者の家族や同僚にキリストの素晴らしさを表すべきクリスチャンなど、あらゆる立場の人たちは自分が何を信じ、どう生きるべきか聖書から学ぶ必要があるのです。
3.主イエスの真実と愛
第三に、ライフワークをやり通す力は、主イエス様の真実と愛から来ます。
手紙の最後、4章はテモテに対して自分の使命、ライフワークを時が良くても悪くてもやり通しなさいというおごそかな命令と、パウロの模範、そして頼るべき主の真実と愛が教えられています。
テモテの行く道のりには良い時もあれば悪いときもあります。むしろ、これからの時代は健全な教えに聞こうとせず、耳障りの良いことだけを聞きたがる人が増えるだろう、そういう時代になるだろうとパウロは予測しています。パウロはその先を行くように、6節で「私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました」と、殉教を覚悟しています。しかしパウロは「勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通し」あとは「義の栄冠」を受け取るだけだと達観しています。
パウロが置かれた状況はかなり悪かったようです。9節以下に冬になる前に早く訪ねに来て欲しいとか、パウロを見捨てた人たちのこと、寒さが酷いのでトロアスに置いてきた外套を持って来て欲しいとか、書物や羊皮紙など必要な品々のリストが続いています。
パウロはもう以前のようにあちこちを旅して教会を生み出し、励まし教えるような活躍は望めません。牢に捕らえられ、おそらくもう自由の身になることはないでしょう。彼を見捨てた人たちの見方では、パウロは惨めで、もう勝ち目はなく、パウロについていても未来を描けない、一緒に泥船に乗るのは勘弁、ということだったのでしょう。しかしイエス様が十字架の上で祈ったように16節で彼らが主から責任を問われることのないよう執り成しました。そして17節で、パウロが自分についてまったく違った見方をしていたことを明らかにしています。「主は私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。」というのです。パウロは自分の投獄という状況も用いて福音が世界に拡がっていくこと、彼のライフワークが次の世代に受け継がれていることを喜びました。そして、彼自身はイエス様が無事に天の御国に入れてくださることを確信していたので、賛美することができました。彼が仕事をやりとげ、走り通したと言えたのは、これまで主が示し続けて来た真実であり、最後に22節でテモテのために祈っているように、主の恵みがともにあったからです。
イエス様の真実と愛は、何もここで急に出てきたものではありません。テモテに宿った信仰が、世代を超えて与えられたものであることや、与えられた神の賜物や聖霊の励ましがあり、幼い頃から聖書を通して育まれてきたことを思い出させていました。2:1では、「私の子よ」と親しみを込めて呼びかけ「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」と励ましています。先ほど2:13でみたように、たとえ「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実」です。2:19にも、神の堅固な土台には「主はご自分に属する者を知っておられる」と刻まれていると、私たちが揺るがない恵みと真理の堅い基礎に結ばれていることを描いていました。
こうして主イエスの真実と恵みが、生涯を通してテモテを導き、育み、確かな土台、愛に満ちた力となって、パウロのように走るべき道のりを走りとおさせ、同じ真実と恵みが私たちを強め、導き、私たちに委ねられた務めを生涯とおして果たさせるのです。
適用:私なりの仕方で
今日はテモテへの手紙第二を通してパウロがテモテに与えられた召命、彼のライフワークについて確信し、困難があってもやり遂げるよう励まし、そのために聖書から教えられ、イエス様の真実と恵みに強められるよう、指針を与えています。
クリスチャンにとってライフワークを見出し、生涯をかけてやり通すのは、それが充実した人生をもたらしたり、経済的なゆとりを生み出すことが第一の理由ではありません。もちろん、パウロが人生を振り返って満足できたように、他人がどう評価しようと、ライフワークをやり遂げたら自分の人生に満足と誇りを持つことができるでしょう。もしかしたら経済的なゆとりをももたらしてくれるかも知れません。
しかし、神様が私たちにライフワークを与えるのは、他の人たちに私たちが受け取った祝福を分け与えるためです。
それは、アブラハムの子孫を通して全世界に祝福をもたらすという神のご計画、キリストの十字架によってすべての人々に罪と死から開放され、新しく生きる恵みを受け取るためのご計画に、私たちのなりの仕方で参加し、貢献することを意味します。
パソコンやスマートフォンを開発した世界的に有名な経営者が、自分が中退した大学で卒業式に呼ばれた時の有名なスピーチがあります。彼が若い頃に学んだり経験した事柄が、点と点が結ばれてやがて一本の線になって自分のやるべき事につながっていることに気付いたことを話し、これから本物の人生を切り開いていく卒業生たちを励ましていました。私たちはそれに加え、私たちが経験したことが決して偶然ではなく、神様の大きなご計画の中で意味あることとして経験していることを信じます。
私は、テモテのように祖母や親から信仰を受け継ぎました。幼い頃から聖書に親しみました。学生時代に学んだ事、技術、嫌な思い出も含めて、やがて点と点が一本の線に結ばれ「人々の信仰と生活が聖書によって整えられるために働きたい」という思いを持つようになりました。神学校に行き、その後いろいろな道を辿ってきましたが、今、北上の教会に導かれ、神学校の働きにも導かれていることを通して、その時々の具体的な仕事の内容は変わっても、主が与えてくださった救いと召しが変わらないことを実感しています。
ぜひ、自分自身のライフワークを見出してください。これまでの歩みの中で経験し、学んだ事、何かの資格を取ったというようなことを神様が経験させてくださったこととして捉えなおし、その中で見つけた自分の強み、得意なこと、人から「これ上手だよね」と褒められたことなどをつなぎ合わせてみてください。それらが、神様の全世界を祝福したい、キリストによる救いの恵みに与らせたいという願いとご計画にどう結びつくか考えてみてみましょう。テモテのような働きに召される人もいるでしょうし、一生懸命働いて得たお金を神様のご用のために献金することで仕えるという人もいるでしょう。働きながら自分の生活を築き上げ、ボランティアを通して地域に仕えるよう導かれるかも知れませんし、家庭で夫や子ども、親に仕える事かも知れません。年齢や状況の変化で具体的な働き方は変わるでしょう。それでも私たちがそうした奉仕、働きを通して神の子どもとして成長しながら、神の家族である兄弟姉妹に仕え、また福音が世界に拡がり神の祝福がもたらされるために仕えるということに変わりはありません。
自分がなすべき事を見出したなら、テモテへの手紙が教えているように、聖書に学び続け、主イエス様の真実と恵みに拠り頼んで、主が「今まで良くやってくれた」と言ってくださるときまで、忍耐と情熱を持って取り組んでいきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
私たちは、ただ自分の悩みや苦しみ、私たちを捕らえて離さない罪と死から逃れるために救われたのではなく、神様がご自分の民を通して全世界に祝福をもたらすという偉大な計画のために召してくださったことを覚えます。
私たちが生涯を通して何をなすべきか、そのために神様が私の人生に与えてくださった経験、御霊の賜物を思い起こし、思いを巡らし、見出していくことができますように助けてください。
地上の生涯が終わりが近づいたり、肉体が弱くなったとき、果たして何の役に立つのかと思うこともあるかも知れませんが、その時にも神様は私たちを用いてくださいます。自分の計画や自分の力ではなく、みことばに学び続け、イエス様の真実と恵みによって歩ませください。
イエス様のお名前によって祈ります。」