2023-04-16 生き生きとした交わりに

2023年 4月 16日 礼拝 聖書:ピレモン1-7

 若い頃、教会ではよく「お茶飲み話は交わりではない」ということを言われました。お茶を飲みながら世間話をする光景はどこにでもありますが、教会の中での交わりがその辺の井戸端会議と変わらない噂話や芸能界の話しだけで終わっては意味がないと思った先生方が注意喚起のために言っていたのかも知れません。

ピレモンへの手紙は1章だけしかない短い手紙で、新約聖書に含まれるパウロの手紙では最後のものになります。時期的には、コロサイ書を書いた時期と重なり、パウロが牢に捕らえられていた時に記されました。とても個人的な手紙で、一見すると個人的なお願いを記しただけに見えますが、実はここにキリストにある交わりについてとても大事なことが記されています。

月に一度、私たちの教会では礼拝の後に「コイノニア」という時間を持っています。今日開いているピレモンへの手紙では、このコイノニアという言葉がとても重要なテーマになっています。

日本語の翻訳では、ピレモンへの手紙の中で「交わり」や「仲間」と訳されています。コイノニアは、集会やプログラムの呼び方ではなく、クリスチャンが良いものを分かち合い、共に励まし合いながら仲間として生きていく、そんな関係性やそのために実際に時間を作ったり、何かを与えあったりすることをコイノニアと呼んでいるのです。ではピレモンへの手紙をみていきましょう。

1.神の愛と恵みを分かち合う

まず1~7節はパウロからピレモンへの挨拶になっています。

良くみると、手紙の宛先はピレモンだけでなく、姉妹アッピア、戦友アルキポ、そしてピレモンの家にある教会へと書いてあり、決して個人的な手紙ではない事が分かります。

「私たちの戦友アルキポ」はコロサイ書の終わりの挨拶にも出て来る名前で、コロサイ教会の指導者の一人だったことが分かります。つまり、ピレモンというパウロの古い友人は、コロサイにいくつかあったうちの一つの家の教会のリーダーであり、その働きにはアッピアやアルキポといった男女のリーダーたちも深く関わっていたということです。この手紙でパウロがお願いしている内容に一番深く関わり、応答が求められているのはピレモンですが、そのピレモンを仲間であるアッピアやアルキポがサポートし、家の教会全体としてもこのことを受け止めることを期待していたのです。

ローマ書に「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。」とありますが、教会の仲間にあった個人的でとても具体的な喜びや悲しみを他人ごとではなく、我がことのように思い合うことが期待されていることが分かります。

そんな教会家族とそのリーダーであるピレモンへの挨拶文の中で「交わり」がどのようなものなのかがよく表れています。

5節「あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼」とあります。私たちはイエス様が私たちに向けてくださった愛と真実に、愛と信頼で応えるのですが、それを今度は教会家族にも向けていきます。

さらに6節で「私たちの間でキリストのためになされている良い行い」とあります。これらが具体的に何を指しているか説明はありませんが、同じコロサイ教会に宛てられた手紙の3章には、具体的なことが書かれています。たとえばコロサイ3:12以下には慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容、互いへの忍耐、赦し、感謝の心、互いに教え合い、賛美を共に歌う、といったことが上げられています。また家族の中での振る舞いや、教会の外にいるクリスチャンでない人たちに対する振る舞い方などが教えられています。

ピレモン書に戻りますが、そうした行いによってパウロは7節で「あなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました」と言っています。また「あなたによって聖徒たちが安心を得た」とも言っています。つまり、交わりは喜びや慰め、安心を与えるものです。

イエス様から受けた愛と真実に応えて、その愛と真実を表すために、生活のあらゆる場面で神様からいただいた愛と恵みを分かち合うということです。ですから新約聖書では、遠く離れて直接会うことができないけれども困難の中にある兄弟姉妹のために献金することを「交わり」と呼んでもいます。

ですから、聖書の話題や賛美があったとしても、批判や嘘、人に不安を与えるようなものであるなら、交流はあるとしても、それはキリストにある交わりとは言いがたいものと言えるでしょう。しかし、たとえお茶飲み話だけしているように見えても、それを通して神の愛や慰めを受け、安心を与えるようであれば、そこにはキリストにある交わりがあります。

交わりとは神の愛と恵み、神様からいただいた良きものを分け合うものなのです。

2.パウロのジレンマ

第二に、パウロはこの交わりについてジレンマをかかえていました。交わりは人間関係に関わることなので、神の愛と恵みを分かち合うとは言っても、簡単にはいかない事情もあります。

8~20節にはパウロがピレモンに個人的に願いしたいことを書いている箇所ですが、そこにパウロのジレンマが良く表れています。パウロはその願いを直接書く前に、実に慎重に、回りくどいほどにお願いする理由を説明しています。

パウロはこの事について、ピレモンを指導する立場にある使徒として遠慮なく命じることも出来るのだけれど、愛の故に、しかも年老いて囚人にもなっているという、泣き落としと言えるような口ぶりで、懇願しますという言い方にパウロの思いが表れています。

何が問題であったかというと、10節に登場する「獄中で生んだわが子オネシモ」のことです。オネシモという名前はコロサイ書にも出てきます。コロサイ4:8~9でパウロがティキコをコロサイ教会に派遣するときに、「忠実な、愛する兄弟オネシモ」を一緒に送ると言っています。彼はもともと「あなたがたの仲間の一人」つまり、コロサイ教会所縁の人物であったことが分かります。

オネシモはもともとピレモンの家に仕えていた奴隷でした。11節に「以前はあなたにとって役に立たない者でした」というのは能力が低かったということではなく、どうもピレモンを裏切って損害を与えたか、盗みを働いてしまい、その罪を逃れるために逃亡してしまったということのようです。当時、そういう逃亡奴隷というのは捕まればもとの主人のもとに送り返され、主人には奴隷をどのように扱うか任されていました。普通は牢屋に突き出され、逃亡奴隷というレッテルを貼られて一生過ごすという厳しい運命が待っていたのです。盗みを働いたり裏切ったりするだけでも大きな罪だったのに、逃亡してしまったら二重の罪になり、責任を問われるのがローマ社会の決まりでした。

ところが、オネシモは逃げた先でどういうふうにしてか分かりませんが、パウロと出会います。そしてパウロを通してオネシモはイエス様を信じ、獄中にいるパウロの助けをするようになり、福音を宣べ伝える働きを任せられるほどに成長したのです。パウロはこのことについて、15~16節で、オネシモの逃亡を、主人に損害を与えた逃亡奴隷ということで終わらせず、彼を主にある兄弟として取り戻すための神様の計らいであったと考えてみないかと語りかけています。

パウロはオネシモを自分のもとに置いてこれからも一緒に宣教の働きに仕えて欲しいと思いましたが、そのためにはピレモンとの間にある問題を解決する必要がありました。そこでティキコとともにオネシモをコロサイにいるピレモンに送り返すことにしました。

そのため17節にあるように、オネシモを逃亡奴隷としてではな愛する兄弟として、パウロを迎え入れる時と同じような迎え方で、オネシモを迎えて欲しいと頼んでいます。ある意味、これはとんでもないお願いでした。ピレモンには逃亡奴隷を牢に放り込む権利があり、実際そうしたとしても誰からも非難されるようなことではありませんでした。むしろ、社会の秩序を守るために歓迎さえされたことでしょう。クリスチャンだから赦すべきだと単純に言えることではなかったのです。

3.交わりの回復のために

第三に、交わりの回復のためにパウロは自分が犠牲を払ってもいいと申し出ています。

パウロはピレモンにオネシモを迎えて欲しいと願うにあたって、17節で「あなたが私を仲間だと思うなら」と言っていますが、この「仲間」にも例の「コイノニア」という言葉が使われています。もちろん、そこにはイエス様から注がれた愛と真実があり、それに応えてイエス様を愛し、信頼し、同じように兄弟姉妹を愛するという、私たちの生き方の原則があります。

そうは言っても、キリストにある交わりだ、兄弟姉妹だから、仲間だから、というだけではなかなか赦しや和解、回復には向かない場合があります。前の衆議院選挙で何人かのクリスチャンが議員として立候補し、その中には現役の牧師も含まれていました。親しい友人牧師がぜひ応援しようと声をかけてくるケースもありましたが、「いやいや、クリスチャンだからといって、牧師だからといって応援というわけにはなかなかいかないよ」と断ったら、ちょっとした波風が立ちました。

オネシモの問題はそれ以上に実質的な損害や社会の秩序に関わる重大な事件だったのです。今だったら横領して逃亡した元従業員が逃亡先で自分を導いてくれた先生に出会い、クリスチャンになったからといって、簡単に受け入れられるかという事と同じです。単に損害の問題だけでなく、他の従業員に対する示しがつかないとか、そんな人をまた迎えるなんてどうかしている、大丈夫かという評判の問題にもなります。

そこでパウロはオネシモがピレモンに対して損害を与えたのならそれは自分が贖いますと申し出ました。19節の言い方はちょっとずるい言い方にも見えます。「言わないことにします」と言いながら言っちゃっていますから。でも、そこにはピレモンのためにパウロが払った多くの犠牲があったことがうかがわれますし、ある種の交渉術のようにも見えます。肝心なポイントは、命令によってではなく、ピレモンの善意から、厚意から、彼が本当に主にある交わりというものを理解し、他の人たちに示して来た愛と真実を、かつての家族の一員であったオネシモにも向けて欲しい、たとえ罪を犯した者だとしても、今は悔い改め主にあって有能な者となった若者を寛大な心で迎えて欲しいと言っているのです。そして、実際的な損失があったなら、パウロ自身が弁償するからと言うのです。

私たちはここに、イエス様が私たちの赦しのために贖いを成し遂げてくださったのと同じことをパウロがしようとしている姿を見ることができますし、ピレモンに対しては、神が自分を恵みによって赦し受け入れてくださったことに倣うよう励ましているのだということが観て取れます。

神様は私たちに自分の罪を負わせず、代わりにイエス様に負わせ、赦してくださいました。コロサイ3:11でも「ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」と教えられていました。

私たちは、誰もが神様の前で赦される必要のある者なのだ、その私たちを神様はイエス様を通して愛と恵みを豊かに与えてくれた、ということが私たちの交わりの土台であり模範なのです。

適用:可能性を信じて

ピレモンへの手紙は、コロサイ書で教えてきた教会の交わりの基本的な原則を、コロサイ教会のリーダーの一人であったピレモンとその逃亡奴隷オネシモの間にあった問題に当てはめて、非常に具体的に取り扱い、パウロ自身が自ら犠牲を払ってでも交わりを回復させようと励ます手紙です。

この手紙から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

もちろん、クリスチャンの交わりが何を土台とし、何を模範とすべきかを学ぶことができました。私たちは、誰もが神様の前で赦される必要のある者で、そんな私たちを神様はイエス様を通して愛と恵みを豊かに与えてくださいました。それが私たちの交わりの土台であり模範です。

しかしまた、ピレモンとオネシモの問題、その間に立つパウロの行動から観て取れることは、実際に主にあって良きものを分かち合い、愛と真実を示し合う交わりを築いこうとするとき、時々難しい事に直面し、それを乗り越えていく事が求められるということです。6節で「あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。」と、この手紙を記した目的が書かれていましたが、それは具体的にはオネシモを受け入れるかどうか、という現実的で、生々しい、そして自分の権利や社会的な評判などを手放すかどうかが問われることでした。「生き生きとした交わり」と聞くと、一見、みんな笑顔の楽しい交わりの場面を思い描くかも知れませんが、実際には、こうした問題を乗り越えていくことが必要で、みんなの笑顔はその先にあるのです。

私たちの経験して来たことを考えてみましょう。オネシモのような、誰かに負い目がある立場だったとき、パウロに送り出されて素直にかつての主人のもとに向かうことが出来ていたでしょうか。オネシモは赦されず牢にぶち込まれる可能性だってあったはずです。もちろんそのような扱いを受けるとしても、当然受け入れるつもりだったでしょう。しかし主にあってピレモンが自分を逃亡奴隷ではなく兄弟として受け入れてくれる可能性がありました。

ピレモンのように、自分に負い目がある人、その人に対して責任を問う権利があるような場合にも、赦しなさい、受け入れなさいと言われてどうしたでしょうか。

パウロのように、間に立たねばならない時、主にある兄弟姉妹として、では自分が犠牲を払おうと言うことができたでしょうか。

私たちはいずれの立場でも上手くできなかったことがあるかも知れません。赦される可能性より責められることへの恐れが上回って逃げ続けるかも知れないし、自分の権利を手放せず赦せないかも知れないし、互いに愛し合いましょうと口では言いながら自分が犠牲を払わなければならない状況になったら急にトーンダウンしてしまうかも知れません。それは私たち人間の誰にでもある弱さです。

だからこそ、神の恵みと真実にもとづく可能性を信じましょう。難しく複雑な人間関係の中にも、常に和解と交わりの回復という可能性を信じていましょう。しかし「生き生きとした交わり」を取り戻すべきだという迫りを心に受ける時、それを無視せず、その迫りが私たちを愛し、真実を尽くしてくださった神様が聖霊を通して語りかけておられることを思い出し、応答しましょう。失われた笑顔と喜びがその先にあるのです。

祈り

「天の父なる神様。

今日はピレモンへの手紙を通して生きた交わりへの回復を神様がどれほど願っておられるかを教えられました。

私たちを愛し、赦すためにひとり子イエス様が罪を王ってくださり、誰であれ分け隔て無く受け入れてくださったことを心から感謝します。

そのような大きな恵みを受けているにも拘わらず、それを他の人に向けるべきときに、なかなか出来ない弱さや恐れやプライド、あるいは深い傷があるのが私たちです。そのような私たちですが、それでも、主の愛が私たちのうちにある限り、いつでも赦しと和解によって生き生きとした交わりを回復できる可能性があることを感謝します。どうぞ、私たちのうちに迫るものがあるとき、恐れることなく、受け取り、また進み出ることができますように。

主イェス様のお名前によって祈ります。」

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