2023-06-18 最後の仕事

2023年 6月 18日 礼拝 聖書:ペテロ第一1:1-15

 数週間前、SNSを通じて牧師たちの間で「宣教師を名乗ってあやしい勧誘をする人たちがどこそこの地域を回っているから要注意」という情報が流れました。実はこうしたことは度々あります。ペテロの時代も偽教師と言われる人々の存在がしばしば教会を混乱させていました。

ペテロの手紙第二は、いわばペテロの遺言のようです。第一の手紙と同様、今のトルコにあたる小アジアのクリスチャンを念頭に書かれた手紙ですが、最初の手紙から状況は少し変わっていました。

当時は、歴史の教科書にも登場する皇帝ネロの時代です。特に西暦64年のローマ大火があったときに、火をつけたのはキリスト教徒だという噂が立ち、ネロ皇帝は教会指導者だけでなく一般の信者をも迫害の対象とし、多くのいのちが失われました。1:14で暗に言っているように、ペテロは身の危険を感じており、死が迫っていることを感じてたのも頷けます。伝承によればローマ大火から3年後の67年にペテロは磔にされて殉教したと言われます。

そんな差し迫った状況の中、ペテロが気がかりだったのは、自分が天に召された後の教会です。教会を脅かす問題は前回の迫害や苦難だけではなく、福音を正しく継承せず、間違った教えで人々を惑わす偽教師たちの存在です。それは今日も深刻な心配ごとですから、惑わされないよう、学んでいきましょう。

1.でっちあげじゃない

第一に、ペテロや他の使徒たちがいのちがけで宣べ伝え、多くのクリスチャンたちが迫害や苦難の中でも保ち続けているこの福音と希望は、決してでっちあげではありません。

ペテロは1:1~15の挨拶と手紙を書く目的について書いた後で、ペテロや使徒たちに向けられていた「お前たちの言っていることは勝手に作りだした話じゃないか」という非難、疑いに応えようとしています。

まず前半の挨拶でペテロは救いの意味を示します。救いとは私たちクリスチャンがイエス様によって神のいのちにあずかる者、神の性質にあずかる者とされたということを意味します。罪が赦されるだけでなく、聖なる神様の性質に似た者にされていくのです。

神様の性質に似た者にされていくことは、信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、そして愛を身につけそれらが豊かにされていくことです。これは、ガラテヤ書の御霊の実の内容とよく似ていることが分かると思います。苦しみから解放されることや、悩みが取り去られること、自分の願いが叶うことばかりに私たちの祈りや関心があるうちは、絶えず不満や疑い、迷いが私たちの心を支配しがちです。苦しみの背後にある神様の愛や示された希望は言葉としては知っていても実感のないものになります。信仰の歩みはしているようですが、なかなか実を結べません。

ですから、私たちの中心的な関心や願いや祈りを、5節にあるように「あらゆる熱意を傾けて」これらの神様の良い性質を自分のものとし、特に愛を身につけることに向ける必要があります。ペテロは自分の最後のメッセージとして、自分が死んだあとも、このことを思い出して欲しいと願ってこの手紙を書きました。

しかし、こうした使徒たちの教えに対して、根本的な疑いを差し挟む人たちがいました。1:14にあるように、ペテロや使徒たちが伝え教えていることは作り話じゃないか、という者たちです。

こうした指摘はいつの時代にもあります。イエス様自身が残した書物はありませんし、よみがえられ天に変えられたイエス様が実在した痕跡は当然残っていません。伝承ではイエス様の遺体を包んだ布とか、お墓の跡とか、そういうのは確かにありますが、何かを証明するようなものではありません。ですから、一昔前に流行った映画『ダ・ヴィンチ・コード』のような陰謀論的な、聖書に書かれていない秘密があるかのような話しはしょっちゅう出てきます。

しかしペテロは第一にイエス様の十字架と復活、そして天に上げられたことの目撃者であり、第二にイエス様の教えとなさったことが、旧約聖書で神様が預言者たちを通して示していた約束の成就であることを指摘します。

それでも「でっちあげだ」と乱暴に主張する人たちもいます。

一つの例を挙げたいと思います。あるアメリカ人大学生がキリスト教を論破するための論文を書こうとしていました。様々な研究や対話を重ねて、ついには論破できないことを悟り、キリスト教に回心したのです。それ以降、彼は大学生や青年たちを真理に導くために多くの働きをし、多くの人々の助けとなりました。

殆どの人はそんな努力すらせず、ただ頭ごなしに「信じられない」と言いますが、ペテロの証言と聖書の証言は真剣に取り組めば真実であることが分かるはずです。

2.神のさばきはある

第二に、偽預言者たちが「神の最後の審判なんてない」という主張していましたので、ペテロは「神のさばきは確かにある」と反論しています。このテーマは2章に記されています。

あちこちの家の壁に黒字の上に黄色い目立つ文字で聖書のことばが書かれた、通称「キリスト看板」と言われる看板が貼られています。時々教会にも「あれはおたくの教会のですか」と言われて困ることがあるのですが、あるキリスト教伝道団体がその家の人の了解を得て掲げてあるものです。

非常に短い言葉で、神様の愛や恵みより、裁きを強調した言葉が多いので見る者の居心地を悪くさせる面があります。

多くの人たちにとって神の裁きがあるということは都合の悪い真実です。最後の審判があるということは、自分のした行いについて責任が問われることをいちいち気にしなきゃいけないということですし、何か後ろめたい気持ちを起こさせるものです。人の心は弱いものです。罪に対する結果、不道徳なことや自分勝手なこと、愛や憐れみのなさに対する厳しい報いがあるという事実から目をそらさせてくれるものにはしがみつきたくなりがちです。

それなのに教会を惑わしていた偽教師たちはなぜそんなことを教えていたのでしょうか。

ペテロの指摘によれば、彼ら自身がキリストによって与えられた自由を都合良くねじ曲げ、自分たちの欲望のままに生きることを正当化したかったからです。2:12以下にあるように、彼らは本能に支配され、昼間から飲み騒ぐことを楽しみにし、性的に乱れ、貪欲であるばかりか18節にあるように、信仰において揺らいでいる人々を誘惑して「そんなこと気にしないで、望むままに生きなさい」と主の道から連れだそうとさえするのです。

彼らは自由を語っていましたが、実際には自分の欲望の奴隷となり、他の人たちに自由を語りながら、彼らを再び罪の奴隷にしてしまっていたのです。

そんな偽教師や偽教師に迷わされているクリスチャンたちにペテロは旧約聖書の3つの例をあげて神の裁きは必ず訪れることを警告します。

2:4の「罪を犯した御使いたち」、5節のノアの時代の不敬虔な人々、6節のソドムとゴモラ。これらは創世記の中のおなじみのエピソードです。彼らにくだった裁きを例にあげて、神様が罪深い者をそのままにしておくことはあり得ないことを教えています。6節後半にあるように「不敬虔な者たちにあることの実例とされ」たのです。しかし、この裁きは同時に敬虔な者たちを救い出すものでもありました。ロトとその家族は決して完全に敬虔と言えるような人ではありませんでしたが、それでも心を痛め神の警告を聞いた時に耳を傾けました。彼は滅びから救われただけでなく、9節にあるように誘惑から救い出されたのです。

ペテロは20節でイエス様を知ったクリスチャンが再び世の汚れに巻き込まれ、負けてしまうなら、その罪深さや状態の悪さはクリスチャンになる前よりもっと悪くなってしまうと警告します。

ペテロはそういうクリスチャンが神のさばきによって滅びると言ってはいませんが、神の裁きなんてないという嘘で自分の罪を正当化すると、救われる以前より酷くなると戒めているのです。

3.神の忍耐と未来

第三に、イエス様の再臨は本当にあるのかと疑う人たちに対して、3章で、それこそが私たちの望みであり、神の忍耐強さのしるしであることを語っています。

ペテロが殉教の死を遂げたのは西暦67年頃と言われています。イエス様が天に上げられてからだいたい30年は経っています。特に初期のクリスチャンたちはイエス様の再臨はすぐにでも来ると信じている人たちが多かったので、迫害や苦難が続くと「本当に主はおいでになるのか」「いつになったら来てくれるのか」と考えるようになりました。

偽教師たちも同様の疑問を使徒たちに投げかけましたが、その理由はまったく別でした。3節に「嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら」とあるように、彼らの動機は自分たちの好き勝手な暮らしの言い訳に利用していたのです。ちょうど、イエス様のたとえ話の中で留守を預かっていたしもべたちが、主人が帰るのはどうせまだだろうと、好き放題やっていたのに似ています。

あるいは留守番を任された子どもたちが、親はまだ帰って来ないだろうと宿題もせず、約束も守らずゲームばっかりしてたようなものです。

けれど彼らも言うことは立派です。4節「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか」。30年経てばクリスチャンになった最初の世代はすでに亡くなっているケースもあります。世代交代したのに、主の再臨の約束は果たされず、イスラエルはなおもローマの属国のまま。バビロンに喩えられたローマ帝国の繁栄と堕落ぶりは相も変わらずです。「イエス様が帰ってこないんなら」と不届きな考えをし始めました。しかしペテロは5節以下で彼らが見落としていることについて二つのことを上げています。

一つはこの世界は神のことばによって創造され、同じ神のことばで大洪水によって一度滅び、同じことばによって最後の審判までの間保たれてもいます。

もう一つ見落としていけないのは創造主なる神様の時間の感覚と、ちっぽけな被造物に過ぎない私たち人間の時間感覚はまるで違うということです。人間の感覚では神様のなさることを十分には知り得ません。しかし確かなことは、私たちにとって「遅い」と思うことも、神様からすれば一人でも多くの人が救いを受け取るのを忍耐強く待っておられるということです。

ここでも、クリスチャンが生き方次第では最後のさばきの時に滅びるほうに回されるかもよ、と言っているのではなく11節にあるように、イエス様を信じて聖なる神様のいのちにあずかり、その性質に似た者に変えられていく人生へと召されたのだから、そのような生き方を目指すべきだということを思い起こさせているのです。この天地はやがて新たにされ、地上のすべての悪は取り去られます。しかし私たちは一緒に取り去られるのではなく、その先にある新しい天と新しい地、神様の義と平和、愛と喜びが満ちた世界の希望を持つ者です。

ペテロは人の生き方は終わりの日をどのようなものとして信じるかによって大きく変わることを指摘しています。私たちは待ち望む終わりを見て、今日という日の生き方、考え方を整えるのです。

適用:神の愛が私たちの希望

ペテロの手紙第二全体を通して偽教師たちの主張に応える形で教えられていることは、イエス様が再びおいでになるとき、神がこの世界の罪を裁き、新しい未来の扉を開いてくださるという希望です。この使徒たちの作り話なんかじゃなく、確かな希望です。

ペテロや使徒たちはそのイエス様の直接の目撃者でしたし、その証言が自分のいのちを危うくすると分かっていても決して止めませんでした。そこにその真実さが現れています。

それだけでなく、聖書自身がそのことを預言し、また神様がなさった様々な事柄が、やがて来る終わりの日や裁き、すべてを新しくする日が来ることを明白に告げていることを示して来ました。

そして、神様がそのようなことをなさる究極的な動機はご自分のいのちと良き性質を私たちにも与えたいという神様の愛にあり、イエス様という犠牲を払ってでも与えてくださった大きな恵みによるものなのです。

ペテロは手紙の最後の挨拶、14~18節で再び「愛する者たち」と呼びかけながら、このペテロのメッセージが使徒パウロの語っていることと同じであることを指摘しています。この点で使徒たちの間に何の矛盾も違いもありませんでした。だから「愛する者たち」と再び繰り返しながら17節で「あなたがたはもう前もって分かっているのですから」惑わされないで「自分自身の堅実さを」しっかり保つよう励まして手紙を閉じます。

今回もペテロの手紙を通して教えられている中心的な内容は、きっとすでに聞いたことのあるものだったという方がほとんでしょう。細かな旧約のエピソードなどは知らないこともあったかもしれないし、説明が難しく感じられることもあったでしょう。

しかしイエス様が再びおいでになること、罪に対するさばきがあること、神様がすべてを新しく造り変える時が来ること、こうしたことはもう前もって分かっていることです。

けれども重要なポイントは、そのような希望があるなら、今私たちはどう生きるかということです。神様がイエス様を通して私たちに与えようとしたものを求めずしてどうするというのでしょう。

私たちはどうしても救いを自分の味わっている苦しみから解放されることという面にばかり目が行きがちです。現実の生活の中ではそうした苦難は簡単には終わらなかったり、終わる間もなく次の試練がたたみかけるようにやって来たりします。イエス様はいつ助けてくれるのか、神様が守り支えると約束してくださったことは今じゃなくていつ果たされるのかと言いたくなります。そうした中で、どうせ信じても何も変わらないなら、もういいやって気持ちになる人もいるはずです。

確かに私自身も、例えば人間関係で深く傷付き悩んでいた時は「あいつさえいなければすべては解決するのに」なんてふうに思い込んだりしました。しかし実際にはそう上手くは行きませんし、自分に有利に事を運ぼうと策略を巡らしてもかえって問題が複雑になるだけで、二重三重に苦しみます。

そんな弱さにつけこむ偽教師が実際に現れるかどうかは巡り合わせなので分かりませんが、そういう人々がいなくても、神様の愛や希望を疑わせ、神の聖さや義について無視するよう誘惑するものは他にもいろいろあります。

しかし神様が私たちに与えようとしておられるいのち、救いとは、イエス様によって神様の良い性質が私たちのうちに形づくられることで、罪の力に囚われていた私たちが本当の意味で自由になることが最も大切な部分です。そこに目を向ければ、人間関係の悩みの中でも、家族の悩みごとでも、あるいは自分や家族が病気に倒れた時にも、そのただ中で大切なことを学んだり、気付いたりします。それは自分の中に神様の性質に少しでも近づくようなことだったり、周りの人たちの愛に気付かされたりもしますし、神様が導いてくださっているとしか言い様のない経験だったりするのです。

最後にもう一度ペテロの最後の言葉、4:17~18を読んで終わりにしましょう。

祈り

「天の父なる神様。

あなたがイエス様によって私たちに与えてくださった救いが、あなたのいのちと素晴らしいご性質にあずからせようとするものであることを覚えて、もう一度感謝します。

私たちの弱さや迷わせるものに迷わされず、主が与えてくださるものをひたすら求め、堅実に歩むことができるように、ことにこの混乱した時代にあっては、そのようにさせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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