2023-06-25 神は光、神は愛だから

2023年 6月 25日 礼拝 聖書:第一ヨハネ1:1-4

 クリスチャンにとっての一つの課題は、長い人生の中で信仰を保ち続けることです。イエス様を信じて、喜びとともに信仰の歩みが始まっても、様々な出来事や心の変化の中で信仰を失ったり、迷うことは誰にでもありうることです。イエス様の救いが完全で「罪赦され神の子どもとされた者は聖霊の証印によって救いのうちに永遠に保たれている」とは言っても、私たちの信仰が弱ってしまえば、現実の暮らしの中で本来信仰によって受け取れる力も喜びも悟りもなしに生きていくことになりますから、それはそれで苦しいものになります。

今日から3回に渡ってヨハネの手紙を学んでいきますが、出だしがヨハネの福音書と良く似ていることをはじめ、福音書との共通点も多く、おそらく使徒ヨハネが書いたものだろうと言われています。使徒ヨハネが手紙を書いた時代の教会にも、そんなふうにして教会から離れたり、信仰が弱ってしまう人たちがいました。

そんな危機を感じ取ったヨハネが兄弟姉妹を励ますために書き送ったのがヨハネの手紙です。手紙は第一から第三まであ、3つの内容はバラバラなものではありません。第一の手紙で取り扱った問題を、第二と第三の手紙が補足するようなかたちになっています。ですが、今回は3つをそれぞれ一回ずつ学んでいくことにしたいと思います。

1.私たちの交わり

まず今日読んでいただいた箇所は、ヨハネの手紙の導入部分にあたります。実を言うとこの第一の手紙は、手紙と呼ばれてはいますが、実際には説教のような構成になっています。ですので、始まりの部分もパウロの手紙に見られるような挨拶もなければ著者自身の紹介もありません。

先ほども言ったように1~4節を見て、ヨハネの福音書に良く似ていることに気付く人がいると思います。この導入部分でヨハネは福音書でも語っていた、はじめからおられたことばなる方、つまり人として来られた神であるイエス様について語っています。ヨハネはこの方を直接知っていました。イエス様のお話をじかに聞き、その姿や表情を直接目にし、肩を寄せ合ったり寝食をともにしながら旅をしたイエス様を通して、永遠のいのちが現され、受け取ったので、ヨハネはイエス様を証しして、手紙の受け取り手であるクリスチャンたちに伝えました。

手紙の受け取り手は、おそらくエペソ教会のまわりにあった複数の家の教会と考えられています。今のトルコの西海岸の主要都市であったエペソにはパウロを通して早くから福音が伝えられ、当時はヨハネがその家の教会を指導する立場にあったようです。

ヨハネはこの導入部分で、この手紙、あるいは説教を書き送った目的についてはっきりと記しています。3節にあるように「あなたがたも私たちとの交わりを持つようになるためです」ということなのですが、この交わりは単に人間同士の親しい関係ということではなく、父なる神様、御子イエス様との交わりに加えられていくということです。

教会の交わりの中心にはいつでも神様が、イエス様がおられることを忘れてはいけません。特にヨハネが手紙を書かなければならなかったような、教会が危機に直面しているような時にはなおさら、人間的な思いや考えが溢れ出してきますので、自分たちがなぜ結び合わされ、共に歩み、一緒に悩むようになっているかをはっきり思い出す必要があります。

私たちは父なる神様の深い御思いとご愛により、御子イエス様の恵みによってひとつ神の家族とされていること、この交わりに加えられていることをいつでも思い起こすべきなのです。

ヨハネが意識していた教会の危機というのは、教会から離れイエス様を救い主とも神とも認めなくなった人たちがいたことでした。2:19にはヨハネが反キリストと呼んでいる人たちが、「私たちの中から出て」行ったと書いてあります。クリスチャンの仲間であるかのように交わりの中にいたのに、イエス様を否定して出ていってしまう人たちがいました。しかもあえて「反キリスト」と厳しく呼んでいるように、彼らはイエス様や教会に敵意を向けていました。そんな人たちが教会の交わりの中から現れたらどうでしょう。当然、みんな不安になりますし、どうしてそんなふうになってしまったのかとか、自分もそうなってしまうんじゃないかと心が揺らいでしまう人たちもいたことでしょう。

ですからヨハネは、クリスチャン一人一人が神様とイエス様との揺るぎない交わりの中にしっかり留まれるよう励まし、また神様との交わりの中に生きるとはどういうことかを再確認するためにこの手紙を書いたのです。

2.光なる神

1:5節からいよいよ本文に入るのですが、第一の手紙は分かりやすいキーワードで区切られています。それは「使信」という言葉です。ずばりメッセージという意味です。1:5と3:11の二箇所に出て来て、これが本文の区切りになっています。

最初にヨハネが私たちに伝えるメッセージは「神は光であり、神には闇が全くないということです」。もちろん光が神様だということではありません。光と闇という分かりやすい対比を用いてヨハネが伝えようとしていることは、神様の聖さや義といった性質です。

私たちが兄弟姉妹とともに、この光なる神様との交わりに入れられたということは、私たち個人としても、教会の交わりとしても、その光なる神様の性質に似たものに変えられていくということです。7節にあるように、イエス様の十字架の血潮が私たちをすべての罪からきよめてくださいます。

しかし問題は私たちのうちには罪があり、教会の交わりの中にも様々な闇が生じやすいということです。そのようなことは一週間の生活を振り返ってみても、クリスチャン同士の交わりの中でもちょっと考えれば思い当たることがあるに違いありません。

良くないのは、そうした現実を否定して、罪がないかのように振る舞ってしまうことです。私たちは過ちを犯す者です。悪意がなくても、失敗しますし、無意識のうちに人を傷つけるような言葉や態度を取るとき、自分でも気付かない闇を心に抱えていることがあります。時々、学校や会社で虐めやハラスメントの問題が起きたときに「そのようなことはありません」とか「事実かどうか確認中です」と言い逃れようとする責任者の見苦しい姿をテレビやネットで見ます。しかし私たちクリスチャンはそうであってはならないのです。光なる神様は真実で正しいお方として、私たちが罪を認め悔い改める時に赦します。

けれども赦されるから罪を犯しても平気ということはありません。光である神様との交わりの中に入れられた私たちは罪を犯さない者になって欲しいというが神様の願いです。

それでも、私たちは罪を犯してしまう弱さがあります。そこに2:1にあるよううにとりなしてくださるイエス様の存在があるのです。この神様とイエス様の交わりの中にある私たちなのですから、6節にあるように神様の愛とイエス様の恵みに安心しつつ、光の中を歩もうと努力すべきなのです。具体的には神のことば、とくに7~8節にあるように、すでに私たちが知っている新しい命令、互いに愛し合うという命令に従うことを何より大切にしなければなりません。12~14節には光のうちに歩むべきことを、おそらく当時の讃美歌から引用された詩を通して示されています。

私たちがこれらのことをしっかり覚えるべきなのは、イエス様を否定し、攻撃し、私たちを引き離そうとする人々がいるからです。それが2:18以下です。クリスチャンの仲間であるかのように振る舞いながら、実は誤魔化しやこの世の価値観に生きることを良しとし、誘う人々がいます。だから2:24にあるように、初めから聞いていること、神とキリストの交わりの中にあり、互いに愛し合うことに留まるべきです。そうすれば28節にあるように、恥じ入ることもないし、3:2にあるように、やがてキリストに似た者にされるという確信を持ち、希望を持つことができます。

3.愛なる神

二度目に「使信」つまりメッセージという言葉が出て来るのは3:11です。ここが手紙本文の二つ目の区切りになります。

3:11~5:17で取り上げられているのは、私たちが信じ、交わりの中にいれらた神様は愛なる方だということです。

11節でヨハネは、私たちが初めから聞いているメッセージは「互いに愛し合うべきであること」だと告げています。これは、クリスチャンになるために信ずべき内容というより、クリスチャンの生き方についてもっとも大切な原則です。そして確かにはじめに教えられることの一つです。

ヨハネは互いに愛し合うべきことを改めて教えるために、創世記に登場するカインを取り上げます。カインはアダムとエバの間に生まれた兄弟の兄のほうです。弟アベルを妬んで殺してしまった有名なエピソードをあげて、彼が弟を殺したのは弟が正しく自分が悪いことを知っていたので弟を憎んだのだと解説しています。

ヨハネがこの例を持ち出したのは、教会に対して敵意を向ける人たちの動機を明らかにするためです。

憎しみというかなり極端な言葉を用いていますが、そこまではっきりした感情でなくとも、神の光のうちを歩む人々が互いに愛し合っている姿に触れるとき、ある人たちはその姿に妬みや苛立ちを覚えることがあるでしょう。またある人たちは、親しい交わりにある種の憧れを抱きながらも、それを追い求めるのを押しとどめる反感や、自分の生き方の中にそうした愛が欠けていることを照らし出されることへの苛立ちが優勢になってしまうのです。光を求めながら、闇の部分さえ明るみに出す光に怯えるのかも知れません。

しかし、私たちはイエス様の犠牲的な愛を知っている者なのだから、愛する者になるべきだということです。愛するとは、相手のために自分を犠牲にしてでも差し出すことです。それは心の問題である以上に行動の問題です。18節に「ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」と言われている通りです。

隣人や兄弟姉妹に具体的に愛を示す行動をとることには、私たち自身にも大きな利益があります。4:19にあるように、自分が真理に属していることを確信できるのです。20節には「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます」とあるように、私たちは自分の中に罪があること、闇を抱えていることを自覚し、心がちくちく痛むことがあります。それでも、私たちが他者を愛することをし続けているなら、自分が神様の前をちゃんと歩けていると確信し、安心できるのです。

4:7~10にはまたまた詩が引用されています。「神は愛なり」という聖書の中でも最も有名なフレーズが含まれるこの詩が私たちに語っているのは、ひとり子イエス様を与えることで私たちにいのちを得させてくださったことに神の愛が表されている。この愛を知っている私たちは、当然、互いに愛し合うべきだということです。11節には、私たちが愛し合うことで、神がおられること、神が愛なる方であることが現されるのだとあります。いずれもヨハネの福音書で語られていることと同じです。ヨハネが、すでに知っているメッセージだと言ったとおりです。重要なのは、反対する人や、偽善じゃないかとか良い子ぶってると批判したり妬む人たちがいたとしても、すでに知っている愛に生きることです。

適用:真実な方とともに

さて、5:18からは手紙の結論です。ここも普通の手紙とはことなって、いわゆる挨拶的な言葉は出てきません。やはり説教の締めくくりのような語り口です。

ここで結論として言われていることは「私たちは知っています」という表現で三つにまとめられています。

ヨハネらしく、かなり極端な表現と対比を用いて聞く人の心にしっかり留まるような口調で書かれていますが、要点は真実な方との交わりに入れられていることこそが永遠のいのちなのだということです。私たちは光である神様、愛なる神様の真実さを知る力をイエス様によって与えられています。そしてこのイエス様、また神様との交わりの中に入れられており、その交わりの中に生きることこそが私たちの永遠のいのちなのです。

18節の「神から生まれた者は罪を犯さない」ということばを見るとクリスチャンの現実、私とはずいぶん違うなあと思うかも知れません。「罪を犯さない」という表現は「罪を犯し続けることはない」というニュアンスのほうが強く、間違いや誘惑に負けて罪を犯しても放って置くことができないという事です。どこかの時点で、自分が神さまを悲しませていることに気付き、悔い改めるのがクリスチャンです。光なる神様とともにあるから、私たちは悪い者から守られ、罪を犯し続けることはなく、悔い改めへと戻ることができるのです。

20節はもっとも大切なまとめになっています。神様が光なる方であり、愛なる方であり、この神様との交わりの中にあることが永遠のいのちを得ることであることを知る力を、人としてお生まれになったイエス様によって与えられました。イエス様を通して私たちは神がどのような方であるかを知り、その光と愛に照らされました。そしてイエス様と共に歩むことをとおして、神様の光と愛のうちに生きることを経験的に学び、さらに神様を深く知る者とされていきます。

クリスチャンとしての成長のカギは、何か特別な出来事や劇的なイベントによってではなく、クリスチャンになってほどなく教えられたことにあります。

確かに、今までの歩みを振り返って、キャンプや様々な集会で目が開かれるような思いがしたり、新たな気づきが与えられたことが何度もあります。しかし、それだけで終わってしまうと、その感動は何日も続きません。しかし、気付かされたことを普段の生活や自分の問題に具体的に当てはめてやってみたことは、たとえ失敗したとしても必ず自分の身になってきました。身近なところでや妹たちや親に対する態度を改めたり、教会での振る舞い方を改めました。説教中はついつい寝てしまっていましたが、疲れを言い訳にしないよう心に決めたことは、小さなことですが自分の信仰のあり方にとっては大きな変化でした。

神様は聖いお方で、私たちが罪から離れることを願っている。神様はまた愛なるお方で、私たちも互いに愛し合う者になることを願っておられる。御子イエス様は十字架でご自分を犠牲にすることで、神の聖さと義、そして愛を体現してくださいました。このお方の真実さによって救われ、その交わりに入れられた私たちですから、私たちも光のうちを歩み、愛する者になるべきなのです。そのことを日々の暮らし、教会の日常的な交わりの中でどんなに小さなことでもいいから、失敗しても構わないから、体験し続けることに永遠のいのちを味わい、成長し続けていくカギがあるのです。

神様や兄弟姉妹との交わりから引き離そうとするものがあっても、私たちが留めるべきところに留まっていれば恐れることはないのです。

祈り

「天の父なる神様。

今日はヨハネの手紙を通して、私たちに真実な神様とイエス様との交わりに入れられ、永遠のいのちに与っていることを覚えさせてくださり、ありがとうございます。主は光なる方であり、愛なる方です。あなたが私たちのうちにいてくださいますから、私たちもまた光のうちを歩み、他者を愛する者とならせてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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