2023-07-09 真理と愛のうちに

2023年 7月 9日 礼拝 聖書:ヨハネ第二 1-13

 私は若い頃、頭でっかちなところがありました。というか今もある程度はそういう傾向があります。

知識や理解と実際の行動のバランスが取れていないとその歩みはとても不安定です。とても行動的だけれども知性や思慮に欠けていることも問題を引き起こしやすいのは同じです。

さて、今日取り上げるヨハネの手紙第二は、聖書本文を見ていただければ分かるように「章」の区分がありません。非常に短い手紙です。先々週ご一緒に学んだ第一の手紙を補足するものになっていて、長老と呼ばれていたヨハネが、エペソにある家の教会に書き送ったものです。第一の手紙は説教のような内容ですが、第二の手紙、そして第三の手紙はまさに手紙です。

手紙が書かれた状況は第一の手紙と同じで、教会から離れてイエス様を救い主とは認めなくなった人たちが教会に敵意を向け、惑わそうとしていたということです。第一の手紙では、そういう危機の中で不安に陥っていた教会を落ち着かせるために書かれました。そこで語られたのは「神様は光なる方、愛なる方だから、偽教師に惑わされることなく、私たちも光の中を歩み、互いに愛し合おうという」ことでした。

第二の手紙はそんな偽教師、惑わす人が教会に来たらどうすべきか具体的な指示を与えるために書かれました。

1.真理と愛

はじめに、ヨハネは挨拶の中で真理と愛は二つで一つであることを強調しています。

冒頭で頭でっかちの話しをしましたが、まさにそのことがこの手紙において重要なテーマになっています。真理だけでなく愛も、愛だけでなく真理も、どちらも私たちが留まるべきものです。

手紙は、エペソにあったいくつかの家の教会に宛てて書かれましたが1節には宛名として「選ばれた婦人とその子どもたちへ」とあります。「婦人と子どもたち」は教会とクリスチャンたちを表していると解釈できるのですが、実際上も当時の家の教会の状況を反映していると言えます。家の教会というのは、文字通り、リーダーとなるクリスチャンの家庭を中心に何家族かが集まって形づくられたものです。彼らは共に交わり、食事をし、主の晩餐を祝い、みことばを学ぶ、信仰の共同体です。一家の主がリーダーになりますが、実際に家庭に人々を迎え入れ、食事を準備してもてなすという家の教会にとって大切な時間をしきるのは婦人たちでした。

当時は巡回伝道者のような、家の教会を巡り歩いて使徒たちの教えを伝え、教える教師たちがいたのですが、問題は第一の手紙にも出て来たような、悪意をもって近づく人たちがいたということです。彼らは家の教会の交わりに入って間違った教えを広めようとし、食事のもてなしに与り、あわよくば経済的な支援も要求する、そんな強欲な人たちでもありました。

敬虔な奉仕者のようにして訪ねてくる偽教師を最初に出迎えることになるのが、夫の留守をあずかる婦人たちと子どもたちです。

そんな人たちを念頭に「私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、(あなたがを)愛しています」と挨拶を送っています。

もちろん私たちは隣人を愛すべきであり、敵でさえ愛するよう教えられていますが、同じイエス様を信じ、同じ神の愛を受けたクリスチャン同士は特別な交わりの中にあります。

このようなことがあえて強調されているのは偽教師、惑わす人々のことを念頭においてのことです。彼らは表面的に敬虔そうに近づいてきますが、実際は真理を認めず強欲な者たちで、教会を愛してなんかいません。だからヨハネは、教会に属する兄弟姉妹を混じりけ無く心から愛していることを伝えておきたかったのです。

では真理とは一体何を指しているでしょうか。これはキリストについての真理であって、父なる神様の約束によって、人としてお生まれになったイエス様がキリストであり、神の御子であり、私たちの救い主だということ。そして、この方が私たちにご自分のいのちを与えるほどに愛してくださったということです。この真理を信じ、自分のものとした人は、決してイエス様を否定することはできないし、受け取った愛に応えようとするのです。

この真理と愛のうちに留まるとき、3節にあるように父なる神と御子イエス様からの恵みと平安が私たちとともにあることを悟らせ、実感させてくださいます。

聖書の知識が深く忙しく奉仕しても愛がなければ意味は無いというのは、有名な第一コリント13章にあるとおりですが、愛が真理に裏付けられていなければ目当てを失い、まったく見当外れなことをしながら自己満足で終わってしまうことがあります。

2.惑わす者

そこで第二に、ヨハネは家の教会の人々に改めて互いに愛し合うことを強調します。

ヨハネは家の教会の人々が真理のうちを歩んでいることを知って喜んでいましたが、イエス様を信じ、父なる神をうやまって生きるなら、ただ正しく生きるだけでなく、愛をもって互いに愛し合うことがイエス様によって私たちにはじめから与えられていた命令であることを思い出させています。

なぜそうしなければならなかったかというと、7節にあるように惑わす人々が出てきたからです。しかも「大勢」です。ヨハネはこうした惑わす人々を反キリストと呼んで警戒するよう戒めています。万が一にも彼らの惑わしに惑わされてしまうと8節にあるように、これまで労苦して得たものを失ってしまいます。イエス様の教えに従って歩み、身につけた新しい人としての生き方、喜びと平安が失われてしまいます。誠実な生き方をすることで勝ち取った周りの人たちからの信頼や尊敬も失うことになるでしょう。

しかし彼らはいったいどうやってクリスチャンたちを惑わすのでしょうか。9節には「だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は」とあります。

これは歴史上に登場したありとあらゆる異端の指導者たちが使った言葉です。テレビを賑わしている異端のグループは、創始者を再臨のキリストと呼んで、聖書では明らかにされていなかった、本当の真理を教えると言います。私たちの教会の近くにある異端のグループは、あるとき天使が新しい啓示を与え、それを記録したものを聖書より重要な経典として教えます。

分かりやすい異端だけでなく、世界中の教会を騒がせ、混乱させている様々なカルトや異端グループも、教会の中に忍び込み、「本当のことを教えるよ」と囁くのです。クリスチャンとしての生き方や教会の活性化に悩んでいる指導者たちは時として驚くほど簡単に躓いてしまいます。

こうした惑わす者たちを見分ける手立ては二つあります。一つは「キリストの教え」に留まっているかどうかです。私たちがイエス様を信じる時に教えられたごく基本的な福音とクリスチャンの生き方についての基本的な原則に留まっているかどうかを見る事で見分けることができます。父なる神様のご計画と約束にしたがっておいでになったイエス様は、人となられた神であり、私たちの救いのために十字架で死なれ、三日目によみがえってくださった。この方を信じる者は誰でも罪赦され、神様の子どもとされ、新しいいのちのうちを歩む者とされます。天に上げられたイエス様が再び戻って来られる時に、この救いは完成し、さばきをなさる。それまでの間私たちはイエス様を証しするよう召されている。

ですが最近は、こうした基本的な教えは「その通りです。私たちの使徒信条を信じてますよ」と言いながら歪んだ教えをする怪しいグループがあります。

そこでもう一つ大事なのは、その人々が愛と真実によって行動しているかどうかです。ヨハネの時代の偽教師には強欲さという分かりやすい目印がありましたが、今の時代、それをあからさまにする人たちはあまりいません。しかし、仲間に引き入れるために嘘をついたり、誤魔化したりしているなら、そこに真理はありません。

3.家族を守る

ですから、偽教師や私たちを真理と愛から引き離そうと惑わす者が現れたとき、私たちは家族と神の家族である教会を守らなければなりません。特に家の教会の管理を任され、旅人や巡回伝道者たちを招き入れもてなす責任があった婦人のリーダーたちには重要な役割があります。私たちの体に喩えるなら、悪い食べ物でないかどうか見極めるために匂いを嗅いだりほんの少しだけ味を見て「大丈夫そう」とか「これは悪くなりかけてる」と判断して、体に入れないようにする役割です。

こうしたことは実際に普通の生活でもたびたびなされていると思います。最近はあまり飛び込みの営業マンが家庭を訪問するということはなくなってきているかも知れませんが、営業電話が掛かってくることはあります。ご主人が仕事に行っている間の専業主婦や高齢者は狙い目ですから、そんな時間帯に掛かってきます。それらをいちいちまともに話しを聞いていたら大変なことになりますし、気の弱い人や情が移りやすい人は、申し訳ないからと契約していまって、あとで大騒ぎになる、なんてことがたまに起こります。だから話しを聞くべき相手かどうか見分ける知恵と断る技術が必要になります。これは家の管理を任された者の大事な務めです。

同じように神の家である教会の管理を任された人たちは、悪意あるものや惑わすものを見分け、入れないようにする責任があるのです。特に、教会専用の会堂ではなく、クリスチャンの家庭を中心とした家の教会では、留守を守る婦人たちの役割が大きいのです。

ヨハネは10節で惑わす者、偽教師が来たら「家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません」とかなり厳しめの対処法を示しています。注意しなければならないのは、この場合「家に受け入れてはいけません」というのは家の教会の仲間として受け入れてはいけないということです。挨拶してはいけないというのは、家の教会の婦人リーダーの人たちが巡回伝道者風の人に親しそうに挨拶していたら、他のクリスチャンたちも安心して近づいてくる危険性がありますし、偽教師たちも隙をついてぐいぐい入り込んで来るに違いありません。挨拶なんていう小さなことも11節にあるように「その悪い行いをともにすることに」なる恐れがあることを自覚しなければならないというのです。

以前もお話したことがありますが、確かに今も教会には”宣教師”や”伝道師”を名乗る人たちが来ます。知らないからといって全員を拒絶するわけではありませんが、一応警戒はします。

初代教会は家の教会が中心となって福音を宣べ伝えたことで迫害の中にあってもローマ帝国内に急速に拡大しました。すべての家の教会にいつもヨハネのような指導者が行けるわけではないので、家の教会のリーダーたちが中心となって礼拝し、交わりをし、みことばから学び、助け合っていました。むしろそうした教会のあり方が、教会の活力の源でした。しかし怪しげなものが入り込むリスクもあったのです。そのため家の教会のリーダーたちや婦人たちは大切な役割を果たしました。

世界で急速に福音が進展している地域では、キリスト教への圧力が高い中でも、初代教会と同じように家の教会を中心として拡がっているそうですが、教会の姿は違っていても、偽教師から神の家族が守られる必要があるのは間違いありません。

適用:君たちはどう生きるか

最近、映画化され今週末には公開されることになっている『君たちはどう生きるか』という映画の原作本があります。吉野源三郎という方が第二次世界大戦に今まさに突き進んでいるという時代に子ども向けに書いたものです。映画のほうはどうなっているか分かりませんが、14歳のコペル君というあだ名の少年が直面する様々な問題に、コペルというあだ名をつけた叔父さんのアドバイスを受けながら自分で考え解決していこうとする姿を描いたものです。それは少年の物語を通して読む者に「では、君ならどうする?」と問いかけるような作品になっています。

さて、私たちもヨハネの手紙を通して示されていることから「では、あなたはどうしますか?」ということが問われます。

ヨハネはこの手紙で全てを語ったわけではありません。12節にあるように他にも言いたいこと、伝えたいことはあるのですが、手紙ではなく、会って話したいのです。それは、単に教えを教えとして、情報として伝えることではなく、交わりそのものの喜びをヨハネも味わいたいからです。

しかし、最も重要なポイントはこの手紙は明確にされています。偽教師や惑わすものを家に入れない、教会に入れないという役割があるかないかに関わらず、私たちはみな父なる神とキリストの真理と愛を受け取った者として、この真理と愛のうちに留まり、福音の本質をしっかりと捕らえて私たちの人生や教会の交わりの土台、柱としなければなりませんし、私たちはその真理をしっかりした土台にして互いに愛し合う者でなければなりません。

現代は惑わす者は玄関を叩いたり、呼び鈴を押してくるとは限りません。テレビやラジオ、雑誌のような昔からあるメディアに加え、次々と新しいサービスを生み出すネットもあります。そこに溢れる情報はとても役立つもの、確かなものだけでなく、真理から程遠いもの、本当の愛からかけ離れたものが入り交じっています。特にSNSでは広告代を稼ぐために見栄えや単純化された主張が人気になりやすいですし、そうしたものがすぐ目に入るような仕組みにもなっています。聖書の話しだから、キリスト教の牧師を名乗っているからというだけで鵜呑みにはできません。子どもや孫がそういったものを見ていたらちゃんと中身を判別しアドバイスできるでしょうか。

私たちが本当に真理と愛に留まるためには、ヨハネと家の教会の人たちが、会って直接話しをする必要があったように、教会の交わりの中で聖書をたがいに学び合い、人格的な関わりの中で真理を知り、愛し合うことを経験する必要があります。

今、神学校では教会主体の神学教育というのを提供しています。牧師になる人たちだけが聖書を学べばいいということではないし、神学校にいかないと聖書を学べないということでもなく、誰もが真理をしっかりと捉え、実際の生活や直面する様々な問題に向き合うための知恵を磨き、家族や教会、地域の中にあって誠実に愛を持って歩み、福音宣教に貢献するための助けになるよう学びを提供しています。しかも学校に通ったり通信教育によってではなく、教会の中で一緒に学べるように作られています。大分前に取り組んでくださった方々もありますが、また学びたいというかたがおられたらぜひご一緒したいと思います。

さて、半分神学校の宣伝のようになっていますが、大切なことは、私たちが本当に真理と愛のうちに留まり、歩み続けられるようになることです。惑わすものが大勢現れてくるこの時代に、私たちが父なる神様とイエス様の恵みとあわれみ、平安があり、喜びに満ちあふれるためにどうしても必要なことなのです。

祈り

「天の父なる神様。

あなたの真実と愛に疑いを抱かせたり、あなたがイエス様を通して示された真理と愛から引き離すような、惑わすものが溢れているこの時代、そうしたものに惑わされることなく、真理と愛のうちを歩み続け、確かな救いを証ししていけるように、どうぞ私たちを強めてください。私たちがあなたと共に歩むことで、あなたの恵みとあわれみ、平安に溢れ、喜びに満ちた日々を、教会の交わりを育んでいくことができますように助け手ください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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