2023-08-13 苦難の中にある教会へ

2023年 8月 13日 礼拝 聖書:黙示録1:1-11

 今日から3回に分けて黙示録を取り上げます。およそ2年半前にはじめた、創世記から順番に一書ずつ概観するシリーズの最後は、当然黙示録ということになります。

しかし、黙示録ほど解釈が分かれ、時には興味本位で好き勝手にいじられてきた書巻はないかもしれません。一般的に、この世の終わりについて、しかも破滅的な世界の終末が書かれていると理解されている黙示録は、誤解もされやすく、また難解で、読んで恵まれるという感じを受けにくい書物です。

ベトナム戦争の狂気を描いた映画には『地獄の黙示録』という題名がついていました。映画だけでなく、小説やゲームの世界で『黙示録』という名前がついていると、大体が破壊的で破滅を招く何か、というイメージで描かれるようです。

解釈が難しい上に、そういう怖いイメージや使い古されたファンタジーの味付けがされていることもあるからか、黙示録をきちんと読む、ということがクリスチャンの間でもなかなかされないのではないかと感じています。

しかし、黙示録もまたすべての時代のクリスチャン、教会に向けて語られた大切なメッセ―ジです。私たちを教え、励ますために記されたものです。今回、いくらかでも黙示録が伝えていることの大筋を捕らえることができたらと願っています。

1.黙示と預言

まず、黙示録がどういう種類の書物なのかということを説明しておきたいと思います。

1節にこの書物のいわば正式なタイトルが書かれています。「イエス・キリストの黙示」です。2節にあるように、この書は基本的にヨハネが見たことをそのまま記すかたちでまとめられています。

「黙示」という言葉は、「手紙」や「詩」「物語」と同じように、ユダヤの文化に見られる文学的なジャンルを表す言葉です。黙示文学は伝えようとする中心的なメッセージを詩や歴史文書としてではなく、幻や象徴をたくさん用いて描きます。それらの象徴を理解するヒントを持たない人にはさっぱり意味が分かりませんが、ヒントが分かっていれば言わんとすることは伝わります。聖書に限らず、黙示文学に分類される書物は何冊か知られていますが、私たちが手にしている聖書の中ではエゼキエル書やダニエル書が文学的なジャンルとしては黙示文学に含まれます。

そしてこの書は3節にあるように「預言のことば」でもあります。読む者、聞く者に幸いを与えるために書かれたということが記されています。ヨハネは神様が「すぐに起こるべきことをしもべたちに示すため」にこの黙示が与えられたと1節に記しているので、世界の終わりについての未来の計画を明らかにするものと思いたくなりますが、目的としては、旧約の預言書もそうだったように、むしろ神のご計画を知った人々を励まし、どう生きるべきか、道を指し示すために預言は与えられるものです。

黙示録はちょっと近づきがたい雰囲気がある書物ですが、黙示文学というジャンルで、私たちを励まし教えるために書かれたのだ、という理解をもって読み始めることが大事です。そして、手紙の読み方と詩の味わい方には違いがあるように、黙示文学には黙示文学を読むための作法があります。それを無視すると、世界の終わりに向かって起こるあらゆる災害や出来事を予測することができるとか、今どの程度終わりに近づいているか分かるといった勘違いが生まれてしまいます。

興味本位で幻や象徴を「未来を読み解く暗号」かなにかのように考えのめり込んでしまうと、世界に対する神様の愛や救いのご計画の結末という大事なポイントがぼやけてしまうことになります。

一昔前に流行った黙示録の解釈は、現代の世界情勢を理解する鍵だ、みたいな謳い文句でもてはやされましたが、イエス様の再臨についてセンセーショナルな描き方をして人を怖がらせるか、逆に一般の人々の聖書に対する信頼を失う結果にさえなりました。

確かに、黙示録には最終的な結末を指し示してはいますが、それをふまえて神様が現在をどう見ておられるか、そして今を生きるクリスチャンにどう生きてほしいと願っておられるかが記されていることを忘れてはいけません。

ヨハネの黙示録にはまた手紙としての面もあります。1章の後半から3章にかけて、当時小アジアと呼ばれていたトルコの西側にある七つの教会に向けてイエス様から書くように言われた手紙があります。つまり、この書物が書かれた時代に現実に存在した教会とクリスチャンが置かれた状況を背景に描かれ、その人たちが受け取った時にどういう意味をもったかという視点でまずは黙示録のメッセージを読み取る必要があるのです。

2.七つの教会

では黙示録の内容に入っていきましょう。最初の区分は1章後半から3章にかけての7つの教会への手紙形式のメッセージです。

パトモス島に流刑とされていたヨハネは7つの燭台を手にしているイエス様の幻を見ます。

この後もそうですが、黙示録に登場する数字や幻、象徴は旧約聖書に由来するものです。7は創世記の天地創造の7日間に由来し、安息日律法の由来にもなっています。つまり7は一つのサイクルの完了を表す数字です。黙示録は神様の救いの大きな物語がどのように完結するかを描くものなのです。

七つの燭台はゼカリヤ書に登場する、ゼカリヤが夢の中で見た金の燭台に由来します。この七つの燭台は小アジアにあった7つの教会を表しています。イエス様の様子も様々な象徴を用いて描かれているので、私たちがお会いするとき、口から両刃の剣が突き出た顔のイエス様に会うわけではないので、心配しなくてもいいです。これらのイメージはイエス様の聖さや力、みことばの鋭さなどを表しているのです。

7つの教会があった地名がありますが、地図を見るとそれらの名前を見つけることができます。

ヨハネの黙示録が書かれた時代は、悪名高い皇帝ネロよりさらに後の時代、皇帝ドミティニアヌスの頃です。しかしこのドミティニアヌスの時代に教会に対する組織的な迫害が行われるようになりました。暴力によって苦難が強いられる当時のクリスチャンたちにとってはどう生きるかが問われる状況です。

七つの教会に記されたことばを見ていくと、そういう状況の中で当時のクリスチャンたちがどういう生き方をしていたかが分かってきます。2:1~7のエペソ教会では労苦と忍耐、そして偽教師の惑わしに負けずに頑張っていましたが、厳しい戦いの中で初めの愛を忘れていました。8節からのスミルナの教会は苦難と貧しさの中にありましたが忠実であり続けていました。12節のペルガモンの町は偶像礼拝が盛んで、その影響を受けて不道徳な生活をするクリスチャンたちがいました。18節のティティラ教会は愛と信仰、奉仕と忍耐に優れていましたが教会に混乱と不道徳をもたらす者を放置するという過ちがありました。

3:1のサルディスの教会は信仰が名ばかりのものとなってしまっていましたが、一部にはちゃんとした人たちも残っています。7節のフィラデルディアの教会では偽教師たちによる惑わしにも関わらず、主のことばに忠実でした。14節のラオデキヤ教会は生ぬるい温泉のように、現状に満足し教会が直面している危機や他のクリスチャンたちの苦難に無関心でした。

7つの教会が示していた姿は、この世の情勢の中で翻弄され、苦難に会い、影響を受けながら、それでも信仰と忍耐をもって主に仕えたり、逆に惑わされて道を見失ったり、自分たちが置かれた幾らか恵まれた状況に甘んじて無関心になったり、逆に正しさを求めすぎて愛を見失ってしまうといった、いつの時代でも観られた、そして現在でも見られる教会、クリスチャンの現実を映し出しています。そのような教会に繰り返し語られている言葉が「勝利を得る者」です。イエス様はどういう意味で私たちが勝利者となることを願っているのでしょうか。

3.天の御座

勝利を得る者とはどういうことなのか、それは黙示録全体の大きなテーマの一つですが、そのヒントとなるのが次のまとまり、4~5章の天における神の御座の幻です。

非常に神々しい神の御座の様子が描かれていますが、これらはイザヤ書やエゼキエル書、ダニエル書で神の栄光の座を目撃した預言者たちと同じような書き方で、神様の栄光と聖さを表しています。24人の長老というのは、おそらく旧約の神の民イスラエル12部族と新約の神の民の代表ともいえる12使徒を象徴しています。

そして不思議な4つの生き物の姿も象徴的な意味を持った天使たちのことと思われますが、彼らは全てを創造し栄光にふさわしい方として「聖なる、聖なる、聖なるかな」と神を賛美し続けています。

この天における神の御座の光景が描かれた後で、御座についておられる方の手に七つの封印が施された巻物が登場します。

封印された巻物の封印が一つずつ解かれていく、というイメージは、秘められていたことが少しずつ明らかになっていくとか、計画されていたことが一つずつ実現していくというイメージにつながります。5章の巻物は、天にある神様のご臨在とご支配という神の国が、地上にどのようにもたらされるかという、神様のご計画を表していると言えます。

さて、この巻物について一人の御使いが巻物の封印を解くのに「ふさわしい者はだれか」と大声で問いかけるのをヨハネは聞きました。ところが、天にも地にもそれに相応しい者が見つかりません。つまり、御使いたちの中にも、人間たちの中にも、天にある神の国の栄光と豊かさを地上にもたらすことができそうな人がいなかったということです。それでヨハネは非常にがっかりします。

その時一人の長老が言います。「ユダ族から出た獅子、ダビデの根」が封印を解くことができるいうのをヨハネは聞きました。

イザヤをはじめとする旧約の預言者たちが来るべき方、メシヤ、救い主を指し示すときに用いた喩えです。まさにユダヤ人はダビデの子孫として生まれるライオンのような力強い勝者、というイメージで約束のキリストをとらえていました。

ところが6節を見ると、そこにおられるのはライオンではなく、小羊です。ヨハネが聞いていたことと、見たことのズレ、これがとても大事です。ヨハネが見たのはライオンではなく、血を流している小羊です。七つの角と7つの目というのも奇妙に思えますが、これも小羊のような方の力と権威、御霊の完全さを象徴しています。しかし、大事なことは、旧約の長老たちが「ダビデの根からでる獅子」という勇猛で力で支配する王としてイメージし、そのように聞いていたのに、実際に目にした救い主は、ご自身の血によって、つまり、殺され、その命ですべての民族や国の人々のために贖いをなさった、犠牲の小羊のような方だったという点です。この後、非常に多くの御使いたちや全てのいのちあるものが、小羊と神とを賛美している様子が描かれます。つまり封印を解いて神の救いのご計画を実現し、罪と悪に勝利し、栄光を受けたのは力で支配する王ではなく、人々のために血を流された小羊だったということです。

天にある神の御国は、力でねじ伏せ支配するやり方ではなく、救い主自身が犠牲となって悪を取り除くことで地上にもたらされるのです。

適用:勝利を得る者

このことは、苦難に直面し、様々な応答の仕方をしていた7つの教会に宛てた手紙の内容とどうつながっているのでしょうか。

改めて、手紙の部分を見ると、先ほども言ったように繰り返されている言葉がありました。

2:7の中程に「勝利を得る者」とあります。11節にも「勝利を得る者」、17節にも、26節と28節にも、3:5にも、12節にも、21節にも「勝利を得る者」とあります。7つの教会すべてに「勝利を得る者」という言葉が繰り返されています。教会の状況はそれぞれ違いがあり、忠実なクリスチャンたちもいれば、不忠実だったり不道徳だったり、無関心なクリスチャンや教会もありました。それでも神様は小羊なるイエス様の血によって贖われた人々が勝利を得る者になって欲しいと願っているのです。

そして、5章の小羊の幻を通してその「勝利」がどういうものかを指し示しています。

先日、女子ワールドカップの準々決勝がありました。残念ながら日本代表は強豪のスウェーデンに敗れましたが、ああいう試合で勝利を得る者といったら、ボールをコントロールし、ゲームを支配し、技量やチームワークで相手を凌駕し、相手のゴールネットを揺らして相手を打ち破ることです。

しばしば、私たちは人間関係の問題や人生に立ち塞がる困難について勝利するために、同じことをしようとします。状況をコントロールし、相手を打ち負かすことができれば勝てると思うのです。確かに、商売敵との競争に勝つにはそうなのかもしれません。しかし相手にマウントを取ったり、悪口に悪口で言い返したり、暴力に暴力で応じて何が解決するでしょうか。ひょっとして自分の声のほうが大きかったり、力が強かったりして、相手に勝ったように見えることがあっても、それは本当に勝利と言えるのでしょうか。神様がクリスチャンを通して世界に神の愛と恵みをもたらすという大きなご計画になんら貢献しないその勝利は一時的なものか、自分を満足させるだけのものです。

聖書が語る勝利は、イエス様によってはじめられた、私たちが救われ、新しい者として造り変えられることでの勝利です。

この勝利は他人や状況をコントロールすることではなく、私たちの内にある罪と悪に対する勝利です。それはイエス様への信頼と誠実さによって私たち自身が新しい者として変えられていくことによって得られる勝利です。

だから七つの教会には、思い起こしなさい、悔い改めなさい、しっかり保ちなさい、目を開きなさい、心の戸を開いて主を受け入れ、その交わりによって満たされなさいと勧めます。苦難の中で苦しくて思わずこの世の権力や様々な欲望を刺激する誘惑に妥協してしまったり、無関心や不誠実になったりする誘惑は常にあるし、実際時々私たちは過ちを犯すのだけれど、いつでもイエス様の道に戻って、誠実に生きなさいと励ますのです。

クリスチャンが直面する問題は七つの教会のような迫害だけではありません。現れ方は違っても、本質的には過去、現在、未来と繰り返される一定のパターンがあることがこの後の箇所で明らかにされていきます。内容は来週にしますが、今日私たちがしっかりと覚えたいことは、こんな世界に生きる私たち、そして足りないところも多い私たちですが、それでもイエス様にあって勝利を得る者になれるということです。

そのために私たちは悔い改め、イエス様から与えられた恵みを思い起こし、イエス様が教えてくださる道を誠実に歩もうと心を新たにしましょう。この歩みには苦難もありますが、豊かな報いが備えられていることをこの後も続けて学んでいきましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日は黙示録を通して、苦難の中を歩む教会に神様が与えた励ましを見て来ました。

終わりの時がいつであるかは分かりませんが、今も私たちをとりまく世界は混乱し、罪と悪によって振り回され、私たちもその影響の中に置かれています。弱くなることも、誘惑に負けることも、無関心や愛を失うことすらある私たちですが、それでも私たちのために贖いの小羊となってくださったイエス様が勝利してくださり、私たちを新しく造り変え続けてくださることを信じます。どうぞ私たちをイエス様にあって勝利を得る者としてください。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

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