2023-10-15 生きた交わりとしての礼拝

2023年 10月 15日 礼拝 聖書:コロサイ3:12-16

 先週お話したように、入院中に気付かされたこと、考えさせられたことについて今日もみことばとともに思い巡らしたいと思います。今日のテーマは教会の交わりとしての礼拝についてです。

「交わりとしての礼拝」と言われてもピンとこないかも知れません。私たちは「礼拝」は特定のプログラムに沿って行われる礼拝式、交わりはクリスチャンの交流やつながり、あるいは何らかの交わりのためのプログラムというように区別しがちです。

入院中の夢の中で、しばしば礼拝の場面が出て来ました。はじめのうちは、これまで行われて来た礼拝がいかに形式的で、勉強の場のようになっていて、多くの魂の素朴な飢え渇きにリアルに届いていないという、他者からの批判や、教会に来なくなってしまった若者たちの意見として示されました。実際にそんな批判をされていたわけではないので、おそらく私自身の中にあった疑問やひっかかりがイメージとして現れたのだと思います。そのうち、夢は変化し、まるく輪になって、集まる人々の感謝や訴えに応答するように賛美し、みことばが解き明かされる、プログラムらしいものがほとんどない礼拝の姿へと変わっていきました。今そのように変えるべきだと考えているわけではありませんが、礼拝とは何であるか、教会の交わりと礼拝はどういう関わりがあるのかを考えはじめるきっかけになりました。

1.初代教会の礼拝

9月に入り、退院を目の前にしてから院内でコロナに感染してしまいましたが、良かった点は主治医から許可が下りてスマートフォンを届けてもらえたことです。それで、日曜日にリモートで礼拝に参加することができました。礼拝後に眼鏡を外しパジャマのままの姿を晒すことになってしまったのは予定外でしたが、ご一緒に礼拝を捧げることができたことは感謝でした。

リモートでの礼拝自体に不満はありませんし、事情で教会に集えない方が共に礼拝を捧げられるのは良いことだと思います。

しかし同時に違和感も感じました。カメラはいつも講壇に焦点が当てられています。それは配信の技術的な制限でもありますが、考えて見れば、会堂に集って礼拝を捧げている時も、やはり私たちの視線はほとんどの場合、講壇の方に目が向いています。

その様子を病室といういつもと違う場所から見つめながら、新約聖書時代の礼拝とはずいぶん違うなあと改めて思わされたのです。

時代も文化も違うので礼拝の姿に違いがあるのは当然としても、何か大事な視点を見失っていないだろうかと思わされたのです。

聖書から礼拝について学ぼうとするとき、いくつか心に留めるべきポイントがあります。

一つは旧約時代の律法には礼拝についての細々とした規定がありますが、それは罪のための贖いを中心として献げ物をする神殿での礼拝が基礎になっていること。礼拝をとりまく祭司の制度やいけにえに関する細々とした規定は、イエス様の贖いによって成し遂げられましたから、新約時代の私たちはその規定には縛られません。

二つ目に、エルサレム教会をはじめとする初期の教会はユダヤ人中心でしたので、当時一般的だった会堂でのユダヤ式の礼拝や祈りの習慣を色濃く反映していました。クリスチャンはユダヤ人と別の神を信じているのではなく、同じ神を信じているのであり、神が約束されたキリストによる救いを信じているのです。

三つ目に新約聖書では礼拝のやり方について具体的な指示をしていないということです。

それらをふまえた上で、初代教会が礼拝をどのように捉え実行していたかを見ていくと幾つかの特徴が浮かび上がります。

まず初代教会は安息日を守るよりも礼拝することを大事にしました。教会は主が復活された日曜日に礼拝を守るようになりましたが、当時のローマ社会では特別にユダヤ人にだけ安息日である土曜日に休日が認められていました。日曜日は普通に働く日です。彼らは仕事を休むことではなく、そういう文化の中で仕事に出る前か仕事終わりに集まって礼拝を捧げることを大切にしました。

また礼拝の中では使徒たちを通して伝えられた教えや信仰の告白、バプテスマ、主の晩餐、賛美がなされましたが、しばしば夕食の交わりと礼拝は切れ目なく一続きのものとして行われました。

その後、広大なローマ帝国内に教会が拡がって行くにつれて、礼拝のあり方も様々な姿をとり、また時代と共に形式的に整えられたり、土着の風習を取り入れて例えばイースターやクリスマスといった祝祭や葬儀の仕方などが出来上がっていきました。

こうしたことを振り返る時、私たちは今捧げている礼拝の仕方が唯一の正解ということではなく、初代教会が大切にした礼拝の本質を大切にして絶えず見直す必要があるのだと思わされます。

2.うちにおられるキリスト

先ほども触れたように、新約聖書の中には、礼拝の仕方について直接教えている箇所はほとんどありません。礼拝についての考え方として有名なローマ12章の、心を一新して自分自身を捧げることが礼拝だという教えや、賛美しなさい、感謝しなさい、祈りなさい、みことばを教えなさいといった個々の教えがありますが、それらを礼拝式の中でどう組み合わせ、どのように表現するかはそれぞれの教会に委ねられていると考えることができます。もちろん、教会グループによって礼拝のあり方を厳格に定めているところもあれば、かなり自由にしているところもあります。伝統的に変わらないところも、どんどん新しくするところもあります。だからこそ形式より本質を見失わないようにしなければならないのです。

今日開いている箇所も礼拝について直接教えている箇所ではありません。むしろ、教会の交わりのあり方、もうちょっと平たく言えばクリスチャン同士の付き合い方、神の家族としての関わり方について教えています。しかし、その教えの中にやはり、みことばの教え、賛美、感謝といった礼拝に関する言葉が登場するのです。

今日は12節から読んでいただきましたが、内容的には3:1から続いています。キリストを信じて、キリストの十字架と復活に結ばれた者としての生き方を教えています。ひとことで言うなら11節にあるように「新しい人」として生きるということです。

その生き方の特徴は慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容なのですが、そうすべき理由は11節にあるように、人種や民族、身分などに関わりなく、私たちクリスチャンが信じ従うのはキリストだけであり、そして私たちみんなの中にそのキリストがおられるからです。だから私たちはお互いを見る時、その人の行動や性格、うわべを見るのではなく、その人のうちにおられるキリストを見つめ、キリストに対するよう接すべきです。それは必然的に互いに対して謙遜になることだし、たとえ間違いや罪があったとして裁くよりは寛容になり、困っている時には親切にすべきなのです。

礼拝について考えているときに、どうしてこのような教会の交わりについての教えを話すかというと、生き方と礼拝は決して分けられないものだからです。礼拝はお客さんのように参加するものではなく、お互いに対する謙遜や柔和さといった新しい人としての生き方に自分を捧げるように、礼拝において自分を神に捧げるのです。

イエス様が礼拝について教えた箇所の一つは、マタイ5:23~24です。ここでは神殿でささげ物を捧げるユダヤ人に対して教えられていますが、教えの原則すべてのクリスチャンに当てはまります。礼拝を捧げようというときに、誰かの恨みを買っていることを思い出したらまず仲直りし、それから礼拝するようにということです。もっとも、今、誰かが立ちあがって、遠く離れた古い友人のもとに出かけていったらびっくりしますが、要は兄弟姉妹との交わりの姿と礼拝は一致していなければならないということです。なぜなら、私たちが礼拝するキリストが、兄弟姉妹のうちにもいてくださるからです。

私たちは日曜日に集まる時だけでなく、兄弟姉妹と会うとき、思い出して祈る時、あるいは思い出して腹を立てる時も、その一人ひとりが同じキリストをやどす者であり、敬い、慈しみ、寛容になるべき存在であることを思い起こさなければならないのです。

3.尊敬、みことば、賛美

さて、16節は今月のみことばとして選んだ箇所です。

これまでご一緒に考えて来たことをふまえて16節を読む時、みことばの教え、感謝と賛美といった礼拝の要素が「礼拝式」という1時間か2時間のプログラムに限定されるものではなく、互いを尊敬しつつ、互いに教えあい、その交わりの中で神への感謝をもって賛美が捧げる、そのような生活そのもの、交わりそのものが礼拝であることが示されていると分かります。

教えというと、現代人にとっては専門の教育を受けた、それなりの立場がある人たちがするもの、という思い込みがあります。しかし、ここでは「知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い」とあります。何も小難しい神学や哲学を教え合えと言っているのではありません。イエス様を信じて新しい人とされた私たちが、互いを尊敬し、新しい人として生きるために聖書を通して与えられた基本的な教えや原則を生活の中でとらえ、お互いに確認し、時に忠告して励まし合うことを言っています。ただし自分が教えて満足したり優越感に浸るためではありません。「教え合う」ということは「学び合う」ことですし、「忠告し合う」とは「へりくだって聞き合う」ということでもあるはずです。そうやってみことばが私たちの暮らしと交わりに根付くようにするのです。

「知恵を尽くし」とあるように、自分自身がみことばに学び、相手の気持ちや考えを理解しようとする姿勢を保ち、言葉遣い、言い方に気をつけるなど、どうすれば尊敬すべき相手の徳を高めることにつながるかよくよく考えなければなりません。やはり土台には、これまで見て来たとおりに、キリストにある兄弟姉妹がだれでもキリストを宿している故に大切にし、敬うということが身についている必要があります。そうすることで「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むように」なるのだと聖書は教えています。みことばが私たちの暮らしと交わりに根付くのです。

そしてみことばが根付くためにもう一つ大事なのが感謝とともに捧げられる賛美です。

「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい」とあるように、感謝と賛美が溢れるようにと教えています。

「詩と賛美と霊の歌」のそれぞれの意味についてはいくつかの解釈がありますが、あまり意味を限定しないほうが良いかもしれません。むしろ、教会の中で様々なタイプの音楽や歌が神さまを賛美するものとして歌われることに意味があるのだと思われます。伝統的な讃美歌もあれば、現代的な曲もあり、トーンチャイムやウクレレで賛美したり、ゴスペルフラのような踊りを用いた賛美もあります。週に一度、礼拝式のときだけ歌うのではなく、賛美が普段の暮らしの中にあり、感謝をもってささげられるなら、キリストのことばがより深く私たちのうちに根付くことでしょう。

以上のように、新約聖書においては、礼拝というものが、一つのパッケージになった式典ではなく、クリスチャンの交わりそのものの中にみことばの教えがあり、応答があり、感謝があり、賛美があり、新しい人として生きようとすることが真の礼拝だというあのローマ12:1のみことばと見事に響き合うことがわかります。

適用:本質を求めて

さて、問題はそういう礼拝の本質をどのように表現するのかということです。

入院中、例のせん妄状態から解放された後も、教会の交わりと礼拝についてはいろいろと考えさせられ、手帳にアイディアをメモしたりもしました。けれども、そんな思いつきを実行に移すより、聖書が私たちに教えていることをもうすこしじっくり考えて見るべきだと思わされたのです。

お互いを尊敬し、学び合い、ともに感謝をもって賛美を捧げるために何ができるでしょうか。

もちろん、皆さんが礼拝に集うときは、それぞれに感謝したいことや賛美したいこと、また願い祈りたいこと、導きを求めていることがあるでしょう。また、みことばの解き明かしや賛美を通して教えられることや心に迫るがあるでしょう。しかし聖書が示している礼拝の姿は、それらを神様と私の個人的なもので終わらせず、分かち合い、教会家族のこととすることで互いに励まし合い、徳を高め合えるということなのです。

私は、日本の宗教的な背景を意識して、教会で行われる礼拝や式典をなるべくきちんと、そして厳かにすることを意識しました。しかし、振り返って見れば、神の家族としての温かさや自由さが弱くなってしまったかもしれないと思わされています。礼拝に集う人々がお客さんで居やすくなった面があるかも知れません。

礼拝は無秩序であっていいとは思いませんし、好き勝手にお喋りして良い場ではないはずですが、集う一人ひとりが生きた人間として、キリストにある神の家族の一員として互いに覚えられていることを実感できるようにしなければならないと思わされました。

私もそうですが、前のほうに座っていると、礼拝に誰が出席しているか終わるまで分からなかったりします。あまり見かけないお顔を拝見しても、終わりまで「誰だっけ」となったり、むしろ気付かないでしまったりします。そんなだと当然今日休んでいる人のことも気付かずに終わってしまいます。そういうことはやっぱりおかしいのだと感じることが必要です。

ただ講壇のほうに視線が向く集まりではなく、共に礼拝を捧げているお互いを意識し、覚える工夫が何か出来るかも知れません。

礼拝前にはいい笑顔で互いに挨拶し、にこやかにしていたのに、礼拝中は難しい顔になり、礼拝が終わるとほっとした顔でまた賑やかにお喋りをはじめるというのがよくあるパターンかも知れませんが、礼拝前の笑顔や柔和さがそのまま礼拝の時の表情になれたらどんなに素晴らしいかと思います。

説教が聖書箇所についてのただの感想や思いつきで語られるのは良くありませんが、聖書の教えは専門家に任せれば良いという意識から、互いに教え合い学び合う姿こそが教会本来のあり方なのだと意識が変わったら、教会のみことばに対する理解度や成熟度はどれほど増すでしょうか。

私たちはまだまだ教会の交わりや礼拝について考え直し、より良くしていくことができるはずです。婦人会や祈祷会だってそうですし、「会」と名のつかない交わり、そして家庭や個人的なつながりの中でも問われることがあることでしょう。「いつもどおり」「今まで通り」からより相応しい姿を求めていきたいを思います。

祈り

「天の父なる神様。

今日はコロサイ書を通して私たちの交わりと礼拝についておもいを巡らしました。慣れたやり方を続けることの良さもありますが、大切なことを見逃したり、見失ってしまっているかも知れません。

主が神の家族としてくださった教会にどのような交わりを願っておられるかをもういちど覚えさせてくださりありがとうございます。教会の交わりの中で神様をあがめ、感謝し、そのみことばによって強められるものであり、キリストにある交わりそのものが礼拝ですらあることを教えられました。

実際にどのようにすべきなのか、私たちはまだ分かっていないこともありますが、知恵を与え、ふさわしい姿へと導いてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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