2023-12-31 すべて

2023年 12月 31日 礼拝 聖書:詩篇103:1-22

 長いようで短かったような2023年が今日で終わります。

年末になると、一年を振り返る機会やきっかけがいろいろあります。私が好きなのは、今年一年ヒットした音楽を振り返るような音楽番組で、毎年新しい音楽に触れ、お気に入りのアーティストや曲を見つけるのが楽しみです。もちろん、日本や世界に起こった大きな出来事から目をそらすことは出来ないのですが、心を重くするようなものが多いので、申し訳ないけれど今日は聞きたくない、ということがあるのです。もちろん、夏に倒れて死にかけたことはとても大きなことで、人生何度目かの「まさか」で最大のものでした。

ともかく、今日は今年一年の最後の礼拝ですから、振り返り、ダビデが勧めるように、主を賛美したいと思います。

ご存じの通り教会にとっては、教会としてスタートしてから70年の年でした。初代宣教師のソレンティノ先生の長男ポールさんが奥さんのカレンさんと一緒に北上に来てくださり、佐藤将司先生を説教者に記念礼拝を捧げるられたのは嬉しい恵みでした。

私の健康上の理由でいろいろストップしてしまったものもありますが、教会の心を一つにした祈りの力を見られました。

一年を振り返るのにぴったりなこの主の日に、ふさわしい詩篇103篇を今日は開きました。教会やそれぞれの一年を思いうかべながら、このダビデの詩を味わっていきましょう。

1.主のよき業すべてを

5節までの最初の段落では、ダビデは自分自身に言いきかせるようにして、主を賛美しようと呼びかけています。

私たちが主を賛美すべき理由、そして自分自身に言いきかせるようにしてでも賛美すべき理由は、人生の苦難の時にも主が良いことをなさってくださったからです。

よく、人生には良いことと悪いことが半分ずつある、というような言い方がされます。人によっては悪いことの方が多いとも感じます。しかし、聖書の見方は全く別で、「主は あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生を 良いもので満ち足らせる」というのです。良いことのほうが圧倒的に多いというのです。

3節、4節を見ると、ダビデ自身が人生に起こった悪い事、不幸を経験していたことがわかります。「すべての咎」とあるように、自分自身が引き起こした罪とその結果も自覚しています。病もいくつか経験しました。いのちの危機に陥ったこともありました。

そうした不幸な経験、悪い事の中でも、その時々に主が赦し、主が癒やし、主が助け出してくださるという経験がありました。

「やっぱり良いことと悪いことは半々じゃないか」というような無粋なことは言わないでください。

罪を犯して、その良心の痛みや結果の苦しみよりも、赦され、新しい希望や自由を得たときの喜びのほうが遙かに大きいのです。

病には病の苦しさがあります。しかし癒された時の喜びが遙かに大きいものです。

人生で味わう様々な苦難、悲しみ、痛みは本物で、私たちの心と身体をすり減らし、弱らせますが、それを越えた神様の良い御わざが私たちを癒やし、慰め、新しい力を与えてくれます。

もちろん、これは詩ですから「すべての病を癒し」という言葉などが詩的な表現であることを知っています。治らない病気もありますし、一年振り返った時に「今年も解決できなかったなあ」ということはよくあります。そのせいで、癒された経験を信仰とからめで話すことにためらいを感じます。

先日、愛知におられる小形玲子さんから電話がありました。長い間目がよく見えずにいて、自分では何もできないと思っていましたが、自分で手紙の封をのり付けできて神様に感謝したと喜んで話してくれました。一昨日届いた短いお手紙は確かに良く見えない目で書いたんだなあと分かるような筆跡でしたが、しっかり封がされていました。たった1回のり付けできたことでも、長い間の不自由にまさる喜びがそこにはあったことがわかります。

私が病から回復する様子を多くの人たちが知って、神様が祈りを聞いてくださることをもう一度確信できたとか、闘病中の方から希望をもらったとか、神様が本当に生きておられるんだと実感した、という声を聞きました。心臓が止まる直前の激しい痛みとこれからどうなるか分からないという手術後の期間は苦難ではありましたが、神様は想像を超えてもっとすごいことをしてくださいました。

すべての苦難が年内にとか、私たちが望むようなかたちで解決するわけではないことは重々承知していますが、それでも神様は私たちの思いを越えて働いてくださいます。だから苦い経験をして良かったとは言えないかも知れませんが、主は労苦に代えて恵みをくださるお方です。

2.良いお方と限りある人

さて6節から14節に目を向けると、主が良いお方であるということと、私たち人間が小さく、限りある存在だということが描かれています。

ある人物のを説明するときには、いろいろな言い方が出来ます。真面目な人、はっきりものを言う人、気弱な人、仕事はできるけど人としてはちょっととか、まあ様々なです。神様がどんな方かということを、ここでもいろいろな言い方で紹介しています。

義とさばきを虐げられている人々のために行われる方。人間の世界では正義をふるうことが時として暴力を正当化するために用いられたり、弱い人々を苦しめることになるのですが、神様は弱い立場の側に立って正義をなさる方です。

また主は、主の道を教える方ですが、同時にあわれみ深く、情け深い方です。私たちの罪に対してすぐに報いを与えるのではなく、忍耐強く、寛大で、むしろ恵み豊かに接してくださいます。

その恵みの大きさは天より高く大きく、まるで東と西が離れているほどに私たちの罪を遠ざけ、あたかも罪などない者であるかのように扱ってくださいます。

神様の偉大さや理解し尽くせない思いの深さを考えれば、ひと言で言い表すのは無理な話ですが、それでもあえて言うなら、神様は良いお方です。

戦争や飢饉、自然災害に見舞われると「神がいるならなぜこんなことを許すのか」と問いたくなる気持ちはありますが、同じように戦いに明け暮れ、いのちを狙われて逃亡生活をしたり、生き延びるために敵国に逃げ込み気がふれたふりをしてやり過ごすこともありました。自分の過ちのせいで民が疫病でバタバタと死んでいくのを見なければならなかったり、不倫の果てに殺人にまで手を染めてしまうような罪深いことをしてしまったこともあります。そんなダビデが、振り返ってみて、「それでも神は良いお方だ」と言っていることに注目したいのです。私たちがそう思えないとしたら、何か見落としていることがあるのかも知れません。

私たちもまた限りある者で、弱い者です。14節で「主は 私たちの成り立ちを知り 私たちが土のちりにすぎないことを 心に留めてくださる。」と言われています。土埃のように無価値だと言いたいのではありません。この箇所は創世記の人が創造される場面を背景にしています。人間は神様にとって特別な存在ではありますが、同時に天地を造られた神の前では、造られたもの、被造物の一員です。どれほど優れた人物であっても、どれほど道徳的に高潔に生きる人であったとしても、またどれほど優秀な頭脳や類い希な技術を身につけた人でも、造られたものとしての限界があり、弱さがあります。

私たちが心や身体を病んだり、心の中から湧き上がってくる悪い思いに捕らわれたり、様々な欲求が強くなりすぎて自制心を失ったり誘惑に負けてしまう弱さがあることも神様はご存じです。もちろん年老いて体が思うように動かなくなったり、記憶力や認知能力が下がってしまうこともご存じです。人間とはそのような存在です。その上で、神様は私たちに憐れみ深く、情け深く、恵み豊かで、赦しに富み、私たちのために正義をなさる良いお方なのです。

3.主が治める御国で

15~22節は人間の存在のはかなさと主がご自身の御国を永遠に治める方であることを告げ、それ故にすべての所で、すべての造られた者に主を称えるよう呼びかけています。

聖書の中では人の一生や国の存亡を草花に喩えることが良くあります。ついこの間、家内に花をプレゼントしました。今年はいつもの年以上に助けてもらったので感謝を表したいと思ったのです。花は枯れてしまうのは分かっていますが、花の一生のはかなさは、必ずしも価値が低いことを意味しません。

人の一生に花のようにはかなく、短いものかも知れませんし、その存在もよほど偉大な人物でもなければ時とともに忘れられていくでしょう。しかし、だからといって価値が低いわけではありません。神様はそのようなはかない一生の私たちに目を留め、慈しみ、恵みを注いでくださいます。

じょうろで花壇に水をやるように主の恵みは全ての人に注がれていますが、その恵みを受け取られるのは、注がれる恵みや御教えを喜んで受け取る人たちだけです。傘を差して閉ざすと受け取れません。しかし、主の恵みを喜んで受け取り、へりくだってみことばに聞き従う者にとっては、このはかなく短い一生が、その長さやはかなさはそのままだとしても、豊かで瑞々しいものとなります。

そしてダビデは、自分が王であったことから、自分の一生ということを王としての国の統治と切り離しては考えられなかったと思います。草花の一生は、人の一生だけでなく、人間の国の栄華衰勢にも用いられます。ダビデは自分のいのちのはかなさについて歌いながら王としての統治の栄光と終わりを意識していたと思われます。ですから自然と、その視点は主が治める御国に向かっていきます。

人間の国は永遠に続くものではありません。どれほど主の道を守り、敵から民を守り国を豊かにできたとしても、自分の油断や過ちが大変な結果を招き国を破滅させてしまうことをダビデは身をもって知っています。今日も一国を治める者になろうとする人たちが権力争いや人気争いをしていますが、その人たちがもたらす平和や幸福は非常に限定的で、長くは続きません。ひどい時には、自分の言うことを聞く身内にだけ良い思いをさせるような者も現れます。

しかし主の御国の王座は天にあり、地の全てを治めます。主が地の全てを治めておられる、ということをどのように実感できるでしょうか。

私たちが日本という国の統治の中にあることを普段はあまり考えませんが、給料や年金から天引きされる税金や保険料、買い物をすれば必ずついてくる消費税、守らないと罰金や点数がつく交通ルール、国や自治体が提供する様サービスなど、様々なことから分かります。最近はマイナンバーカードを持てとしきりに言われます。

主がこの地の全てを治めておられるを感じるには、ダビデがこの詩篇でやって来ているのを真似するのと良いでしょう。いろんなことが起こる人生ですが、その全てにおいて、主が良き方であることを示してこられた、恵みを一つずつ思い起こし、感謝することによってです。神様は私たちが税金を集めるのではなく恵みを注ぎ、よきわざをなし、罰金を取ったり減点するのではなく忍耐し、赦し、私たちの弱さを心に留めていてくださいます。

適用:感謝と賛美を

一年の終わりに詩篇103篇を読んで来ました。

「わがたましいよ」という呼びかけで始まった詩は、主の恵み深さを歌い、個人的なことから次第に造られたものすべてを治める主の恵みが地のすべてに向けられているという感動に至ります。そして最後の22節で「すべて造られたものたち」に向けて賛美を呼びかけてから、最後にまたこのすばらしい恵みが私に注がれているから、もう一度「わがたましいよ、主をほめたたえよ」と語りかけて閉じられます。

人生いろいろありますが、その都度、神様の恵みによって赦され、癒され、励まされて来ました。こんな弱くてちっぽけな人間にこんなにも大きな恵みを注いでくださる神様、弱さを知っていてくださる神様は、自分だけでなくこの世界すべてを治めておられます。

皆さんの今年一年の振り返りはいかがでしょうか。私の愛用の手帳にはプライベートなことから教会や神学校の働きまで、様々な予定やメモが書き込まれています。見に行った映画や美術館のチケットやら観光地のスタンプやらも貼っています。そうしたものを振り返って見ると、多くの出会いがあり、別れもあり、願ったようにできたことも、全然うまく行かなかったこともあります。

悩みや困りごとをお聴きし、あまり力にはなれませんでしたが一緒に祈ったり、一緒に悩んだ方々もおられます。皆さんから寄せられる祈りの課題は、いつも心にあります。

個人的に大きかったことは8月に倒れたことですが、これは個人的なことでは済みませんで、家族や教会の皆さんには大きなご心配をおかけしました。思いもよらない方々まで情報が伝わってたくさん祈っていただきました。9月以降、そうした方々と再会する機会がたびたび与えられ、本当に喜んでいただいて感謝です。

もちろん、教会にとっては70周年という節目の年に、感謝を捧げ、これからまた新たな気持ちで前に進もうというタイミングでのことでしたので、出端がくじかれた感じもしますが、何より役員を中心に、兄弟姉妹の皆さんが教会のことを我が事として祈り、仕えてくださったことが意味のある体験となりました。成長という言葉が相応しいか分かりませんが、こうした危機は私たちの信仰が強められたり引き上げられる機会にもなります。

大船渡の皆さんのためにはほとんど何も出来なくなってしまっていますので、本当に申し訳なく思っています。また直接お会いしてご一緒に礼拝できる日を忍耐強く待っていてくださることが何よりの慰めです。

その他、たくさんの働きや働き人にずいぶんとご迷惑をおかけし、心配させてしまったのですが、神様がすべてを守り、導いてくださったことを聞いて感謝しています。

あらためて皆さんはいかがでしょうか。詩篇は「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」と語りかけています。悪いことやいやだったことはいつまでも忘れず、良いことを忘れやすい私たちかも知れません。意識して、思い起こし、ひとつひとつ感謝しましょう。そうして、私たちの人生すべて、この世界すべてを恵みによって治め、導き、満たしてくださる主は「良いお方だ!」と改めてほめたたえ、希望をもって新しい一年を迎えましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今年一年の守りと導きを感謝いたします。教会にとっても、一人ひとりの生活にも様々な出来事があり、変化があり、喜びも悲しみも、祝福も痛みもありました。

すべてのことが主の御手の中にあり、私たちが出会ったすべての困難や悲しみをはるかに越えた恵みがいつもあったことを覚えて、心から感謝します。

時として私たちはそのことに気付かないまま不平や不満をつぶやく者ですが、忍耐強い主が私たちを待っていてくださることを感謝します。主が良くしてくださったことをちゃんと思い起こして、感謝できますように。

そのようにして主が良いお方であることを確信し、希望をもって新しい年を迎えられるようにしてください。

主イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

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