2024-04-07 新しい人生を信じる

2024年 4月 7日 礼拝 聖書:ヨハネ20:19-29

 大事な場面に居合わせないと、なんだか仲間はずれになった気分になります。今日開いている箇所は、イエス様がよみがえられた日の夕方、弟子たちが集まっている時に復活イエス様がお会いになった場所に居合わせなかったトマスが、「そんなことを信じられない」と意地を張りますが、次の週にイエス様に会うという、話しとしてはとても面白いというか、興味深い内容になっています。

トマスの意地の張り方やイエス様に実際に会ったときの態度がとても人間くさいのでついついそっちのほうに目が行きますが、今日の箇所を丁寧に読んでいくと、二週にわたる同じような場面でイエス様が語ったことばにもっと注目すべきことが分かってきます。

そしてヨハネの福音書が記された時代のことも念頭に置く必要があります。すでにイエス様の直接の目撃者の多くが召されてしまった時代に、イエス様の復活を信じるということには、直接の証言もほとんどないという新たな困難さがあったと想像されることを考えると、そこからさらに2000年近く時間が経過した現代において、復活のイエス様を信じるということが何を意味するか、もう一度考えさせられる箇所です。

ちょうどイースターから一週間経った今日はこの箇所を通して、今日私たちが復活のイエス様を信じる意味についてご一緒に学んでいきましょう。

1.遣わされた人生

第一に、復活のイエス様を信じるということは、私たちがイエス様からこの世に遣わされた人生を送るよう召されていることを信じるということです。私たちの人生は、イエス様から遣わされた人生です。

イエス様が十字架で死なれてから3日目、復活の日は弟子たちにとって朝から驚きの連続でした。その日の出来事はすべて驚きであり、嬉しいようなどう理解したらいいか分からないような、とにかく混乱しています。その上、まだユダヤ人指導者がイエス様の仲間を捕らえようとしているのではないかと恐れ、戸に鍵を掛けて今日一日の出来事を振り返っていたのだと思います。

そこに、どこからともなくイエス様が現れました。そして「平安があなたがたにあるように」と語りかけ、手とわき腹を見せました。そこには釘で打たれた傷跡と槍で刺された傷跡がはっきり残っています。間違いなくあの十字架に磔にされたイエス様です。本当によみがえってくださったのだと弟子たちは喜びました。

するとイエス様はもう一度「平安があなたがたにあるように」と言ってからこう続けます。「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

福音書は単に弟子たちの経験を記録するために書かれたのではなく、彼らが経験したイエス様の教えと働きが、これを読むすべてのクリスチャン、教会、そして神を求め救いを求めているすべての人に語られていることを確信するために書かれたものです。

イエス様は12弟子たちを遣わしたように、すべてのクリスチャンをこの世に遣わしておられます。

けれどその前に「平安があるように」と二度語りかけています。恐れに捕らわれていた弟子たちに、平安を取り戻させます。14:27でイエス様はこの世が与えるのとは違う、神の平安を約束されましたが、この平安は旧約時代に神の民に約束された「平和=シャローム」の実現です。神様との間のへだたりがまったくなく、あらゆる面で満足できる状態。それを罪と死を取り除いたイエス様が与えようと言ってくださっているのです。

この平安をいただいた私たちを、イエス様は「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と召してくださいました。

「父がわたしを遣われたように」とはどういうことでしょう。これはもうヨハネの福音書のはじめに立ち戻る必要があります。

1:14「この方は恵みとまことに満ちておられた」とあるように、イエス様を通して父なる神の栄光、そして恵みと真実を私たちは知ります。そして3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」。イエス様が仕える者となってご自分を与えてくださったことで父なる神の愛が明らかにされました。

同じように、イエス様は私たちをこの世に遣わします。この世の人々を愛し仕え、神様の恵みと真実を表す者として私たちは遣わされるのです。

イエス様が復活したことを信じるということは、ただ復活という奇跡を信じるだけでなく、このイエス様によって私たちはこの世界を愛し、仕えるよう遣わされているのだ、神の愛と真実を表す者として遣わされていると信じることなのです。

2.新しく生まれた者

第二に、イエス様の復活を信じるということは、新しく生まれた者であると信じることです。そして新しく生まれた者たちには福音が委ねられています。

20:22~23を見ましょう。「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」

とても印象深い場面です。創世記2:7を開いてみましょうか。ここで土から造られた人間に主が息を吹き込んで生きる者となったとあります。この場面を思い起こさせるように、イエス様が息を吹きかけて、弟子たち、すなわちクリスチャンが聖霊によって新しい人とされることを明らかにしています。

ヨハネ3章でどうしたら神の国に入れるかとイエス様を訪ねたニコデモは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われ困惑しました。「人はどうしたって生まれ変わることなんかできない。分からない」と応じましたが、イエス様は「人は、水と御霊によって生まれる」と言われました。人が新しく生まれるのは自分の力やがんばって勝ち取った正しさではなく、赦しによって与えられる義と、聖霊によって新しく命を与えられることによるのです。

そしてイエス様は、人が新しく生まれることで神の国を見ると言われました。20章でよみがえったイエス様はニコデモとの対話に出てきたテーマを繰り返しています。いま、まさに弟子たちに生きを吹きかけるという象徴的な仕草を示しながら、「あなたがは聖霊によって新しい人として生まれるのだ」と言われたのです。そして続けます。「あなたがたががだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」

これは弟子たち、そして後に続く教会に福音が委ねられたということです。マタイの福音書(16:19)で教会についてはじめて教えたイエス様は、ペテロに「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます」と教えました。

いったいどんな人が、他人の罪を赦す権限があるだろうかと思うかも知れません。それはそうです。AさんがBさんに対して行った罪について、それを赦すと言えるのはBさんだけです。しかしイエス様の福音によるなら、Aさんが神様の前にもBさんに対してもへりくだって自分の罪を認め、自分の罪のために身代わりとなってくださり死んでよみがえられたイエス様を救い主と信じるとき、神様は赦して義と認めてくださいます。私に出来る事はBさんの変わりに罪を赦すことではなく、父なる神様はあなたを赦しているとお伝えすることです。実際、教会でだれかがイエス様を信じますと告白したら、教会はそのようにして「この兄弟、この姉妹は神の前にへりくだりイエス・キリストを救い主として信じたので、罪赦され、神の子どもとされ、教会家族に迎えられました」と宣言し、そのしるしとしてバプテスマを授けてきたのです。そうやって私たちはまた聖霊によって新しく生まれた人たちが神の家族に迎えられ、神の御国が拡がることを見てきたし、これからもその恵みの中に在り続けるのです。

3.トマスの迷い

さて、ここまで復活の日のイエス様のことばに注目し、弟子たちやその後の教会に対するメッセージを確認してきました。

よみがえられたイエス様によって平安をいただく私たちは、イエス様から神の愛と真実を表すためにこの世界に遣わされており、聖霊によって新しく生まれ、福音の務めに加わる新しい人生に招かれています。

しかし、こんな大事なことが告げられた場面に、仲間の一人であるトマスだけが居合わせませんでした。24節「デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」

「デドモ」というのは双子という意味なのですが、双子の兄弟がいたのか、他の理由でそう呼ばれていたのかは分かりませんが、後にインドに福音を伝えに行った伝説が残されています。

しかし、主イエス様がよみがえって、夜弟子たちのところに表れた時には、ちょうど留守にしていたのです。それで仲間たちが「私たちは主を見た」と口々に証言しても「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、そのわき腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言い張ります。

トマスの疑り深さを、個人的に適用して、イエス様の復活をなかなか信じられない人たちの疑いに重ね合わせることはよくなされることです。

けれど、これは単にイエス様の復活という奇跡を信じるかどうか、ということだけでなく、よみがえられたイエス様によって派遣され、聖霊による新しいいのち、人生に招かれていることを確信できるかどうか、それはイエス様の十字架と復活から時代的にへだったすべての教会、クリスチャンの課題であると私は思わされています。おそらく、福音書を書いたヨハネも、そういう時代的な隔たりは感じていたでしょう。

その場に居合わせなかったトマスは、自分だけ仲間はずれになった気分になったかもしれないし、イエス様のことばにしても「自分は聞いてないよ」と言いたかったかもしれません。

イエス様の復活から2千年経った私たちが、イエス様がよみがえり、私たちに新しいいのちを与え、この世界に神様の愛と真実を表すよう遣わされている、聖霊によって福音の務めに加わる新しい人生へと招かれていると聞かされても、それを自分のこととして受け止められるかと言われると、大きな隔たりを感じるのも不思議ではありません。

ちょうど一週間後の日曜の夜、前の週と全く同じ状況になりました。ただし、今度はトマスもいます。弟子たちは戸に鍵を掛けて部屋に集まっていました。そこにイエス様が再び現れ「平安があなたがたにあるように」と語りかけました。ここまでは先週と一緒です。そのあと、イエス様はトマスに語りかけます。「手とわき腹の傷跡に手で触れてごらん。さあ、手を伸ばして」「信じないものではなく、信じる者になりなさい」。

「信じる者になりなさい」という言葉に目が留まります。信仰というのは自然に沸き起こってくる感情ではなく、信じると自分で決めることです。復活という普通ならあり得ないことが起こった。自分では目撃していないし、直接聞いてもいないけれど、信じようと決めることです。

適用:新しい人生を信じる

トマスは厚かましく手を伸ばしてイエス様の傷跡に触ることはしませんでした。あんなことを言ってしまったのが恥ずかしかったかも知れませんし、実際にイエス様を目の前にしたときの神聖さや存在感の大きさに圧倒されたのかもしれません。彼の心理状態は分かりませんが、手を伸ばして確かめるのではなく、彼の信仰を告白しました。「私の主、私の神よ」。

イエス様はお応えになりました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

トマスのように、これでもかと証拠を突き付けられてようやく信じることは、見ても信じようとしない頑なな人よりましです。しかし、より幸いなはイエス様を見てはいないけれども、イエス様にお会いしたという人たちの証言を聞いて、イエス様がよみがえられた救い主で、今も生きておられる方と信じる人たちです。福音書を書いたヨハネはその点について31節でこう書いています。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」

もうすでにイエス様を直接見ることはできず、生き残っている直接の目撃者もほとんどいなくなっていた時代、今後ますます、あの時代を知っている人たちがいなくなる新しい世代がやってきます。そんな時代に向けて書かれたこの福音書を読む「あなたがたが」がイエス様が神の子であることを信じ、イエスの名によっていのちを得る。つまり、今日の箇所で弟子たちに言われたように、聖霊によって新しい人とされた者たちが、イエス様によって遣わされた者として新しい人生を生き、イエス様の福音の証しに一役買う者になるためだというのです。イエス様の願いは、イエス様を信じること、イエス様によって与えられた新しいいのちと新しい人生を信じることです。

私たちがこのことを信じる時、家庭や学校、職場、地域など、私たちが関わる場所、関係はたまたま生まれた場所やたまたまできた人間関係ではなく、そこにイエス様から遣わされているのだと意識が変えられます。もちろん人生の中で何度か転機があり、住む場所や人間関係が大きく変わることもあります。また耐え難い関係に苦しむような場合、無理に留まらずに逃げ出すこともあるでしょう。それは主が許してくださるでしょう。ただ、そういうときも、主が次の場所へと遣わしてくださったのだと考えるようにすることが大事です。

そして、イエス様を信じる私たちは聖霊によっていのちを与えられ新しい人生をいただいていると信じることです。イエス様を信じたすぐ後、バプテスマを受けたばかりなど、大きなイベントの後は自分が新しくなったような気がするのですが、数日経つとその感覚が薄れ、前とあまり変わりないことに気付きます。自分の悪い癖が直ってなかったり、以前と変わらない誘惑への弱さがあったり、これをやろうと決意したことが続かなかったり、そもそも始められていなかったり。そこによみがえりのイエス様のいのちの証拠がまだ見えていないかも知れません。でも、私たちはまだ見ないけれども信じるのです。こういう私たちだけれど、それでもこの世界に遣わされていて、神様の愛と真実を表す者、イエス様による救いの福音を委ねられた者として何かに役立てる者だと信じましょう。それを信じなければ何も起こりません。しかし、信じるなら私たちの人生にも奇跡が起こります。私たちを通して神の愛と真実が証しされ、御国が拡がって行く景色を見るという奇跡を経験できます。

明日、学校や職場に行くとき、教会から帰ってクリスチャンのいない家庭に戻るとき、来週ウクレレで未信者の仲間のところに向かうとき、そういういろいろな場面で、イエス様がこの人たちのところに私を遣わしているんだと考えてみてください。必ず違った光景が見えてきます。ぜひ、私たちに与えられた新しい人生を、復活のイエス様にある新しい人生を信じましょう。

祈り

「天の父なる神様。

よみがえられたイエス様が弟子たちに語られたことばを通して、今日もイエス様が私たちを遣わしてくださっていて、新しい人生へと招いていてくださることを感謝します。

私たちに委ねられた福音の務めを思うと、とても大きく重くも思われますが、復活のイエス様の力と聖霊の助けによって、神様の愛と真実を表す者とし、福音を証しする者としてください。自分の中に何の力もしるしも見いだせなくても、イエス様のことばを信じて遣わされる場へと向かわせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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