2024年 4月 14日 礼拝 聖書:創世記 16:1-16
子どもが小さい頃、他の子と仲良くなってずいぶん長い時間遊んだあとで、「誰と遊んだの?お名前なんていってた?」と聞いたら「知らない」と返事することが度々ありました。
旧約聖書には神様のお名前が記されていますが、ユダヤ人が長い間、神の名を口にすることを禁じていたために正確な発音が分からなくなってしまったという話しを前にしました。「主よ」とか「神様」と呼びかけることはありますが、それは称号であって名前ではありません。
しかし、今日の箇所にも出て来ますが、神様に対する呼び名はいくつもあります。いずれの呼び名にも、そのように呼ぶことになった印象深い物語があるものです。
今日は「エル・ロイ(私を見てくださる神)」という呼び名ですが。神様が私を見ていてくださる。そのことに大いに慰められ、励まされたハガルの物語をご一緒に見ていきましょう。
私たちは、一人になりたいとか、誰にもかまって欲しくないという時もあるものですが、基本的には誰かに見ていて欲しいです。誰にも気付いてもらえないのは寂しいものですし、まして昨日まで普通に話していた仲間から急に無視されたりしたらものすごく辛いはずです。誰かの目に止まっているというのは、私という存在に意味があり、価値があることのささやかなしるしに違いないのです。
1.サライの浅知恵
まず目に止まるのはアブラムの妻サライの浅知恵です。
私たちは二人の名前をアブラハム、サラとして知っていますが、もともとはアブラムとサライという名前でした。今日の出来事の後、17章で新しくアブラハムとサラという名前が神様から与えられるのです。現代の私たちの文化では名前を変えるなんてことは滅多にありません。法律的にかなり高いハードルがあるのです。
しかし日本でもそうでしたが、昔は幼少期から大人になるとき、人生の転機を迎えた時などに名前を変えることがありました。今でも芸能人が芸名を途中で変えたりします。名前を変えることには大きな意味があるのです。アブラムは「高貴な父」というような意味で、神様が新しくつける名である「アブラハム」には「多くの民の父」という意味があります。「サラ」と「サライ」は意味としてはどちらも「王女」を意味しますが、サラ」のほうが古い言葉で、サラは新しい言葉です。つまり、17章でアブラハムとサラは多くの民の父そして母となるという新しい役割を自覚し、一つの区切りを迎えることになるのです。
とすると、今日の出来事は、アブラハムとサラの信仰的に飛躍する前の、ある種訓練の中での出来事というふうに言えます。確かに、アブラムにもサラにも、いろいろと不十分な点、不適切な姿がちらほらと見え隠れしています。
ハガルがどういう経緯でアブラムの家に仕えることになったのかは分かりませんが、四千年前の中東文化、古代オリエント文化の中である程度の社会的地位のある人が奴隷を抱えていることは当たり前のことでした。
アブラムの妻サライは、神様が10年前にアブラムに約束した子どもを与え、子孫が増え拡がるという約束のいっこうに果たされないのを気にしていました。もともと子どもが出来ない不妊症で、すでに高齢になっていました。年数ばかり経って、どんどん可能性が狭まっていくなかで少し焦ったのでしょうか。2節でサライは夫に、女奴隷のハガルを妻とし、ハガルから生まれる子を自分たちの子として育てることを提案します。当時としては、跡継ぎが出来ない時にとられた幾つかの選択肢の一つです。そうやって生まれた子どももちゃんと家族の一員として扱われるのが普通です。
2節に「おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう」と書かれています。脚注がある人は見てくだされば分かるのですが、これは直訳すると「子どもが造り上げられる」という言い方です。まさに、神に信頼し任せるのではなく、任せられないから人間的な知恵と力で何とかしようとする意志が強く感じられます。
15章で神様は、親戚やしもべの子どもを養子として迎えるのではなく、アブラム自身の子でなければならないと釘を刺されていたのですが、ハガルを通して跡継ぎをもうけても、自分の子と言えるのではないかと考え、妻の提案を受け入れます。
もちろん、サライもアブラムも動機としては悪いものではなかったかもしれませんが、それは神の言葉に信頼するより、妻の軽率なアイディアに乗るというアブラム自身の軽率さであり愚かさでした。結果、確かに3節にあるように、サライは自分に仕えていた女奴隷のハガルをアブラムに妻として与えました。神様の最初の約束から10年経って、アブラハムは85歳のときです。
2.三者三様の偽り
続いて私たちの目に止まるのは、三者三様の偽りの姿です。
4節。ハガルはアブラムの子を身籠もりました。私自身は経験できないことなのですが、女性が妊娠すると表情が変わり、自身が出るというか、宿った命を守り育てる覚悟をもった強さと優しさがにじみ出るようです。時にはその変化が不安を引き起こすこともありますが、ハガルの場合は悪い形で出てしまいました。
ハガルの場合は、もともとが奴隷でしたから、立場的にはサライに仕える身分です。それがサライ自身の提案によってアブラムの第二夫人となり、しかも長年跡取り息子が出来なかったサライを尻目に早々と子どもを身籠もったワケです。そうなると、なんだか立場が逆転したような錯覚に陥りやすいものです。彼女は女主人であるサライを見下すようになっていきました。
一方、サライのほうはというと、まるで自分が被害者であるかのように、5節で夫に訴えます。
実際に横暴な振る舞いがあったのか、ただ目や顔の表情に自分を見下すようなものがあっただけなのかは分かりませんが、サライを苛立たせるには十分でした。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです」と、まるで「あなたがしっかりしないからこの女は勘違いして、いい気になっている」と言わんばかりです。しかし、サライは傲慢になった女奴隷の被害者なんかではありません。夫に対する非難は彼女のうちに起こったハガルに対する憎しみを覆い隠すものです。6節の後半でサライはその憎しみを晴らすように、ハガルをいじめるようになりました。
間に立たされたアブラムはどうかというと、彼もまた中途半端な態度しか取れませんでした。6節の妻への言葉を見ると、一見中立的な態度に見えますが、実際は自分で何の責任も負わず、問題の外にいようとするだけです。
妻にすべてを一任した結果、サライはすぐに心の内に秘めていた憎しみを顕わにします。ハガルはたまらず逃げ出しました。
主のことばに信頼するより、妻の浅はかなアイディアに乗っかったアブラムは、長い結婚生活の中ではじめて父親になれそうにはなりました。男の子なら、待ち望んだ跡継ぎ、約束された子孫の第1号を得られるかもしれません。しかし、結果として見えたのは喜びではなく、偽りの誇りで主人を見下すようになったハガルの高ぶり。傷付いた女性であるかのような仮面を被って夫を非難するサライの隠された憎しみ。賢い夫のような中立的で公正な口ぶりをしながらその実何の責任も負わないアブラムの偽善。主への信頼、主のなさることを待つことをしないで人間的な浅知恵で物事を解決しようとして起こる家庭内のこうしたゴタゴタは、4000年前も今もかわらずよくある光景です。
そして、聖書にこうしたアブラムとサライの姿が描かれていることが書かれているのは、神の召しに従って、信仰によって旅立ったアブラム一家ではあるけれど、本当の意味で信仰の父となり、そのしるしとして息子が与えられるまでに、まだ訓練が必要だったということを指し示しています。様々な経験を通して、神様が何を大切にしているか、主の約束を信じるとはどういうことかを実地訓練されていたのです。
3.荒野での悔い改め
さて、今日の物語の結末を見ていきましょう。
7節以降に、ハガルが荒野に逃亡してからサライのもとに帰って男の子を産むまでのことが記されています。
まず7節で「主の使い」が登場します。この名前は特別で、神様が人の姿をとって現れる時に使われます。つまり、ハガルは灼熱の荒野の中で頭がぼうっとして幻を見ていたわけではなく、主ご自身が人の姿をとって近づいてこられたということです。
しかも「泉のほとりで、彼女を見つけた」とありますから、わざわざハガルを探して見つけ出したということです。まるでイエス様の喩え話に出てくる迷子の羊を探しにいく羊飼いのようです。
主の使いがハガルを呼ぶ時の言葉に注目してください。「サライの女奴隷ハガル」。これが本来の彼女の立場でした。アブラムの子を身籠もったことでサライより偉くなったような気になって、サライを見下すようになっていましたが、そのような偉さは幻想に過ぎません。今もとある知事の学歴詐称問題が話題になっていますが、何かコンプレックスがあって自分を大きく見せようという誘惑に負ける人は案外多くいます。主の使いの言葉は本来の自分の姿に正直に向き合い、今抱えている問題にきちんと向き合うことを求めています。いったいどこで間違えて、このままだとどうなるか。
彼女の答えは「私の女主人サライのもとから逃げているのです」というシンプルなものです。しかしサライを「女主人」と呼んでいるように、自分が何者かを思い出している様子が表れています。主の使いはさらに語りかけ、彼女のへりくだりを悔い改めへと押しだそうとします。
8節「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
お腹に赤ちゃんを宿したまま荒野でさまようなんて、生き延びる可能性は限りなく低い、危険な状況です。このまま逃亡生活を続けることは出来ません。解決のためにはサライを女主人と認めるだけでなく、彼女のもとに帰り、態度を改める必要があるのです。
そして彼女を励ますために、主の使いは生まれて来る子について約束を与えます。その子を通して子孫は増し加わる。イシュマエルという名は主がハガルの苦しみに耳を傾けたことの記念です。その子は力強く荒野を自由に生きる民となっていくでしょう。
これに答えてハガルは13節で自分に語りかけてくださった主を「エル・ロイ」と呼びました。意味は「私を見てくださる神」という意味です。これはとても重要なポイントです。ハガルの息子イシュマエルは後のエドム人となっていきます。イスラエル民族と兄弟関係にあるのに何かと敵対する民族として度々登場します。また新約聖書では、神の約束と信仰によってもたらされたイサクに対して、人間的な力や努力で得られたものとして対比され、「肉によって生まれた」者とさえ呼ばれています。しかし、そのような者であるとしても、主は見ていてくださり、へりくだり悔い改める者には祝福を約束し、行くべき道を指し示してくださるのです。ハガルに対する主のお取り扱いは、主が選びの民、アブラハムの子孫だけでなく、他の人々にも目を止めていてくださり、それぞれの歩みにおいて祝福を与えたいと願い、へりくだる者に約束と道を指し示してくださることを表しています。
適用:どこから来てどこへ?
今日の箇所を通して私たちに何が語られているでしょうか。
様々な教訓があるように思えますが、特に主の使いがハガルに問いかけた問いを私たちへの問いとして受け止めたいと思います。というのも、人間的な知恵で物事を解決しようとしてよけいにこじらせた問題を、もう一度主の前にへりくだってやり直すための大事な問いだからです。
「あなたはどこから来て、どこへ行くのですか。」
19世紀のフランス人画家でゴーギャンという人がいます。この人の描いた絵でもっとも有名なのはタヒチ島の人々を題材にした『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という油絵です。皆さんもどこかで見たことがあるかも知れません。この絵の左上に珍しくタイトルが書かれています。それが『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という言葉です。今日の主の使いの質問によく似ていると思いませんか。それもそのはず、ゴーギャンは11~16歳の間、フランスにあるカトリックの神学校に在学していました。
少年時代のことですが、この時に教授から何度も問いかけられたのが、絵のタイトルにもなっている質問「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」だったそうです。ゴーギャンはその後、キリスト教に猛反発し、ヨーロッパの近代的な生活から離れてもっと素朴な生き方をしたくてタヒチ島に移住します。そして最晩年に自分の集大成としてこの絵を描き、その後自殺未遂を図ってしまいます。彼は若い頃問われた問いへの答えを見つけられず、反発もしましたが、生涯彼にとっての大きなテーマにもなっていたのです。
小学生高学年から高校生くらいへの問いかけとしてはずいぶん哲学的な質問です。でも、自分は本当は何者で、どこから来てどこへ向かっているかは大きな問いかけです。特に、ハガルのように自ら招いた苦境にあるとき、へりくだって自分を正直に見つめ、受け入れ、悔い改めるべきことがあるときにこの問いを考えることはとても大事です。
この問いかけは私たちを見ていてくださる神様からの問いかけです。あなたは何をしているの?なぜこんな道に迷いこんだの?ここからどこへ行こうとしてるの?そんな問いかけをされると、私たちは苦しくなるかもしれませんが、そのような問いかけをするのは、私たちをちゃんと見ていてくださるからです。
ハガルは自分のことを女主人より優れた者であるかのように錯覚していましたが、神様の目にどう見えているか考えることによって自分を取り戻しました。
私たちはどうでしょうか。自分の姿から目を背けたり、誤魔化したり、大きく見せようとしていないか、本当の自分は惨めで、弱くて、恐れているのかもしれません。そのことに気付き、へりくだって認めることがスタートです。神様の眼差しは他の人間のように私たちを軽蔑したり、見下したり、レッテルを貼って終わりというようなものではありません。私たちが捕らわれている罪も、私たちのうちにある弱さも、そのまま受け止めて、なおかつ祝福し、ゆくべき道を指し示したいと願っておられます。
主は「エル・ロイ」「私を見てくださる神」なのです。
祈り
「天の父なる神様。
私たちはどこから来て、どこへ行こうとしているのか、私たちを見ていてくださる神様が問いかけておられます。
この問いに正直に向き合わせてください。自分自身を見つめ、神様の前にへりくだり、悔い改めへと向かうことができますように。その先にあるあなたの豊かな祝福に預かることができますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。」