2024年 4月 21日 礼拝 聖書:コリント第二4:13-18
皆さんは今幸せですか。幸せだと思えていますか。もしそうだとするなら、何に幸せを感じているでしょうか。
反対に不幸だと思う理由は何でしょうか。
こんな質問をするのは、クリスチャンは、特に長くクリスチャンとして生きていると、自分を騙すことがうまくなる場合があるからです。様々な苦難に出会って、それでも「神様に感謝しなくちゃ」と口では言うし、心でもそう思っていると自分では考えているのですが、「では幸せなんですね」と訊ねられたら「とんでもない!」とか「たぶん」といった反応になることがあります。
今日の聖書箇所には「感謝が満ちあふれ」という言葉が出てきますが、この言い方は私たちの感謝や喜びが頭で「これは感謝なことだ」「喜ぶべきことだ」と納得するだけでなく、心から沸き起こって来るような感謝、心から幸せだと思えるようになれるということが示されています。
パウロ自身、様々な苦難の中にあり、そのことで皆から心配されるよりは軽蔑されたり、見離されることがしばしばあったのですが、それでもパウロは落胆することなく、心からの感謝と喜びをもって歩んでいましたし、他の人たちにもこの満ちあふれる感謝を味わって欲しいと心から願っていました。では今日の箇所をじっくり味わっていきましょう。
1.落胆しない理由
13節に、パウロは詩篇を引用して、自分が信じていることを語ると言っていますが、その中身は何でしょうか。それは苦難の中にあっても落胆しない理由です。4:1に「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません」と書いています。
傍目から見たら落胆してもおかしくない状況がパウロにはあったということです。それはいったい何だったのか。
1:8には「アシアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みを失うほどでした。」とあります。具体的なことは書かれていませんが、激しい迫害によって死を覚悟するまで追い詰められたということでしょう。
1:15以下を見ていくと、どうやらパウロとコリント教会の人々の間には認識や気持ちのすれ違いが起こっていたようです。第一の手紙を書いた後でコリント教会を訪問したり、別の手紙を書いていたようです。それによってコリント教会に痛みを伴う悔い改めをもたらしましたが、コリントのクリスチャンたちにも、パウロ自身にも深い悲しみをもたらすことになり、心の傷として残ってしまいました。
3:1ではコリント教会のある人たちがパウロの使徒としての資格に疑問を抱いていたことがわかります。コリントの町の人たちの価値観は歪んでいて、外見の華やかさや身なりの良さ、人前で話すときの雄弁さということをとても重視していました。そのため、貧しい身なりをし、話し方も普通の人のように話すパウロを軽んじる傾向がありました。しかも、迫害され牢に入れられたり死に直面しても、そのことゆえに心を痛めたり助けようとするより、眉をひそめ、距離を置いてしまうところがあったのです。
そういう、落胆してもおかしくないようないくつもの出来事、状況がありましたが、4:1で「私たちは…落胆することがありません」と言うのです。その理由が今日開いている箇所の中、4:14です。
「主イエスをよみがえらせた方(つまり父なる神様)が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。」
イエス様が自力で死から復活したのではなく、父なる神様がイエス様をよみがえらせてくださったということが大事なポイントです。死んだ者には生き返る力はありません。神様が死んだ者をよみがえらせます。私たちも、自分の力では復活できませんが、父なる神様にはできます。しかもその御わざは、今まさにパウロを非難し、疑いの眼差しを向けているコリントのクリスチャンたちにも同じように与えられます。すれ違いや行き違いはあっても、今なお同じ救い、同じ恵みの中にあることをパウロは決して忘れません。
そして、この恵みのゆえに、例えいま苦難の中にあって、死を覚悟するほどに追い詰められたり、心が深く傷付くようなことがあっても、いつの日か、私たちをともによみがえられせ、神様の御前に立たせてくださるという希望があるから、落胆したりしないのだと言うのです。「勇気を失いません」という前の訳のほうが個人的には好きですが、意味は同じです。復活の希望が私たちの支えです。
2.恵みを味わうため
次に15節ですが、パウロが多くの苦難を味わいながらも復活の希望ゆえに落胆せず、福音を語り、教え続けているのは「あなたがたのため」だと語りかけます。
決して善意を押しつけているのではありません。落胆し勇気を失ってもおかしくない状況に置かれて、それでも復活の希望によって落胆せず、勇気を失わず、感謝と喜びに満たされるこの福音の恵みを、今は反抗したり文句ばかり言っているコリントのクリスチャンとも共有したい。そればかりでなく、もっと多くの人にまで届いて、神の栄光が現れるようになることが究極的なパウロの福音宣教の目的です。
福音は、イエス様の十字架の死と復活によって自分が救われるだけでなく、その感謝や喜びが今度は他の誰かと分かち合われるべきものです。
先日、家の周りに草が伸び始めて来たので、久しぶりに草刈をしました。見事なタンポポ畑になりそうなところを、何とか白い綿毛のような種をつける前にとってしまいたかったのです。他の種もそうですが、タンポポの拡がり具合といったらすごいですね。一個花を咲かせて終わりではなく、そこからさらに何十倍もの種をまき散らすのです。種にはもともとそういう力が備わっています。
福音の種も同じで、私の心に巻かれた福音の種は、私のうちで芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶだけでなく、イエス様のいのちの力と喜びを他のところにも拡げたいとうずうずしているのです。
「恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。」
パウロがコリントの人々が期待したような良い身なりをし、素晴らしい弁論のテクニックを駆使して演説をし、牢屋ではなく社会的なステータスの高い人たちとお付き合いをしている姿を見せることで神の栄光が現されるのではありません。コリント教会のクリスチャンたちが受け取った福音の恵みによって文句や仲違いではなく、感謝に満ちあふれ、それがさらに多くの人に分かち合われることこそが神の栄光を現すことになるのです。
一時期、メガチャーチがもてはやされた時期がありました。何千人、何万人という会員をかかえる大教会がどうやって成長したのかを学びましょうというわけです。豪華な建築の教会堂やテレビ番組かと思うような凝った演出の礼拝、高級車に乗って秘書を従える見栄えの良い牧師、軽妙で人を楽しませる説教。そういう牧師が別の教会に異動になると教会員もごっそりくっつていくといった事例もありました。平均礼拝出席者数が30名程度という日本の教会から見ると、それは福音の本来持っている力が現れたように見えましたし、それが福音宣教の成功事例のように見えたのです。真似していいスーツを着て、いい車に乗りはじめる牧師もいたようです。ですが、そうした派手な動きをした教会には牧師を初めとする指導者たちのスキャンダルが相次ぎました。全部がそうだというわけではないし、おそらく今も残っている大教会にはしっかりと聖書に根ざして健全に建て上げられた教会もあることでしょう。
大事なポイントは教会の大きさや牧師がどんなスーツを着ているかではなく、福音によって感謝が満ちあふれているか、その恵みが他の人たちに分かち合われているかです。
3.新たにされ続ける
では続けて16節以降に目を留めましょう。
パウロはコリント教会や他の多くの人たちにも感謝にあふれるようになってほしいのですが、そんな恵みをもたらす復活の希望を持つならば16節にあるように「ですから、私たちは落胆しません。」と言えます。
その根拠は、復活の希望が遠い未来に約束された希望であるだけでなく、私たちが日々新たにされ続ける、日々果たされ続ける約束だからです。
「日々新たにされています」と正しく約束されているこの言葉は、「新しくされる」という神様の復活の力が、私たちのうちにイエス様のいのちが与えられてから今日に至るまでずっと続いていることを示しています。しかしどのようにしてでしょうか。
「私たちの外なる人は衰えても」とあるように、私たちの肉体が衰えたり、弱るのは現実に起こることです。また、外なる人の弱さはそういう身体的な限界のことだけではありません。17節にあるようにこの世にある苦難をも含みます。
パウロが経験したように、病や旅の苦難に会うこと、迫害されること、嫌がらせを受けたり、差別されたり、信頼できる仲間である兄弟姉妹から非難されたり侮辱されたり認められなかったりする、というようなことがあるかも知れません。クリスチャンは神様の義と聖さを大事にするあまり、物事を簡単に正しいことと間違ったことというふうに切り分けて人をかえって苦しめることがあります。
外なる人は様々なかたちで傷つけられ、弱り、衰えます。
しかしパウロは宣言します。それでも「内なる人は日々新たにされています」。一体どういうことでしょうか。内なる人とは、人間の本質的な部分を表す言葉で、心と言ってもいいでしょう。知性や感情、意志などが一つになって働く私たちの内面です。しかしそれが新たにされるとはどういうことでしょうか。
このことの最も良い説明はエペソ3:16~19の祈りの言葉です。ぜひ開いて見ましょう。
16節を見ると、さきほどのコリント書の手紙に出て来た言葉と重なる祈りであることがよく分かると思います。それで、内なる人が聖霊によって強められると何が変わるか。17節です。キリストが私たちのうちに住んでいてくださいます。イエス様が私たちの心にいつもともにおられることが分かるようになります。そして私たちを救い、私たちの生き方の土台となった神の愛にしっかり根差し、その素晴らしさを深く知り、神の愛に満たされる。しかもそれが独りよがりのものではなく、すべての聖徒たちとともにとあるように、教会の交わりの中で愛すること、愛されることの素晴らしさと深さを知り、満たされるようになっていくことが「日々新たにされる」ことの意味合いです。
外なる人を衰えさせたり、弱らせたり、傷つけたりするような事が現実として起こって来るでしょう。病や肉体の衰えのように避けられないこと、災害や事故。また残念ながら、クリスチャン同士なのに、争ったり傷つけたりする人がいます。しかし、そうした経験を通して、私たちはますます神の愛を知り、人を愛することの素晴らしさや愛の交わりの中にあることの喜びを味わっていくのです。それが私たちに絶えざる感謝と喜びを生み出すのです。
適用:感謝にあふれて
先週、アブラムとサライの夫婦の間で振り回されたハガルの話しを読みました。ハガルにとっては災難なことではありましたがが、大きな流れでは、アブラハムに対する長い訓練期間の出来事の一つです。信仰の旅路を始めたアブラムがアブラハムという新しい名前を与えられ、本当の意味で信仰の父となっていくために通った失敗であったし、そこから学んだことが次につながったのです。
私たちが信仰の父として知っている、神様に全面的に信頼するアブラハムの姿は、いろんな失敗や弱さ、困難な経験を通し、その都度いろんな人たちを巻き込んだり迷惑を掛けたりしながら学びとり、身につけていったものです。そこに至るまで少なくとも25年は掛かっていました。
私たちが同じ信仰に立って、神様の恵みの豊かさを味わい、与えられた愛の深さを本当に知って感謝に満ちあふれるためにも、やはり今までの経験の全てが必要でしたし、これから経験する様々なことの積み重ねが必要です。振り回された人たちや迷惑を被った人たちにとっては酷い話しではあります。ですが、訓練された者はそうしたこともよくわきまえるので謙遜にさせられます。今ある自分は苦しい経験、苦い経験、いろんな失敗や周りにかけた迷惑の上にあることを知っているからです。
それは主イエス様の栄光が、十字架の苦しみと死を経て、父なる神様によってよみがえらされたことによってもたらされたのと同じです。
私たちが誘惑に負けて罪を犯してしまった後で悔い改めに導かれ、主の前にへりくだる時に神の赦しと、そのような自分をそれでも受け入れ愛してくださる愛の深さを知ります。
誰かとの人間関係の中でうまくいかず、対立し、傷つけてしまった経験や逆に傷つけられた経験は、誰も望まないものですが、人生においてはよくある事です。そのようなことに正直に向き合う時に、自分自身の弱さやプライドに気付かされることもあれば、怒りや憎しみをコントロールできない問題に気付くこともあります。もしかしたら、そのような関係が和解に導かれ、元の関係に戻れることもありますが、別な道を進むことになる場合もあります。そうした経験もまた私たちを遜らせ、神様の愛の奥行きを知るでしょう。
願いが叶わなかったり、挫折を経験することもあります。それは苦い経験ですが、神様が私のために用意してくださったもっと良いものを知る機会になり、自分の願望より神様が備えてくださるものを受け取ることにある恵みの素晴らしさを知る機会になります。
病や思いがけない苦難に直面するとき、私たちの心には「なぜ自分が」という思いが起こります。あの人は癒されたのに、自分はなぜ祈りが聞かれないのかと嘆き、悩み、怒ることもあります。そうした経験は復活の希望がリアルな望みとして私たちの心に定着する機会になります。
ぜひ今日は心に留めてください。日々新たにされるというのは、肉体や精神が若返っていくことではありません。人生には辛いこともあれば恥ずかしい失敗も繰り返します。歳をとる毎に体も心も弱っていく面は避けられません。それでも落胆することなく、こういう私がなおも神様に愛されていて、こんな者でも周りの人に愛を表せるようにされている恵みに気付き、心からの感謝に満たされていくのです。私たちはイエス様を死者の中からよみがえらせた父なる神様の御力によって、がっかりしても仕方がない状況にあるとしても、もっともっと神様の愛に根差し、その愛を深く知ることで日々新たにされ続けているのです。心から感謝しましょう。本当に私は幸せ者だと言わせていただきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
主イエス様を死者の中からよみがえらせたその御力を私たちのうちにも注ぎ、日々内なる人を新しくしてくださり、あなたの愛の深さを知り、ますますその恵みの豊かさに気付かせ、感謝に満ちあふれさせてくださることを感謝します。
私たちの歩みにはがっかりさせられること、希望を見失わせること、落胆しても仕方の無い状況はいくらでもあります。それでも、復活の希望ゆえに、これらの経験を通して日々新たにされていることに気付かせ、感謝と喜びで満たしてください。この人生、この生活の中で、本当に感謝だ、本当に幸せだと言える者にしていてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。」