2024-05-26 約束の証印

2024年 5月 26日 礼拝 聖書:エペソ1:3-14

 「ハンコレス」ということが言われるようになったのは2000年頃からだそうです。最近ではとくにコロナ禍でテレワークが増えたり、感染症対策の観点からハンコレスが拡がったと言われます。確かに、かつてはいろいろな場面で「認印」を忘れたりする手続きが出来ずに慌てたり、ハンコを取りに戻ったりなんてことがありましたが、最近はハンコなしで済むことが多くなり、「あれ?こんなに簡単なんだっけ」と思うこともしばしばです。。

しかしながら契約を結ぶ場合にはやはりハンコが必要です。しかもちゃんと役所に登録した実印が必要です。日本では戦国時代くらいから今のような使い方で個人が印章を持つようになり、江戸時代に商人や町人が持つようになったそうです。ただ、ハンコ自体はもっと古い時代に遡り、有名なのでは国宝に指定された金印ですが、昔の印章は個人が「売ります、買います」の意思表示を保証する意味ではなく、王や権力者の地位を象徴するものとして持つものであったそうです。

聖書が書かれた地域では古くは紀元前七千年くらいに遡る印章が発掘されているそうですが、やはりこれらも個人が持つハンコではなく王などの権威の象徴です。

今日は13節の「約束の聖霊によって証印を押された」というみことばに注目し、何を意味しているか一緒に学んでいきましょう。

1.贖いの奥義

1~2節で手紙の書き方に沿って挨拶を記した後、いつものように神様を讃える言葉を3節から書き始めます。彼の心にあったのは、キリストによって私たちを祝福し、ご自分の子にしようと世界の基が置かれる前から私たちを愛し、選んでくださった父なる神様の素晴らしさです。イエス様にあって私たちに与えられた恵みがどれほどすごいかということを思い巡らしていると、イエス様によってどれほどのことがなされたのかが次々とあふれ出て来ます。

その想いが溢れるポイントが、ある言葉を繰り返していることで分かります。7節、11節、13節に出て来る「このキリストにあって」という言葉です。父なる神様は、イエス様にあって祝福し、選んでくださったんだけれど、このイエス様はね……とキリストによってもたらされた事をたたみかけるように記しています。

最初は、7節にあるように神様の救いの選びと計画を実行するために、キリストにあって私たちが贖い、つまり罪の赦しを受けたということなのですが、この贖いには罪が赦されることに留まらない「奥義」があるのだと9節で明らかにしています。つまり、イエス様の身代わりの十字架によって罪が赦されるという恵みがもたらす究極的な結果があるのです。それは10節にあるように、「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです」。

つまり、イエス様の十字架の死という代価によってもたらされたのは、イエス様を信じる者は誰も罪赦されるだけでなく、イエス様のもとに一つに集められるということです。そこにはもうユダヤ人であるか、ユダヤ人以外の者であるかという人種や民族による区別も、身分による差別も、経済的な格差による扱いの違いもありません。違いは違いとしてありますが、だれもがイエス様のいのちという代価で贖われた高価で尊い存在として受け入れられます。そして「天にあるものも地にあるものも」と言われているように、霊的なものも物質的なものもひっくるめてキリストのもとに集められ、統合され、結び合わされていきます。その理想的な姿を不完全ながら表しているのは地上にある教会です。

しばしば、クリスチャンは個人的な罪の赦しにばかり焦点を当てがちです。しかし神様の深いご計画では、イエス様によってすべてが一つにされること、時代や文化、人種を越え、キリストにあって互いを受け入れ、尊重し、愛し、天も地も一つにされていくというビジョンが初めからあったのです。

現代社会は「分断」が生まれやすくなっています。教会もそれに巻き込まれて対話も出来ないような亀裂に直面することがあります。政治問題、ジェンダー問題、環境問題、安全保障問題、原発問題、ありとあらゆる問題で多様な意見があり、しばしば厳しい対立となり、その中で傷付く人がいます。そんなに大きな問題だけでなく、身近なこと、それこそ教会堂のカーテンを何色にするかといった些細なことでもびっくりするほどいがみ合いが生まれることがあります。しかしどんな問題であれ、キリストの十字架によってもたらされた恵みは、そんなものは些細に思えるほどに大きく深いのです。破壊力抜群のキリストにある赦しという恵みがあらゆる隔ての壁を打ち壊してすべてがイエス様のもとに集められるのです。その視点でものごとを考えるようになりたいものです。

2.御国を継ぐ者

次に「キリストにあって」もたらされることは11節にあるように「私たちは御国を受け継ぐ者」になったということです。

「神の国」あるいは「天の御国」といった言葉を聞くと、多くの人がどういうわけか、死んだ後に行く「天国」をイメージします。しかし、聖書が神の国や天の御国として描くものは、死後の世界とはほとんど関係がありません。

「国を受け継ぐ」という言葉は私たちにはあまりピンと来ない表現です。会社を受け継ぐとか家を受け継ぐと言った場合は、受け継ぐ人は社長であるとか、家長であることを意味します。同じように国を受け継ぐと言ったら、受け継ぐ人は、普通は王様やその国を治める人を意味します。聖書が言うには、私たちはキリストにあって、まるで王のように神の御国を相続する者だというのです。

この「御国を受け継ぐ」という考え方は旧約聖書に由来するもので、神様の救いのご計画がアブラハムに明らかにされ始めて以来、一貫して用いられて来たものです。神様がアブラハムとその子孫を祝福し、偉大な国とし、彼らを通して世界を祝福すると約束し、契約を結びました。アブラハムの子どもたちのうち、イサクがその約束のまさに相続人となりました。その後、この契約は孫のヤコブに受け継がれ、ヤコブの12人の息子たち、イスラエルの十二部族に受け継がれていきます。やがて彼らの子孫は飢饉を逃れてエジプトに行きますがそこで奴隷となってしまいます。しかし、その期間を通してますます増え拡がった民はモーセに率いられてエジプトを脱出し、シナイ山の麓で改めて神の民となる契約を結び、神の民として生きるための指針である十戒を受け取ります。

40年の荒野の旅の果てに約束の地に辿り着いたイスラエルの民は王をかかげる王国となります。この王国は神の国についての約束をある程度まで表していましたが、イスラエルの民はその歴史の殆どを通して契約をないがしろにし、やがて滅びることになります。しかし、神に遣わされた預言者たちは、新しい王が誕生し、神の御国が再び建てられることを語り、希望を持つよう励ましました。

そんなわけで国が滅びて祖国を失ったイスラエルの民は、やがて到来する神の国を、他国の支配から解放された、自分たちのための国というふうに期待するようになり、そのような自由と祖国を取り戻させてくれる方としてキリストを待ち望むようになりました。

しかし、キリストとしてこられたイエス様は、神の国について「『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と言われ、私たちがイメージする「国」とはずいぶん違うものであることを明らかにされました。

御国は、確かにイエス様がもう一度おいでになるときに完全な姿で現れますが、未来のものではなく、今、すでに私たちの中に実現しています。神様の御力と祝福が及ぶところはどこでも神の国です。イエス様を救い主であり王であると信じるなら、神の国はすでにその人の心の中にあります。神様の祝福と恵みは私たちの周りにも注がれていますから、有名な讃美歌の歌詞にあるように「ここも神の御国」なのです。私たちがどんな状況に置かれようとも、ここも神の御国のなのだから、主が共にいて下さると信じられることはどんなに幸いなことでしょうか。

3.聖霊の証印

さて、いよいよ聖霊の証印の箇所にやって来ました。三つ目の「このキリストにあって」が出て来る13節では、証印として聖霊を受けたことが記されています。

ここまで見て来て、パウロがいかに神様のご計画の偉大さ、深さに圧倒されていたかがいくらか伝わったでしょうか。一気にたたみかけるような語りたくなってしまうほどに、圧倒的な恵み、知恵、そしてイエス様の十字架の贖いという断固とした意志によってこれらの計画は実現しました。そしてやがて私たちが完成した御国を受け継ぐまで、神様の御わざは続くのです。

神様のご計画は、私たちの想像を遙かに超えて大きく、確かなものです。しかしそれは、私たち一人ひとりがその祝福を受け取ることによって、ようやく私たちにとって現実のものになります。どれだけ素晴らしい贈り物を準備したとしても、相手が受け取って始めて「贈り物」になるのと同じです。神様の贈り物を受け取って、私たちが罪赦され御国の民とされるときに大きな役割を果たすのが聖霊です。

まず、私たちが神様のご計画なさった救いを受け取るためには、「真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより」とあるとおり、まずは福音を聞くことがなければ始まりません。

そして聞いた福音への応答として、信じることが救いを受け取る唯一の条件です。何かをやり遂げたから救われるのではなく、神が私たちを愛していてくださり、私たちを救うためにイエス様が十字架で私たちの罪を贖ってくださり、御国を受け継ぐ者としてくださるという知らせ、福音を聞いて信じることが唯一の救いの条件です。そこに昔から神を知って約束を待ち臨んでいたユダヤ人と、神を知らず約束の部外者であった異邦人の区別はありません。神様は誰であれ、この福音を信じる者を、約束された祝福を受け取るに相応しい者として認め、確かにこの救いの恵みの中に入れたよと、その揺るがないしるしとして聖霊を与えました。

証印とは間違いなく私のものだという証しとして押すものです。

私は神学生時代、一緒に学んでいた方が「蔵書印」というものを持っていて、手に入れた書籍に自分の名前が入った蔵書印を押しているのを見て、「おお、格好いいなあ」と憧れました。そうした印章を作るにはお金がかかりそうで手を出せずにいましたが、だんだん印章もかなり安く作れる時代になって、しばらく前に私も自分の蔵書印を作りました。後になって、蔵書印を押してしまうと古本として出すことができないとか、買い取ってもらえない場合が多いということを聞いて「失敗したかな」と思うことがあります。それでも蔵書印を押すは、誰に見せるわけでもないのに、「確かに自分のだ」と印を押すのはとても嬉しい気持ちになり満足します。

もちろん聖霊が証印であるというのは比喩ですし、聖霊の証印と私の自己満足に過ぎない蔵書印と比較するのはおこがましいのですが、「これはわたしのものだ」と宣言するように、神様はイエス様を信じる者に、イエス様にあって神の子となされ、御国を受け継ぐ者とされた証しとして、神様は聖霊を与えます。そして証印としての聖霊を受けたなら、この救いは誰にも覆されることなく、保証されたものであることを表しています。

適用:確かな保証

エペソ書で語られているテーマは教会です。教会とはどのようなものか、様々な人が集められている神の家族としての教会に属する一人ひとり、その交わりのあり方、個々の家庭のあり方について神様がどのような指針、原則を与えているかを解き明かしていきます。それらを語る上で土台となるのが、今日読んできた神様の大きなご計画です。神様が教会や私たちの救いについてどんなことをお考えになり、何を目指し、どのように実現したかを知らずして、私たちの生き方、家庭のあり方、教会のあり方について取り扱うことはできないと考えたのです。

私たちが自分の救いや生き方について、家族との関わり方、教会の交わりや働き、将来について考える時、自分たちの物差しや好みであれこれ考えることは自由だけれど、その前に神様のこの壮大な物語に聖霊による証印をもって結びつけられている確信を持たなければなりません。そうでないと、私たちはいとも簡単にこの世の価値基準や個人的な選り好みを持ち込んでしまうのです。

私たちは教会の兄弟姉妹をたまたま巡り合わせでここに居合わせた人たちではなく、天地創造の前から愛され選ばれた人たちとして見る必要があります。様々な個性があり、人種や社会的な立場や学歴、経済力の違いがあり、考え方や習慣の違いもありますが、違いよりもキリストの贖いによって赦された者たちであり、キリストにあって一つに集められたというより強固なつながりに目を向ける必要があります。

そして教会が内にこもって、自分たちのことにばかり目を向けるのではなく、世界に良い知らせである福音を届け、神様の祝福を置かれた地域社会に分かち合うことで拡大していく神の御国に属するものであることをいつも思い出さなければなりません。

聖霊は私たちに、このような神様の壮大がご計画があること、イエス様がその実現のために十字架にかかられたこと、そして私たち一人ひとりをその救いへと招き、約束の中に入れてくださったことを悟らせ、これは私の人生を変える物語であることを気付かせてくれます。

いろいろな問題に悩まされ、他人と比較して自分を責めたり誇ったりすることの多い私たちです。個々の問題がどうでもいいとか、比較しちゃいけないとか、達成できたことを誇りに思っちゃいけないということではないけれど、それに縛られると心の自由を失い、不安になります。

私もそうです。先週、70周年記念誌に向けた打合せがあります。私はそのうちの約三分の一にあたる24年、牧師として立たせていただいていますが、同じくらい牧会している先生方のなさってきたことや、ずっと短いのに素晴らしい働きをしている先生がたと比べて、自分はいったい何をやって来たのだろう、これで良かったのだろうかと不安になることがしょっちゅうです。明らかに失敗だったことや足りなかったことも分かるのでなおさらです。

でも、私のうちにもおられる聖霊がこの壮大な神様の物語に引き戻させてくれます。そうすると私たちは確かな神様の保証の中にあるのだから、小さいことでくよくよしないで、結果は神様に任せて務めが与えられている間は精一杯、できるだけ誠実であるようにすればいい、足りないところがあっても大丈夫だと思い出させてくれます。この感覚がなかったときは確かに怯え、平静を取り繕って強がっていました。それがどんなに苦しかったかを思い出します。

私たち一人ひとりの人生、家庭、教会の交わりが、神の計画の大きさと確かさに結びつけられていることを確信しましょう。その保証としての聖霊が与えられていることを覚え感謝し、主を賛美しましょう。

祈り

「天の父なる神様。

今日ご一緒に神様がキリストにあって立てられ、実現された救いの壮大なご計画と、その恵みに与らせ、結びつけ、確かなものとして保証するために聖霊の証印が押されていることを学びました。

小さなことにくよくよしたり、不安になったり、おろおろする私たちですが、神様の揺るぎないご計画と御わざに私たちがしっかりと結び合わされていること、その確かな保証として聖霊様が私たちのうちにおられることを確信させてください。

また、神様が私たちを、この大きな恵みを回りの人たちに分かち合い、祝福をもたらす者として置いていてくださることを確信して歩ませてください。

自分や他人に目を向ける以上に、神様のご計画とキリストの御わざに目を向けさせてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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