2024年 6月 16日 礼拝 聖書:ルカ15:11-32
病人を癒したり、抑圧されている人々の友となるイエス様には、いつも大勢の人々がつきまとうと言っていいほどに、人が集まっていました。
そのようなイエス様の行動は、貧しく助けを求めるあてのない庶民にとっては人気で、好意的に受け止められますが、ある人たちにとっては面白くない話でした。
現代なら教会がいやしの賜物を活用して無償で病人を救う活動をしたらたちまち医療関係や行政からはもちろん、社会的に非難を浴びそうですし、社会的弱者に寄り添う活動は称賛される一方で、社会的にはうさんくさく見られることが少なくないように思います。
イエス様の時代、事情はだいぶ違っていましたが、批判する人たちの心理的なメカニズムはほとんど変わりなかったと言えます。
15:1にイエス様のもとに集まっていた人たちの中に「取税人たちや罪人たちが」いたことが記されており、そのことを受けてパリサイ人たち、律法学者たちが「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食をしている」と非難していました。
自分の聖さを守ることを何より大事にする人たちにとって、罪人は遠ざけるべき人たちであって、聖書を教える教師であるならなおさら関わるべきではないと考えていたのです。そんなことは自分が罪人の仲間だと公言するようなことなのです。
1.クズな弟
そこでイエス様は彼らに答えるために3つのたとえをお話になります。
4~7節は「迷子の羊」とか「いなくなった羊」と呼ばれる喩え話。そして8~10節は「なくした銀貨」と呼ばれる喩え話になっています。それから今日開いている箇所、11~32節が「放蕩息子」と呼ばれる喩え話です。
3つの喩え話の中心は「なくしたものを取り戻した人の喜び」です。100匹の羊を飼っている羊飼いが迷子になった1匹を探すために99匹の羊を残してでも捜しに行き、見つけたときに大いに喜ぶとか、銀貨が10枚あるはずなのにそのうちの1枚無くした女の人は見つけるまで捜し出して、見つけたら大喜びするだろうと、誰もが想像出来る場面です。ちなみにこの10枚の銀貨というのは結婚のための支度金だという節があります。それならなおささら必死で探しますし、見つけたときはそれこそご近所に言いたくなるほど喜びます。そしてイエス様は解説をします。「罪人が悔い改めるならそれほどの大きな喜びがある」のです。
パリサイ人たちは罪人と一緒にいることを非難しましたが、イエス様はパリサイ人が罪人とよぶ人たちが神のもとに帰るなら大きな喜びがあるから、彼らと共にいるのだと答えたのです。
同じ問題を扱った3つめの喩え話は明らかに前の二つと比べて登場人物のキャラクターもしっかりしているし、物語としてもドラマティックな筋書きがあります。
登場するのは父と二人の息子です。中でも弟息子のことは「放蕩息子」と呼ばれて来ました。いまどき「放蕩」なんて言葉を使う人はほとんどいません。今風に言うなら「クズ男」です。
弟息子のクズッぷりは、まず父親に遺産相続分を渡せと迫るところに見られます。今でこそ「生前贈与」なんてことが行われるようになりましたが、これは税金対策と相続争いを防ぐためがほとんどだと思います。しかし、イエス様の時代、相続というのはやはり父親が死んでから律法に従って行うものです。それを生きているうちに求めるということは、「早く死ね」「オヤジはもう死んだも同然」と言っているようなものです。しかも弟息子は相続分で何か事業を興したいとか、有益な使い方を考えていたのではなく、口うるさい父親のもとを早々と去り、遊ぶために使ってしまうのです。
何で父親は息子の言い分を認めたのかとか、どういう教育をして来たのかとか、そういうテーマは譬えの本質から離れて行くだけなので脇に置きます。重要なポイントは、このクズな弟息子の姿が、今まさにパリサイ人の不平不満の種になっている「罪人」の姿を表しているということです。
罪人というのは、父親からもらえるものだけもらって父親への尊敬も愛も示さず、背を向けて離れ、自分の欲のために使い果たしたクズ男のようだと言っているのです。財産を湯水のように使い果たしたという愚かさはあるとしても、ここでは特に犯罪的なことは描かれていません。
パリサイ人たちは、律法を守っていないとか、ローマの手先になっている人たちを罪人と非難しましたが、イエス様の視点では罪人の本質は神に背を向け、神の恵みを自分のために食い潰している人たちのことです。
2.父の愛
クズっぷりが際立ち、回心の場面が劇的なのでクズとしかいいようのない弟息子に注目が集まり、それゆえに「放蕩息子」と呼ばれるたとえですが、ストーリーの主人公は父親であることを見失ってはいけません。15章の3つのたとえはどれも失ったものを取り戻した人の喜びがテーマなのです。
父親が息子を愛していたら本当に生きている間に財産を分けるなんてことをするだろうかという議論は意味がありません。喩え話を正しく理解するためには、この短い物語の大きなテーマ、全体として何を言おうとしているかに注目する必要があるのです。
そしてこの父親は明らかに父なる神様を表していると考えられますから、神様のご性質やお働きを読み取るれます。
この父親はクズな弟息子にも、兄のほうにも相続分を分けてあげましたが、これは神様のすべての人に対して恵みをくださる良いご性質を表しています。マタイ5:45でイエス様は言っておられます。「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」
弟息子は自分のことしか考えない最低な人間でしたが、それでも父親が兄と同じように祝福しようとしました。
神様もまた善人であれ悪人であれ、正しい人でも罪人でも、恵みによっていのちや贈り物を与えておられます。
しかしその恵みを食い潰した罪人である弟息子は、頼りにしていた財産が尽きてしまったことにようやく気付きます。激しい飢饉が襲い食べるものにも困ったとき、ユダヤ人としては絶対あり得ないようなブタの世話をして何とか生き延びていました。それはもう屈辱的で完全に落ちぶれた姿です。
人間が神に背を向けたとき、神様から誰もが受け取った恵みを食い潰してしまい、みじめなもので孤独や魂の飢え渇きを満たそうとするに似ています。
どん底の中で弟息子は回心し、父の元に帰ろうとします。悔い改めの告白を練習し、息子の立場を放棄し、奴隷の一人としてでもいいからあの暖かく豊かな家庭に戻りたいと考えたのです。
一方父親は毎日弟息子の身を案じ、帰って来るのを待っていました。だから遠くから歩いて来る息子の姿をすぐに見つけ、かわいそうになって駆け寄りました。
息子が悔い改めの告白をし始めますが、最後まで言わせずしもべたちに言いつけて上等の服や装飾品やらを持ってこさせ、子牛を屠って宴会を準備させます。24節にその理由がはっきり書かれています。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。父にとって弟息子が家を出て消息不明になったことは死んだも同然でした。それでも諦めきれず帰りを待って毎日家に続く道に出て遠くに目を凝らしていたのです。
だから息子の帰りを祝うのは当然のことです。
これは前の2つのたとえにも出て来たテーマと同じですが、そこに恵みを与え罪を赦す神の「愛」という力強い動機が加えられたのです。
イエス様が罪人や仲間はずれにされていた人たちを受け入れ、一緒に食事をし、悔い改めて父なる神のもとに帰った人たちと喜びを分かち合うのは当然のことだったのです。
3.優等生な兄
しかしパリサイ人や律法学者たちはそれが面白くありません。喩え話に出てくる兄は、パリサイ人や律法学者たちを表しています。
兄はいわば優等生です。弟息子が帰って来て父が駆け寄り抱きしめるというドラマティックな再会を果たし、宴会が始まったころ、真面目な兄息子はなんと畑にいました。
家に近づくと音楽や踊りなど何やら楽しげな音が聞こえてきます。「何やっているの~?」と気軽に入っていかず、しもべを呼んで何が起こっているかを聞くあたりに、兄息子が家族に対してもっている距離感を表しているように思えます。
しもべは弟が帰ってきて、無事な姿を喜んだ父が祝いの席を設けたことを説明します。すると兄は怒って家に入ろうとしませんでした。
汗水流して畑仕事をして来たのに、勝手なことをして来て身を持ち崩した弟が困って家に帰って来たことを父親が喜んで宴会を開いていることも腹立たしいけれど、自分に声を掛けて貰えなかったということも怒りをかき立てたにちがいありません。
なだめに来た父親に兄息子は堰を切ったように文句を言い始めます。長年父に仕えてきたこと、戒めを守り一度も破ったことがないこと、その自分には楽しみが与えられたこともない。それなのに財産を食い潰した弟が帰って来ると、そんなクズ男のために子牛をほふって豪華な宴会を開くなんてと、不満を並べます。しかも自分は呼ばれていないとは書かれていませんが、この状況ではきっとそんな不満、傷付いた面もあったでしょう。
兄息子の優等生的な振る舞いの奥には怒りが潜んでいました。父に仕え、言いつけを守り一度も破ったことがないという立派な振る舞いの裏で「友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹くださったこともありません。」と人生を楽しむことができなかったと腹を立てていたのです。
そんな自分を尻目に弟は遊女と一緒に財産を食い潰しています。弟の行動と父親の甘すぎる態度に正当な怒りをぶつけているような口ぶりですが、要は妬んでいるのです。
しかし父は兄息子に語り聞かせます。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』
兄息子は自分の中にたまった不満で気付いていませんでしたが、彼はいつも父の愛と祝福の中にいたのです。弟息子が自分のしたいことに一生懸命で父の愛に気付いていなかったとすれば、兄息子は従うことに一生懸命で父の愛に気付いていなかったのです。最後の父の言葉は息子を責めているというより、父の愛に気付いて欲しいということではないでしょうか。
イエス様はたびたびパリサイ人や律法学者を手厳しく非難しましたが、根底にある願いは彼らにも神の愛に気付いて欲しいということです。それが分かればイエス様が罪人や取税人を受け入れ一緒に食事をする意図も分かることでしょう。神の愛と祝福を受けようと一生懸命律法や伝統に従いながら心の内に怒りや妬みを抱えているパリサイ人や律法主義者たちも、実は神に愛されすでに祝福を受けているということに気付くことでしょう。適用:待っていてくださる方
この譬え話の教訓は何でしょうか。話しの中心が父の愛、つまり父なる神の愛であるなら、その愛に気付くようにということではないでしょうか。
この話をしているときにイエス様と一緒に食事をしていた「罪人」や取税人は一足先に神の愛に気付いた人たちです。ちょうど方と息子がどん底の中で自分の罪深さと神の愛に気付き、赦しを求めて帰ったように、イエス様のうちに表れている神の愛に気付き、赦しと恵みを求めて集まっていました。
同じように、パリサイ人たちにも気付いて欲しかったのです。彼らは神の愛を得ようと律法や伝統に従い、頑張って相応しい人間であろうとしてきましたが、喜びはなく、人生を楽しむこともできていませんでした。しかし神の愛は向けられているのです。
使徒パウロもローマ書9~11章で同胞であるユダヤ人が、自分の義を立てようと熱心になっているけれど、すでに与えられている神の愛も祝福にも気付いていないと嘆き、彼らにも知って欲しいのだと切々と語っています。
では、現代の私たちにとってはどうでしょうか。やはり神の愛を知らずにいる全ての人たちに神の愛を知って欲しいし、父なる神のもとに帰って来るのを心から待っておられることを知って欲しいということではないでしょうか。そして、誰であれ、神の愛に気付いて立ち返るなら本当に喜んでくださるということです。
弟息子のように自分の楽しみややりたいことに夢中になって、自分がいま持っている環境、能力、財産など何であれ、それが神からの贈り物であることに気付かず、どれほど愛されているに気付いていないかもしれません。
兄息子のように、神様に認められるため、あるいは親、職場、仲間内など相手は人それぞれですが、誰かに認められるために一生懸命がんばっているけれど、心の内に怒りや妬みを抱えている。神の愛にも気付いていない、他人の優しさにも気付いていないということもあります。
自分がどういう人間であるか、自己評価するのは案外難しいものです。私は自分の中に両面があるように感じています。
クリスチャンホームに生まれたせいもあると思いますが、どうしても「こうありなさい」ということが先にあって、その通りにするのが当たり前になります。日曜日家族で教会に行くことは素晴らしいことですが、たまには子やぎ一匹とは言わずとも、友だちと楽しんで来たいという気持ちはあります。そういうのを押し殺して不満を抱えることもありました。一方で、自分の楽しみに夢中になって後で考えればつまらないことにお金や時間を費やすことはよくあります。
譬え話の中では兄息子が最終的に父の言葉に応えて閉じこもっていた部屋から出て弟を歓迎する宴会に出たのかどうかは分かりません。パリサイ人や律法学者たちの中からもやがてイエス様を信じて神のもとに帰り、悔い改めた罪人や異邦人とともに教会の交わりを楽しんだ人たちもいましたが、そうでない人たちもいました。
私たちはどうでしょうか。もし、今まで自分のことで一杯で神様の愛に気付いていなかったという方がいたら、今こそ心を開き、へりくだり、父なる神様のもとに帰る時ではないでしょうか。
祈り
「父なる神様。
放蕩息子の譬え話を通して父なる神様のご愛を思うことができました。神様は私たちが神の愛に気付いてご自身のもとに帰って来るのを待っていてくださることを感謝します。そしてみもとに帰る者を神様がどれほど喜んでくださるか、イエス様が食卓をともにして祝ってくださる姿にどれほどの喜びが表れていたかを思います。あなたのご愛と向けてくださった喜びを本当にありがとうございます。
私たちの中に、神様の愛と恵みに気付かないほどに自分のことで夢中になっていたり、怒りや不満、妬みを抱えながら誰かに認められるために頑張っている者がありましたら、どうか待っていてくださる神様のもとに心を開き、へりくだって帰ることができますように。今、その必要に気付いているなら、今日、あなたのもとに帰ることができますように。
イエス様のお名前によって祈ります。」