2024-06-23 誠実であること

2024年 6月 23日 礼拝 聖書:第一サムエル24:1-22

 この世に生きている間は、よほど幸運な人でない限り「どうしてそんな目に遭わなければならないのか」と思うような理不尽をがまんしなければならないことがあります。

クリスチャンにとっては、イエス様の教えがさらに輪をかけます。有名なところでは「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」とか、悪に対して悪をもって報いてはならない、かえって善を行いなさいとか。

もっと具体的には、クリスチャンではない主人や夫に対しても反抗したり、軽く見たりしないで敬い、主に仕えるような気持ちで仕えなさいとまで言われています。いったいなぜそこまで誠実さを求められるのでしょうか。

今日開いている箇所は、後に王になるダビデが、主君であるサウル王からいのちを狙われ逃亡している最中の有名なエピソードです。神様に対する忠実さという点で問題のあったサウル王は退けられ、次の王としてダビデが立てられるということが預言者サムエルによって告げられた後、サウルの心は次第に疑いと妬みにむしばまれていき、ついには常軌を逸した執念深さでダビデを追いかけるようになります。そして、サウルを倒すなら今しかないというタイミングで示したダビデの誠実さが際立つ箇所です。なぜダビデはこんな理不尽さの中で誠実さを示したのでしょうか。

1.荒野にて

今日の出来事の舞台は「エン・ゲディの荒野」と呼ばれる場所です。塩分濃度が海水より濃いため体が浮くことで有名な「死海」の西岸に「エン・ゲディ」という町があります。その周りにはたくさんの洞窟があり、1947年に、エン・ゲディの洞窟や北側にあるクムラン洞窟から「死海文書」と呼ばれる大量の羊皮紙やパピルスに書かれた聖書や宗教文書の写本が見つかりました。

そんな洞窟の多い地形だ、というのが今回のポイントです。

24:1で「サウルがペリシテ人を追うのをやめて帰って来たとき、「ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいます」と言って、彼に告げる者がいた」とあります。

サウル王は部下であるダビデが自分の王位を狙っているのではないかと疑い、また自分よりも明らかに人気があることを妬み、どんどんダビデに対する猜疑心が増して、精神的に異常を来すまでになっていました。

いのちの危険を感じたダビデはサウルのもとを去り、あちこち転々とし身を潜めていました。それを反逆の意図だと考えたサウルはダビデ討伐の命を下し、自ら先頭に立って追跡を始めたのです。

しかしそこに一人の使者がやってきて、ペリシテ人の急襲があったことを知らせたのです。それでサウルはさすがにダビデ追跡を取りやめてペリシテ人に対処するために帰って行きました。

ダビデとしてはつかの間の休息を得たところでしょうが、ペリシテ討伐を終えたサウルは、ダビデの居所を掴んだことで、また追跡を始めます。

今度は三千人の精鋭を選び捜索に当たらせます。大捜索網です。いかに隠れるのにてきした洞窟の多いエン・ゲディの荒野といえど、ダビデと部下たちが見つかるのは時間の問題だったのではないかと思われます。ダビデたちはサウルが再び捜索に出たと知らせを聞き、洞窟の一つに身を隠していました。

このサウルのダビデに対するしつこい追跡は、ダビデにとってはまったく言われのない疑いと妬みから出た、理不尽極まりないものでした。

そもそもサウルが王位を奪われるのは、ダビデ人気のためではなくサウル自身がたびたび神の命令に背いたためでした。預言者サムエルを通して神様から次の王として指名され、そのしるしに油注がれた後も、ダビデは一介の羊飼いとして生活していましたが、ペリシテ人ゴリアテとの戦いで一躍名を挙げ、サウル王に仕えるようになります。しかし、サウルのもとで部隊を預けられ周辺諸国との戦いで勝利を重ねていくうちにダビデ人気は高まり、そのことで妬むだけでなく、ダビデが自分の王座を狙っていると思い込み、恐れ、疑いはじめます。ダビデは親友であるサウルの息子ヨナタンの協力を得て必死に謀反の意志がないことを説明し、訴えますが、サウルはこれを聞き入れず、息子にさえ槍を投げつけるほどに怒りを抑えられませんでした。

サウルの異常ぶりは誰の目にも明らかだったと思いますし、人気という面でも、実力の面でも、ダビデが立ちあがれば味方についてサウルを引きずり下ろして王になることは出来たかもしれません。実際そのようなことはどこの世界でもよくある話しです。しかしダビデはサウルのもとを離れることにしたのでした。

2.誠実さ

洞窟の中で身を潜めていたダビデと部下たちにとって、思いがけない状況が生まれました。それはダビデがしつこく追い回すサウルを簡単に討ち取り、一気に形勢逆転をはかるチャンスにも見えます。そんな場面は、その人の本性が表れるのかもしれません。しかしダビデはここで、主なる神様と、主君であるサウルに自分の誠実さを示します。

捜索を率いていたサウル王が用を足すためにとある洞窟に入ったのです。そこは道端にあった羊の群の囲い場の近くにあり、用を足すのにうってつけの洞窟に見えたのです。もちろん、その奥にダビデたちが隠れているとは知るよしもありません。たぶん見かけよりもずっと深い洞窟だったのでしょう。

当然、普段よりは護衛の数も少なかったはずです。それでダビデの部下はダビデに進言しました。4節ですね。

「「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」

この括弧書きの中の言葉は預言者を通して告げられていた言葉かもしれません。サウルは彼らにとって、今は敵にしか見えなかったことでしょうから、まさにこの状況のことを神様は言っていたに違いないと、部下は思いたかったのだと思います。

これは私たちにとって小さな教訓になります。聖書の言葉に励まされることは度々あります。けれども気をつけないと、神様の意図を無視して自分に都合良く解釈し、主のみこころに違いないと、自分勝手な想いを後押ししたり、正当化するために利用してしまうことがあるのです。

しかしダビデにとってサウル王は、敵対的ではありましたが敵ではありませんでした。

そこでダビデはこっそり近づき、サウルを手に掛ける代わりに上着の裾を切り取りました。

しかしやってしまってからダビデは激しく後悔しました。サウルは主が油注いだ王であり、自分にとっては主君です。たとえサウルを殺して問題を一気に解決するチャンスに見えたとしても、ダビデにとっては主なる神様に対しても、主君であるサウルに対しても、そんなことは絶対にやるべきことではなかったと後悔します。

ダビデは「絶対いまがチャンスです。これを逃したら、また逃亡生活です」と剣を握りしめる部下たちを説き伏せ、襲撃を許しませんでした。

何も知らずに洞窟を出て行ったサウルをダビデは追いかけ、呼び止めます。そして9~15節で切り取った上着の裾を示しながら、決して謀反の意志も悪意もないのに、どうしてあなたは私のいのちを狙うのですかと、切々と訴えます。サウルは自分がどれほどひどい事をしてしまったか気付き、声をあげて泣きながらわびます。そして主が定めたこと、ダビデがやがて王位を継ぎ、王国を確立するということを受け入れたのでした。

残念ながらサウル王の涙ながらの謝罪も、ダビデが王とされるという神のご計画を受け入れるのも一時的で、26章で再びダビデを追跡し、また同じような状況が繰り返されます。それでもダビデは再び誠意を示すのです。

3.王位を継ぐ者

さて、聖書はなぜこのような出来事を記しているのでしょうか。一読すると王位を巡るよくある争いのようにも見えますが、後に有名になるダビデの若き日の活躍をドラマティックに描いて見せるのが聖書の目的ではありません。

サウル王はイスラエル王国の最初の王でした。混乱の時代が続く中でイスラエルの民は周りの国のように、自分たちにも王が欲しいと言い出します。預言者サムエルはそれが神に対する反抗のように思えて腹を立てますが、神様はアブラハムに約束したイスラエルの子孫を通して全世界を祝福するという大きなご計画が新たな進展を迎える段階に来たことを示し、王を立てるよう命じます。

そうやって選ばれたサウルですが、彼は王に即位して間もなく神様の期待を裏切ってしまいます。何の実績もないのに、神様にえらばれていきなり王になったのですから、いくらサムエルがついていると言っても自信がありません。ほどなく彼は求心力が失われるのを恐れたり、自分の権威を示すために神の命令に反することを立て続けにやってしまいます。

それで神様はサウルに代わる王としてダビデを立てることにしたのです。

しかし普通は王の後を継ぐのは息子です。サウルにはヨナタンというダビデの大親友がいました。そういう王位継承の問題とともに、ダビデ自身がサウルの家系を変えてでもイスラエルの王として相応しいことを示す必要がありました。そういう意味で、サウル王に仕えている期間やサウルの手を逃れながらどのように行動するかは、王位を継ぐ者としてのふさわしさを試されている期間であり、訓練されている期間であったと言えます。

もし他の国でしばしば行われているように謀反を起こして先の王を殺したり捉えたりして実権を握るようなことがあれば、戦士としての力を示せたでしょうし、政治的な才覚も示せたかもしれません。しかし、そのような裏切り、策略、暴力に頼るようなやり方は、究極的には神が治める国であるべきイスラエルの王として相応しいとは言えません。

ダビデがこの箇所で強調しているように、サウルが王となったのは主がお選びになったからです。自分が次の王になると言われたからといって神様が何かをなさる前に、少なくとも預言者によって何かを命じられる前に自分から手を下すなどということは絶対できませんでしたし、ダビデとサウルの関係は部下と主君です。

誠実さというのは、神様の召しに対する誠実さであり、この世にあって仕えるべき人たちへの誠実さです。両面があってこそ、誠実であると言えます。そして神の召しに対する誠実さは自分だけでなく、神が他者を召したという事実をも尊重します。たとえ、サウルがその召しにふさわしくないように見えても、他者である自分が神に代わって裁くことなど出来ないのです。

しかし、そこには悩みもあります。このようなギリギリの状況でダビデはサウルの上着の裾を切り取るということをしましたが、そのことですらダビデは後悔し、悩みました。神に対して、また人に対して誠実であろうとするところには常に難しさが伴います。相手が同じように神に対して誠実であるとは限らないし、何が最善か分からないこともありのです。悩むこともまた誠実さの一部です。

適用:御国を継ぐ者

ダビデが理不尽なまでの経験を通らなければならなかったのが、王位を継ぐ者としてのふさわしさを試され、また訓練されていたのだとしたら、私たちにとってどんな教訓があるでしょうか。

旧約聖書の時代が終わって、イエス様がおいでになったとき、イエス様が語った福音は「神の国が近づいた」ということでしたが、厳密に訳せば「神の王国が近づいた」ということで、王が治める国というイメージがはっきりしていました。もちろん、神の国で王となるのはイエス様ご自身です。

では、私たちクリスチャンには王位継承なんてまったく関係ないことでしょうか。新約聖書で繰り返されていることは、イエス様を信じて神の子どもとされた私たちは、イエス様とともに御国を受け継ぐ相続人だということです。

王であるイエス様とまったく同じということではないけれど、国を譲り受けるということばには、単に御国の住民になるという以上の意味があります。

ペテロ第一2:9で使徒ペテロはこう書いています。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」

私たちは天国で暮らす権利を手に入れただけでなくイエス様が治める御国に誰でも招かれているのだという良い知らせを告げるために王である祭司ともされたというのです。ですから、私たちクリスチャンにも、御国を継ぐ者としてのふさわしさが求められます。

私たちはダビデのようにいのちを付け狙われるようなことにはならないかも知れませんが、それでもとんでもなく理不尽な状況に置かれ、苦しむことがあります。もちろんダビデも逃げたのですから、どんな苦しみも虐待も受け入れるべきだということではありません。心と身体を守るために逃げることは大事です。

またダビデがサウルの行動の理不尽さを訴えたように、相手がする悪をなんでも受け入れ認めるということではありません。しかしそのことを訴えたり伝える時には、根底に相手への敬意と知恵が必要です。

ともかく、御国を継ぐ者として、ダビデと同じように、私たちはこの世にある限り、私たちを召してくださった神様と私たちが仕えるようにと置かれたすべての人に対して誠実であることが試され、訓練されています。私たちがこの世にあって誠実であろうとすると、様々な試みがあります。ダビデが裏切りや暗殺で王位を勝ち取ったのでは意味がなく、その後の王国がめちゃくちゃになったであろうことと同じで、私たちが誠実さが試される場面で、嘘やごまかし、裏切り、腹黒い計画、みせかけの忠実さ、みせかけの愛情などによって振る舞ったら、私たちの証しは力のないものとなり、神様が私たちに任せて下さった人間関係は壊れていきます。もちろん、ダビデが自分のしたことで後悔し悩んだように、私たちも悩むでしょう。でも、悩むことは誠実であろうとすることの一部です。

しかし私たちがこの世にあって、神様に対しても、私たちが生活し働く場、私たちが関わる人たちに対しても、誠実であるなら、その報いは豊かで、私たちを通して神様の栄光は証しされます。私たちはイエス様とともに御国を受け継ぐことの素晴らしさをまだ完全には分かっていないし、想像するにも想像力が足りないかも知れません。しかし、少なくとも、この約束の中に生かされている私たちは、人生において誠実であること、そこに悩みや苦難が伴っても、それは大きな意味があるのだということを確信できます。

祈り

「天の父なる神様。

ダビデの物語をとおして、主に召された私たちがこの世にあって誠実であることの大切さを教えてくださり、ありがとうございます。

しばしばクリスチャン生活は困難が多く、誠実であろうとしても悩みや後悔があります。しかし、それは決して無意味なことではなく、御国を受け継ぐ者として私たちが整えられていく道であり、神様の素晴らしさを証しすることになると信じて感謝します。

特に、この点で苦難の中にある方々を励まし、私たちに確信を与えてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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