2024-07-07 立って、行きなさい

2024年 7月 7日 礼拝 聖書:使徒の働き 8:26-39

 世の中に様々な人がいるように、神様の家族としての教会にも、実に様々な人がいます。国が一つの価値観や方向性を国民に押しつけるようなら全体主義国家といって、だいたい暴力的で、いびつな社会になります。教会も多様性を失って特定の価値観を押しつけたり、似たような人たちだけが集まるようになったら、やはり健全さを失ってしまうことでしょう。初代教会で典型的な例は、一部のユダヤ人クリスチャンが異邦人クリスチャンにユダヤ人が守っている律法や習慣を守るよう強要することが度々あり、教会がその主張に染まってしまうことがありました。それは健全な福音理解をねじ曲げ、キリストにある自由を失わせました。

しかし多様性を理解し、うまく活かせないと、混乱が生じます。教会は誕生した新約聖書の時代から同じキリストを信じ、同じ福音、同じ信仰を持っていますが、同時に人種、文化、話す言葉、立場の違う者たちの集まりであり、そのためにお互いに違う考え、価値観がありました。そのために、たびたび混乱し、争いになることもありました。それは今も同じです。

なぜ、神様はこのようなしち面倒くさいことをなさるのでしょうか。今日は、最初に誕生した教会、エルサレム教会のメンバーであったピリポがエチオピア人に福音を伝えた場面から学んでいきたいと思います。

1.エチオピア人のもとへ

26節で主の使いがピリポに語りかけ、1人のエチオピア人のもとへと導きました。

「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」

ピリポは最初の教会であるエルサレム教会の一員で、12使徒のピリポとは別人です。彼は、ギリシャ語を話すユダヤ人クリスチャンのやもめたちへの配給が不公平になってしまっていた問題を解決するための7人のチームの1人として選ばれていましたが、このときはサマリヤにいました。

そこから南にくだり、エルサレムからガザに至る道に出るよう御使いに命じられたのです。昨年からニュースで何度も取り上げられているあのガザ地区のことです。今は兵士たちが行き来しているかも知れませんが、この時は、1人のエチオピア人がエルサレムからガザを経由して国へ帰る途中でした。

エチオピア人とはいっても、現代のエチオピアではなく、北西に拡がるスーダンのあたりにあった国だそうです。彼はガザを経由し海沿いの道を通ってエジプトに入り、ナイル川沿いの会堂を通って自分の国に帰ろうとしていたわけです。

27節にはこのエチオピア人の簡単な紹介が記されています。「女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピア人」ということで、非常に優れた能力と地位を持っていた役人だったことがわかります。同時に彼は「宦官」ということで、女王の側近として仕えるためにでしょうが、性的な能力を奪われた役人でもあります。

彼は「礼拝のためにエルサレムに」行っていたそうです。つまり、エチオピア人でありながら、聖書の神、ユダヤ人の信じる神を信仰していたということが分かります。使徒の働きにたびたび登場する「神を敬う」異邦人であったということです。

しかし、理由は分かりませんが、名前は出て来ません。ただしこの説明から幾つかのことが浮かび上がってきます。

この匿名のエチオピア人は大変有能で信頼されていたに違いありません。一般人なら歩いて旅するところを自分専用の馬車を使える程に地位も金もありました。しかし宦官ということで、結婚して家庭を持つことはできませんでした。その寂しさが理由の一つだったかは分かりませんが、ユダヤ人の信じる神を自分の神として信じ、わざわざエルサレムに行って礼拝を捧げるほどに信仰深かったのです。まさに「神を敬う人」でした。

けれども、エルサレムに行ったとしても、彼は異邦人でした。エルサレム神殿には「異邦人の庭」と呼ばれるエリアがあって、そこまでしか入れません。もし、彼が完全にユダヤ教の回心したとしても、宦官は割礼を受けられませんし、体に欠陥のある人は神殿に立ち入ることは許されませんでした。どれほど求める心があっても、あるところから先へは進めない、そんな宿命を背負っていたわけです。

当時、同じように異邦人でありながら、まことの神様を信じ、求めながらも、ユダヤ人とはまったく同じにはなれないため、ユダヤ人から一定の尊敬と評価を受けながらも決して仲間には入れてもらえない人たちがかなりいたのです。このエチオピア人もそんな1人でした。

2.苦難のしもべ

エルサレムでの礼拝を終えたエチオピア人は、帰りの馬車の中でも聖書を開いて読んでいました。写本が非常に貴重で高価だったのに自分の聖書を持っていたことからも、彼が相当裕福であったことは明らかです。

聖霊はピリポに馬車に近づくよう導くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえました。声に出して朗読していたということです。

当時、聖書、つまり私たちが旧約聖書と呼んでいるものですが、これは本来のヘブル語の聖書の他、2種類の翻訳がありました。一つはユダヤ人が一般的に用いているアラム語に訳されたもので、タルグムと呼ばれる聖書です。もう一つは、当時のローマ世界ではラテン語と共に共通語として用いられたギリシャ語に訳されたもので、70人訳聖書と呼ばれているものです。

恐らく彼が読んでいたのは、ギリシャ語に訳されたものだと思われます。

ピリポが馬車に伴走するように走っていると、耳に入ったのはイザヤ書の一節でした。32節以下の引用は、イザヤ53章の「苦難のしもべ」と呼ばれている有名な箇所です。

ピリポは「あなたは、読んでいることが分かりますか」と尋ねました。女王に仕える高官で、ギリシャ語の聖書を読めるくらいですから十分な学識はあったはずです。決してばかにしたり、下に見ていたわけではありません。

ただ、イザヤ書の「苦難のしもべ」の箇所は、当時のユダヤ人たちの間でも難解な箇所として、様々な解釈がなされていたそうです。ナザレのイエスが神の遣わされたメシアであるということを理解したクリスチャンからすれば、苦難のしもべが十字架のイエス様であることは明白なことだったのですが、一般的なユダヤ人の間では「よくわからない箇所」でした。しかし彼はこの箇所がどうも気になって、声に出して読んでみたら何か分かるかもと読んでいたのかも知れません。

彼は「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答え、ピリポを馬車に招きました。ピリポは35節にあるよう、この箇所から始めて、「イエスの福音」を彼に伝えました。

約束のキリスト、メシアである方がなぜ苦しまなければならなかったのか、旧約聖書全体を通して示されている神の救いのご計画と、その実現のためにキリストが十字架で死なれる必要があったこと、そのお方とはイエス・キリストであることを説明しました。そして、この救いは、今まで異邦人だから、宦官だからと遠ざけられていた彼にも及ぶことが語られ、信じてバプテスマを受ける者は、誰でも神の御国の一員とされ、神の新しい家族とされることを伝えたのです。

ですから彼は水場に近づいた時、ピリポにバプテスマを授けてくれるよう願い出ました。ピリポは宦官と一緒に水の中に降りていき、バプテスマを授けます。ただし、このときはペテロや使徒たちがバプテスマを授けた時のような、聖霊が下ったしるしはありません。それはこの後のペテロによる最初の異邦人伝道、コルネリオの時まで待たねばなりません。しかし、彼は確かにクリスチャンとして認められました。

3.ピリポという人物

聖霊が下った特別なしるしはありませんでしたが、これが神様のみわざであることを表すかのように、水の中から上がった途端に、ピリポは聖霊によって連れ去られてしまいます。エチオピア人の宦官は二度とピリポの姿を見る事はありませんでしたが、喜びながら国へ帰って行ったのです。

さて、この不思議なピリポという人物について考えてみましょう。使徒の働きに記されているピリポの記事はペテロやパウロに比べたら圧倒的に少ないのですが、初期のエルサレム教会の一信徒であった人物にしては、何度も登場し、しかもそれがわりと重要な場面で出てきます。

最初に登場するのは、エルサレム教会でやもめたちへの配給に不公平が生じているという問題の場面です。そこにはヘブル語を話すユダヤ人か、ヘレニストと呼ばれるギリシャ語使いのユダヤ人かによる差別が潜んでいました。その問題を解決するために、エルサレム教会は知恵深く、聖霊の導きによく反応する7人のヘレニストクリスチャンを選びます。その中の一人がピリポでした。

同じ7人の中にステパノがエルサレムで福音を語ったことに反発したユダヤ人から迫害を受け、はじめての殉教者になりましたが、それをきっかけにクリスチャン、特にギリシャ語使いのユダヤ人クリスチャンに対する迫害が起こります。多くの人たちがエルサレムを追放されましたが、その中にピリポもいました。

散らされたクリスチャンたちはユダヤの町々に逃げ、行った先々で福音を語り始めます。しかしピリポは他の人とは違ってサマリヤという、ユダヤ人は寄りつかない地域に行きます。そこで福音を語り始め、サマリヤの人たちもイエス様を信じるようになります。後からその知らせを聞いた使徒ペテロとヨハネがサマリヤを訪れ、バプテスマを受けた人たちに手を置いて祈ると聖霊がくだったという出来事が8章の前半にあります。

そして今日の箇所で、使徒たちに先んじて異邦人に福音を宣べ伝えます。この直ぐ後で、後に異邦人の使徒となるサウロの回心の話があり、さらにペテロによる異邦人への福音宣教の話が続きます。

そしてピリポのことが最後に出るのは21章で、パウロが宣教旅行を終え、エルサレムへの最後の旅をする途中です。そこでは「あの七人の一人である伝道者ピリポ」と紹介されています。

ピリポはイエス様が弟子たちに告げた「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」という福音宣教の実現のために、使徒たちに先立って口火を切った人でした。そして、ギリシャ語を使うヘレニストです。ヘブル語を使う保守的なユダヤ人に比べて、外国人との交流にそれほど抵抗がなかったと言われています。元来、田舎で漁師をしていたペテロたちよりも、新しい状況に適応する能力や、ギリシャ語を自由に使えるスキル、エルサレム教会での経験やサマリヤでの宣教の経験がすでにあります。何より、知恵と御霊に満ちていると皆が認める、バランスの取れたクリスチャンでした。

エルサレムから異教徒の国であるエチオピアに帰ってしまえば、もう福音を聞くチャンスはありませんでした。使徒という資格はありませんが、そんなエチオピアの宦官に福音を伝えるならこの人しかいないというのがピリポだったと言えるのです。

適用:遣わしてください

使徒の働きは、教会を通して神様の御国がどのように拡がって行ったかを記すことで、私たちが学ぶべきモデル、原則を学べるようにと書かれました。

初代教会は様々な困難の中にありましたが、聖霊の導き、神様の助けの中で、様々な人たちが用いられ、主の導きに信仰によって応答し、エルサレムから始まってユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てまでと続く長い道のりを歩み出しました。

その中で用いられたのは、ペテロのようなイエス様に直接お仕えした使徒たちや、異邦人のための使徒として召されたパウロのような偉大な指導者たちだけではありません。

ピリポのような人物が用いられました。他にも、パウロの協力者となった医者のルカや紫布の商人ルデヤ、アクラとプリスキラ夫妻、その他無名の人々、奴隷もいれば金持ちもいました。使徒ではないし、職業も立場も様々ですが、それぞれの相応しい場所で用いられました。

最初に教会の中の人々の多様性というお話をしましたが、この多様性は教会を強めるために大事であるだけではありません。ちょうどエチオピアの宦官に福音を伝えるのはピリポこそぴったりだったように、多様な人々に福音が伝えられるために必要なのです。

この出来事があった時点で、ペテロは異邦人に福音を語るなんてこれっぽっちも頭に浮かびませんでした。直ぐ後で、ローマ人の百人隊長コルネリオのところに導かれますが、主の導きに応答しつつも半信半疑でした。ピリポの持っていた人格、経験、特徴が、他の人だったら届かなかった、思いもよらないところに福音が届くために必要だったのです。

私の友だち、知り合いには、家内と共通の友だち、知り合いもいますが、お互いに全然知らない、接点のない人たちがいます。そこにはそれぞれの立場、特徴、趣味、関心等の違いが表れています。

今、こうして教会に集っている私たち一人ひとりの個性、特徴も多様です。時としてその多様性は教会の内側のこと、お互いのためにとか、教会の様々な働きをするために、それぞれの持ち場がある、賜物がある、役割がある、みたいな受け止め方で止まっています。しかし、この多様性は「この人だから福音を届けられる誰かがいる」ということでもあるのです。教会に来てくれた人に福音を伝えよう、という考え方でいたら、宣教の可能性はめちゃめちゃ低くなりますが、私が、私でなければ接点のない人たちにピリポのように遣わされるかも知れないとなったら、可能性はものすごく広がります。

ただし、それは「私も主から遣わされているんだ」という自覚がある場合です。イエス様が「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われたことを、自分事として受け止め、機会があったら福音って何か語れるように準備しておこうとしなければ、突然与えられた機会を生かすことはできません。

ピリポの記事を読んで、ピリポってすごいなあで終わらせて欲しくはありません。イエス様が私にも「立って、行きなさい」と語りかけていただけるように、またそのように導かれた時に応答できるようになりたいと思います。ぜひ、私のことも、私でなければ伝えられない人のもとへ遣わしてくださいと祈る者になりましょう。

祈り

「父なる神様。

教会を通して神様の救いと恵み、愛と平和によるご支配をこの世界に拡げるために、ピリポが用いられた場面を学びました。

この機会を逃したらもう福音を聞くチャンスがなかったかもしれないエチオピア人の宦官のもとへ、もっとも相応しい人物であったピリポが遣わされたように、あなたは私たちを遣わしてくださいます。

どうぞ、ただ黙って待つのではなく、福音を確信し、私も遣わしてくださいと祈る者にしてください。教会に様々な兄弟姉妹が加えられていることを感謝します。私たちが見逃している素晴らしい可能性がまだまだあることに気付かせ、用いることができますように。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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