2024-07-14 荒野で幸せは得られるか

2024年 7月 14日 礼拝 聖書:出エジプト記16:2-18

 住み慣れたところからいきなり知らない土地に放り出されて、それでも幸福でいられるでしょうか。物理的な引っ越しというだけでなく、予期していなかった全く新しい状況に置かれたり、突然困難に直面したとき、私たちはそれでも幸せでいられるでしょうか。

私も突然ということではありませんが、わりと急に住み慣れた場所から全く望んでもいない場所と状況に放り出されたことがあります。きっと大丈夫に違いない、神様が導いてくださると自分や家族に言いきかせつつも、毎日の暮らしのことと、これから先どうなるのだろうかという深い不安がいつも心の奥底によどんでいました。正直、あんまり幸福というふうには感じられませんでした。

今日開いている出エジプト記は、エジプトからシナイ山までの旅を記録しています。およそ400年年に渡って住み続けたエジプトを出て、アフリカ大陸とアラビア半島に挟まれた小さなシナイ半島の先っぽにあるシナイ山に至るまでの道のりと、シナイ山でイスラエルの民が律法を与えられ、礼拝のための会見の天幕を作ったりして、これからの約束の地に向けた旅の備えを描いたものです。

エジプトでの400年は、最初こそエジプトを飢饉から救ったヨセフの一族ということで優遇されましたが、増えるにつれて疎まれ、長い間奴隷とされて来ました。モーセによって解放されたのですが、突然の荒野の生活はそれまでと余りにも違っていました。

1.不満爆発

イスラエルの民がエジプトを出発しておよそ1か月半のことです。彼らは紅海の水が半分に割れて乾いたところを渡るという奇跡によって追い迫るエジプト軍から逃げ切った後、普通なら北側の海沿いの町を行くところ、南側に向きを変えてシナイ半島を南下する道を旅しました。海沿いの町を行くと、当時のイスラエルにとっては強大な敵となるペリシテ人の領地があり、イスラエルの民が怯えるだろうと、神様が取り計らってくださったのです。

目下の目的地はシナイ山のふもとです。豊かなオアシスだったエリムでしばし休息した後、旅を続けてシンの荒野と呼ばれる荒涼とした土地にやって来ました。

エジプトを出てからシンの荒野に来るまでの間、イスラエルの民は主の驚くような奇跡を何度も目にし、体験して来ました。

奴隷であった自分たちを、主が約束の地に連れ帰ってくださると主張するモーセに、最初は誰も耳を傾けませんでした。しかし、それならばとモーセが示す奇跡によって人々の心は動きます。

その後エジプトに次々とくだる10の災いの中で、自分たちだけは不思議と守られ災いに巻き込まれることはありませんでした。最後にはエジプト王がイスラエルの民を追い出すように解放したので、彼らは大急ぎでエジプトを脱出します。

しかし、先ほども触れたように、心変わりしたエジプト王がイスラエルの民を追撃します。エジプトとシナイ半島を分ける紅海の岸まで追い詰めたかということろで、主は海を半分に分け、イスラエルの民を救い出してくださいました。

民の後ろには神様の雲の柱がエジプト軍から守り、両側は海水が壁のように立ちあがっています。自分たちが紅海を渡りきった後、エジプト軍は追撃してきますが、あっという間に海にのみ込まれてしまいます。15章には敵から救い出してくださった神を称えるモーセと姉ミリアムの賛美が記されています。

そんな景色は絶対に忘れられないと思います。ところがその直後、マラというところでは、ようやく見つけた水が飲み水には適していませんでした。それで民の不満が爆発し、モーセに向かって不平を言い始めます。モーセは主に叫び、そうすると主が一本の木を示して、それを水に投げ入れるよう命じました。すると水は甘くなり、飲めるようになったというのです。一息ついた民はかなり大きなオアシスであったエリムで宿営をすることになったのです。

そこから旅立って、シンの荒野にまで来ました。これまで見て来たように、主はこれまでずっとイスラエルの民を救い出し、エジプト軍から守り、水を与えてきました。しかしここに来てまた民の不満が爆発します。今度は食べ物のことです。

恐らく出発するときに、ある程度食糧も運んで来たはずですが、それも尽きかけ、倹約して食べなければならない状況だったのでしょう。3節にあるように、エジプトにいたときは肉鍋の側に座ってパンも腹一杯食べられたのに、今は飢え死にしそうだ、いっそのこと死んだ方がましだとモーセとアロンに言い始めたのです。

長距離ドライブしているときに、子どもが「喉渇いた」「お腹空いた」「飽きた」と不満をこぼし、挙げ句のはてに「ホントは来たくなかった」「帰りたい」と言っているのを思いうかべるのは私だけではないと思います。もちろん状況はもっと深刻です。

2.モーセの態度

イスラエルの民の不満を聞いたモーセの態度に注目しましょう。

3節でイスラエルの不満が爆発した後、4節ではすぐに主がモーセに語りかけています。

一見、イスラエルの不満に主が直接答えただけに見えますが、3節と4節の間にモーセの言葉が挟まれていないことに大きな意味があるようです。というのは直前の15:22~27のマラでの事件の時のモーセの態度との比較が見られるからです。

荒野で水がみつからず、マラでようやく見つけた水は苦くて飲めずイスラエルの不平がモーセに向かいます。するとモーセが主に訴え、主は水を与えてくださいます。25節で「主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼(モーセ)を試み」たとあります。

一方、シンの荒野では食べ物が尽きかけ、イスラエルの不平が再びモーセに向かいます。今度は、モーセは沈黙を守り、主は民にパンを与えると言われます。そのパンについて4節で「これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。」と言われました。

つまり、マラで水が与えられたことはモーセを試すものとなり、シンの荒野でパンが与えられることはイスラエルの民を試すものとなりました。与えられなかった時ではなく、与えられたときがテストでした。水や食べ物という、生きて行く上で不可欠のものを主は与えてくださいましたが、そのどちらも、モーセや民が、主を信頼し、主のおしえに従うかどうかを試すものとして機能したということです。ものが足りない時が試される時だと思いがちですが、与えられた時こそが試される時だったのです。

なぜモーセも試されなければならなかったかを見てみましょう。

15:25で「モーセが主に叫ぶと」とあります。この「叫ぶ」と訳されている言葉を調べていくと、大体、不平不満をぶちまけ、わめき叫ぶという場面で使われていることが分かります。

まだ旅を始めて一月です。モーセにとってもこの先どうやって民を導くべきか、手探りだったのではないでしょうか。そんなタイミングでなかなか飲み水が見つからず、それをあたかもモーセのせいであるかのように不満をぶつけられて、モーセもたまらず神様に不満をぶちまけてしまったのです。

ですから主はモーセの訴えに答えて水を与え、このような時に不満や怒りをぶつけるのではなく、主に信頼し、主がおしえることに耳を傾けることを学ばせようとしたのです。

それで今回は食べ物のことで民が再びモーセとアロンに不満をぶつけたときは、神にわめき叫ぶのではなく、まずは主のみこころを聞くことにしたのではないでしょうか。

主が与えてくださった水は、乾いた喉を潤すだけのものではなく、恵みを与えてくださる神を信頼することを学ぶためのものです。次に困った状況になったとき、「ああ、そうだった。主はあのときも祈りに答えて与えてくださった」とそのことを思い出して、まずは神様を信頼して落ち着き、不満や怒りをぶつける前に主に聞く、祈る、聖書が教えていたことを思い出せるためです。

そのことを学んだモーセに対し、イスラエルの民は水が与えられたという事実にはすごく感謝しただろうし、驚いたでしょうが、主に信頼することをまだ十分には学びとっていなかったのです。

3.天からのパン

では、主がイスラエルの民に与えたパンについて見ていきましょう。実際にはお読みいただとおり、パンだけでなく肉も与えられました。

パンを与える前にモーセはイスラエルの民に2度、あなたがたの不平はモーセではなく主に対する不平だということを強調しています。なぜなら、この旅自体が、主ご自身が「エジプトの地から導き出した」ものだからです。自分たちを奴隷状態から解放し、導いたのはモーセを通してですが、実際に事を為したのは神様です。旅全体が主のご計画と御わざによって進められているのですから、その旅の毎日のことを主が知らないわけはないし、必要な時には必ず与えてくださる方であったことも示されて来ました。だから、不満を言う相手がモーセだとしても、それは主への不平なのです。私たちのクリスチャンとしての人生も、そういう意味では、主によって救われ新しい歩みへと連れ出されたのですから、その中で誰かに不平をこぼし、不満を爆発させるとき、それは人に対してというより主に対するものだと考えるべきなのかも知れません。

しかし主は、それでも人の訴えに応えて与える方です。

具体的にはその日の夕方、うずらが飛んで来て宿営を覆い、人々はうずらを捉えて食べることができたのです。そして翌朝、朝露が降り、日が昇って露が消えると、辺り一面真っ白い何かが降り積もっています。人々は「これは何だろう」と怪しんでいるところにモーセが「これが主が与えるパンだ」と説明します。そして、それぞれ必要な分だけ、家族分だけ集めるように命じました。

これが後に「マナ」と名づけられる天からのパンでした。うずらは毎日飛んで来たわけではありませんが、マナはこの時から40年後に約束の地での最初の収穫の時まで、安息日を除いて毎日、欠かすことなく与えられました。この日々を振り返ってモーセは申命記8:3でこう言います。「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。」また16節ではこうも言います。「あなたの父祖たちが知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするためだったのである。」

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」とはとても有名な言葉ですね。主との信頼と交わりがあることによって、荒野を旅する意味や目的をしっかり捉えて日々生きることができます。

苦難の多い荒野の旅の中ですが、日々与えられるマナを通して、ただ食べ物があることに満足するのではなく、これを与えてくださる主が共にいて下さり、主との交わりがあるなら、苦難を通してついに荒野の旅の中にあっても幸福だということが分かるようになるのだということです。

イスラエルの民はこのことを学ぶのにずいぶん時間がかかりました。出エジプト記を読んでいくと、すぐに毎日のマナに飽きたと言い、他のも食べたいと言い出します。主の恵みが日々与えられても、気付かなければ不平不満の多い旅路になってしまうのです。

適用:日ごとの恵み

さて、イスラエルの民、あるいはモーセの荒野での経験を私たちの人生の旅路に適用してみましょう。

先ほども言った通り、主がイスラエルをエジプトから連れ出してくださったように、私たちもまたイエス様によってクリスチャンとしての新しい人生の旅へと連れ出していただきました。どのようにしてクリスチャンになったかは人それぞれのストーリーがあります。奴隷だったイスラエルほどめちゃくちゃ苦しい状況から救いを求めたというわけではないかも知れません。しかし、私たち人間は誰でも罪と死の呪いに縛られており、それを自覚しているかは別として、その影響が自分の心や行動に現れていたのです。

ですからイスラエルと私たちには通じるものがあります。神が使わしたモーセを信頼して従い、奴隷だった民が解放され、水の中を通って来たように、神のひとり子であるイエス様を信じて私たちを捕らえていた罪と死の呪いから自由にされ、バプテスマを受けて新しい歩みを始めたのです。

そして、エジプトを脱出して旅を始めたことがすぐにゴールではなかったように、私たちは救われ、クリスチャンとしての新しい歩みが始まりましたが、旅はまだ始まったばかりです。救いの完成に向かって、私たちはこの人生を通して学び続けなければなりません。モーセですら最初はいらだち、神にわめき叫ぶような経験しながら学んだのですから、私たちも学ばなければなりません。

学ぶべき内容は、今日の箇所で言われていた通りです。この旅路へと連れ出してくださったのは主であるという確信を得ること、そして日々の恵みを十分に備えてくださる主との信頼、交わりの中にあるなら、荒野のような人生であっても幸いであることができるということです。

この人生の旅路において、足りない事、困難なことがあるでしょう。荒野の旅ですから、水や食べ物が不足しがちとか、不便さがあるというのは普通のことです。そんなとき、水がない、食べ物がないとイスラエルの民が騒いだように、私たちもまた足りない事、困難な時に「試練にあっている」と言います。先週、教会のエアコンが壊れて修理も利かないと言われた時にすぐに頭に浮かんだのは営繕基金の残高です。近い将来必要とされる使い道があったのに、そこから出せるだろうか。また、すぐにスマホで日曜日の予想気温をチェックして、今度の礼拝の時、皆さんの体調は守られるだろうか。困ったなあと。大きな困りごとではあります。しかし聖書は、水がないこと、パンがないことではなく、神がモーセに水を与える時に、イスラエルの民にマナを与えることによって試したと言います。エアコンが壊れたことが試練なのではなく、その困りごとに神様が答えてくださったときに、ほっとして終わりではなく、どのような信仰を持つかこそが試されるのです。神様は恵み豊かな方ですから私たちに必要なものは備えてくださいます。しかし肝心なのはその恵みを通して私たちが何を学ぶかです。これはとても重要な視点です。神様は、私たちが水やマナが十分にあるから幸せで、それが足りないと不幸せだと神に不平をこぼすようなレベルから一段ステップアップして欲しいと願っているのです。

日々備えてくださる主への信頼と交わりに私たちの幸せがあることを確信する者になりましょう。

祈り

「天の父なる神様。

荒野での旅路での出来事を通して、あなたの恵み深さに私たちがどのような信仰を持つか試されるということについて考えさせられました。

まだまだ私たちは学び足りないかも知れません。けれども忍耐強い主が、私たちを放り出すことをせず、導いていてくださることを感謝します

どうぞ、この人生の旅路が主によって連れ出していただいた歩みであり、一つひとつのことに意味があり、ちゃんとゴールがあることを確信できますように。そして足りているか足りていないかではなく、この歩みが主への信頼と交わりの中にあることに幸せを見出すことができることを確信させてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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