2024-07-28 宝を見つけたら

2024年 7月 28日 礼拝 聖書:マタイ13:44-46

最近はみかけないですが、昔テレビで「徳川埋蔵金」を探すという番組をよくやっていたと思います。江戸時代の終わり、徳川将軍が天皇に権力を明け渡す「大政奉還」の際に、いずれ徳川幕府を再興するときのための資金を密かに隠したという伝説を頼りに、いろいろ推理し、あちこちの山を掘り返す様子を面白く見ていました。

たぶん、実際には徳川埋蔵金は実在しなかったのだと思うのですが、まあそれはそれとして、ロマンのある話ではあったなあと思います。

しかし、こういう話はどこの世界でも庶民の間では喜ばれ、話題になるようで、誰かが宝くじの当たり券を拾って億万長者になったという話題がニュースで拡がることがたまにあります。

イエス様の時代のユダヤ人であっても庶民の間ではこうした話が「そんなことがあったらいいよなあ」という感じで語られていたようです。現実にはあまり起こりそうもありませんが、話としては聞いたことがあるようなストーリーが今日の譬え話に用いられていますが、たとえのテーマはあくまでも「天の御国」についてです。

宝を見つけることと私たちの信仰、特に天の御国とどういう関係があるのでしょうか。短いたとえですが、注意して読む必要がある教えでもあります。

1.天の御国とは

今日の箇所の二つ目のたとえは、どちらもテーマは「天の御国」です。実は「天の御国」という言い方はマタイの福音書にしか出てきません。他の福音書では「神の国」と記されています。

時折、天の御国あるいは天国と神の国を別のもののようにイメージしている人がいます。実は案外多いかも知れません。天の御国と聞いて、死んだ後に行く世界の「天国」を思いうかべ、神の国というのはまた別のもの、というふうに。しかし、福音書をよく読み比べると、天の御国と神の国は同じ意味であることが分かります。

古代の歴史家エウセビオスはマタイが福音書を書くときにヘブル語で、おそらくはアラム語という意味だと思いますが、ユダヤ人が使う言葉で書いて、後からギリシャ語に翻訳したと証言しています。ユダヤ人は神の名をみだりに唱えることを禁じた律法に従って、神を「天」という言葉に置き換える習慣がありました。ですのでマタイはユダヤ人を意識して記した福音書では「天の御国」としたと考えられます。

さらに「御国」または「国」と訳されている言葉は正確には「王国」とか「王権(王の治める権威)」という意味です。ところが民主的な世界に生きている私たちにとって王国という概念は分かりにくいものです。そして「支配」という言葉にあまりいいイメージは持たないものです。そのあたりの歴史的背景や現実世界の国家の支配について話し始めれば切りがないのでしませんが、ぜひ覚えて欲しいことは聖書が天の御国や神の国と言う場合、それは王である神、あるいはキリストが王である国とか、神またキリストのご支配という意味なのだという点です。そして、イエス様によるご支配はこの世の権力者とはまるで違い、力で従わせるのではなく、ご自分を献げるほどの愛への私たちの応答によって成り立ちます。

ですからこのたとえで言われている「天の御国」も私たちが一般的に想像する、死後の世界のことを言っているのではないし、どうすれば死んだ後天国に入れるかということを教えているのではないということをはっきり理解する必要があります。

もちろん、死後に私たちが迎えられる主のみもとには安息と慰めがあり、やがてイエス様がおいでになるときに完成する御国には完全な慰め、救いの完成、すべての労苦に対する報いがあり、私たちはその希望を持ってこの世の旅路を歩むのです。しかし神の国は、そういう死後の希望や未来の希望の話に留まらず、今このときも私たちのうちにあり、私たちを通してさらに拡がっていくものです。天地を造られた神がひとり子イエス様を遣わし、その命の代価によって救おうとした愛に私たちが応答するときにもたらされる恵みと祝福が私たちに注がれ、私たちの心に小さな種として、小さな火として始まった神の国は私たちの心と人生を満たし、福音宣教を通してさらに拡がっていきます。

歴史上、覇権を目指した国、支配者は敵対する者の多くの血を流して支配領域を拡大していきました。漫画や映画でやっている『キングダム』が描く秦の始皇帝も、イエス様の時代のローマ帝国も、競って植民地支配を推し進めたヨーロッパの国々も、それに対抗してアジアの覇権を目指したかつてに日本も同じです。神の国は、ただ一人イエス・キリストの流された血によって表された愛によってそのご支配を拡大していくのです。

2.犠牲を払ったのは誰か

さて、今日の二つのたとえを見ていきましょう。ポイントは宝を手に入れるために犠牲を払ったのは誰かということです。

44節でイエス様は「天の御国は畑に隠された宝のようなもの」だと言っています。

当時、高価な宝や財産を壺に入れ、畑などの土の中に埋めて隠す、ということがわりとよく行われていたそうです。忘れるなんてことはありそうもありません。しかし何らかの事情で宝を隠した人はその存在を忘れてしまったようです。ある人というのは畑の持ち主ではなく、その畑を借りるか、任されて耕していました。そして畑作業をしている時にたまたまその宝の壺を見つけたわけです。

この人はすぐに掘り出したりせず、まずは全財産を売り払って畑をまるごと買い取ります。やり方はずるいですが、そうやってでも手に入れるだけの価値が、見つけた宝にはあったということです。

45~46節では、「天の御国は…良い真珠を探している商人のよう」だと言っています。こんどは、自分で良い商品を買い付けして商売をする行商人か貿易商人といったところでしょうか。当時、真珠は大変な価値のあるものだったそうで、良い真珠を手に入れられたら、かなりの利益が上げられるものです。あるいは、自分の手元に置いておきたかったのでしょうか。とにかく、素晴らしい真珠を見つけたら、大急ぎでお金を準備し、誰かの手に渡る前に買い取ってしまいます。それほどその真珠には価値があるのです。

さて、ここで私たちはたとえの読み方、解釈について間違いを犯さないよう気をつけなければなりません。読み方を間違えるととんでもないことになるのです。

問題は、宝や真珠が何を表し、それを手に入れるために犠牲を払った人は誰を表しているのか、という点です。

この二つのたとえには宝や真珠を見つけた人が自分の財産を売り払って手に入れたことが描かれています。しかも畑で宝を見つけた人はかなりずるいやり方で手に入れています。そういうところから、天の御国には全財産を投げ出さないと入れないという教えを引きだし、だから全部献金しなさい、という適用をして教えたら、救いは信仰によるという教えに矛盾することになります。あるいは天の御国のためには人を騙すようなズルをしても良い、という原則を引き出すのも間違いなはずです。イエス様はニコデモとの対話の中で、神の国に入るには何かをするのではなく、新しく生まれる必要がある。それは人間の努力によるのではなく聖霊によってなされることだと教えました。そして人を新しく生まれさせるのは、ただ御子イエス様を信じることによるのです。

では、宝を手に入れるために犠牲を払ったのは一体誰だったのでしょう。それはただ一人、イエス・キリストです。そしてイエス様にとって犠牲を払ってでも手に入れる価値のあるものとは誰でしょう。それは御国の子とされるべき私たち一人ひとりです。

有名な旧約の預言をひとつ開いてみましょう。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにする」。ここで主はご自分の民を取り戻すために他のものを犠牲にするほど大切だといっていますが、実際に主がはらった犠牲は十字架で自らの命を献げることでした。

3.たとえがふたつ

しかし、なぜイエス様は似たような二つのたとえを話されたのでしょうか。二つのたとえに登場する宝を見つけた二人の人物には、全部の持ち物を売り払ったという共通点がありますが、大きな違いもあります。

畑で宝を見つけた人は地主から畑を任された小作人というところです。彼は自分に任された畑に宝が隠されていることを知りませんでしたが、畑仕事をしているうちに見つけたんです。

一方、真珠を手に入れた商人は、自分から素晴らしい真珠はどこかに出回っていないだろうかと外へ出て探していた人です。

一方は足元に隠されていた宝を見つけ、もう一方や価値ある真珠を探してついに見つけたのです。

この疑問に対する答えは、こんなふうに考えてみてはどうでしょうか。畑に隠された宝というのは、父なる神様から遣わされたイエス様が、直接働いていたユダヤ人たちの間で、頑なに拒む人たちが多かったのに、今目の前で話を聞いている弟子たちのように、イエス様を信じて従って来る人たちのことです。

マタイ15:24でツロの町でカナン人の女性に、悪霊に取り憑かれた息子を助けて欲しいと言われたとき、イエス様は「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち」のところに遣わされていると言われました。その多くがイエス様に背を向けたのですが、弟子たちはイエス様をキリストとして受け入れました。イエス様は彼らをご自身のものとし、その祝福とご支配の中に置くために、十字架でいのちを献げ、買い取ってくださったのです。

あるいは、畑をまるごと買い取ったということは、イエス様は私たちを救うため、私たちの罪のために死なれただけでなく、全世界のために死なれたということを表しているのかもしれません。

そして素晴らしい真珠を捜し出したというのは、家の外、自分の土地から離れたところにいた価値あるものですから、イスラエルの囲いの外にいた異邦人の中にイエス様を信じる人たちを見つけ、彼らのためにも十字架でご自分のいのちを献げてくださったのです。

たとえば、さきほどのカナン人の女性はあくまでイエス様に食い下がり、「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言いました。するとイエス様は「あなたの信仰は立派です」と応えて、願いをかなえ、彼女の息子をいやしてあげたのです。

この二つのたとえがあることで、イエス様はユダヤ人だけでなく異邦人のためにも十字架でご自分を献げてくださったこと、それほどまでに私たちの存在を価値あるものと認めてくださり、私たちを救うために喜んで犠牲を払ってくださいました。

畑の中に宝を見つけた人も、市場ですごい真珠を見つけた人も、その価値が分かったので、喜んで持ち物全部を売り払いました。私たちはそこまでして手に入れたいと思うようなものに出会ったことはないかも知れませんが、イエス様は見つけたのです。

最初に、二つの喩え話の主題は「天の御国」つまり「神の王国」だという話をしました。イエス様が王として治める王国はこの世の権力者がするように力で支配するのではなく、愛によってなさるのです。ユダヤ人の中にも、異邦人の中にも、イエス様はご自分のいのちを代価として与えても構わないと思うほど価値ある人々を見出し、喜んで十字架に進まれました。愛のゆえです。

適用:高価で尊い

さて、今日の二つの喩え話をとおして明らかにされたことは、イエス様にとって、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、イエス様を信じイエス様と共に歩みはじめた者は何にも代えがたい、高価で尊いものであるということです。

けれどもイエス様が高価で尊いと言ってくださる私たちの姿は自分たちで言うのも何ですが、そんなに尊いと胸を張って言えるものではないかもしれません。今日の風潮では、人間の尊厳ということが何にも増して重視されていますが、その視点には時として人間のうちにあるどうしようもない罪の性質が都合良く無視されています。

私も、どんな人でも神のかたちに造られた存在としての価値があり、その命も存在も、能力や容姿、立場に拘わらず尊ばれるべきだと信じていますが、しかし、同時に個々の人間には醜い罪の性質があり、時として深い闇を抱えていることも事実として認めなければならないのです。

イエス様が喩え話の中で全財産を売り払って買い取った宝や真珠として買い取った私たちの価値とはいったい何なのでしょうか。

「あなたはわたしの目には高価で尊い」と言われたイスラエルの民の旧約での歴史を振り返れば、決して褒められたものではありません。忠実で篤い信仰の時代は一時の熱狂のように観られることはありますが、ほとんどは反抗と不信仰の連続と言った方がぴったりな歩みでした。たまにアブラハム、モーセやダビデのようなキラリと光る信仰を見せる人たちが登場しますが、彼らもまた人間的には様々な欠点があり、今だったらネットで炎上してしまうような酷いことをしてしまったこともありました。

新約聖書の、このたとえを聞いていた弟子たちも、その後のキリストのからだなる教会、神の家族としての教会も、多くの間違いや争いを繰り返し、不完全さを示します。

それでも、イエス様は彼らを高価で尊いと言い続け、世の中の人が見てもこれはひどいと思うような姿をさらしてもなお、「聖徒たち」と呼び、「わたしの兄弟」と呼んでくださるのです。これは今日の私たちもまったく同じです。

いったい、何がイエス様にとって価値があるのでしょうか。それはただ一点、あなたはわたしの目には高価で尊い、という神様の想いに応答し、イエス様の十字架にかかって罪を贖い、救おうとされた愛に応え、イエス様を信じてと共に歩もうとした、ということなのではないでしょうか。

天の御国、神の国が、王であるイエス様の愛によるご支配であるなら、御国の民となることは、このイエス様と共に歩もうとすること、そのご支配の中に生きる者になることです。その歩み方は実際に生活しながら学ばなければならないとしても、神の民となるために必要なことはイエス様を信じることです。その信仰の応答がどれほど小さなものであっても、その後の歩みが必ずしも順調でなく、時々迷ったり、成長がのんびり過ぎたりしたとしても、主と共に歩みたいと、それまで歩んでいた道から向きを変えた私たちを「よく振り返ってくれた、よくこの声に耳を傾けてくれた」と喜んでくださるのではないでしょうか。

私たちを買い取るために払われたイエスの犠牲を覚えて感謝しましょう。そしてそれほど愛された自分自身や共に歩んでいる兄弟姉妹を、イエス様にとってとても価値ある愛された者として、私たちも愛し、赦し、受け入れ、存在を喜びましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちを愛してくださり、私たちのためにひとり子イエス様をお送りくださりありがとうございます。

あなたが私たちを畑に隠された宝や高価な真珠のように想ってくださる理由を、完全に知る事はできませんが、事実、こんな私たちを救い、御国の民とするためにイエス様はご自分のいのちをお捨てになり、私たちの罪の身代わりとなってくださいました。

私たちが自分の罪のために滅びる者になって欲しくないと、私たちに語りかけてくださり、ありがとうございます。

どうぞ、私たちがそれぞれ、イエス様から大きな愛で愛されていることを確信させてください。共に歩む兄弟姉妹もまたあなに愛され、あなたの目には尊い存在であることをはっきり理解し、受け入れ、赦し、愛する者であらせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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