2024-08-11 信仰によって生まれ、生きる

2024年 8月 11日 礼拝 聖書:ガラテヤ2:16-21

 私たちクリスチャンは、イエス様を信じるだけで救われると信じています。誰であれ罪ある人間がイエス様を救い主と信じるだけで罪赦され、神の子どもとされ、神の家族である教会に加えられ、さらに永遠の御国の民とされると理解しています。正しい生き方が出来ていなくても、失敗が多くても、なかなか直せない悪い習慣があったとしても、そのままで救いを受け取ることができます。

しかし、ガラテヤ地方の諸教会には、あるユダヤ人クリスチャンたちが、本当に神に義とされるためには、つまり救いを受けるためには、信じた後で律法に従う必要があると教え始めたのです。割礼を受け、安息日を守り、一年を通じた様々な祭礼や断食、日ごとの決まった時間の祈り、食べ物に関する決まり事などなど。

そういった習慣を取り入れることは、外見的にも神の民の一員に加わったという実感を得やすかったのかもしれません。自分たちが神に認められるような生活が出来ていると考えやすいということだったのかもしれません。そんな教えがガラテヤの異邦人クリスチャンの間に拡がり始めていました。それはパウロに大変な危機感を与えました。

この問題は、イエス様を信じて救われたクリスチャンはどのようにして信仰を全うすることができるのか、という大きな問題に関わっています。ご一緒に見ていきましょう。

1.義とされるとは

聖書では救いについて様々な説明の仕方、表現をしています。日本人が一般的に宗教的な救いについて考えることは、苦悩からの解放ではないかと思います。心をざわつかせたり、人生を苦しめるものから解放されるとか、気分が晴れやかになるというようなことを思って救いを求めます。あるいは、苦労したり悲しんだことが報われることについて「救われた」という言い方をします。

一方、聖書で特徴的な説明に「義と認められる」という言い方があります。「義とする」というギリシャ語が使われていて、裁判で無罪判決が出される時に使われ、「無罪であると認められる」「その主張は正しいと認定される」という意味で用いられます。

この言葉が使われる前提として、私たちに救いが必要な理由は、私たちに罪があって、神の裁きに直面しているという厳しい現実があります。しかしイエス様を救い主と信じることで、有罪なはずの私たちが無罪であると父なる神様に認めてもらえるということです。だから救いは罪の赦しとか、罪に対する裁きからの救いだというふうに言われるのです。みことばを通して神の前に罪があることを知り、イエス様が私たちのためになしてくださったことを知った私たちが、信仰によって応答するとき―つまりイエス様を救い主として信じるとき―、私たちは義とされます。

また一方で救いという言葉には、その人が正しい者とされていく、神の義に相応しい者に造り変えられていくという面が含まれています。神様によって罪なしと宣言していただいただけでなく、その宣言に相応しい者に変えられていくのです。このとき働くのが聖霊です。みことばを通して聖霊が私たちに働きかけ、父なる神様の御思いに気付かせ、イエス様をよみがえらせた神の力が聖霊によって与えられます。これに信仰によって応答するとき―つまりみことばの教えに従って生きようとするとき―、私たちは神の子どもらしくなっていきます。

義とされること、つまり救われるということは、イエス様のおかげで罪赦された、もう裁きを受けずにすむようになったというだけではありません。生涯を通して、聖霊の導きと助けによって、私たちを神の義に相応しい者に変えようとしてくださる神様に、信仰によって応答し変えられていくことでもあるのです。救いは単に気持ちが楽になることに留まらず、天国行きの切符を手に入れただけでなく、私たちが本質的に変えられていくことを意味します。

それはまた生涯を通して三位一体なる神様との交わりに生きるというふうに言い換えても良いものです。イエス様の十字架と復活、聖霊の導きと助け、父なる神の赦しと力が日々の暮らしの中で、私たちの心、生活の仕方、周りの人との関係を少しずつ造り変えられていくのです。

もちろん、私たちはこういう変化がそう簡単ではないことも知っています。文字通り生まれ変わったように劇的に変えられる人もいますが、多くのクリスチャンが経験するのは「なかなか変わらない」現実です。何しろ、私たちの中には、この部分は神様にも触れて欲しくないと思うところがあったりするのです。それでも自分で感じる以上に、小さな変化は、周りの人からすると驚くほど明らかです。私たちは自分の力のなさにがっかりするより、私たちを新しくしてくださる神に期待して今あるところから進むのです。

2.キリストとともに死ぬ

ユダヤ人クリスチャンの中には異邦人クリスチャンも律法に従うべきだと主張する人たちがいました。それに対してパウロは自分自身の経験を織り交ぜながら「私たちはキリストとともに十字架につけられた」のだと言います。どういうことでしょうか。

ユダヤ人には自分たちは異邦人とは違う、という思いがありました。自分たちはアブラハムの子孫であり、神の民とする契約のもとに生まれた民族だ。契約のしるしとして与えられた割礼と律法を守る民だ、という自負がありました。しかしそれがユダヤ人を縛り自由を奪って来たものであったことに気付いていなかったのです。

長い間ユダヤ人は契約を守ること、律法を守ることによって神に義と認められると信じて来ました。しかし16節にあるように、イエス・キリストの福音を聞いた時、はじめて律法を行うことによってではなく、イエス様を信じることによって義と認められるという教えを知りました。パウロもそんなばかなと思っていました。そんなことを言ったら、先祖代々守ってきた律法を否定することになる。17節にあるように、それでは「キリストは罪に仕える者」ではないか、イエスに従う者や教会は自分たちの宗教や文化を破壊するものだと信じて迫害したわけです。

しかし、パウロ自身がダマスコ途上で復活のイエス様とお会いしてから何もかもが変わりました。目が見えなくなっていた三日間の中で、パウロは自分が神の義についてちゃんと見えていなかったことに気付かされたのです。つまり、人間はどんなに頑張って律法を守っても、神の前に義と認められるほどに正しくあることができないという恐ろしい事実です。つまり、どれほど忠実に律法に従っていたとしても、律法に照らせば、自分は神の裁きに値する者、報いとしての死を受けるしかない者だと認めざるを得なかったのです。それでもなお律法によって神に義と認められようとし続けるなら、聖書が示す真理に目をつぶるだけでなく、このままでは神に受け入れられないという不安と恐れを抱えたまま生き続けなければならないということになります。

しかしパウロは律法に縛られ矛盾と恐れに捕らわれるのではなく、本当の意味で神とともに生きたいと願いました。そのためには、自分が死に値する罪人であることを認める必要がありました。自分はユダヤ人だ、自分は罪人では無い、自分は神に義と認められるはずだという思いを捨て、自分も異邦人と何も変わらない罪人なのだと無条件で受け入れること。私たちもまた同じように、自分にはこういう実績があるとか、良い面もあるとか、ほかの人よりマシだとか、そういうのは捨てて、神様の前では自分は確かに罪ある者だ、その報いとして裁きを受けるのが当然の者だと認め、受け入れること。それが「律法によって律法に死にました」「キリストとともに十字架につけられました」という言葉の意味です。

律法は自分たちの特権や正しさを証明するものではありません。人間が罪人であることを教え、神の恵みに頼らなければならないことを気付かせるためのものでした。その恵みをもたらすためにイエス様が十字架につけられたのです。それなのに、クリスチャンになってからまた律法を守ることで神に義と認められようとするなんて、21節にあるように神の恵みを無駄にし、キリストの死は無意味だと言うようなものです。

3.キリストにあるい

のち

ところで、「クリスチャンは赦されただけの罪人だ」という言い方があります。イエス様を信じて新しい人とされたはずですが、相変わらず罪の性質が残っていることを言い表していると思います。

ですが、それだけではそれこそ何の救いもない言葉で終わってしまいます。聖書は私たちは赦されただけの罪人に留まらず、私たちの内にはキリストが生きておられると力強く語りかけます。

私たちがクリスチャンとして生き続けることができるのは、私たちの努力の賜物ではないし、才能でも、真面目だからとか、頑張るからではなく、ただイエス様が私のうちに生きてくださっているからです。キリストのいのちが私たちのうちにあるので、私たちはこの世にあってキリスト者として生きていくことができます。

ガラテヤ教会に忍び込んだ律法主義なユダヤ人クリスチャンは、クリスチャンになってからも神に義と認められ、愛され、受け入れられるために律法を守るべきだと教えました。それはイエスの恵みによってではなく、自分の行動で、自分の力で神に愛されるに相応しいことを示しなさいということに他なりません。

そういう偽教師のような人々が教会に忍び込むことは、初期のガラテヤ諸教会だけが経験したわけではありません。もっと神に愛されるために何かしなさい、ということを直接教えた人たちもいましたし、そうは言わないけれど、そうしないと神に愛されないのだと思い込ませ、信者をコントロールする指導者たちが生まれることはたびたび起こります。

あるいは誰かから聞きかじった言葉で「自分はこのままでは神に喜ばれていないから、もっとがんばらなきゃ」とか「神様に認められるために、もっと献げなきゃ」「もっと奉仕しなきゃ」と考えるようになってしまうことがあるかもしれません。

そういう私たちに聖書は力強く語りかけます。「キリストが私のうちに生きておられる。」「今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」。

イエス様に対する信仰によって生きるとは、イエス様がみことばと聖霊によって導く歩みに従って行くということですから、ただ信仰心という心の有り様だけでなく、私たちの考え方と行動を変えていくことでもあります。しかし、もはやこの行いは、神に愛され認められるためにするのではなく、私を愛してくださる方への信頼のゆえについていくものです。それが神様に愛された私たちが、その愛をますます喜び楽しむ道であり、それが周りの人たちに神様が祝福をもたらす道だと信じるからです。

クリスチャンは信仰によって生まれ、信仰によって生き続ける者です。信仰には行いが伴います。誰か助けが必要な人がいれば手を差し伸べ、自分自身が成長するために聖書を学んだり、実行しなければならいし、悪い習慣を改めようと思ったら相当努力が必要です。けれど、それはもはや私たちが頑張ることで神様に認められためではありません。神に愛されるためにがんばる必要はないし、神に認められるために正しい人間であろうとする必要はありません。ただ、こういう足りないところの多いというか、神の前では裁きを受けるのが当然の者が愛され、赦され、イエス様が私のうちにおられるから、感謝をもって受けた恵みに応えるのです。

適用:恵みと愛に応えて

今日の箇所から受け取る大事なメッセージは、私たちのうちにはキリストが生きておられるのでクリスチャンとして生きていけるということです。私たちはイエス・キリストへの信仰によって生まれ、キリストへの信仰によって生き続ける者なのです。

誰かが神に愛されるために何かをしなければならないと教えていたなら、もちろんそれには注意しなければなりません。しかし、もっと大事なことは、私たちの信仰の歩みの原動力は何かということです。そこがあやふやだったのでガラテヤのクリスチャンたちは間違った教えに惑わされました。

愛されるために何かしなければ、認められるために何かしなければと考えてしまう、根強い思考パターンや思い込みが自分の中にないかも気をつけなければならないのではないでしょうか。

私もかつてはそうでした。クリスチャンホームに生まれ育ったこともあってか、小さいころから無意識のうちに期待に応えようと振る舞うことが身についてしまいました。そうやって幼い頃から身につけてしまった思考パターンは簡単にはなくなりません。本当の自分はいつも弱気で、人の顔色をうかがってばかりいるのに、人前ではちゃんとできるふうを装っていました。教会では教会にいるときの顔で、学校では学校での顔をしていますが、基本的な行動パターンは同じです。それは神学生になっても、牧師になってしばらくはそうでした。

しかし、それから今にいたるまで、何度かのひどい挫折や失意を繰り返しながら、その度に、自分が神様の前にはまったく何も持っていないこと、ふさわしさなどないのだということを味わいつつ、それでも神様に愛されていること、恵みの中にあることを教えられ、こんなでも何とか神様にお仕えしていきたいという気持ちだけは消えることなく、ここまで来ました。

一年前に経験した無力さと死に近づいた経験ももちろんこのことをさらに深く理解する機会になりました。少なくとも今は、神様に認めて貰うためとか、何とか人に認めてもらうために頑張ろうという思いからは自由になれていると思います。

「キリストが私のうちに生きておられる」というのは、神秘的な体験や幻を体験するようなことではなく、むしろイエス様を信じて生き続ける中で自分自身や人生について、また神様の素晴らしさについて認識が新たにされて分かることだと思います。小さな経験、大きな経験、様々なことを通して、神様に愛され、恵みの中を生かされていることが痛感させられ、クリスチャンとして生きていられるのは、いや、この世にあって生きていること自体が、ただ恵みによる、キリストが私のうちに生きておられるからだなのだ、と体感していくことなのだと思います。

ガラテヤ書の中でパウロは「キリスト・イエスにあって私たちが持っている自由」という言い方をしています。もし、皆さんが、キリストにある自由より、信仰の歩みの中で何か縛られている、無理している感じがするなら、それらを単に投げ出すのではなく、まずは今一度、自分の信仰の歩みの原動力は何になっているだろうかとじっくり考えてみてください。皆さんがパウロとともにイエス様の愛と恵みに応えて、「私のうちに生きておられるキリストによって今生きている」と心から告白できることを祈っています。

祈り

「天の父なる神様。

神様が私たちを義としてくださるのは、私たちの力ではなく、ただただイエス様の十字架の愛と恵みによるものであることを信じます。また、あなたが私たちをあなたの義に相応しい者に造り変えようと、みことばと聖霊によって導いてくださっていますから、信頼して従うことができるように助けていてください。

私たちが今生きているのは、私たちのうちにおられるキリストによってであると、パウロとともに告白します。私たちの歩みの原動力がイエス様であることをはっきり認識できますように。そしてイエス様の愛と恵みに応答して歩み続けさせてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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