2024-09-01 あなたがどこへ行っても

2024年 9月 1日 礼拝 聖書:創世記28:10-19

 先週は、私たちにとってつらい一週間でした。それぞれのご遺族の悲しみは当然のこととして、血のつながっていなくても、キリストにあって神の家族とされた私たちにとっても大きな痛みと衝撃を受けることになりました。

よく、クリスチャンの人生は「信仰の旅路」として表現されますが、新幹線や飛行機でほぼ一直線に寝ていても目的地に着いてしまう現代の旅行とは違って、昔ながらの歩いての旅のように、何が待ち受けているか分からない旅路です。もう、思っても見なかった出逢いや出来事に驚かされ、喜ぶこともあれば落胆し奈落の底に落ちるようなこともあります。

今日開いている箇所は、アブラハムの孫にあたるヤコブが先の見えない旅に出なければならなくなって、不安の中で一夜を明かしたときの出来事です。そこで神様がヤコブに語られたことの意味と、ヤコブの応答を通して、私たちの信仰の旅路について、人生について思いを巡らしてみましょう。

1.自分で蒔いた種

まず、ヤコブがこの旅に出ることになったのは、いわば自業自得でした。

神様がアブラハムと結んだ契約に基づく祝福を、息子イサクが継ぎました。そのイサクには双子の息子が生まれたのです。日本でも昔は双子は跡目争いの元になるということで嫌われた時代があるそうですが、イサクの場合も心配の種になりました。

妻リベカのお腹の中にいるときから双子の兄弟は喧嘩していて、どうなるかと心配したのです。しかし、神様は跡継ぎ問題については最初からご計画を伝えていました。イサクが受け継いだ神とアブラハムの祝福の契約は、兄ではなく、弟に与えられると生まれる前から告げられていたのです。

それをみんなが受け入れられたら問題はないのですが、人間はなかなかそうはいきません。やはり長男が、という気持ちもあるでしょうし、親であっても、イサクと妻リベカでは双子のそれぞれとの相性もあって、イサクは兄エサウを目にかけ、母リベカは弟ヤコブを可愛がりました。

特にリベカは夫イサクの煮え切らない態度にいらいらしたのか焦ったのか分かりませんが、なんとかヤコブを確実に相続者にしようとあれこれヤコブに入れ知恵します。

結果的にヤコブは欲張りで単純な兄エサウをわなにかけて長男の権利をだまし取ります。さらに年老いて目が弱くなってしまったイサクを騙して長男に与えられる祝福の祈りを受けるということまでしました。こうして、信仰によってアブラハムと神との間で結ばれた契約は三代目にして、もう人間の小賢しい策略によって奪い取るようにしてヤコブに受け継がれました。

もちろん、兄エサウは激怒し、父が生きている間は我慢するけど、絶対にヤコブを殺してやると息巻いたのです。それで母リベカはヤコブを逃がすことにし、自分の生まれ故郷で、ヤコブからみたらおじさんにあたる兄ラバンが暮らすハランへと旅立たせたのです。ですから、10節から始まるこの旅は、楽しい旅ではなく、逃避行です。

ヤコブの例からも分かるように、私たちが人生で直面する様々な困難は、決して外から思いがけずやって来るものばかりでなく、実は自分がまいた種を刈り取っているだけのことが案外あるものです。ヤコブもそれが分かっているから後戻りできないし、行った先で酷い目にあっても、帰るのを恐れ、兄との再会を恐れました。

しかし、私たちは神様が、こうした自業自得と言えるような状況をも用いて彼に祝福をもたらし、アブラハムとの契約によってはじめた救いの計画を前進させるお方であることを見て取ることができます。

ただ、私たちもそうだと思いますが、問題の渦中にある時は先が見えません。ヤコブはエサウが追いかけてきやしないかとビクビクし、またこれから先待っている旅の困難さ、そして会ったことのないおじさんが受け入れてくれるか、せっかく長男の権利を奪い取り、相続者とされたのにこれから一体どうなるのかと不安な夜を迎えていたのです。

2.変わらない約束

ヤコブは後にベテルと呼ばれるようになる場所に到着し、そこで野宿をすることにしました。逃避行とは言え、父イサクもヤコブにはカナン人ではなく、妻リベカの故郷から妻を探して欲しいと考え、ハランに行くようにと言いつけていたので、ちゃんと準備をしての旅であったはずです。それでも、ふかふかの寝床ではなく、石を枕にして眠らねばならないというのはとてもわびしいものだったのではないでしょうか。

私も一度石を枕に寝て見たことがあります。もちろん、そのままでは寝られたものじゃないので、手元にある着替えやタオルなんかを巻き付けるのですが、それでも芯がゴツゴツしているので本当に寝づらいものです。

その夜、ヤコブは一つの夢を見ました。

一つの梯子が地に立っていて、その上の方は天にまで届いています。そして、神の御使いが梯子を上ったり下りたりしているのです。雲の合間から斜めに光が差して、光の筋がさあっと地上に届くことがあり、それを英語で「ジェイコブズ・ラダー」と言います。訳すと文字通り「ヤコブの梯子」で、今日のエピソードからつけられた呼び名です。

ヤコブが見たのはもちろん、そういう自然現象ではなく、ヤコブのために御使いが天の神様のもとに祈りを届け、神のことばや恵みを携えて下りて来る、そんなことを象徴した夢でした。

夢の中で、その梯子の上に立たれた主はヤコブに語りかけます。12~15節ですね。

神様がヤコブに語った内容は、アブラハムへの約束をさらに詳しく述べたものです。

漠然とした祝福の約束ではなく、今まさしく不安の中でヤコブが横たわっているその地をヤコブとその子孫に与えるということです。さらにヤコブの子孫は増え拡がり、世界のすべての部族が彼らを通して祝福されることになります。

そして、ヤコブ個人にとってとても大事な約束は15節です。「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地へ連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

この約束の大事なポイントは、神様が単に約束を守ることではなく、ヤコブの逃避行がヤコブ自身が招いた災難であるにも拘わらず、約束を守ると言っておられることです。

神様の契約に対する忠実さは、人間の側の忠実さや不忠実さによって左右されるのではなく、神様ご自身がその真実にかけて誓われたことに基づいているのです。

新約聖書のヘブル6:17では、こうした相続者たちへの約束についてこう記しています。「そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。」

今日、主の晩餐を記念して思い起こしたとおり、私たちもイエス様によって新たな契約の中にいれられました。そして、この約束もまた神様の真実にかけて、決して破棄されることはないのです。

3.記念としるし

夢から覚めたヤコブは、神様の語りかけに励まされ、旅を続ける力を得、また希望を取り戻しました。

ヤコブは、きっと家族から離れ孤独を味わっていたのだとおもいます。それだけでなく、神の祝福を兄から奪い取ったと思ったのに、その神から遠ざけられ、祝福も逃してしまったように感じていたのではないでしょうか。

しかし、夢から覚めたヤコブは、16節にあるように、主がここに確かにいてくださったことに気付いていなかったと、恐れ多い思いに圧倒されました。朝になってからヤコブは枕にしていた石を記念として立て、石の柱とし、神様の前に誓いを立てるのでした。

これから先、ヤコブの人生は、おそらく自分で想像していた以上に辛いことの多い人生となりました。神様は「あなたがどこへ行っても」と言われましたが、それは単に場所だけの問題ではありませんでした。場所が変わることで、待ち受ける苦難も変わり、そこで味わう感情的な辛さも変わって行きます。

初めは伯父がいるハランに行きます。そこで父が頼んだように、ラバンの娘と結婚することになるのですが、かつて自分が兄を騙したように、彼自身もラバンの狡賢さによって望んでいなかった結婚をし、愛した女性を妻にするために約束の倍の年月、おじさんに仕えなければなりませんでした。

望み通り結婚できたかと思えば、今度は二人の妻の子どもを巡る競争が勃発し、ついには4人の妻を抱えることになり、それぞれの妻から生まれた子どもたちの争いまで起こります。そして最愛の妻ラケルは二人目の子を出産するときに死んでしまいます。

伯父ラバンの仕打ちに耐えられなくなったヤコブは一大決心をして兄が待つ故郷に帰ることにしました。神様が与えると約束された地に恐る恐る帰って行きましたが、今度は最愛の妻の息子であるヨセフを溺愛したせいで他の兄弟たちの妬みを買い、ヨセフを失ってしまいます。死んだことにされ、ヤコブはずっと嘆きのなかにいました。

飢饉が起こり食べ物が亡くなり、息子たちがエジプトに食糧を買い付けにいくと、なんとそこには自分たちが売り飛ばした弟がエジプトの第二の権力者にまで上り詰めています。死んでいたと思っていた息子と再会しますが、今度は約束の地から再び引き離されてしまいます。彼は生きて約束の地に帰ることはありませんでした。

彼はエジプトのファラオの前で、自分の人生はわざわいの多い一生だったと告白しています。

しかし、神様はヤコブがどこへ行っても、どんな状態になっても見捨てることはありませんでしたし、確かに彼の12人の息子たちの子孫がイスラエルの民として約束の地に戻っていきます。彼はその望みを託して、約束の地に戻る時には自分のミイラにされた亡骸を連れていくようにと、息子たちに約束させるのです。

神様が約束を守ってくださっただけでなく、ヤコブもまた石の柱を立てたときの望みと誓いを忘れてはいなかったのです。

適用:どこへ行っても

今日の物語は、良く知られた話しです。逃避行をするはめになったヤコブの心情や、石の枕の侘しさ、夢で見た映像が私たちの興味を引きますが、聖書が私たちに示すメッセージは、神様の約束に対する忠実さです。

ヤコブに対する神様の約束は、イスラエルの民に受け継がれ、やがて救い主の誕生へ繫がります。そしてイエス様の十字架と復活によって新たな約束がヤコブの子孫だけでなく、すべての人々に与えられています。

イエス様による新しい約束、契約の中にある私たちは、ヤコブに対して真実で忠実であった神様の同じ、忠実さによってこの約束が果たされるまで守られます。神様は御国が完成し、約束が成し遂げられるまで決して私たちを捨てることはありません。

ヤコブがそうであったように、私たちが行くところ、私たちが置かれる状況がどのようであっても、そしてそれが私たち自身の蒔いた種による悪い状況だとしても、神様は約束を違える方ではないのです。

テモテ第二2:13には「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」とあります。

私たちの信仰の旅路は人生そのものですから、本当に思いがけないところへ導かれたり、自分で転がり落ちたりもします。私たちの霊的な状態もさまざまな変化があって、良い時もあれば悪い時もあります。詩篇の詩人たちは、ありとあらゆる状況、感情の中で主に向かって祈り、語りかけ、賛美し、訴え、嘆きます。時には、神様の御思いがあまりに重くて逃げ出してしまう心情も正直に語ります。

しかしこんなダビデの歌があります。

「私はどこへ行けるでしょう。/あなたの御霊から離れて。

どこへ逃れられるでしょう。/あなたの御前を離れて。

たとえ 私が天に上って/そこにあなたはおられ

私がよみに床を設けても/そこにあなたはおられます。

私が暁の翼を駆って/海の果てに住んでも

そこでも あなたの御手が私を導き

あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇139:7-10)

この、しつこいとさえ思えるほどの、決して手を離さず見捨てない神様の愛が私たちを守り導くのです。この約束は考えられる限り最悪の状態になったとしても揺るがないと私は信じています。なぜなら、救いは徹底して、私たちの良さや働きによるのではなく、ただ恵みによるものだからです。

キリストにある救いの確かさを確信し、どんな道へ行ったとしても、どんなところに居ようとも、希望を持ち続けましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちは及びも付かないことをあれこれ考えたりせず、聖書が私たちに示していること、神様が愛に満ち、約束を決して違わない方であることに信頼します。

どうぞ、イエス様によって与えられた救いの確かさを確信し、どんなところへ行っても、イエス様のゆえに希望を持ち続けてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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