2024-09-29 愛し、もてなし、仕え合う

2024年 9月 29日 礼拝 聖書:第一ペテロ4:7-11

 私が高校生くらいの頃から、『北斗の拳』という漫画が流行り出しました。20世紀末に起こった世界的な核戦争によって文明が破壊され、社会の秩序も平和もない、暴力が支配する時代に救世主のように現れた北斗神拳の伝承者、ケンシロウが愛と正義に生きようと戦う物語です。暴力的な話しなので男子には人気でも女子には不人気でした。まあ、でも「お前はもう死んでいる」といった決め台詞は聞いたことがあるかも知れません。

現実には世界をまるごと破滅させてしまうような核戦争は今のところ起こっていませんので、幸いにも、まだ暴力だけが支配するような世界にはなっていません。けれども、第二次世界大戦以後、何とか保たれてきた世界の秩序や平和のための留め金のようなものが、少しずつなし崩しにされ、外され、「あれ?このままだと世界はどうなってしまうんだろう」とは思わされます。今、世界が守ろうとしているのは平和ではなくなったのではないかと感じます。しかもその中心に、私たちに馴染みの深い約束の地と呼ばれていた地域での戦争があり、キリスト教国と呼ばれていたヨーロッパでの戦争があります。そして平和憲法を掲げている我が国も、果たしていつまでこの平和な世の中が続くだろうと思わされることがたびたび起こります。

こういう時代を私たちはどう捉え、どう生きるべきでしょうか。

1.終わりが近づいている

今日開いているペテロの手紙第一4:7で、使徒ペテロは「万物の終わりが近づきました」と語ります。

ある人たちは、このような言葉を聞くと、天変地異が起こって地球が破滅したり、それこそ北斗の拳ではないけれど世界規模の核戦争や、未知のウィルスによって人類が滅びるようなことを思い描きます。先日も、宇宙を飛び回っている小惑星が地球を直撃する可能性が少し高まったという記事を読みましたが、すぐにそういうことをこの聖句と結びつけて考える人がいます。しかし、ペテロは全く違った意味でこの言葉を書いていますから、注意が必要です。

1:5でペテロは、苦難の中にあるクリスチャンたちに、天に蓄えられた報いを受け取る「終わりの時」が近づいており、その希望によって忍耐して歩めることを示しています。1:13でも「イエス・キリストが現れるとき」に与えられる恵みを待ち望んで、心と身を引き締めなさいと励ましています。また20節でも「この終わりの時に」という言い方が出て来ます。「万物の終わり」というのは、この宇宙や地球の終焉が近づいているということではありません。イエス様がもう一度おいでになって、神の救いのご計画を完成させる時なのです。そして神様の救いの目的は、罪によって傷付き汚されたこの世界を破壊し、クリスチャンだけを救出するというものではありません。むしろ、傷付き汚されたこの世界を贖い、回復することが神様の救いの目的です。

ペテロのものの見方、これはパウロも同じですし、もちろんイエス様も同じなのですが、そのものの見方というのは、旧約聖書で示されて来た神様の救いのご計画と約束に基づいています。

アダムとエバが神様に背を向け罪を犯したことで神が造られた美しい世界に罪と死が入ってしまいました。それは人間をむしばみ続け、美しい世界を傷つけ続けていきます。このような人間と世界を救い、回復するために神様はご計画を立て、その器としてアブラハムを選びます。神様はアブラハムに永遠に変わることのない祝福を約束し、彼の子孫を通して人々の罪を贖い、世界に平和を取り戻すための計画を実行し始めます。このご計画はいくつかの段階を経て実現されていきますが、そのクライマックスはイエス様の十字架による贖いの死と復活です。

しかし十字架と復活はご計画のクライマックスではあってもゴールではありません。イエス様は復活した後、天に上げられ、神であり王である方として示されました。私たちの救いとこの世界の贖いのために来られたイエス様を信じるなら、私たちは罪赦され、神様の子どもとされますが、その救いの良い知らせを世界に届け、私たちが受け取った神様の愛と祝福を周りの人に与える使命が託されています。それが今です。ペテロが「万物の終わりの時が近づいた」と言っているのは、教会を通して福音を届け、神の愛と祝福を分かち合う今の時代の後に来る、神様の計画の最終段階が近づいたということなのです。

ガラテヤのクリスチャンたちは迫害や嫌がらせを受けて苦しんでいましたが、この終わりの時に、イエス様がそうだったように私たちも苦難を通ることになるが、イエス様がもう一度おいでになる時には、金よりも尊い栄誉と報いが備えられていることを希望として、今のこのときを生きるようペテロは励ましているのです。

2.愛し、もてなし、仕え合う

続けてペテロは、万物の終わりが近づいた今、つまりイエス様がもう一度おいでにになるまでの時を生きている今、私たちはどういう生き方をすべきかについて「~し合いなさい」と3度繰り返して命じています。

聖書の救いを沈み掛かった船のように、破滅に向かっている世界からレスキューされること、というふうに説明することがあります。しかしこれは救いのある面を描いているとはいえ、不完全で、誤解を生む可能性があるなあと、最近強く思わされています。

聖書が語っていることは、破滅に向かっているのはこの世界や地球ではなく、私自身なのだということです。

4:1~6にクリスチャンの生き方に対して、クリスチャンでない方々が怪しんで悪口を言っている状況が描かれています。度を超した遊び方や欲望のままに行動することを一緒にしないから、「なんだおめ、偉そうに」とか「良い人ぶって」とか言われることがあります。しかし問題は他人からそういう悪口を言われたり、評判が悪くなることではなく、5節にあるように、やがて自分の行動について神様の前で申し開きをしなければならないということです。他人の生き方に文句を言い、一緒に悪いことをしないから他人を偽善者だと非難する人たち自身、自分の生き方、行動について裁き主である神様の前で申し開きをしなければなりません。そして罪に対しては報いがあるのです。

しかしイエス様を信じた私たちは、裁かれるのではなく、キリストにおいて生かされます。そんな私たちは、破滅からさっさと救われたから後は知らない、ということではなく、地上に生きている間に、できるだけ多くの人たちに福音を伝え、神様の愛と祝福を届ける使命が与えられています。

ですから8~10節に繰り返されている3つの「互いに~し合いなさい」が繰り返されます。

「互いに熱心に愛し合いなさい」「互いにもてなし合いなさい」「互いに仕え合いなさい」。

互いに熱心に愛し合いなさい、という言葉に注目すると、イエス様が復活されたあと、ガリラヤ湖のほとりで訊ねられた「あなたはわたしを愛しますか」という質問が響いてきます。あのときペテロは、イエス様が無償の愛を表すアガペーを求めたのに対して、自分に出来るのは愛されたことに答える愛、フィレオーですとしか言えませんでした。イエス様を裏切ってしまった心の傷と失った自信のために、イエス様が求めるようには愛することなどできないと思っていたペテロがイエス様が愛されたように互いに愛し合おうと呼びかけているいるのはとても感慨深いです。痛むところを手の平で優しく覆うように、そういう愛だけが罪ある私たちを覆うのです。

そして愛することに具体的な形を与えるのが、もてなすことと仕えることです。もてなすことにも、仕えることには、他人のために自分の時間、お金、能力などを差し出すことが伴います。兄弟姉妹やゲストを気持ちだけでなく、お茶や食べ物でもてなしたり、奉仕するときに、「何で自分だけ」「また俺かあ」「お金かかるなあ」と不平や文句も出やすいのですが、キリストがご自身を与えてくださったように、愛をもてなしや奉仕として表すのが、終わりの時代に生きる私たちの生き方であるべきだとペテロは語るのです。

3.神の栄光が現れるように

愛の具体的な表れとしてのもてなしや奉仕においてとても大事なことは、11節にあるように、「すべてにおいてイエス・キリストを通して神があがめられるため」であるということです。

教会では、たびたび、神の栄光だけが称えられるようにとか、崇められるようにと強調しますが、それはなぜでしょうか。

もちろん、神様が神様であるがゆえではあります。神の名がつくものは多々ありますが、天地を造られ、治めておられるのが、唯一の、ほんとうの神様であるということが聖書の一貫して示していることで、この方以外に神として礼拝すべき方はおられないというのが私たちの確信です。

しかし、もう少し実用的な面で、大きな意味があります。

人をもてなしたり、奉仕することで愛を表そうとするときに、目的がずれてしまうととても醜い状況を招いてしまうのです。親切にもてなす人が、相手のために仕えること、愛することを目的としているとは限りません。最終的に願っていることは自分の利益かもしれません。一生懸命奉仕している人の動機が、自分が評価されることだったり、その一生懸命さが劣等感から来るものだったりするかもしれません。

そのようなものがもてなしや奉仕へと駆り立てているなら、調子の良いときはとても良く見えるのですが、損ばっかりしているように感じ始めると不平でいっぱいになり、期待したような評価がないとこれまた感謝が足りないんじゃないかと文句が出るようになり、ほかの人ももっと奉仕すべきじゃないか、犠牲を払うべきじゃないかという非難に変わってしまうことが往々にしてあるのです。

神様がペテロを通して私たちに示していることは、神様の救いの大きなご計画の最終段階に来て、イエス様による救いと回復がいつ完成の時を迎えてもおかしくない今、人々の心が神様に向くこと、神様の愛と恵みに向けられることです。そんなときに、もてなす人や仕える人が褒められたり、もてはやされることにエネルギーを注いでいたら、新しい偶像を作っているようなものです。

一方で、終わりの時代には、人々の愛が冷めていくとイエス様は言われました。マタイ24:12「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。」今まさにそういう時代ではないでしょうか。いくら政治家が「おもてなし」といっても、それは海外からの旅行客を迎えるために作られた文化で、都合が悪くなればすぐに外国人を締め出したり、特定の国の人はお断りなんてことがすぐに起こります。愛が長続きしないのはもう常識で、わざわざ結婚するのは自分から損を買うようなものだと思われ初めています。まして、無償の愛なんていちばん怪しいと思われています。そういう時代に、混じりけの無い愛、心からの親切やもてなし、奉仕が教会を通して世に示されたなら、驚きなのではないでしょうか。

だから、私たちが誰かをおもてなしするときも、仕えるときも、「神のことばにふさわしく」「神が備えてくださる力によって、ふさわしく」奉仕しなさいと言われるのです。直感に頼るのではなく、絶えず聖書から学び、ただ一生懸命がんばるのではなく、常に聖霊様の助けを仰ぎながら、主をお迎えするようなつもりでもてなし、主に仕えるつもり奉仕するのです。そうすれば、神様のご栄光があがめられることでしょう。

適用:愛が冷めていく時代に

先ほどもイエス様がおっしゃった言葉を紹介しましたが、終わりの時代には愛が冷えていきます。無関心で酷い時代になるとも言えますが、反面では心の底で、本当の愛を求めるようになると言えるのではないでしょうか。

北斗の拳の世界ほどにはまだ殺伐とはしていないし、クリスチャンではない人たちの中にも、世の中がまともでいられるくらいに親切で、真っ当な人はたくさんいます。社会のシステムがおかしいと思うことはあってもそれを修正する力がまだあります。

それでもあっちもこっちも問題だらけで、大谷くんの活躍でも見てないとやってられないと思うくらい世の中を不安が覆っているようにも見えます。そういう中でクリスチャンとして生きることはますます困難が伴います。

ガラテヤのクリスチャンたちが置かれた状況は決して楽なものではありませんでした。1:6で「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが」と書かれているとおりです。私たち以上に、それは命がけの歩みでもありました。それは終わりの時代の特徴の一つであることをイエス様もおっしゃっていました。クリスチャンの視点からすれば、試練が多く悲しみの多い時代です。ですが、「不法がはびこり、愛が冷えた」時代が、クリスチャンでない人たちにとって居心地がよく幸せを感じられているかといったら、そんなわけはありません。

愛が信じられない時代、真実なんかどこにも見当たらないような世間で、誰もが好き勝手に生き始めて、それで誰もが幸せというこなんてありません。

私たちに求められているのは、そういう時代の中でやせ我慢して聖く正しく生きなさいということではないのです。信じられる愛があること、心を許してもよい親切があること、助けを求めたら手を差し伸べてくれる人がいることを、キリストの名によって証していくことなのです。もちろん、それはみことばの導きと、神が備えてくださる力によるのでなければ出来ないことです。

人をもてなすといっても、誘ってもいいものかと迷いますし、手助けしたいと思っても余計なお世話だと言われるかもしれません。人を招くにはまず部屋を片付けなきゃとか、直ぐ人に向かって吼えるワンコを何としなきゃとか、考え始めると難しいことや言い訳になることがすぐ出て来るのが私たちです。

いきなりスゴイことはできません。ただ、少しずつでも、不平を言わずにもてなすことができるようにしてくださいと、助けを祈り求め、主に従うように仕えさせてくださいと助けを祈り求め、もてなし合うこと、仕え合うことを続けていくなら、私たちは互いに愛し合うということを具体的に実践し、学び、身につけていくことができるでしょう。

それが、この時代が過ぎ去ってイエス様がもう一度来られ、救いを完成させてくださる、その一歩手前に生きている私たちの務めです。救いの完成の時には、誰も彼もがひっくるめて救われ、回復されるわけではなく、一人ひとりが神様の前で自分の行いについて申し開きをしなければならないのですから、イエス様によって表された神様の愛と恵みに耳を傾け心を開いてもらえるように、まず私たちは、その愛と恵みを示していくのです。

祈り

「天の父なる神様。

愛が冷めていく終わりの時代と呼ばれるこの時を生きている私たちが、今、すべきことを教えてくださりありがとうございます。

このような時代でも、神様の愛と恵みが信じるに足るものであることを、私たち自身が喜び、味わいながら、人をもてなし、人に仕えることを通して、神様の愛を表していくことができますように。

私たちの家庭や教会の交わりの中にそのような愛が溢れ、周りの人たちにも届いていきますように。

イエス様のお名前によってお祈りいたします。」

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