2024年 10月 6日 礼拝 聖書:第一テモテ4:4-5
娘が高校生の頃、高校の国際交流事業の一環で、イスラムの女子高生にホームステイしてもらったことがあります。出身国の中でもとくに厳格なイスラム教徒の多い地方から参加した学生でした。
ところが生憎その期間はラマダンというイスラムの断食の期間です。完全に絶食するというわけではなく、日出から日没までは水も飲まないのです。朝早くか日没後には、消化の良いものや果物などを少しだけ食べることができますが、食べるとなっても戒律に従った規制があり、我が家にある調味料などもいちいち調べて、食べられるものを確認してから食事を出すということをしなければなりませんでした。
彼らの信仰なので、それ自体をどうこういうつもりはありませんが、私たちはクリスチャンとして、飲み食いだけでなく、この世のものを味わったり楽しんだりする上で、何か制約があるのでしょうか。それはどのようなものでしょうか。
昔の厳格な生活をする宣教師たちがアルコールはもちろんのこと、カフェインが入った珈琲を禁じたり、映画やボウリングやダンスを禁じたりしましたが、そうしたことにも何か聖書的な根拠や意味があったのでしょうか。私たちは神様が与えてくださった人生と、この世界にあるものを通して楽しんで良いのでしょうか。
1.惑わす教え
テモテへの2通の手紙は、パウロが獄中にいる時にエペソの教会を指導していたテモテに宛てたものです。当時パウロは不当に訴えられ捕らわれの身となっていましたが、裁判は長引いて間もなく冬がやって来るということで、励ましや具体的な支援も必要としていました。しかし、何よりテモテのことが心配でした。
パウロは旅の途中でリステラという町で青年テモテを見出しました。祖母と母から信仰を受け次いだテモテはパウロとの旅の中で共に福音宣教の働きに従事し、福音の理解を深め、教会の次世代の指導者になる訓練を受けて来ました。やがてテモテやエペソという今のトルコの西海岸沿いにある大きな町の教会の牧師となります。
長老クラスの年齢と経験のある人たちと比べると若い感じがするテモテは少し自信を失いかけていたようです。ストレスのためか胃も悪くしていたようで、パウロから「水ばかり飲まないで、少しはぶどう酒も飲んだ方がいい」と助言を受けています。胃が悪いときにワインというのは現代医学の観点からはどうなんだろうとも思いますが、当時の水道事情を考えると、もしかしたら効果があったのかもしれません。
そんなテモテを悩ませていたのが、4:1に「惑わす霊と悪霊の教え」が教会に入り込んで来たことでした。パウロは、この惑わす教えが少しずつ諸教会をむしばみ始めていることに強い危機感を覚えていました。3節に彼らの教えの特徴として「結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします」とあります。
これは、もう少し後の時代にグノーシス主義と呼ばれるようになる、異端の教えの初期の姿でした。
この異端の教えは非常に複雑で、その起源についても諸説ありますので、詳しい説明は時間がもったいないので避けます。
ただ、彼らの基本的な考え方は二元論といって、世界を霊的な世界と物質的な世界に分け、霊的な世界は良いもの、物質的な世界は悪いもの、というふうに考えます。最悪なのは、そういう教えは偽善なのだけれど、当の彼らの良心が麻痺しているため、自分たちが人を惑わせているとか、悪い事をしているという感覚が全くないということです。むしろ正しいことを教えていると思い込んでいる彼らは、そうやって自分がどんどん真の神様から離れていくだけでなく、多くの人を無自覚に巻き添えにしてしまっていたのです。
彼らは人間の自然な欲求やある種の食べ物を悪と考え、結婚を禁じたり、特定の食べ物を禁じていました。
なぜ、またどうやってそんな教えが教会に入り込んで来たのかは良く分かりません。しかし、そういう禁欲的な教えは、もしかしたらとても敬虔そうに見えるのかも知れません。特にグノーシスはこの世からは隔絶した神の真の知識を知るということを大事にしていましたので、知識を得た者が浮世離れした禁欲的生活をする姿に、宗教的な優越感を感じさせるのかも知れません。結婚とかある種の食べ物から遠ざかり、私はそのようなものに目もくれません、そんなもの必要ありません、という態度がクリスチャンの聖さや道徳性とすり替えられてしまったのかもしれません。
しかしパウロはこの教えの危険性をよく理解していました。事実、教会の歴史の中で何度もこの考え方が現れ、教会を混乱させていくことになるのです。
2.全てのものは良い
そこでパウロは、テモテや教会を悩ませていた異端が根本的に間違っている所を指摘します。彼らは、神がすべての物質を創造されたことを否定しているのです。しかし神様は人々が感謝して受け取れるようにと食べ物を含めすべてのものをお造りになりました。
パウロは4節で天地創造のときの神様の祝福のことばに根ざした決定的な真理を示します。
「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。」
この宣言は創世記1:31で、天地創造の最後にすべてをご覧になった神様が「見よ、それは非常に良かった」と評価していることに根ざしています。
ここで私たちはいくつかの疑問に答えなければなりません。なぜ神は旧約の律法で食べ物に関して禁止命令を出したのか。ある人たちは旧約時代と新約時代では道徳的な基準が変わったのだと考えますが、それは本当でしょうか。
神様は永遠に変わらない方ですから、聖さの基準や道徳的基準に変化はありません。ブタなどの汚れた動物を食べてはいけないと律法で命じた神様と、何でもとって食べなさいとペテロに言われた神様は同じ神様です。このようなこの問題を考えるときには、新約の教えから旧約の教えを眺めてみる、ということが必要になります。
使徒パウロは、神がすべてのものを良きものとしてお造りになったという創世記の教えを引き合いに、3節で「食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるようにと、神が造られたものです」と言っています。ですから「これを食べたら道徳的に悪いことだ」「これを飲んだら罪になる」というようなものはなく、感謝して受けとって良い、つまり何でも食べたり飲んだりして良いのだ、ということが基本的な原則であることが分かります。
では、旧約聖書の律法で、食べてはいけないもの、飲んではいけないものがはっきり示されていて、それを犯すことは罪になると言われていたのはどういうことでしょう。
まず、様々な内容を含んだ律法の中で、道徳的な原則を示した十戒には食べ物のことについては何も触れていません。食べ物のことについて触れているのは、カナン人たちが支配する世界で神の民として生きて行こうとするイスラエルの民にいわば「民法」として与えられた中に含まれます。汚れた動物を食べてはいけないというのは、道徳的に悪いことだからということではなく、イスラエルの民と社会の安全を守るためと考えられます。なぜそれらが良くないとされたか、実ははっきりしたことは分かっていません。現代では問題なく食べられるのに、当時の衛生状態とか、感染症の問題があったかもしれません。また、ある種の食べ物は民族の遺伝的な特質から体によくない影響を及ぼす可能性があったとも言われます。またある食べ物はカナンの邪悪な宗教的な習慣と結びついていて、その影響を防ぐため、という理由も考えられます。
つまり、神様が造られたものはすべて良いもので、基本的には何を食べても良いのだけれど、特定の時代や状況の中では良くないものがあり、そうした知識のなかったイスラエルに律法という形で与え、彼らを守ったというふうに考えられるのです。
3.感謝して受け取ること
基本的に何でも食べていいし、人間に与えられた基本的な欲求も良いものとして与えられました。ですから、旧約時代の律法では近親間での結婚を禁じたり、結婚以外の性的な関係を禁じてはいますが、性的な衝動も欲求も自然なこと良いものとして描いています。
このように、神様が造られたものはすべて良いものですが、3節と4節で繰り返されている「感謝して受ける」ということが、私たちクリスチャンにとっての重要な規範になります。
感謝して受けるとはいったいどういうことでしょうか。
5節が感謝して受け取ることの説明になっていると思われます。「神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。」ただ、これがどういう意味なのかは、様々な解釈があるようです。私は、目の前にあるものを神様からの贈り物として祈りをもって感謝して受け取る、というふうに理解しています。
人間の勝手な理屈や伝統、思い込みで物事の良し悪しを決めつけるのではなく、神様が良いものとして造られたという聖書の教え、神のことばを信じて、目の前にあるものを感謝して受け取る。たとえば私たちが食事の前に感謝の祈りを捧げる時に、与えてくださった神様に感謝を祈るようなことです。
あるいは、結婚式の時に、みことばと祈りをもって神様と人々の前で祝福を祈り宣言するときもそうです。仕事や勉強も、神様が与えてくださった恵みの機会として受け取るなら、仕事の内容にランクも貴賤もありません。人と比べて大学のランクがどうだとか、それはまあ気になるかも知れませんが、神様の前では大した問題ではないので、感謝して受け取るなら、それは良いものです。
そして、感謝して受け取る、ということにはもう一つ、神様が私たちの健康や安全、霊的な健全さを気に掛けているという聖書の教えを食べることや生活の中のすべてのことにあてはめるべきだということです。
旧約時代にイスラエルの人々や社会が健康で安全に、また周囲の宗教的な悪影響から守られるためにいくつかの動物を食糧としたり、食べ方に決まりを作ったのだとしたら、今日、私たちが何を食べたり飲んだりしても良いとしても、場合によっては気をつけたり、控えたりするほうが良いこともあると言えます。
私は、すごく濃い味が好きというわけではないけれど、やっぱりはっきりした味が好きでした。でも昨年以来、塩分量は気をつけなさいと言われています。塩は体に必要なもので、良いものには違いないのですが、健康な人以上に取る量は気をつけなければなりません。他にも、そういうものはあるのではないでしょうか。
聖書の時代、市場には偶像に献げた肉しか並んでいなかったので、それをすごく気にする人もいました。パウロは、基本的に気にしないで食べて良いと教えましたが、それでも気になって心を痛める人がいたなら、わざわざそういう人の前で食べないよう配慮しなさいと教えています。神様に感謝して受け取る、ということは神様が私の健康や霊的な健やかさを気に掛けてくれていること、兄弟姉妹たちの躓きになるようなことはしないという配慮、そういったことを踏まえて時には控えたり、遠慮したりする自制心は必要ですが、何でも神様がからの贈り物として感謝していただきなさいということではないでしょうか。
適用:良きものを楽しむ
子どもの頃から青年時代にかけて、私の目には、クリスチャンがいろんなことを我慢して生きる人たちで、クリスチャンでない人たちはとても自由に何でも楽しむ人たちに見えました。
昔は厳しく制限されたいろいろな楽しみを、今の若いクリスチャンたちがわりと気兼ねなくやっているのを見て、「今の若い人たちはいいなあ」とか「最近の若い人たちは」なんて思う事があるかも知れませんが、そもそも時代とともに変わる規範というのは、聖書的な根拠があったのか怪しいものです。昔の宣教師たちがアルコールを飲むことはもちろん料理にお酒を使うことさえ罪だと教え、体に刺激を与えるカフェインが入ったコーヒーはクリスチャンは飲むべきじゃないとか、日曜日に買い物をするのはクリスチャンに相応しくない。映画やテレビは悪魔の影響を受けるし、ボウリングやダンスの場所は性的な誘惑を受けるからダメだとか、それはもういろいろありました。もちろん、神様の子どもとして相応しく生きて欲しいという願いから生まれた考えだとは思います。そして、現代ではまったく別のことで、クリスチャンはこの世の様々な事をどこまで許容すべきか、次から次へと論争は絶えません。
神様は、イエス様による救いが実現した今日、道徳的な基準としての十戒は保ちながらも、その他の儀式や共同体としての生活のために様々な決まり事は廃棄し、代わりとなるルールはあえてお決めになりませんでした。教会の時代になると神の民はユダヤ人だけでなく、イエス様を信じたあらゆる民族からなる大きな家族になっていきます。時代が変われば、文化も多様になっていきます。その中で、ルールで生活を縛ることは人々を管理しやすくなるかもしれませんが、神様が与えようとした喜びと楽しみを奪うことになります。それよりも神様の願いは、私たちが神様のお与えになるすべてのものを感謝して喜び楽しんで欲しいということです。もちろん、ローマ12:2で言われているように、主に喜ばれることは何か、何がふわさしいことかを考えることは続けるべきです。
食べ物だけではありません。スポーツを通してイエス様を伝えようとしている人たちから学んだことがあります。日本の教会では、部活によって教会に来なくなる中高生が多いことから、スポーツに対して積極的な評価をして来ませんでした。しかしクリスチャンのアスリートたちが、その肉体の技を通してどう神の栄光を現そうとしているか証を聞いて、走ることでも神の栄光を表せるということの意味を知りました。クリスチャンのミュージシャンや芸術家からも同じような証を聞くことができます。
神様が造られた世界は素晴らしいものです。同時にこの世界には、それ自体は悪いものではないのに、私たちにとっては害になるものはいくらでもあることはお話しした通りですし、皆さんもよく分かると思います。ですから、神様は私たちがよく考えて、相応しいかどうか判断し、ほかの人に躓きや悪影響を与えないか十分に配慮することを学び、身につけて欲しいと願っておられます。
そんなふうにして、神様が造られた世界を感謝とともに喜び楽しみ、知恵深く配慮のある交わりがなされていくなら、私たちはすべてを良きものとしてお造りになった神様を認め、その栄光を現すことになります。何ごとも感謝をもって受け取り、喜び、楽しみましょう。
祈り
「天の父なる神様。
神様がこの世界を良きものとしてお造りになり、私たちに与えてくださり、ありがとうございます。
あなたが与えてくださるすべての良きものを感謝し、喜んで受け取ることができますように。また、私たちの交わりの中にあっては、知恵深く、互いに配慮する心も養ってください。
どうぞ、私たちの食べること、遊ぶこと、働くこと、学ぶ事、すべてのことを通して全てをお造りになり、受け取りなさいと与えてくださった神様の栄光を現せるように、私たちを導き、教え続けてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。」