2024年 10月 20日 礼拝 聖書:マタイ5:38-48
今日は、イエス様の教えの中でも、理解という点でも、実践という点でもなかなか難しいなあと思わされる教えを共に考えていきたいと思います。「目には目を」とか「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」、また「あなたの敵を愛しなさい」といった言葉は、それだけが切り取られ、イエス様が言わんとしたことをあまりちゃんと考えず、勝手な意味づけをされながら広まってしまった感じがします。
特に昨今の世界各地の戦争や紛争の記事を読んだり、ニュースを見たりすると、「敵を愛せよ」とか「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」というイエス様の教えは非現実的な教えに感じられた、ということはないでしょうか。
またもう少し身近な範囲で考えても、たとえば学校や職場、社会でいじめや差別に遭っている人にとっては残酷にさえ聞こえるのではないかとも思わされます。
もちろん、この教えは国際政治や人権侵害に遭った場合の対処法を教えているわけではありません。とはいえ、天の御国について教えはじめたイエス様が、御国の子とされたクリスチャンたちに、御国の子としての生き方を教えているわけです。いったいイエス様は、この箇所で弟子たちに、そして私たちに何を教えようとしておられるのでしょうか。
1.目には目を?
今日読んでいただいた箇所には二つの主題があります。最初は「目には目を、歯に歯を」という有名な律法です。
山上の説教を読む時に気をつけなければいけないことがあります。イエス様の教えは「命令形」で語られてはいますが、旧約律法よりもより厳しく細かい戒律を与えているのではないということです。というのも、イエス様は「誇張法」という話し方を使っています。この誇張法は教えの内容をはっきりさせるために、わざわざ極端な言い方をする、当時の人たちがよく用いた話し方です。それらを意識しないで山上の説教を読むと、理想的かもしれないけれど、非現実的で、誰も守れないような難しい戒律が書かれているように見えるので注意が必要です。
さて本題に戻りましょう。「目には目を、歯に歯を」という教えは出エジプト21:24やレビ記、申命記に出てきます。聖書だけでなく、ハムラビ法典という、古代バビロニアの法律文書にも出て来る言葉として有名です。
この言葉は、誰かに損害を与えた場合には、与えた損害と同等の賠償をしなければならないという原則を教えるものです。当然それは両者の話し合いと合意の上で平和的に行われることが前提となっているのですが、ある人たちは、やられたらやり返す権利があるというふうに拡大解釈し、話し合いや合意をすっ飛ばして、相手から奪う、あるいは仕返しをしてもいい、という考え方をするのです。それがイエス様の時代に定着していたわけです。いつの間にか「目には目を、歯には歯を」は損害賠償の原則ではなく、復讐を正当化する根拠にされてしまっていたのです。
それに対してイエス様は、39~41節で「しかし、わたしはあなたがたに言います」と言って、やられたらやり返していいという、この世の原則とは違う御国の子としてのクリスチャン生活の原則を示します。
「悪い者に手向かってはいけません」という言葉には、この世には、悪い者がいて、私たちに害をなす者がいるという現実が表れています。「右の頬を打つ」というのは、中東世界では相手を侮辱するという意味がありました。「告訴して下着を取ろうとする」というのは根こそぎ剥ぎ取ろうとする残酷さ、執拗さが表れています。「一ミリオン行くように強いる」というのは、ローマの兵士が民間人に権力を背景に横暴な振る舞いをする人たちです。
そういう目に遭うと、私たちは酷い目に会ったと思いますし、何も取り戻せなかったり、一方的に奪われると損をした気分になります。そうしたとき、この世の考え方、常識では損をしないように自分を守ったり、抵抗したり、被った損を取り戻すために仕返ししたりします。もちろんイエス様は損害賠償をしてはいけないとか、損を必ず我慢しなければならないと言っているのではありません。いじめられても我慢し、むしろもっと自分を差し出せということでもありません。
しかしイエス様は42節で「求める者には与え…借りようとする者に背を向けてはいけません」と言います。
イエス様が言わんとしていることは自分が損をすることや損を取り戻すことに執着しないで、むしろ与える者でありなさい、ということなのです。
2.あなたの敵を憎め?
第二に「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」という言葉が取り上げられています。
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令は律法の中に繰り返し出てきますが、「あなたの敵を憎め」という教えはできません。しかし、イエス様の時代、ユダヤ人の間では「隣人を愛し、敵を憎め」という具合にセットで聞かされており、それが当然のこととされていました。
一体全体、どう転がればあなたの隣人を愛しなさいということと、敵を憎めということが、どちらも神のみこころだという誤解が生まれたのでしょうか。イエス様はそのあたりは特に説明せず、あなたの敵や迫害する者のためにどういう行動を取るべきかを教えます。
しかし、ユダヤの人々が「敵を憎め」と教えるようになり、そう考えるのが普通になった背景を知ることは、この教えをの真意を理解するうえで大事そうです。
旧約律法を見ていくと、エジプトを脱出し、荒野の旅を経てカナンの地へと向かうにあたって、カナン人の邪悪な宗教や習慣の影響を極力排除するために、そうとう厳しく戒めが与えられていることが分かります。宗教行事だけでなく、食生活、ファッション、結婚制度、司法制度、日常的な習慣などありとあらゆる面で、カナン人の真似をしてはいけないという言葉が出てきます。そうしたことは必然的に異邦人と距離を置き、できるだけ交わらないという態度につながります。こういうことはクリスチャンにもあるのではないでしょうか。
その上、イスラエルの王国時代から、周りの国々はほとんどの場合、友好国というよりは敵対する国でしたし、アッシリヤやバビロンによって王国が滅ばされてからは、周りの国々、民族は友人であるよりは侵略者であり、支配者でした。絶えず彼らと戦うことでしか生き残る道がないように思える時代が何世代にもわたって続くのです。同胞であるイスラエルの民、ユダヤ人は隣人として愛しても、敵は憎む、という発想に凝り固まってもやむを得ない面があると思います。
しかし、イエス様の弟子たちは、今や神の御国の子、御国の民とされた者です。その御国の主である神様は、私たちが敵だと思う人、私たちの目から見て悪人だと考える人たちにも恵みを与え、祝福をもたらしたいと願っておられます。
「敵」や「迫害」する者たちは疑いようもなく実在します。無理に「人類皆兄弟」なんて言う必要はありません。それでも、神の民である私たちにとって、愛する必要のない人は誰もいないのだとイエス様はおっしゃいます。父なる神様がそうなさるからです。
今日の箇所は山上の説教という一連の教えの中に含まれています。この山上の説教は、御国が来ますように、みこころが天で行われるように、と祈る私たちが、御国を地にもたらそうとする神様の働きを担うよう召された御国の子として、どう生きるべきかという視点で語られています。私の敵や私を迫害する者をも、神様が愛し、彼らにも悔い改めと信仰によって神の祝福を受ける道を開いておられる限り、私たちも彼らを隣人として認め、愛を閉ざしてはいけないとイエス様は教えているのです。
3.完全であるように?
ここまでのところでも十分ハードルが高いように思われるかもしれませんが、48節でダメ押しのように、イエス様はこう言われます。「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」。
この言葉は、5:20で「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」とおっしゃったことに、イエス様がご自身で答えているものです。
5:20でもそうですが、山上の説教ではイエス様が度々、「天の御国に入れる」とか「入れない」「追い出される」といった言い方をします。それは実際に救いが取り消されたり、天国に入れないということを言っているわけではなく、御国にふさわしいか相応しくないかということを言っているのです。
パリサイ人たちの義というのは、律法を「これを守らなければ義と認められない戒律」ととらえ、一つ一つの戒律を守ることで自分は義であると証明しようとするものでした。そうすることで自分たちがアブラハムの本物の子孫であることを確認しようとしたのです。しかし、イエス様によってもたらされた天の御国、神の国にふさわしいのは全く別の種類の義です。
パリサイ人や律法学者は戒律を守るという点での完全さによって、義と認められると考え、そのように行動していましたが、聖書が私たちに示していることは、救い主イエス・キリストを信じる者が義と認められるということです。
それを理解しないまま、「父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」ということを表面的に捕らえると、そんな完全さなんて誰も到達できないじゃないか。山上の説教は、結局のところ非現実的な理想論で、せいぜい、それを目指して頑張るくらいしかできない、というふうになってしまいます。
「完全である」と訳されている言葉は、特にパウロの手紙の中では「大人になる」とか「成熟した者になる」というふうに約束されます。それは規則を一点一画違わずに守るような完全さとはニュアンスが異なります。何が正しいことで、何か神に喜ばれるかを見極めることができ、その都度、主の御思い、神の愛と義に調和する行動、態度、生き方を判断して選べる、そんな姿を意味します。
完全さは義とされるための条件ではありません。イエス様を信じた私たちはすでに義とされたのですから、私たちを義としてくださった神様の御心に添った判断と知恵によって、神様の愛と義を表す生き方を選び取る者でありなさいと教えているのです。
病院でしばらく過ごしているといろいろな患者さんが出入りしました。中には、ずいぶん横柄な態度で看護師に大声で命令口調でしゃべるような人もいたのですが、それでもぶち切れたりしないできちんと対応していました。もちろん看護で手を抜くというようなことはしていません。人間ですからそういう態度をされたら嫌なはずですし、もしかしたらそんな患者の担当にはなりたくないかも知れません。でも、そこはプロフェッショナルだなあと、本当に感心しました。そんなことを思い出しながら聖書を読むと、私たちクリスチャンは、神の愛と恵みを届ける務めを委ねられた者としてプロフェッショナルであるようにと言われているように思わされます。
適用:神が愛されたように
さて、今日の箇所でイエス様は人々の間違った律法の解釈や適用をひっくり返して、御国の子としての私たちにふさわしい生き方を示してくださいました。これがすべてではなく、山上の説教には他にも大事な教えがいくつも納められていますが、今日は、「目には目を」から始まって、自分が損すること気にしすぎたり損を取り戻すことに執着しないで、むしろ与える者であるようにということ。それから、「隣人は愛し、敵は憎め」という俗説を否定し、私たちの周りに愛する必要のない者は誰一人いないこと、むしろ敵や迫害する者であっても、神様はその人たちにも恵みを与え、救いの道を備えてくださるのだから、愛し、祈りなさいと言われました。
こうしたことは、私たちが何者であって、何のためにこの世界に生かされているか、という確信がなければ到底無理なことです。
私たちはこれらの命令をがんばって守れば神に義と認められて天国に入れるのではありません。そんなことができない私たちが、救い主として来られたイエス様を信じ、受け入れるなら、その信仰によって神様は私たちを義と認め、御国の子、御国の民としてくださっています。
私たちに求められているのは、この世界に愛と祝福、恵みと平和をもたらそうとしている神様の務めを共に担う者とされた者らしく生きることです。プロフェッショナルな看護師が、自らの仕事に責任を持ち、その使命を果たそうとするように、私たちは御国の務めを委ねられた者としての確信に立ち、自分の損得や相手が敵か味方かに関係なく、神が私を愛してくださったように、神が惜しみなく与えてくださったように、私たちもそうあろうとするのがクリスチャン生活です。
時々、妻が不機嫌なのか、疲れたのか分からない顔で家に帰ってきます。守秘義務があるからどこの誰とも、詳しいことも分かりませんが、大抵は面倒なことをいう利用者家族への対応が大変だったというような話しです。でも、実際の対応では、家で見せるような顔は見せないはずです。それは決して偽善ではなく、プロ意識というものです。
求める者には与え、借りようとする者に背を向けてはならないというみことばを読む時に思い出すのは、義理のお父さんのことです。妻のお父さんは、クリスチャンではありませんでしたが、昔から自分の損は考えずに与える人、返してもらえなくても貸してあげる人だったようです。自分が損したことを気にしすぎたり、損を取り戻そうとやっきになる人に比べたらずっと平和な暮らしだったんじゃないかと思います。
しかも私たちは、さらに一歩進んで、惜しみなく恵みを与え、太陽を昇らせ、私たちの罪の赦しと救いのためにひとり子イエス様を与えるほどの方を自分の神として信じ、その神の御国が拡がることを願う者、そのために置かれた場で貢献する者として召されているのです。
もちろん、私たちの手に負えないような出来事もあり、逃げたほうがいい場面もあるし、もしかしたら戦った方がいい場面もあるかもしれません。ですが、基本的に私たちの生き方として、損得は考えずに与える者、愛する者であることを願い求めましょう。神様がまず私たちを愛してくださったからです。
祈り
「天の父なる神様。
私たちは自分が受けた損害やそれを取り戻すことに執着しがちな世界、身内は大事にしても敵は憎んで当然という世界に生きています。クリスチャンである私たちも、知らず知らずのうちにそうした考えに馴染でしまいがちです。神様が私たちにしてくださった、惜しみなく与える愛、誰に対しても分け隔て無く愛と恵みを注ごうとされる神様の愛にならい、映し出すような生き方を忘れがちです。
どうぞ、私たちが神様の御国の子、御国の民として、神様のご愛と祝福を世界にもたらす務めに召されていることを確信し、私たちが関わる人たちに対して愛をもって振る舞うことができるように助けてください。ふさわしくできるように知恵と力を与えてください。そして、いつも、あなたがまず私を愛してくださったことを思い出させてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。」