2024-11-03 良き市民であること

2024年 11月 3日 礼拝 聖書:ローマ13:1-7

 日本は二重国籍を認めていないので、他の国から来た人が日本で国籍を取ろうとしたら、今まで持っていた国籍を放棄しなければなりません。しかし、世界にはそれまで持っていた国籍を捨てることなく、国籍を取ること、つまり二重国籍を認めている国が、75%くらいにのぼるそうです。

イエス様を信じて御国の子とされたクリスチャンは、二重国籍を持って生活することに似ています。神の国、天の御国の民であるとともに、この世の国民であり市民です。「私たちの国籍は天にあります」と使徒パウロは有名な言葉をピリピ書に記していますが、天の御国の民である私たちは、同時に、この日本という国に国籍を持ち、また国籍は持っていなくとしても、この国で生活し、法律や義務を守ることが求められます。

普段、このことで困ることはあまりないかも知れませんが、時としてこの世の権力、政治は、クリスチャンの信念や良心に反することを行ったり、教会を迫害する側にまわったりすることがあります。実際、初代教会のクリスチャンたちは、権力者たちの思い一つで迫害されたり、許されたり、振り回されたりしていました。

今日は、この世にあって生きる、ということの中でも、国民や市民として生活することについて神様はどのようなお考えを持っておられるかをご一緒に学んでいきましょう。

1.世俗vs福音?

使徒パウロは「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」と語り始めます。上に立つ権威とは、皆さんの職場の上司というようなことではなく、この世の権威、国を治め人々の暮らしを成り立たせる制度のことです。神の権威に対して世俗の権威や権力という言い方をすることがあります。

このような事が言われるのは、多くの人にとって「上に立つ権威」、世俗の権威というのはあまり進んで従いたいとは思えない存在だからかもしれません。実際、この手紙が書かれたローマのクリスチャンたちは、世俗の権力が自分たちの人生や生活をどれほど支配し、大きな影響を与えるか身をもって知っていました。

使徒の働き18:2を開いてみましょう。コリントの町でパウロがアクラとプリスキラというユダヤ人クリスチャンと出会うことになった経緯が書いてあります。その時の皇帝クラウディウスによって、すべてのユダヤ人をローマから退居させるという勅令が出されました。そのためユダヤ人クリスチャンも町を追われてしまったのです。それから5年後にユダヤ人やローマに戻ることが許され、それにともなって、ユダヤ人クリスチャンも帰ることになります。ローマ書が書かれたのはそんな状況の中でした。ユダヤ人クリスチャンたちは、5年留守にしていた間に、ローマの教会からユダヤ的な習慣や文化がすっかりなくなってしまっていたことにショックを受けました。それがローマ教会の中のユダヤ人と異邦人の対立の背景になっていたのです。

ローマ帝国による組織的なクリスチャンへの迫害が起こるのはもう少し後の時代のことではありますが、イエス様の教えにも、使徒たちの教えにも、そうした迫害は起こり得るものだし、もしそうなっても驚くことではないとあります。

この世の権力はしばしば、クリスチャンの信仰や福音宣教の妨げになって来ました。名目上は信教の自由が許された時代もありましたが、国家による信仰への介入は戦国時代から長く続きました。

さらにこの世の権力者が、クリスチャンの目から見て間違っているように思える仕方で国を治めることがあります。ローマの皇帝が皇帝の銅像を神として礼拝させたり、戦前の政府が神社は宗教ではないと詭弁を用いて神社参拝やその頂点に立つ天皇を神として拝礼するよう強制したことなどもその例です。

もう一つ重要なポイントは、聖書が主イエス様がやがて王の王、主の主として、すべての権力者たちの上に立ってご支配なさる時が来ると教えていることがあります。

こうした図式のために、世俗の権力と教会また福音、あるいはこの世と神様のご計画が対立するものと見なされがちです。

しかし使徒たちは、この世にあって生きるクリスチャンたちに、世俗の権力を尊重し、従うように教えます。今日の箇所でもそうです。もう少し後の時代に書かれ、迫害がさらに差し迫っていた時代のペテロの手紙第一2:13でも「人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」と教えられています。

パウロもペテロも、この世の権威、国を治め人々の暮らしを成り立たせる制度を、神様のご計画を邪魔するもの、福音と対立するものとしてではなく、むしろ神様の権威に由来するものであることを教えています。

2.法と秩序

神様が世俗の権威に与えた力の一つは、法律を定め社会の秩序を守り、人々を犯罪から守るということです。2~4節がそのあたりのことを書いています。

もちろん、古代ローマの皇帝や現代の日本の政府は、自分たちの権力が聖書の神から与えられたとはこれっぽっちも考えていないかも知れません。しかし、神様はたびたびご自身のご計画の実現のために王たちの心を動かし、変えて御わざをなさることで、ご自身の権威が世俗の権威に勝るものであることを示して来られました。

この世の権力者は、神様が創造し、治めている世界のある一定の地域を、一定の時代任されています。

ですから2節にあるように権威に反抗することは神の定めに逆らうことと見なされます。もっとも権力者が自らを神とするようなことをしたり、要求する場合や非道な要求をする場合、いつの時代のクリスチャンたち、教会は抵抗して来ました。ローマ時代のクリスチャンたちが皇帝崇拝を拒否したり、戦国時代末期から江戸時代にかけて切支丹たちが踏み絵を踏むのを拒否したり。

近代になってから、市民が従来の権力を否定し、王制を打倒するというようなことが起こるようになり、市民権というものが定着すると、一般の人たちが政府のやり方を公然と批判したり、反対運動をしたり、訴訟を起こしたりします。民主的な国ではそうしたことが市民の正当な権利であると認められていますから、そのことを2節で禁止しているわけではありません。

しかし、普段の生活の仕方、国家権力との関わりの中では、神が定めた秩序として、権力者たちが国を治め、治安を守り、犯罪から人々を守るために権力を行使するとき、それを尊重しなければならないのです。4節には「彼はあなたに駅を与えるための、神のしもべなのです」とさえ言われています。

実際、パウロはローマ帝国中に福音を宣べ伝える旅をする中で、ローマの権力によって邪魔されることよりも守られることがおおく、パウロはローマ市民としての権利を上手に用いました。

ユダヤ人たちはパウロがキリストを救い主とする福音を宣べ伝えることに猛烈に反対し、行政のトップにパウロが違法な宗教活動をしていると主張しましたが、ローマの判断は、キリスト教はユダヤ教の一派だと見なし、パウロの活動にはなんら違法性はないという立場を取り続けました。ですから、過激なユダヤ人たちに命を狙われていると疑われたときには、むしろパウロを保護したのです。というのも、パウロは生まれながらにローマ市民権を持っており、ローマ市民権を持つ者には帝国の保護が保証されていたからです。

ローマ皇帝や帝国は皇帝礼拝を要求したり、時に横暴とも思えるような統治の仕方をしましたが、それでも帝国内は比較的安全に旅行出来たので、パウロはどこにでも伝道のために出かけることができました。

考えて見れば、私たちも、この国で生活するとき、政府の方針ややり方が酷いと思うことがあるのですが、平和ぼけと言われるほどに安全な生活ができ、保険や福祉の制度で守られています。

この世の権力は、決して完全ではありませんが、神が定めた秩序として、彼らを尊重し、むしろ彼らが神に任された務めを果たせるために祈るよう聖書は一貫して教えています。

3.税と福祉

6~7節には税金のことが出てきます。

この世の権威、権力者というのは税を集める権利を持っています。それは国を守り、人々の暮らしを良くし、将来に備えるといった事業や、行政のために必要な経費を賄うために必要なことです。日本の憲法には国民の義務として3つをあげています。子どもたちに普通教育を受けさせる義務、勤労の義務、そして納税の義務です。有り難いことに、国家に労働のために徴用されたり、兵役の義務がないわけですが、国によって、時代によって、国民として課される義務は様々です。おそらくパウロの言わんとするところは、税金に限らず、その国で国民の義務とされていることについては義務を果たすべきだということです。

税金については皆さんもいろいろ言いたいことがあるかもしれません。高すぎるとか、不公平だとか、使い道はどうなんだとか。給料や年金に税金がかかるだけでなく、健康保険税とか年金、介護保険料も引かれるし、ものを買えば消費税、車を持っていればそれだけで重量税、ガソリンを入れればガソリン代の半分近くが税金という具合です。

そうやって集めた税金がいったい何に使われているか。テレビやネットのニュースが報道するのは、だいたい無駄遣いじゃなかいか、このような事に使うのは問題なんじゃないか、というようなことばかりなので、良いことのために使われていること、当たり前のことが当たり前にできるように使われていることについてはあまり知らされることがありません。

国や市町村の税金の使い道に、気に入らなかったり、無駄だと思うようなことがあったり、時には総理大臣や行政のトップの個人的な思い入れやメンツのために税金が使われることがあるとしても、基本的には国を守り、人々の暮らしを良くするために使われています。

ユダヤ人は支配者であるローマ帝国がユダヤ人から税金を取り立てることを忌み嫌い、イエス様にもローマに税を納めるのは律法に適っているかと問いました。イエス様はまったくためらうことなく、神のものは神に返し、カイザルのものはカイザルに返しなさいと答えました。不正を働く取税人が余計に税を取り立てて私腹を肥やしたり、集めた税金がエルサレムに駐留する軍隊の費用を賄うために使われていると知っていても、なお、そう教えたのです。

そう考えてみれば、確かに教会の様々な備品を購入したり修理するときにかかる消費税がけっこう大きいなあと頭を悩ませることがありますが、宗教法人であるから土地や建物の不動産に税金はかからないし、私たちの献げる献金も信仰の行為ということで税金がかからずに済んでいます。結構恩恵を受けているわけです。

税金にしろ、権力の乱用にしろ、一部の権力者やその代行者たちが不正に用いたり、不正を働いたり、横暴な態度を取ったりしても、それが私たちの義務を勝手に手放していい理由にはなりません。神様は、この不完全な世界で、指導者たちが罪深い者であったとしても、それでも曲がりなりにも国を治め、そこに暮らす人々が安全に過ごし、犯罪から守られて生活できるために、彼らを用い、彼らに権力を委ねたのだから、その統治には従うべきだというのが、聖書の基本的な立場です。

適用:主の故に

先日、高速道路で仙台に向かって車を走らせているとき、少し遅い車がいたので追い越しました。昨年せっかくゴールド免許にようやく戻ったばかりなので、スピード違反で捕まったりしないように気をつけてはいました。制限速度より越えていてもある程度は誤差としてスルーされるのは分かっていましたが、それでもその時はその許容範囲を多分超えていました。私の後ろからもう一台がさらに追い越して、数台前まで行ったところで、さっき私が追い越したばかりの車が突然、赤ランプを灯して追いかけて行き、可哀想なあのドライバーはパーキングエリアへと誘導されていってしまいました。「いやあ危なかった」と安堵しました。3節に「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです」とあるとおりです。

そして5節のみことばが刺さります。「ですから、怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも従うべきです」

捕まるのが怖い、罰金や免停が怖いから従う、というのも、正しいあり方です。まさに、そのためにそういう法律は作られているのですから。しかし、パウロが今日の箇所で示すことは、神がこの世にあって、人々の生活を守るために、それぞれの国や地域に権威を委ねているのですから、この神を敬うがゆえに、この世の権威をも尊重し、その定めに従うべきだと私たちに教え諭します。

ローマ書の時代から少し時間が経ち、激しい迫害が迫っていたペテロの手紙でも今日と同じことが教えられていましたし、パウロ晩年のテモテへの手紙の中でも、王たちや高い地位にある人たちのために祈り、とりなし、感謝を捧げなさいと教えています。

そして国を挙げてクリスチャンを弾圧するようになった時代になっても、その姿勢は守られました。1世紀のローマ教会のある指導者は悪名高い皇帝ネロの激しい迫害やドミティアヌス帝による悪意などを経験し、覚えていても、なお指導者たちのために祈ったそうです。

海の向こうの大統領選挙では、あるクリスチャンたちは自分たちが押す候補こそ神が定めた指導者で、相手候補は神の敵だ、サタンの使いだくらいの勢いで批判を高めています。そのような主張をするクリスチャンたちの信念の強さには敬意を払いますが、そのようなものの見方は、聖書が私たちに示している視点をまったく取り違えているのではないかと思います。

他方、日本は誰も政治とは無関係でいられないのに、関心がなさすぎて「誰がリーダーになっても同じだろう」という空気が大勢を占めているような感じがします。ローマ帝国という皇帝による支配も神がお許しになった制度であるなら、民主主義という国のあり方、権力のあり方も神がお許しになった制度です。このような国で権力を尊重するということは、権力を委ねることになる私たちにも責任があるということですから、ちゃんとその権利を使い責任を果たすべきです。

神様はイスラエルの民を奴隷としたエジプトのパロや王国を滅ぼし捕囚としてアッシリヤ帝国、バビロン帝国もご自身の救いのご計画を実現するために用いました。ですから、私たちは自分が今暮らしているこの世界の権力の良し悪しを論ずる以上に、それらの上に立ってご支配なさり、私たちのために救いを成し遂げ、良いものを備えてくださる神様に信頼して、この世にあっては良き市民であることをまずは大切にしましょう。そして、この世の指導者たちが、おごり高ぶることなく、神に委ねられた務めを正しく、誠実に行うことができるよう、とりなし祈りましょう。

祈り

「天の父なる神様。

あなたは私たちの暮らしのため、この世界の秩序と安全のために、あなたのご目的の中で様々な指導者を立て、権威を委ねておられます。

まず、私たちはそのことを認め、しばしば、立てられた者たちを批判だけして敬うことや、あなたの意図を考えずにいたことをお許しください。

私たちがこの世にあって、主を恐れ敬うゆえに、この世の権威を尊び、果たすべき義務を果たさせ、良い市民であることができますように。そして彼らのために祈り、何より、あなたが彼らをも用いてみわざを成してくださることを信じることができますように。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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