2024-11-17 私たちの生き方

2024年 11月 17日 礼拝 聖書:ローマ14:7-13

 今日、クリスチャンの生き方と一口に言っても、様々なスタイルがあり、いったい何が正しいのかよく分からなくなります。私が青年時代を過ごした頃は、自分たちの教会グループの人たちと知り合う機会が殆どなく、まさに井の中の蛙でした。様々な伝統や考え方があるのを知ったときは本当に驚きでした。自分たちが当たり前だと思っていたことが当たり前ではありませんでした。自分たちよりもずっと砕けた、自由な感じのクリスチャンの生き方もあれば、風呂から上がったらまたネクタイを締め直すようなお堅い生き方もありました。

それ以来、それぞれの考え方に従ってやればいいのだと思うようになりましたが、現代の教会が問われているのは、それぞれが確信しているライフスタイルはそもそも、本当に聖書に根ざしているのか、ということです。

今でも忘れられない場面があります。あるクリスマス会に町の人が来てくれたことがあるのですが、私がネクタイをしているのを見て、「ちゃんとした格好してこないとダメだったのか」と恐縮していたことです。礼拝を献げたり、司式をしたりするために、きちんとした格好をすべきだという確信と、心を開いて教会を訪ねてくれた人が緊張せず、心を開いたままで福音を聞くことと、大事なことはどちらなんだろうと、今に至るまで考えさせられています。

1.問題の本質

今日開いている箇所は、ローマ教会に起こっていたクリスチャン生活に関する問題を取り扱うための土台となる考え方を示しています。

以前もお話ししたことがありましたが、ローマ教会では皇帝の命令のためユダヤ人がローマから追放されていた時代が5年ほど続きました。ユダヤ人クリスチャンが多かった時代には、ユダヤ教の生活習慣に影響されたライフスタイルが中心でしたが、彼らがいなくなった後もローマ市内で成長しつづけたローマ教会には、次第にその影響は薄れ、ローマやギリシャの文化の影響を受けた生き方が多くなって行きます。14:1~6にはローマ教会で問題になっていたことの例が挙げられています。

ユダヤ人クリスチャンが市場に並んでいる肉は偶像に献げられてから売られたものだからと、食べることを拒んだのに倣って、偶像礼拝につながるかもと控えるようになりました。また旧約聖書に基づいた祭の日を大事にし続けるユダヤ人クリスチャンもいました。当然、そうしたユダヤ人クリスチャンに影響されたローマ人のクリスチャンがライフスタイルを真似する場合もありました。

ところが、一方でユダヤ人クリスチャンの影響を全然受けずに育ったクリスチャンは、何も気にせず市場の肉を買い、ユダヤ教徒が大事にしている祭の日も普段と変わらずに過ごしているわけです。そのことで13節にあるように、教会の中で、「こっちに従うべきだ」とか「それぞれ自由にすればいい」とか「配慮が足りない」何なら「愛が足りない」といった、お互いに対する裁き合いが起こっていたのです。

いったいどういうことでしょうか。自由を主張する人たちは、自分を優先し、伝統的な生き方をする人たちは、他人が自由勝手に生きている様子を見て、心を痛めたり、腹を立てたりしながら批判し、どうして良いか分からない人たちは、交わりの中で傷付きながら過ごしていました。

ローマ教会の中にユダヤ的な伝統が入り込むことについての問題の本質は、互いの考えを尊重しなければならない、ということではありません。17節に「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです」とあります。聖書が示す教会の姿の中心には、いつも食事の交わりがあります。家々にいくつかの家族やその友人たちが集まって、一緒に食事をし、その交わりの中でイエス様を記念するパンとぶどう酒が祝われ、聖書の教えについてともに話し合うことが礼拝であり、共に集まるお互いのために祈り、慰め、具体的に助け合うことが牧会でした。ですから、その交わりの中心にある食事の席で、この肉は食べて良いかどうかという議論が始まると、そこに同席した未信者には、福音は本当に人を自由にするのか、新たな戒律が求められるのかといった疑問に結びついたり、この人たちは神の家族と言っているがなぜこんなにいがみ合っているのかという率直な反応になるのです。

私たちが信じ、伝えている福音は、本当に人を自由にするのか、また異なる考え方があっても本当に互いに受け入れ、愛し合えるのかということです。今日の箇所の教えが示される背景となったローマ教会の中の問題は、交わりの問題であった以上に、本質的には福音宣教に関わる問題だったのです。

2.私たちは主のもの

ですからパウロは、お互いに仲良くしなさい、受け入れ合いなさいという教訓で終わらせずに、私たちは皆、主のもの、キリスのものだという、クリスチャンの存在の原点を示します。

7節と8節をあらためて読み直してみましょう。「私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

古い伝統やユダヤの習慣に捕らわれない自由な生き方を楽しむクリスチャンは、ユダヤ人クリスチャンが手を出さないような市場で売っている肉を平気で食べたり、彼らが大切な日として敬虔に過ごしている日にいつもと変わらず仕事に出たり、遊びに行ったりしましたが、自分を楽しませることが人生の目的ではないはずです。律法や古い慣習に従って生きるクリスチャンも、気にせずのびのびやってる異邦人クリスチャンに眉をひそめ、堕落してるんじゃないかと心の中でさばきながら「彼らのようではなく正しい生活が出来ることを感謝します」と祈ったかも知れませんが、しかし伝統を守ることが人生の目的ではなかったはずです。

どちらの人たちも、私たちにいのちを与えてくださった主、イエス・キリストによって新しいいのちを与えられ、イエス様を主として歩むよう召されました。もはや律法によってではなく、信仰によって義とされる新しい契約が、ユダヤ人だけでなく異邦人の罪も赦し、罪にも律法にも支配されない、イエス様を主とすることで、自由と喜びを祝福として与えられたはずです。

しかし、他人の気持ちに無頓着でひたすら自分の自由を楽しむだけのローマのクリスチャンは、イエス様を主としているのではなく自分を主としまっていたのではないでしょうか。ユダヤの伝統を重んじて食べ物や飲み物、祭の日などを大事にして、あれはダメ、これもダメと神経質に、厳格な生き方を自分にも他人にも向けるクリスチャンたちは、イエス様を主としているのではなく、伝統や習慣を主としているのではないでしょうか。

もし、現代の私たちが人に躓きを与えることを気に留めず、伝統に縛られた生き方を半ばバカにし、あるいは憐れむような気持ちで見ながら、自由なクリスチャンとして生きていたら同じことですし、新しいことや変化を認めず、聖書に根拠のない教会の伝統や常識に縛られて自分の生き方を狭め、他人にもそれを要求するようなら、やはり同じことです。10節にあるように、自分の兄弟をさばいたり、見下すなら、神のさばきの座に立ったときに、お前はいったい何様のつもりで兄弟をそんなふうにさばき、見下したのかと問われるのです。

私たちの主が願っていることは、私たちが何を食べて良いかどうか、何を飲んで良いかどうか、ある日が他の日より大事だと言えるかどうかで争うことではありません。主が与えてくださった自由の中で、神様が全世界に祝福をもたらすためにおいでくださった主イエス様の良い知らせを宣べ伝え、私たちが神の義と平和と喜びの中で生きることです。19節にあるように、私たちは、イエス様を主とするクリスチャンとして、「平和に役立つことお、お互いの霊的成長に役立つことを追い求め」るべきなのです。

3.自由に、しかし控え目に

では、実際にローマ教会で問題になっていたことについての具体的な解決は何だったのでしょうか。イエス様が主であることを認め、主が願っている平和と霊的成長を願い、平和と喜びに生きるというのは理想的ですが、現実の交わりの中ではどうしたら良いでしょうか。

この点で、まず責任が大きいのは、イエス様が与えてくださった自由をよく理解し、聖書に根拠のない決まりや伝統に縛られない生き方ができる人たちのほうです。というのも、やはりあるユダヤ人クリスチャンのように、長い間、これこそ神に喜ばれる生き方だと信じて疑わなかった伝統や習慣は簡単に捨てられるものではないし、それを変えることには大きな抵抗があるからです。

例えば、今私たちの間では、ほとんど人がスマートフォンを使っています。しかし、私が北上に来た頃、若い人は信じられないかも知れませんが、携帯電話自体持っていない人が多かったことを思い出します。スマートフォンは値段も張り、高機能です。だいたい、こういうのが出るとすぐに取り入れてみようという人はごく一部です。それから、それを見て良さそうだから私も、と使い始める人たちが続きます。それでも、しばらく様子を見る人たちが大半です。その人たちもだんだん、孫の写真が観られるとか、ラインで連絡を取るのが便利だと気付くと使い始めます。

しかし、いや、昔のガラケーでいいと頑なに昔ながらの携帯電話を使い続ける人や、理由や事情は様々ですが、固定電話のままでいいという人も一定数いるものです。こういうことは新しいワクチンやマイナンバーカードといったようなものにも当てはまります。

スマホは別にどうでもいいとして、新しい変化に対する対応力という点では、霊的な面でも似たような傾向があります。恐らく初期の教会でも、ユダヤ人がクリスチャンになって、異邦人が豚肉や偶像に献げられた後で市場に並んだ肉を食べても良いのだと気付いてすぐにやってみる人もいたでしょうが、多くは様子見だったことでしょう。肉を平気で食べる人が霊的に堕落したり、信仰から離れたり、偶像に影響されないか、あるいは呪いを受けて病気になったり死んだりしないか恐る恐る見ていたかもしれません。それから大丈夫そうだと思って自分も試してみようかなとなるのです。しかし、中には絶対無理、という人がいるのです。

しかしスマホと違って、キリストにある自由は救いの本質に属することですから「不便でもガラケーに拘りたい」のと同じ、というわけにはいきません。彼らにも、キリストにある自由を得て、霊的に成長して欲しいのです。しかし、それでも彼らに無理強いすることはできません。またそうした信仰の弱さゆえに、キリストにあって自由に振る舞っている人たちを見て躓いたり、良心のかしゃくを覚えるようなことを「しかたがないことだ」で済ませるのも主にあって相応しいこととは言えません。

ですから、私たちの自由の用い方は、自分中心な使い方ではなく、躓きそうな人たちに配慮する、控え目な用い方をすべきだということになります。わざわざ躓かせるようなことを見せたり、強いたりしてはいけないのです。それが「兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい」という13節の適用の意味です。

適用:これからの時代の生き方

さて、今日の箇所を現代の私たちの生き方に落とし込むために考えるべきことは何でしょうか。

キリストにあって与えられた自由に対する態度は、私たちに与えられた祝福を十分に味わえることと、未信者に対する福音の証に大きく関わっています。

ローマ教会にあった食べ物や飲み物の問題とは大分様相が違いますが、よくよく考えたら、それほど聖書的な根拠がはっきりしない決まり事、クリスチャンの生き方をしばっているもの、教会のあり方をしばっているものがあります。

例えば礼拝の時間は、だいたいどこの教会も日曜の朝10:30に始まります。礼拝の式次第はだいたいどこの教会に行っても似たり寄ったりです。一昔前には賛美の伴奏はオルガンか、妥協してピアノ。ギターやバンドの奏楽なんてもってのほかとされました。主の晩餐は礼拝の中の儀式として月一度か数ヶ月に一度。プロの牧師でなければバプテスマを授けたり主の晩餐を司式してはいけない。最初の例であげたように、集会にはスーツとかちゃんとした身なりでなければならない。講壇が前にあって、教室のように会衆は正面をむいて行儀良く並ぶ。そして自前の会堂を持ち、一人の牧師を立てられる教会が一人前の教会のように捉えられています。日常生活にあっては、酒タバコは良くないものとされます。体に良いとは言えないでしょうが、何かそのパッケージ触ることすら身が汚れるような感覚を持ちます。未信者の知り合いと遊びに行くこともなく、クリスチャン同士の付き合いこそが良い交わりのように思われている。日曜日の礼拝に出席し、定期的に献金していれば、家でどんな生活していようと良いクリスチャンと見なされます。

こうした、よく考えると意味不明なルールや習慣は、西洋の伝統から宣教師たちを通して持ち込まれ、その後代々受け継がれ、日本の事情に合わせてさらに強化されて来たものです。何となくキリスト教らしい雰囲気は醸し出しますが、あまりにも日本人の普通の生き方や文化とかけ離れているので、どうしても欧米っぽさや堅苦しさについていけない人にはハードルが高すぎます。

世界中で福音宣教が進み、教会が新しく生み出されている地域を調べると、そういう西洋的なものから自由なあり方でクリスチャン生活や教会の働きをしているところばかりです。そういう勢いのある教会が、西洋的なあり方に舵を切ったとたんに成長が止まるというケースがいくつもあります。日本は最初から西洋に憧れ、西洋的なクリスチャン生活、教会のあり方を取り入れました。だからいつまでたっても1%の壁を越えられないと言われます。

一方で、西洋的な教会やクリスチャン生活に意義を唱え、とんでもなく自由な生き方や教会のあり方を求める人たちもいて、物議を醸すことがあります。それはそれで自由を求めるあまり、躓く人たちへの配慮に欠いていたり、神の家族として共に集まり、支え合う関係を軽んじるます。

しかし聖書を見ると、教会はもっと表情豊かで、生き生きとした交わりがなされていました。教会の礼拝と交わりは式典のような礼拝ではなくまさに家族としての集まりで、食事を中心にしたもので、10人から20人くらいが集まれる家で集まり、食事をしながら交わりをし、聖書の教えについて語りあい、互いのために祈りました。そうした家々を一人の牧師が飛び回って、日曜日に何カ所でも礼拝を司式するのではなく、家族の長が礼拝と交わりを導きました。私はいつも思うのです。食事の交わりや礼拝の前後に見られる楽しそうな笑顔がなぜ礼拝の中で見られないか。私の説教にあまり面白い話しがないとか、気の利いたジョークが少ないとか、そういう問題ではありません。

私たちにとって大切なのは、本当にキリストにある救いの自由、喜び、平安が表れる生き方、教会のあり方です。私たちの周りにいるイエス様を知らない教会外の人たちに、わけの分からない新しい戒律を押しつけるのではなく、ここに本当の喜びと愛の交わりがあると伝えられるかどうかです。そんな生き方、教会の姿を目指し、追い求めていくべきではないでしょうか。

祈り

「天の父なる神様。

私たちの生き方について、またその延長にある教会のあり方について、みことばに立って考える時、私たちはイエス様にあって与えられた自由や喜びを十分に味わっていなかったり、様々な伝統や習慣に縛られていることがあると気付かされます。一方で、自由を自分勝手に用いる誘惑にもさらされます。

私たちの主は、イエス様です。イエス様が願っておられるクリスチャンとしての生き方、教会のあり方に向かって、自由で柔らかな心で追い求めていけますように助けてください。

イエス様のお名前によって祈ります。」

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