2024年 11月 24日 礼拝 聖書:詩篇126:1-6
多くの人は努力すれば、頑張れば報われるはずだと信じ、期待していますが、往々にしてその期待は外れます。
日米で野球選手として成功したイチローさんが「努力したら報われるって思ってる人は見返りを求めてる。これだけのやったから、必ず報われるはずだ、その見返りを求める姿勢がダメ」また、「努力してるかどうかは第三者が決めること」と何かのインタビューで話していて話題になったことがあります。ただ、そんなイチローさんも高校野球児たちへの指導の中で「野球に手品、マジックはない、とにかく積み重ねてモノにするしかない」と“継続”の大切さを語っています。がんばったから成果が出るはずだと期待するのと努力によってしか実力や自信は身につかないということは別なことだという何とも禅問答のような話しです。
今日開いている詩篇は、今月のみことばにもなっている有名な聖句「涙とともに蒔く者は喜び叫びながら刈り取る」という言葉を含む詩です。涙と共に蒔く、という姿に私たちは、辛さや苦しさの中でも地道に頑張る、まさに努力姿を思い描くかもしれません。そうした涙に「喜び叫びながら刈り取る」という、豊かさ喜びといった報いが約束されているように読めますから、忍耐強くがんばっている人たちにとっては大きな励ましの聖句となっています。それは正しい期待なのでしょうか。この詩篇のメッセージは何でしょう。
1.信じがたい奇跡
126篇は作者の分からない詩ですが、信じがたい奇跡を目撃した時代の作品だということは分かります。
「都上りの歌」という表題がついていて、イスラエルの成人男性に命じられていたエルサレムへの巡礼の時に歌われたものです。普段は地方に暮している人たちが、年に一度はエルサレムに向かって町の親戚や仲間たちと歩いて旅しながら歌ったのですが、126篇は少し様子が違っています。
1節に「主がシオンを復興してくださったとき」とあります。この歌は、イスラエル王国が滅ぼされ、エルサレムの街と神殿が破壊され、バビロン捕囚となってから70年後、エルサレムへの帰還が命じられて、神殿再建がなされた時の喜びを思い出しているのです。
日本は、1945年の太平洋戦争で連合軍に敗戦し、広島と長崎には原爆が落とされ、東京は焼け野原となり、岩手でも鉄の町として栄えていた釜石が艦砲射撃や空襲にさらされました。北上でも後藤野に飛行場があったため空襲があり、それぞれ大きな被害を受けています。
終戦からわずか20年足らずで復興を遂げ、東京タワーは立つは、新幹線は走り出すは、東京オリンピックは開催されるはで、その目覚ましい復興は世界中から奇跡と呼ばれました。普通はそんなふうに破壊されたら、他国の領土に組み込まれてしまって、国としての存続は難しくなるものです。それが70年ものあいだ、国が失われ、国民は外国に捕囚となっていたのに、親世代、祖父母の世代から聞かされていた約束の地へと帰り、神殿とエルサレムの城壁が再建され、再び人々がそこで暮らし始めることができたのは奇跡としか言いようがありませんでした。
だから「私たちは夢を見ている者のようであった。」「私たちの口は笑いでみたされ…喜びの叫びで満たされ」ました。それは他の国の人々の目にも驚きでした。このときの出来事を記したエズラ記3:10~13を開いてみましょう。
詩を書いた人がどんな状況に置かれていたかははっきり分かりませんが、あの奇跡を思い出し、自分や同時代の人たちが置かれている状況を比べて、涙を流し、泣きながら種まきをするような状況に置かれていたことは詩の内容から想像できます。
エルサレムへの帰還は、それ自体が、主が起こしてくださった奇跡で、復興されたエルサレム神殿に上ることは、今までの都上りとは別次元のすごい経験であったことを思い出しつつも、今、この苦難を味わっているという現実もあるのです。
私たちもそうした経験があるのではないでしょうか。奇跡とは言わなくても、神様が私たちに素晴らしい経験を与えてくださったことが過去にあったとしても、今こうして涙を流している、苦しんでいる。かつて、イエス様を信じた時は、それまでの悩みや苦しみから解放されたような気がして本当に素晴らしい喜びだった。それを遠い昔の懐かしい思いでとして語ることはできても、今は、忍耐を強いられ、あんなふうに飛び上がって喜ぶこともなくなったしまった。そんな事を多くの人が経験するかも知れません。
過去の素晴らしい経験と現在の苦難や停滞した感じが、同じ信仰の経験としてうまく捉えることができていないのです。
2.約束の成就
126篇の詩人は、過去の神の奇跡と現在の苦難、そして未来への希望を、バラバラの出来事や期待というふうには捉えず、主ご自身の約束という視点ですべてを見ています。私たちが自分の人生を見る時も、主が私たちに約束してくださったことという視点から見ることが、とても大事です。それによって、様々な経験が断片的で、つながりがなく、その時々にたまたま起こった事としてではなく、統合された意味のある一つの私の物語としてまとまりを見せるようになります。
では126篇に戻ってみましょう。
「主がシオンを復興」するというのは、70年前に偶然が重なって起こった奇跡的な出来事というわけではありません。確かに、支配的でこちらの都合や気持ちなんか考えてくれないバビロンに捕囚となった頃には、バビロン帝国が滅びるなんて想像も出来ませんでした。バビロンを滅ぼしたペルシャの王が異民族に対して寛容で、有能な人材はどんどん登用しつつ、それぞれのもとの地域に返してやることで帝国を安定させようとする考えを持つ人だったことは、イスラエルの民にとってラッキーでした。
しかし、それは単なる偶然ではありません。
イスラエルが破滅に向かう時代に預言者として遣わされたエレミヤは、イスラエルの民が神様への背きのためにバビロンによって滅ぼされ、捕囚とされ70年仕えなければならないが、その終わりに、横暴なバビロンを滅ぼすと預言しました。
それから数年後、まさにイスラエル王国が滅ぼされた場面を描いた第2歴代誌36:20~23にはこんなことが書かれています。エレミヤの預言が成就し、この地、つまりエルサレムと約束の地が安息を取り戻すために70年間、民が捕囚となっていきます。しかし、主のことばが実現するためにペルシャの王キュロスが通達を出したというのです。
あの喜びの涙と叫びで湧いたエルサレム帰還、神殿再建の奇跡は、神様の気まぐれや、人々の頑張りへのご褒美として与えられたものではなく、もともと神様が約束されたことの成就なのです。そしてエレミヤを通して約束された事は、もっと大きなアブラハムに約束された神の全世界に対する大きなご計画の重要なピースの一つでした。神様は、罪によって傷付き損なわれたこの世界全体を贖い、回復するという目的のために、アブラハムを選び、彼の子孫を通して世界に祝福をもたらすという壮大なご計画をお立てになりました。その実現のために、アブラハムの子孫であるイスラエルを導いて来ましたが、どうにも頑なで背を向け続けるため、一度は滅ぼすのですが、残された民を再び集め、もう一度彼らを通して救いのご計画を前進させるのです。その最初のしるしが、エルサレム帰還であり、神殿の再建でした。
神様の大きなご計画、約束からものごとを見ていくと、詩人が思い出しているあのエルサレム帰還の大きな喜びは一時の奇跡的な出来事としてそれで終わりではなく、今もなお、そしてこれかも続いていくものです。一度は途切れたように見えた線は、ここから続いてイエス・キリストの誕生と十字架、復活によってクライマックスを迎え、教会の時代を経てキリストがもう一度来られることで完全な成就へと続いていくものです。
3.すべてが良くなる
ですから、詩人は涙とともに種を蒔かなければならないような現実の中でも、希望を持ち続けることができました。頑張れば報われるから、努力すれば神が答えてくれるからではなく、神様は約束されたことを必ず実現してくださる方だと確信するからです。1~3節で描いた、あの喜びの記憶は、懐かしむためではなく、神がどのような方かを思い出すためです。
主が約束されたことを必ず実現する方だという確信にたつ詩人は、4節で、希望へと目を向けることが出来ています。
今はいろいろ大変なことが多いけれど、神様が始めて下さった救いのご計画は必ず実現して、すべてが良くなると希望を持つ事ができるのです。
「主よ ネゲブの流れのように
私たちを元どおりにしてください。」
ネゲブというのはイスラエル南部にある荒涼とした乾燥地帯です。ネゲブの荒野には川筋がいくつも見られますが、そのほとんどがワジと呼ばれていて、一年の大半の期間は水が干上がって川の流れはみられません。ところが浮きになって激しい雨が降ると、一気に水かさが増し、濁流となって流れ、川から溢れた水は周辺の乾燥した土地に水分をもたらし、流域は一気に緑を取り戻し、一斉に草花が花を咲かせるのです。ネゲブ砂漠ではなかったとおもいますが、同じような砂漠に雨が降って、涸れた川に水があふれて流れ、一気に花が咲き乱れる映像を見たことがありますが、それはもう見事で、奇跡的な光景でした。
雨が降れば、豊かな流れといのちをもたらすネゲブの流れのように、今は干からびていのちがないように見える私たちを、再び豊かでいのちあふれる流れのようによみがえらせてくださいと詩人は祈ります。
詩人が思い出しているエルサレム期間の素晴らしい記憶が、彼にとって何年前のことかは分かりませんが、エズラ記やネヘミヤ記、またその時代に活躍した預言者たちの預言を見ると、エルサレム期間の興奮と喜びは長続きしなかったことが分かります。エルサレムをとりまく状況は70年前と違います。力をつけた他の民族の邪魔が入ったり、嫌がらせを受けたりしましたし、バビロンにすっかり溶け込んで移住をしぶる人たちも少なからずいました。苦労の多いと分かっているエルサレム再建のためにこれまでの生活を捨てることが出来なかったのです。そして神殿は再建されたものの、城壁が壊れたままで無防備になり、せっかく移住した人たちが安心して暮らせず、経済的にも非常に貧しい生活を強いられていました。
そんな中にある兄弟姉妹たちを、詩人は頑張れば何とかなるとか、努力は報われると鼓舞したのではありません。あの時、奇跡を起こして私たちをエルサレムに連れ帰るという約束を果たして下さった神様は、この約束の残りの分も必ず成就してくださる方だから、今は涙とともに種を蒔くようだけれど、かならず豊かな刈り取り、大きな喜びをもたらしてくださると励ましているのです。
この歌が都上りの歌とされているのは、もしかしたら、バビロンでの生活を捨てられずにいる人たちに対して、神の約束とみわざに目を向けさせ、かつて都上りをした人たちのように、もう一度神のみもとに向かって歩きだそうと呼びかけているのかも知れません。
適用:希望を持って
過去の素晴らしい経験と今直面している苦しみや悩みのあまりの違い、落差は、時として私たちを混乱させます。
大声で笑い叫びながらエルサレム帰還を喜んだ時のあの素晴らしい体験と、涙を流しながら種を蒔くように忍耐と労苦するしかない日々とではあまりにギャップがあります。あの時の奇跡は、今日の労苦の中ではぜんぜん再現されず、こんなに苦労し、こんなに努力していても、目の前の痛みや悲しみ、恐れや悩みが一瞬で吹き飛ぶような神の御業もありません。
しかし、神の奇跡、神のみわざは、決して気まぐれではないし、私たちの頑張りへのご褒美ではなく、神のご計画の中でなされることなのだと理解するとき、神様の大きな物語の中で、今私たちは何ページあたりにいるか分かります。
詩篇126篇の詩人が見たエルサレム帰還という奇跡を振り返り、いつの日かネゲブの涸れた川が流れを取り戻す時が来るように、再びいのちと豊かさに溢れ、すべてが回復され、すべてが良くなるという神のご計画に目を向けた時、やがて喜びながら束を抱えてここへ帰って来るのだと希望を持ちました。その希望は、さらに前進し、約束された救い主イエス・キリストの誕生と十字架の死と復活による罪の贖いが果たされることで、すべての人に神の祝福をもたらし、全世界を回復するという神のご計画はいよいと完成に向かいました。私たちが、それぞれの人生の中で受け取った救い、イエス様との出会い、教会の一員に加えられたことは、この神様の大きな約束の重要な一部です。
そしてイエス様は私たちに、この約束にはまだ続きがあって、イエス様が再びおいでになる時まで、主人を待つ良いしもべのように、置かれた場所で、忠実であるようにと励ましています。
そういう意味で、私たちもまた、時折、乾ききった川や不毛の大地のように、労苦が報われない時がありますが、それでも、詩人と共に、「喜び叫びながら刈り取る」という希望を持つことが出来ます。それは、努力が必ず報われるから、という幻想ではなく、神様が約束されたことを必ず果たしてくださる方だからです。
そして、確かにその約束を果たす神は、イエス様による救いを私たちに与えてくださいました。イエス様との出会い方は様々です。人生に迷い、探し求めてイエス様を知った人もいれば、親がクリスチャンだったから、いつの間にか教会に来て何となく信じていたという人もいるでしょう。あるいは、クリスチャンホームゆえに逆に信仰によって生きるということが良く分からなくなってしまったという人もいるかもしれません。しかしどんな出会い方だったとしても、詩人の目を開かせた神様の偉大な救いの物語は、私たちの人生と魂に触れ、さらなる希望に生きる道へと導いてくれました。
そして私たちが知っていることは、神様が私たちに与える実りや報いは、やがて来る未来のことだけでなく、私たちの人生の中でも思いがけないかたちで度々味わえるものでもあるし、神様は私たちの祈りを今、このときも聞いていてくださり、答える方でもあるということです。
ですから、詩人と共に告白しましょう。「涙とともに種を蒔く者は 喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え 泣きながら出て行く者は 束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。」
祈り
「天の父なる神様。
あなたは私たちのために大いなる救いのご計画を約束として与えてくださいました。しばしばその大きな物語と私たちがつながっていることを忘れ、目の前の辛さや困難に心が小さくしぼんでしまいます。しかし、神様が、その約束を実現するために常識や歴史を覆し、みわざを成してくださいました。何より、ひとり子イエス様によって私たちを救い、御国の民としてくださいました。
その完成を待ち望む今は、続けて苦難もあり、難しいことも多いですが、約束を必ず果たしてくださる神様のゆえに、私たちには希望があります。涙とともに種を蒔くようなときも、この希望をしっかりと握って歩むことができますように。
主イエス様のお名前によって祈ります。」