2024年 12月 15日 礼拝 聖書:ローマ15:4-13
知り合いの臨床心理の先生が、第一線を退くことになったベテランの心理学者に質問しました。「人は人生の最後に何をすべきですか」。そのベテラン先生は何と答えたでしょうか。その先生は迷うことなく「それは和解です」と答えたのだそうです。
なるほどなあと納得しました。誰かと和解できずにいることは、トゲが刺さったような「いずさ」や痛みとして絶えず私たちの心をちくちくと刺激し、態度や行動に影響を与え、喜びや平安を脆く不確かなものにしてしまいます。時として、そのことが人生の選択に大きく、そしてたいがい悪いほうに影響することもあります。心に引っかかり続けていた誰かと和解できたら、どれほど心の重しが取れるでしょうか。それは家族かもしれないし、古い友人かもしれませんが、その人と和解ができて、誰を責めることもなく、誰にも責められることもなく、心穏やかでいられたら、人生の終わりとしては良い終わり方だと思います。和解は私たちの人生にとって、喜びと平安に関わる大切な課題なのです。
1.聖書が教える忍耐と励まし
今日開いている箇所では、聖書が与える忍耐と励ましによって希望を持ち続けられると、最初に記しています。
この忍耐と励ましによって持ち続ける希望の先にあるのは、すべてのものがキリストにあって一つにされ、平和と喜びに満たされる、神の救いのご計画の完成です。
パウロはキリストによる救いが完成した姿が、あらゆる対立や不和が解消し、すべてがキリストによって一つにされることであると語っています。今日の箇所でも、5節「キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように」とか6節「心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように」、また7節「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい」というふうにと、しきりに、キリストにあって一つとなるというテーマを繰り返しています。
キリストにあって一つとされるという、神の救いの完成に至るまでの時に私たちは生きています。争いや対立、不和が絶えない世界ですから、完成を待ち望み続けるための希望と励ましが必要です。それと同時に救いの実現、平和の実現のためには必ず「和解」というプロセスがあり、そのためにも忍耐と励ましが必要です。
神様はまず、私たちの救いのためにキリストによって和解を差し出してくださいました。罪赦され、もはや神の怒りのもとにはおらず、神の愛と恵みをたっぷり味わえるるようにしてくださいました。
そして次に神が与えるのは、私たちが個人的に拘わっている人たちとの和解です。この和解は、待っていれば時間が解決してくれるものではありません。和解の時、という意味でタイミングはあると思いますが、その時を逃さずに赦すこと、それを伝えること、という私自身の意志と行動を伴わなければ実現しません。
私たちはそれが時として難しいこと、自分の感情や記憶が邪魔をして、気持ちはすごくあるのに、行動に移すのが難しいということがあります。その時、必要とする忍耐は相手というより自分に対する忍耐かもしれません。
聖書には兄弟たちの物語が要所要所に出て来ます。カインとアベルは、弟に対するカインの一方的な妬みと憎しみを、神様直々の忠告にも拘わらず、捨てられず、弟殺しという悲劇に至りました。それは人間に生まれた罪の種がどれほどしぶといものであるかを、まざまざと見せつけます。神様ご自身にとっても、罪から人々を救うための忍耐強い働きのスタートでした。
神様の救いの実現のために選んだアブラハムとその息子たちの歴史も神の約束を軸に、争いと和解がからみあって進みます。イサクとヤコブの争いと和解。そしてヤコブの息子たちの争いと和解。
兄たちに奴隷として売り飛ばされてしまったヨセフですが、神は彼らの悪を良いことに変え、ヨセフをエジプトと兄弟たちを救う者としました。しかしヨセフの心、そして兄たちの心を占めていたのは、過去の因縁でした。ヨセフは兄たちを赦し、和解することでようやくヨセフの物語は終わりを迎えることができました。こうした聖書の物語は、人間の力では和解によって平和と一致を作り出すことができなくても、神にあって和解は可能であることを教えます。
2.神が約束されたこと
和解を通して、キリストにあって一つにされることは神が常に指し示してきた約束だということを確かめていきましょう。この約束は、キリストにる和解と平和が神との関係や隣人との関係に留まらず、すべての民族に及ぶ、世界規模のものだということが、聖書に記されたことばによって明らかにされます。神様がお造りになって、とても良いと言われたこの世界に和解と平和を取り戻す約束なのです。
パウロは互いに受け入れ合うようにと命じた後で、8~12節で旧約聖書の4つの預言を引用しています。私たちの周りによくある対立や仲違いを乗り越えて一致を取り戻すという、とても個人的だったり、身の回りの小さな世界での問題を、神様の救いのご計画という大きな枠組みの中で捉えなおすことで、和解や一致の大切さや意味を確信させるためです。
4つの引用によって、イエス様が約束された祝福を確かにもたらす方であることをはっきり示そうとしています。
聖書を引用する前に、まずパウロはイエス様が「神の真理を表すために、割礼のある者たちのしもべとなりました」と言います。クリスマスをお祝いする元となった、イエス様の誕生は、割礼のある者たち、つまりユダヤ人の子孫として誕生し、ユダヤ社会の中で人々に仕えたことを表しています。約束のメシヤはアブラハムやダビデに約束された神の契約を実現する方であることをはっきり示すためです。
しかしこの契約はイスラエル民族だけに与えられたものではなく、すべての人々に向けられたものです。そのことを明らかにするために、聖書から3つの預言を引用しました。
わざわざ3つ引用しているのには理由があります。新約聖書がまだなかったパウロの時代に「聖書」と呼んでいるのは、私たちが「旧約聖書」と呼んでいる、創世記からマラキ書までの書物です。この聖書には3つの区分があり、それぞれ「律法、預言者、諸書」あるいは「モーセ、預言者、詩篇」というふうに呼ばれていました。パウロが引用している3つの預言は、その三つの区分それぞれから一つずつ選ばれています。9節は預言者の区分から2サムエル22;5。10節は律法にあたる申命記32:43。11節は諸書の区分から詩篇117:1が選ばれています。
内容は一貫して、すべての異邦人が主の民と共に、主をほめ讃えるというものです。つまり、神様は聖書全体を通じて、常に、イスラエルだけでなく、すべての民がともに主を称える者になるというビジョンを描いて来たということです。そのビジョンの実現のために登場することが約束されたのが12節のイザヤ11:10のメシヤ預言です。アドベントの時期によく読まれる、イエス様についての預言です。
ここでローマ教会の状況を思い出してみましょう。同じクリスチャンでありながら、ユダヤ人とローマ人のクリスチャンたちが習慣、文化の違いで仲違いしていました。よくあることです。けれども、そういうときこそ、キリストにあって和解し、一つになって共に主を賛美する兄弟姉妹となるのだ、ということが具体的に問われているのです。そこに神様の救いの力の本質が現れるのです。
3.喜びと平和の実現
最後の13節をもう一度読んでみましょう。「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」
パウロはこれまでの話しをまとめて祈りの言葉としました。私たちが信じる希望の神は、私たちを喜びと平安で満たしたいと願い、希望に溢れさせたいと願っておられますが、私たちはその喜びと平安を信仰によって受け取る必要があるし、聖霊の助けによって希望を持つことが必要です。
信仰によって受け取る必要があるとはこういうことではないでしょうか。ローマ教会のクリスチャンたちは、自分たちの間にある不和や意見の対立がキリストにあって和解し、解決でき、今は失われている喜びと平安を取り戻せるのだと信じる必要がありました。
それだけでなく彼らがやがて直面するクリスチャンに対する迫害のような厳しい状況に置かれても、なお喜びと平和が与えられるという約束は果たされると信じるかどうか試されることでしょう。ちょうどパウロの手紙や福音書が書かれた1世紀後半ころから、「ローマの平和」「パクス・ロマーナ」と呼ばれる時代に入っており、政治や治安が安定し、経済や文化が発展しました。辺境の守備が固められたために野蛮な異民族の侵入もなく交通や物資の交流も盛んになりました。そうした状況は福音がローマ帝国内に拡げられていくために役立ちました。しかし、その見かけの平和とは別に、クリスチャンに対する迫害がしばしば起こり、その頻度は次第に高まっていきました。紀元64年にローマで大きな火事があり、時の皇帝ネロは自分がわざと火災を引き起こしたという噂をもみ消すためにクリスチャンが犯人だと言い出し、ローマ市内のクリスチャンを捉え処刑しました。それからほどなく、最初に誕生した教会があったエルサレムは紀元70年にローマ帝国によって占領され、神殿も町も破壊されました。クリスチャンたちはそうした状況を目の前にしながら、なおも神の平和と喜びで満たされることを信じる必要がありました。
私たちが生きている今の世界はどうでしょうか。どちらかというと和解や平和、喜びとは真逆の方向に向かっているように見えます。いっとき戦争や紛争が終わったかに見えたのに、いつの間にか違う勢力の争いが生まれていたり、人々の暮らし向きが戦争前より悪くなっているということは少なくありません。
個人の行動、心もまた、平和を作るより、競争に勝つ者が成功者だというこの世の原理にいやがおうにも絡め取られていて、簡単には抜け出せません。仕事上の競争だけでなく、個人的な人間関係でもそうです。和解のような手間もエネルギーもかかることをするよりは、あっさり関係を切って新しい人間関係を築くほうがまだ楽だし、そもそも、そういう深い人間関係に拘わらないほうがいい思う人も少なくありません。
約束は信じてこそ力となります。私たちは神様の約束を信じる信仰とともに、聖霊の力をいただくことで、この希望を持ち続けられます。人間の罪が折り重なってこびりついたこの世界の闇は深く、癒しがたいのですが信仰と神の力はそれに勝ります。だからパウロは祈ったのです。人にはできなくても、神にはできるとパウロも信じていたのです。
適用:豊かな人生のために
さて、来週はいよいよクリスマス礼拝です。今年、クリスマスが近づくにつれて、様々な聖書箇所からイエス様がおいでになったことの意味合いを考えてきました。先週のメッセージでもそうでしたが、今年特に注目させられたのは、イエス様が王としておいでになったということです。
王様の最も大切な役割は民の幸福と、国の平和を守ることです。当然、救い主の約束を受け取ったイスラエルの子孫は、王として来られる救い主が、自分たちに喜びと平安をもたらしてくれるものだと期待しました。しかし、今日の箇所でパウロが指摘するように、聖書全体が指し示して来たことは、ユダヤ人だけでなく、すべての人のための王として来られるということです。
日本で一番イメージとして近いのは、殿様かもしれません。南部藩の殿様が、南部藩の人だけでなく、仲の悪い佐竹藩やライバルの伊達藩の人たちも救って守ってあげたら、前代未聞のことに違いありません。
イエス様は、約束されたとおりに、ユダヤ人として生まれ、ユダヤ人の間で生活し、人々に仕えましたが、救い主、また王として、人々の罪の贖いの代価となって十字架に掛かられたのは、あらゆる民族の、すべての人々の救いのためであり、誰もが豊かな人生を送り、この世界全体が贖われるためです。
そして、この人生の豊かさとは、聖書によれば、和解による平和と喜びに満たされていることです。神様はこの真理が私たちの個人的な人間関係や教会の交わりの中にまで染み渡ることを願っておられます。
経済的なゆとりや充実した仕事、子どもや孫の健やかな成長など、「これがあれば人生の豊かさを感じられる、幸せを感じられる」というものがありますが、たとえそれらが満たされたとしても夫婦の間に溝があったり、子どもや親とわかり合えずにいたり、親しい友だちだと思っていた人と嫌な別れ方をしたままでいたらどうでしょう。
ヨセフが兄弟たちを救った後で、本当に和解が得られるまでだいぶ時間がかかったように、パウロも似たような経験をしていたようです。いずれの場合も和解や関係の回復に至るまでには時間もかかりましたし、それぞれが主によって取り扱われ、成長する必要もありました。でも、出来たということが大事です。人間的には難しかったかもしれないし、問題がなかったようなフリをしたり、お互い深い関わりを避ける道もあったでしょうが、自分たちの幸いのためにも、神様の御わざがなされるためにも、回復は必要でした、
私も個人的にトゲがささったままのことがあります。家族でもないし、仕事で拘わることもないから、そういう人たちとの関係を回復できなくても特に困ることはないのですが、やはり気持ちは完全には晴れません。いつか和解が与えられることを願っています。
皆さんはいかがでしょうか。わかり合えずにいる関係、対立している関係はあるでしょうか。それが近い関係であればあるほど、心や生活に与える影響は深く大きくなります。そここそがイエス様による回復が与えられるべき最も大切な場所、そして回復されたときの喜びと平安は何にもまさるものなのだということを覚えて、信じて、ご一緒に回復を求めていきましょう。
祈り
「天の父なる神様。ひとり子イエス様をお遣わしくださり、人の子としてこの世界に誕生されたことを覚えるクリスマスの季節に、イエス様が私たちの世界と人間関係に和解による喜びと平安を与えるために来られたことを覚えて感謝します。
この世界にも、私たちの身近なところでも、またごくごく近しい関係の中でも、喜びと平安が失われたままになっていることがあります。どうぞ、そこにもイエス様による回復をもたらし、喜びと平安を取り戻させてください。
私たちはそうした課題に向き合うのに、とても勇気が必要なときがあります。うまく行かなかった場合のダメージを心配する不安な気持ちもあります。ですが、そこにこそ救いが必要な場所です。回復されたときの喜びは何にも代えがたいものに違いありません。どうぞ、信仰と増し加え、希望を持ち続ける力を与え、回復を求めていけますように助けてください。
主イエス様のお名前によって祈ります。」