2024年 12月 29日 礼拝 聖書:マタイ2:13-23
先週はクリスマス礼拝で、24日にはイブ礼拝を終えたところで、年末でもありますし、「一年が終わったあ」という感じがします。ですが、クリスマスはゴールではなくスタートです。当たり前のことですが、生まれたばかりの幼子イエス様の人としての歩みは始まったばかりです。
今日開いている箇所は、イエス様の誕生を祝うために東の国から訪ねて来た博士たちが帰った後の出来事をいくつかまとめています。その後3章では、いきなりイエス様が30代の頃までスキップしますので、この箇所は子供時代の貴重な記録でもあるわけです。ここから受け取る印象は、王様として生まれたはずの方にしては、ずいぶんと大変な目にあったのだなあということです。
世界を救う方、神の国の王として来られる方の子供時代のすごい奇跡とか、ただ者ではないことを予感させるエピソードではなく、逃げ回り、落ちのびた王というイメージが描かれているのはいったいどういうわけでしょうか。人を救う力はあるのでしょうか。
1.エジプト逃避行
今日の箇所では、東方の博士たちが去った後、イエス様の家族はエジプトへ避難し、最終的にはガリラヤ地方のナザレという小さな町に退くことになった様子が描かれています。
先日、永井創世主事がこの直前の箇所からイエス様が王として来られたのだということをお話してくださいました。東の国の博士たちが星を頼りにエルサレムの王宮までやって来て、そこで新しい王について訪ねたら、当時の支配者であったヘロデ大王だけでなく、街中が不安に駆られました。博士たちは、聖書の専門家たちの助けを借りてキリストが生まれるのはベツレヘムだという情報を得て、エルサレムから程近い町へ向かいます。その時も東の国で見た星が彼らを導き、幼子のいる家にたどりつくことができたという、不思議なエピソードが語られます。
博士たちがイエス様のもとを訪ねたのは、イエス様が生まれて直ぐということではなかったようです。いろいろなことを考え合わせると、すでに1歳近く、もしかしたら1歳を過ぎるまでベツレヘムに滞在していた可能性があります。
とにかく、博士たちの訪問を受け、彼らが帰っていったその日の夜、ヨセフの夢の中に御使いが表れました。これで二度目のことです。一度目は、身に覚えがないのに身籠もってしまったマリアを、彼女は聖霊によって身籠もったのだから恐れずに妻として迎え入れなさいと告げたときです。
そして今度は、ヘロデが幼子のいのちを狙っているから、戻って良いと言うまでエジプトに避難しなさいと言うのです。
というのも、ヘロデ大王は「新しい王が生まれた」という知らせ聞いた時から、幼子のいのちを抹殺することを決めていて、「後で私も拝みに行く」と嘘をついて、博士たちから場所を聞き出すつもりでした。ところが博士たちがエルサレムに寄らず、まっすぐ帰国したので、そのことが伝われば、すぐにでもヘロデは行動を起こしますから、急いで逃げる必要があったのです。
目を覚ましたヨセフはそのままマリアを起こし、夜のうちに荷物をまとめてエジプトへと旅立ちました。
しばらくして博士たちに裏切られたことを知ったヘロデ大王は怒り狂って、ベツレヘムとその周辺で生まれた2歳以下の男の子を皆殺しにさせました。もしかしたら誰も逃がさないよう、一日で次々とやったのかも知れません。ベツレヘムとその周辺の村々のあちこちの家では悲鳴と嘆きがあふれていたに違いありません。
それからしばらくしてヘロデ大王が死んだことが御使いによってヨセフに知らされました。それでイスラエルの地に戻ろうとしたのですが、ベツレヘムのあるユダヤの地を受け継いで統治しているのがヘロデの息子、アルケラオだと知ると、ヨセフは不安になりました。息子も父親に負けず劣らず残酷な人物であることで有名だったからです。御使いも警告しました。
それでヨセフはずっと北の方のガリラヤ地方にあるナザレという町に退いたのです。マタイはまったく書いていませんが、ナザレはヨセフとマリアがもともと住んでいた町ですから、出産を終えて帰る場所としては当たり前の場所です。しかしマタイはあえて「退いた」と書いて、王として産まれた方が、田舎のナザレに退かざるを得なかったことを強調しているようです。
2.3つの「成就」
すでに皆さんもお気づきのことと思いますが、マタイはイエス様の幼少期の出来事を記すにあたって、これらの出来事が預言者たちによって語られたことが成就したのだと繰り返しています。
15節ではホセア書から引用しています。18節はエレミヤ書からの引用になります。そして23節でははっきり引用箇所が分からない言葉が上げられています。それぞれの言葉について「成就した」「成就するためであった」と繰り返すのです。
15節と18節で引用されているホセアとエレミヤの預言は、実は、どちらもメシアがエジプトに下ることやベツレヘムで幼子たちが殺されてしまうことを預言したものではありません。マタイは、これらの引用を通して「イエス様の身の上に、イスラエルが辿って来たことと同じことが起こっている」と言いたいのです。
15節のホセアの預言は、エジプトで奴隷となっていたイスラエルを神様が救い出し、ご自分の民としたのに、最初っからイスラエルは神様に対して反抗的だったことを非難する内容ですが、マタイが注目しているのは、イスラエルがエジプトでの苦難を経て神様に呼び出されて神の民とされていったことです。そのことと幼子イエス様も苦難の中でエジプトにくだり、そこからまた呼び出されたことを重ね合わせているのです。そしてホセアは彼の預言書全体を通して神に背を向けてばかりいるイスラエルであっても、神様は彼らを愛するゆえに憐れんで回復を与えると約束します。その約束がイエス様によって今果たされようとしていると言いたいのです。
さらに18節のエレミヤの預言は、イスラエルの民がバビロンに捕囚として連れていかれることを嘆いているものです。ラマという町にはヤコブの妻ラケルの墓がありました。バビロン捕囚の時にはラマが捕囚の中継点として使われました。人々はラマに集められ、そこからバビロンへと移送されたのです。ラケルがいのちがけで産んだ子供たちの子孫が、ラケルの墓があるところから捕囚へと連れ出される、そんな皮肉な悲劇を嘆いているのです。
ただ、この預言の続きには、彼らの子孫がやがてこの地に帰ってくるという希望が記されています。実際、イエス様の時代のユダヤ人たちはバビロン捕囚という歴史的な悲劇を生き延びた人たちの子孫なわけです。マタイは横暴なヘロデによってベツレヘムの幼子たちが皆殺しにされるという恐ろしい出来事を、かつて侵略者であるバビロンによって民が連れ去られた悲劇に重ね合わせながら、それでもやがてキリストによる救いがもたらされるという希望につながることを言おうとしているのだと思われます。エジプトに避難した救い主は再び戻って来てその務めを果たしてくださるのです。
ですから、ここでマタイが「預言の成就」と言っているのは、ベツレヘムの悲劇も神が計画したということではありません。イエス様がイスラエルの民がたどってきた辛い歩みを追体験している様子を示しています。イエス様はただ神が人間の姿をとって来られただけでなく、人々が歩んで来た厳しい道のりを共にする方であることを示しているようです。そして預言者たちが人々を非難したり、その運命を嘆きながらも絶えず、その先にある希望―キリストにある慰め、赦しと回復を約束してきたとおりに、エジプトに逃れ、大虐殺という災難を生き延びたこの幼子が、人々に救いをもたらす方として来られたことを示そうとしているのです。
3.拒絶され見下された王
では、23節の「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであったとはどういうことでしょうか。
これまで見てきたように、ヘロデ大王の死を知ったヨセフは幼子のイエス様とマリアを連れてエジプトを出発し、イスラエルの地に入り、最終的には23節にあるように「ナザレという町に行って住」みました。少しクリスマスについての聖書箇所を聞いたり読んだことがある人は、ヨセフとマリアがもともとナザレの町の出身であると聞いた覚えがあるのではないでしょうか。ところがマタイは、ガリラヤ地方に戻ったとか、ナザレの町に帰ったとは書かずに、先ほど触れたように、ガリラヤ地方に「退いた」、ナザレという町に「行って住んだ」とわざわざ書いているのです。「退いた」とは「撤退した」とも訳せる言葉です。どういうことでしょうか。
実は、これまでのところ、マタイはイエス様の両親がナザレ出身というふうには一切記していません。
1章でアブラハムから王であるダビデの系図、そして王ダビデから、新しい王として来られたイエス様までの系図を記しています。1:20で御使いはヨセフにわざわざ「ダビデの子ヨセフ」と、ダビデ王家の血筋であることを思い出させ、生まれて来る子が約束されたメシアであり、救い主であることを告げます。
そして2章では新しい王が生まれたことを知った博士たちがエルサレムを訪ねます。イエス様が生まれたのはベツレヘムですが、この町はダビデ王の故郷で「ダビデの町」と呼ばれており、キリストはダビデの町で生まれるとされていました。そして、博士たちは王の誕生に相応しい贈りものとして黄金、乳香、没薬を贈ります。家畜小屋で生まれたことはあえて省略しています。
つまり、マタイはずっとイエス様が約束された王であるキリストとして生まれたことを描いているわけです。
ところが、約束され、人々が待ち望んだ王として来られたのに、イエス様は人々の大歓声とともに煌びやかな王宮に喜んで迎えられませんでした。その誕生の知らせは人々から不安と恐れをもって受け止められ、権力者によってイエス様は命を狙われ、逃げるようにしてエジプトに降りましたが、イエス様の誕生のせいでベツレヘムでは悲劇が起こりました。しばらくたってせっかく戻って来たと思ったのに、王がいるべきところからは撤退して、田舎の何もない町ナザレで避難生活をしなければなりませんでした。しかも、この間、当たり前ですが、幼子であるイエス様はまったく無力で、両親の判断、行動に任せるしかありません。
「彼はナザレ人と呼ばれる」という言い方には、相当見くだし、侮辱し、馬鹿にする意味が込められています。ヨハネの福音書には後に弟子となるナタナエルが、イエス様はナザレの人だと聞いたとき「ナザレからか良いものが出るだろうか」と反論した様子が書かれています。実は旧約聖書のどこを探しても「彼はナザレ人と呼ばれる」という預言の言葉そのものは見つかりません。その代わり、このキリストが、人々から拒絶され、蔑まれることを預言者たちが告げていました。マタイはイエス様がナザレ人と見くだすような呼び方をされているのを知っていました。ですからイエス様は預言者達が告げたように、王である方が人々から拒絶され、見くだされたと記しているのです。
適用:共に生きてくださる方
約束の王としてお生まれになったはずなのに、拒絶され、逃げ回り、出身地のことで馬鹿にされるような方は果たして私たちを救うことができるのでしょうか。
マタイは、むしろ、そのような拒絶、避難生活、さげすみが、約束された王、救い主であることのしるしであり、そのような方だからこそ私たちの救い主であることができるのだと教えています。
救い主が拒絶され、蔑まれることを預言したものの中で最も有名で重要なのはイザヤ53章です。「苦難のしもべ」と呼ばれるこの預言の中にこんな言葉があります。ご存じの方も多いでしょう。
「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で、病を知っていた。
人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。
それなのに、私たちは思った。
神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」
そして新約のピリピ2:6ではこれらのことを当時教会で用いられていた歌の詩を引用してまとめています。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。」
イエス様は私たちの救い主となるために、徹底してへりくだり、私たちが味わうような痛み、病、悩み、苦しみ、さげすみまでをその身に背負い、私たちと共に生きる者となってくださったのです!イエス様は人間の王様のように高い所から庶民を見おろして助けるのではなく、人間の間に住まわれ、人間の味わう苦しみや悩みを分かってくださり、人間の罪がもたらす痛みを知った上で、十字架でいのちを献げることで私たち一人ひとりの罪のつぐないしてくださいました。
もちろんイエス様がその生涯の中で経験したことは、現代の私たちの経験とは違いますから、ネット依存とか、オレオレ詐欺とか、闇バイトのような現代的な問題は経験しなかったでしょうし、認知症のように高齢化社会で明らかになったような病気も当時は認識されていなかったことでしょう。もっと言うなら結婚問題や子育ての悩みを直接は経験していません。それでも人のうちにある罪が、あらゆる悩みや痛みを引き起こすのをご覧になり、またその圧倒的な負のエネルギーをあの十字架の上で一身に背負いました。人の罪や傷が何をもたらすかはよく分かってくださいます。人から馬鹿にされたり見くだされることがどういうことかも知っていてくださいます。そんなイエス様が私たちの王であり、救い主となってくださいました。イエス様は悩み多い私たちと共に歩んでくださる方です。このイエス様にすべてをお任せして、共に歩んで行くと心を定めましょう。
祈り
「天の父なる神様。
私たちの王、救い主としてお生まれになったイエス様の幼子時代の出来事を通して、イエス様は神としてのあり方を捨てる事は出来ないとは考えず、徹底してへりくだり、無力なお姿で人の罪が引き起こす苦しみや悲しみのまっただ中に生きてくださったことをあらためて覚えることができました。
私たちの王であり救い主であるイエス様が、私たちと共に生きてくださる方であることを感謝します。すべての罪とすべての悲しみと苦しみをその身に背負って十字架で死なれ、よみがえってくださったイエス様だから私たちの弱さや罪を知り、また赦し、生かすことができます。どうぞ、私たち一人ひとりが、イエス様にすべてをお任せし、信頼して共に歩んで行こうと心を定めることができますように。
この一年、喜びの日も悲しみの日も共にいてくださったように、新しい一年もあなたと共に歩ませてください。
主イエス・キリストのお名前によって祈ります。」