2025-01-12 すべての祝福がここに

2025年 1月 12日 礼拝 聖書:エペソ1:15-23

 私はいろいろなことに興味をもってわりと直ぐ手を出してしまいます。好奇心旺盛と言えば良く聞こえますが、飽きっぽさもあるので、何かを極めるということはほとんどありません。

もっと続けていたら、もっとすごいこと、もっと素晴らしい世界が見られたかもしれませんが、ある程度出来るようになったり、一通り経験したら満足してしまうので、残念ながら多くのことが、気ままな趣味のレベルで留まっています。生き抜きのためにやっていることなので、それくらいで良いのだと思っています。

しかし私たちの人生や、次の世代に受け継がれていくようなことがかかっている場合には、そんなふうに適当に済ませるわけにはいきません。

先週に引き続きエペソ書の導入部分を開いていますが、今日の箇所でパウロは祈りを捧げています。時々、祈りながら説教になってしまう牧師がいますが、ちょっとそんな感じもする祈りです。パウロは、教会はもっと凄いはずだということを祈り、語っています。

1.パウロの感謝

まず15~16節で、パウロはエペソ教会についての感謝を述べています。

パウロは、エペソ教会の様子を聞くにつけ、祈りの中で心からの感謝をささげていました。エペソ教会に見られる信仰と愛は、神様の偉大な救いのご計画と愛に対する応答であることが明らかだったからです。

先週もお話したように、エペソ教会はローマ帝国のアジア属州地域での宣教拠点となっていました。今日、日本全体や世界に影響をもたらすような教会は、たいがい、立派な教会堂を構え、いかにも「センター的」な教会の様子をしています。しかし、新約聖書の時代、教会は自前の会堂を持つことはありませんでした。大規模な拠点となるようなビルを構えていたわけではく、他の町の教会同様、エペソ市内のあちこちの家の教会がひとつのネットワークを形作り、教会と呼ばれていたわけです。そのようなかたちの教会がどうやって世界宣教の拠点になり得るのか、すぐには思いうかべられないかもしれません。

昨年、ある中国人のクリスチャンと知り合いになりました。日本の企業に勤めていたこともあってとても日本語が堪能で、気さくな方でした。クリスチャンになって10年くらいしか経っていませんが、中国の上海で家の教会を指導していますが、牧師という立場ではありません。ご存じのとおり、中国では宗教の自由がかなり制限されています。政府に公認された教会は自前の会堂を持つことが出来ていますが、その代わり、絶えず政府の影響下にあります。それに対して、地下教会とも呼ばれる家の教会は、初代教会のように会堂を持たず、何人かのリーダーたちの家に集まって礼拝をささげ、みことばを学び、交わりをもっています。詳しい数字は忘れましたが、何十という家の教会に数千人のクリスチャンが属しています。そして上海だけでなく他の地域にも影響を及ぼしていますし、仙台の神学校も彼の助けを得て多くのことを学び、日本にもよい影響を与えています。

そういう意味では、エペソ教会はすでに素晴らしい働きをしている教会でした。彼らは神様がご計画なさった救いを信仰によって受け取っただけでなく、そのご計画に秘められていた教会を理解し、福音を世界にもたらす教会の役割をしっかりと受け止めていました。そして愛のゆえに私たちを救いへと召してくださった神様に対する応答として、神を愛し、人を愛するということを実践していました。それはパウロにとってはとても嬉しいことでした。

使徒の働き20:17を開いてみましょう。これはパウロがエペソのリーダーたちと直接会った最後の機会でした。その時に語った言葉が記されていますが、27節でこう語っています。「私は神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせたからです。」そして「あなたがたは自分自身と群の全体に気を配りなさい」と励ましていますが、その後聞いたエペソ教会の様子から、彼らがパウロの勧めをしっかりと受け止めていたことが証明されたわけです。どれほど嬉しかったでしょうか。

しかし、パウロは「まだまだこんなものじゃない。神様のご計画の素晴らしさ、その恵みの豊かさはもっとスゴイことをぜひ知って欲しい」と続く祈りを捧げています。

2.3つの願い

次に、祈りの内容を詳しくみていきましょう。

パウロは17節でこう祈り始めます。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」

聖霊はすべて、イエス様を信じるクリスチャンの心のうちに住まわれますから、ここで祈っているのは、神を知るための知恵や気づきを与える聖霊の働きが豊かに与えられるように、という意味です。

そして、聖霊によって気付きが与えられることによって、心の目がはっきりと開かれ、見えるようになることで、3つのことを知ることが出来るようにと祈ります。

まず私たちの希望についてはっきりした理解を持つことです。18節の中程に「神の召しにより与えられる望みがどのようなものか」とあります。

次にその希望の素晴らしさについて気付くことです。18節の続きに「聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか」とあります。

そして3つめに救いの希望をいただいた私たちに与えられる力を知ることです。19節「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるか」。

端的に言うとキリストによる救いがもたらす希望、栄光、力を知ることができるようにとパウロは祈っています。エペソのクリスチャンたちが知っている以上の素晴らしさがあることに目が開かれることをパウロは願いました。

キリストによる救いは私たちの罪を赦すだけでなく、傷のないものとし、イエス様の素晴らしさを表す者になるまで造りかえてくださいます。私たちが受け継ぐことになる御国は、神様の祝福と恵みがあふれ、キリストにあってすべてのものが一つとされ、一致と平和に満たされた、何にもまさる素晴らしさがあります。そして御国を完全に受け継ぐまで私たちのうちに働く聖霊は、約束の証印として決して見離さず、どんな時でも私たちの助けとなります。

私たちも、キリストの救いがもたらす希望について、その素晴らしさについて、また神様が与えてくださる力について、知ってはいるはずです。しかし、救いの望み、栄光、力は私たちが知っているより遙かにすぐれたもの、確かなもの、揺るぎないものです。そうは思えないことがあるのが私たち人間ですが、だからこそパウロは、知恵と啓示の御霊によって、私たちの心の目がはっきり見えるようになるようにと祈ったのではないでしょうか。

あるとき、高名な脳外科医のドキュメンタリー番組をテレビで見ていました。そのドクターは、非常に難しい繊細な手術の際に、並の外科医なら見逃してしまうような成功へのルートを見出して手際よく手術を成功させていました。私たちが及びもつかないような勉強と経験、練習、たゆまぬ努力によって身につけた目と技術によって、ほかの人には見えていないものを見ているわけです。

イエス様の救いの希望、栄光、力には私たちにはまだ見えていない素晴らしさがあるのですが、脳外科医のテクニックとは違って、聖霊の助けによって目が開かれ、気づきが与えられるときにはっきりと分かるようになるものだと聖書は私たちに語っています。

3.キリストのからだ

最後に、パウロは20節以下で、私たちのうちに働く神の力について詳しく記しています。このあたりが祈りがいつの間にか説教になってしまっているところですが、この説明によって、私たちは信じる者、つまりクリスチャンのうちに働き神の力がどんなものかを知ることができます。そして神がキリストのうちに働かせた力を私たちのうちに、つまり個人として私たちだけでなく、教会としての私たちのうちに働かせることの意味を説き明かします。

この箇所、17節からの祈りの箇所を読む時に気をつけなければならないのは、私たちの現状や教会の実情と比較する前に、まずは聖書が語っている大きな絵をしっかりと見ることです。神様が私たちクリスチャン個人個人や教会に与えようとしているものが何であるかをまずよく理解することが大事です。

神様がクリスチャンのうちに働かせる力がどのようなものかは、イエス様の身におこったことによって知ることができます。神様は、その力によってイエス様を死者の中からよみがえられ、すべての権威にまさる権威をお与えになりました。神様は、イエス様をよみがえらせた力を、すべてのクリスチャンのうちに働かせるというのです。

ただ、それは私たちが肉体の死から解放されるというよりも、1:4にあったように、罪ある私たちを聖なる、傷のないものとして造りかえるために働かせてくださいます。具体的には、私たちが罪の力、支配から新しい生き方へと日々造りかえられて行く働きです。刀鍛冶が堅くしなやかで美しい姿になるまで鉄を叩き、何度も何度も修正し続けるように、神様はその御力を忍耐強く働かせ続けて私たちを少しずつ造りかえてくださいます。

そしてこの力は、個々人のクリスチャンのうちだけでなく、教会に与えられているというのです。22節にあるように、すべての上に立つ権威をお受けになったキリストを教会のかしらとして与えてくださったのです。それゆえ、教会は23節にあるように「キリストのからだ」と呼ばれます。イエス様が人として歩まれた30数年は、ナザレ人イエスとして歩まれましたが、天に上げられた今、この地上でイエス様の姿を見る事ができるとしたら、それは教会を通してということです。教会は、すべてのものをすべてのもので満たす方、すなわちイエス・キリストが満ちておられるところでとパウロは、聖書は私たちに語ります。

しばしば、私たちは神様の救いの力というものを、個人にか、それとも教会にかと分けて考えてしまっていることがあります。教会に元気がないようなときには救いの力をとても個人的なことに限定して考えがちですし、逆に自分が弱っているときは、神の力は教会には働いたとしても自分には働いていないように思えたりします。

ですが、神様がイエス様のうちに働かせて死者の中からよみがえらせた力を私たちに働かせると言う場合、クリスチャン個人とクリスチャンの共同体としての教会に区別はありません。個々人は輝いているけど教会は元気がないとか、教会という組織は元気なのにメンバーである一人ひとりがどんよりしている、というのは、イエス様が思い描いた教会の健全な姿ではありません。クリスチャンがイエス様のいのちによって輝き、その交わりである教会が生き生きしているとき、教会がキリストに満ちていることがよく表れます。

適用:可能性を信じて

さて、いよいよ私たちはこの祈りを通して示された、神様が私たちに与えようとしているものと、実際の私たちが受け取っているものとを比較し、そこから何を適用とすべきか聖霊の助けによって考える時が来ました。

神様が私たちに与えようとしている、希望、栄光、力は私たちのものとなっているでしょうか。パウロが祈っている内容の意味合いをまとめてみると、すべての祝福がここにある、つまり私たち自身と私たちの交わりである教会のうちにある、ということです。

イエス様のいのちによって私たちの心、生活が新たにされ、傷のないものとなっていき、やがてキリストにあってすべてが一つとされるという希望を、現実的な希望として、また確かにそこに向かっていることとして個人の心や生活、また教会の交わりの中で感じられているでしょうか。おそらくそこが「その通りだ」という人と「現実は厳しい」という人とに別れるところではないかと思います。

信仰の歩みに迷いや停滞があるとき、また教会の先行きが心配なときには、それらの点についてなかなか確信を持って「もっとすごいはずだ」「こんなものではないはずだ」とはなかなか言い切れないものです。実際、日本の諸教会のうち、少なくない教会が存続の危機にあり、近くの教会と一緒になるか、それとも閉鎖するか決断を迫られていると言います。そんな状況の人たちに、キリストの救いの希望や栄光、力といった話しをしたら「そうは言っても現実は厳しい」という言葉が返ってくるのではないでしょうか。

私たちの教会だっていろいろ課題のほうが目立つように感じられます。私の心をいつも占めているのは、次の世代に何を遺せるだろうかということです。先日、ある教会の牧師と話しました。いくつも開拓伝道をして、あちこちに教会を建てて来た先生ですが、自分の年齢的なことも考えて、やはり次の世代に何を遺せるか、そのための準備をどうしようかと考えておられる様子でした。果たして良いものをたくさん遺してあげられるのか、それとも抱えきれない重荷を負わせてしまうことにはならないだろうかと、正直不安に襲われることがあります。

それでも、私はすべての祝福がここにあるという聖書の言葉を信じていたいと思うのです。

イエス様はたとえ二人でも三人でも「わたしの名によって集まるなら、わたしもそこにいる」と言われました。集まりの大きさは関係なく、そこにクリスチャンの交わりがあるなら、キリストにあって与えられる和解、一致、励まし合い、助け合い、慰め合いといった祝福を見出すことができます。

また教会を一つ一つばらばらなものとして考えるととても孤独になりますが、私たちは教会同士の交わりの中にあります。そこにも励まし合い、慰めと喜びがあります。聖書が言う教会というのは、顔と顔を合わせる生きた交わりであるだけでなく、そうした小さな教会同士がともに結び合わされた交わりをも含めているのです。

ですから、いろいろと現実的に考えたり備えたりする必要はもちろんあるのですが、それ以上に、難しさや問題を数え上げる以上に、神様にある可能性の大きさを数える者でありたいと思います。教会のうちにある神の祝福の素晴らしさと可能性を信じましょう。

祈り

「天の父なる神様。

イエス様を通して与えられた救いがもたらす希望、その素晴らしさ、そして私たちの内に働く力がどれほど素晴らしいものでるかに、目を開かせてください。

私の心と生活の中にだけでなく、教会の交わりと歩みの中にもたらされるイエス様のいのち、神様の御力が、どれほどのものか教えてください。私たちが想像するより、ずっと素晴らしいことをなし得る神様の力を信じることができますように。教会の可能性を信じることができますように。

具体的な様々な必要や難しい課題もあることを私たちは知っていますが、登り切る力を与えてください。乗り越える力を与えてください。そうして私たちがキリストのからだとして、イエス様を通して与えられる祝福の素晴らしさを周りの人々に表すことができるように導き、助けてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。」

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