2025-02-02 ともに築き上げられる

2025年 2月 2日 礼拝 聖書:エペソ2:11-22

 「根無し草」とは、もともとは浮き草のように、根が地中に下りていない草のことだそうですが、一般的な使い方としては、住所や職業、また考え方の土台に定まった所がないような生き方をしている人を喩えて言うことが殆どです。

イエス・キリストを信じて、その信仰の告白としてバプテスマを受けた人は教会に加えられますが、時折、そうやって加えられた教会と深い関わりを持たずに歩もうとするクリスチャンがいます。いろいろな事情がありますから、一概には言えませんが、かなり多くの場合、そうした生き方は根無し草のようになってしまいます。植物としての根無し草はそういう習性の生物ですからそれで健康なのですが、信仰の根無し草は、クリスチャンの本来のあり方ではないので、弱く、不健全になりがちです。

今日は、エペソ書の続きの箇所から、私たちが根を張るべき場所としての教会について学んでいきましょう。

1.新しい共同体

まず教会という新しい共同体が何であるかについて聖書を調べてみましょう。

11節から19節にかけて、私たちがかつては「異邦人」と呼ばれて、キリストからも、神の民からも、祝福の約束からも除外されていたけれど、今はキリストによって神の民と同じ民とされ、神の家族とされているということが教えられています。つまり以前は「異邦人」として括られるグループに属していたけれど、今は「神の民」「神の家族」という新しいグループに属しているということです。

自分が何に属する者であるか、ということを現代の用語で言うと「アイデンティティ」ということになります。「私は日本人である」とか「私は北上市民である」とか「○○学校の同窓生だ」とか「○○家の人間である」「○○会社の社員だ」といったことが、自分は何者であるかを表します。子どもや中高生なら、自分が属している部活や友だちのグループといったことも含まれます。

自分が何に属しているかがはっきり分からないと人間はとても不安になり、自分がとても不確かなものに感じられます。だから、いじめは人間の根源的な弱点を突く、とても残酷な仕打ちです。

そして、私たちが属しているグループ、人々の集まりやつながりを「共同体」と言いますが、アイデンティティにおいて最も重要な共同体は、国や民族と家族です。日本人であるとか日本国民であるということと、暮らしを共にしている家族が、私たちのアイデンティティのもっとも基本となる場所です。エペソのクリスチャンたちも、以前はローマ人であり、またエペソの住民であり、それぞれの属する家があったわけです。

しかし、こと神の祝福と永遠のいのちに関わることという面から見ると、全くの「異邦人」「よそ者」でした。ところが、イエス様の十字架がすべてをひっくり返し、イエス様を信じる者は誰もが、新しい神の民、神の国の国民、約束の民とされ、また新しい家族、神の家族の一員とされたのだと聖書は教えます。

エペソのクリスチャンたちは、それまでエペソの住民として当たり前にやっていたアルテミス神殿の女神崇拝や流行中の魔術ときっぱり縁を切り、ある種、共同体から浮いた存在、はみ出した存在になってしまいました。それはアイデンティティが揺らぐ事態、自分は何者か、自分が属するのはどこかが揺らぐ状況です。それは皆さんも経験があるかもしれません。

この、神の民、神の家族という新しい共同体は、私が何者であるか、とうことについて、この世の民族や家族を超える揺るぎない土台を私たちに与えてくれます。その揺るぎない土台があるおかげで、民族や地域社会のなかで多少他の人と違っていても、恐れることなく共同体の一員として過ごすことができます。またエペソの町では迫害があり、共同体からのけ者にされるということが実際にあったわけですが、それでも神の御国の民であり、神の家族の一員であるという事実が人々の支えとなり、励ましとなったのです。

同じようにピリピ教会への手紙の中で、十字架の敵として歩んでいる人たちの反対や生き方の違いに対して「私たちの国籍は天にあります」とパウロは書いています。私たちは御国の民であり、神の家族とされた者なのです。

2.キリストにあって一つ

第2に、神の民、神の家族とされた私たちは、キリストにあって一つにされている、という意味を確かめましょう。

エペソの人々を初め、私たちも含めて「異邦人」と呼ばれ、神の民や約束から除外されていたのは、ユダヤ人に与えられた律法や割礼などの儀式の存在でした。それがあるかないかが、ユダヤ人にとってはとても大きな問題でした。それは目では直接見えない土地の境界のような分かりにくいものではなく、コンクリート製の高くて分厚い壁のように、こっちと向こうをはっきり分けるものでした。享楽的な女神信仰の生き方より、ただお一人の聖なる神を信じる人たちの生き方に感心し、聖書の教えに惹かれて学び始めても、この律法と割礼という高い壁は近づく者を跳ね返すようでした。

この分断は敵意を生み出します。今日も、世界のあちこちで分断が起こり、同じ国、同じ民族の中でも、政治的な主張や社会のあり方についての考え方の違いで分断が生まれ、違いを尊重するというより、互いに敵対し合う方へと向かっています。

「異邦人は受け入れられない」「ユダヤ人のようにはなれない」というどうにもならない分断を、イエス様が十字架によってひっくり返したわけですが、その目的は単に互いを尊重して、平和に棲み分けるというようなことではなく、分断していた人々をキリストにあって結び合わせ、まるで一人の人間のように統合されたものとし、神との間にも、互いの間にも平和を実現するため。そしてまだ遠くにいる人たちにもこの良い知らせをもたらして平和を与えるためでした。

神の救いのご計画から私たちを遠ざけていた律法と割礼という最大の隔ての壁を取り除いてくださったのが、まだ福音を知らない人たちを含めて、私たちを神の民、神の家族として一つにし、平和を実現するためだとするなら何が云えるでしょうか。

私たち人間社会の中にあるあらゆる隔ての壁、敵意をキリストにあって捨てるということが求められているのではないでしょうか。

今日、様々なことが対立の原因となり、単に意見が違うね、で終わらずに激しい争いにまで発展する様子が見られます。夫婦別姓、家族のあり方、LGBTQ、環境問題、平和主義と軍事力、移民を受け入れるべきか、社会保障は高齢者を向くべきか若者に目を向けるべきかなどなど、迂闊に話題にしてしまうと、思わぬ炎上をしてしまいます。その議論にキリスト教の道徳観や倫理観も交えて話し始めると、お互いにこっちが正論だとばかりに、激しいやりとりになることもあるようです。SNSでそういう議論が始まると、収拾がつかなくなるのを見て、うんざりして、そういう場からは離れてしまいます。

けれど、教会のこれまでの歩みを振り返ってみても、度々、お互いの主張が噛み合わなかったり、ゆずれなくて、決裂するというようなことがあったと思います。過去は変えられませんが、私たちはそうした苦い経験から何を学ぶことができるでしょうか。

「私たちとあの人たちとは違う」と考えて来た、その隔ての壁は、キリストが一つにしようとされたことを否定するほどに根拠があることなのかと考えるべきかもしれません。それほどに、キリストにあって一つとされたということは重要なことです。神の救いのご計画の目的に関わることを軽く見てはいけないはずです。

3.ともに築き上げられる

第三に、神の民、神の家族とされ、一つになるよう召された私たちは、共に築き上げられるというプロセスを通ることになります。

20~22節には、土台、要の石、成長する建物、聖なる宮、といった比喩を用いて教会の成長が描かれています。成長する建物といっても、ハウルの動く城のような、魔法の建物を想像する必要はありません。ただ、建設途中の建物を想像すれば良いのです。

教会の土台は、使徒たちや預言者を通して語られた神のことばです。そして、要の石はイエス・キリストです。要の石が当時の建築技術の中でどの部分のことを言っているかについてはいくつか解釈がありますが、要点ははっきりしています。土台から建物までの全体の構造を支えるために置かれたのが「要の石」です。聖書には様々なことが教えられていますが、それらの教えや原則がばらばらなものではなく、一つにまとめ強い構造を持たせるのがイエス様です。中心であるイエス様を無視した教えはバラバラになり、再び分断を引き起こすことでしょう。そしてそれぞれの主張が聖書を引き合いにするので、その対立はより深刻になり得ます。

神様のご計画は、キリストを要の石とし、使徒たちを通して明らかにされた神のご計画、つまり今私たちが手にしている聖書を土台として教会が建て上げられていくことです。

教会が建て上げられていくというのは、教会に連なる人々が組みあわされて成長することです。家やビルを建てているプロセスを想像してみましょう。最初は土台だけが目に見えて、そこに様々な材料が運び込まれます。それら一つ一つの材料が少しずつ組み合わされていき、次第に家の形が見えてきます。このこの建物は「主にある聖なる宮」ということですから、単に実用的なだけでなく美しさと神様の栄光を現す姿でなければなりません。

そんなふうに教会が、つまり、そこに連なる人々が結び合わされ、共に成長していき、美しく、神の栄光を現す姿になっていくのです。それは荘厳で立派な会堂を持つということではなく、教会という新しい共同体の交わり自体の美しさであり、麗しさであり、神を第一とすることで神の栄光を現す交わりです。

教会の成長には、新しい人が加えられていくという数の上での成長や、新しい場所に教会が生み出されていくという拡がりという意味での成長もあります。しかし、キリストと使徒たちの上に建て上げられていく教会、というたとえで表される教会の成長は、クリスチャンの交わり自体の成長のことを言っているのです。エペソ書の後半、4章以降では、この交わりの成長についての教えが記されていますが、それは後でまた見ていきます。

ともかく、イエス様を救い主と信じて神の民、神の家族の一員とされた私たちは、イエス・キリストによって結び合わされ、ともに築き上げられて行く教会の一員とされたのです。

そして、あらためて今日の箇所の最初の言葉に戻りますが、11節は「ですから、思い出してください」という言葉で始まります。その直前で言われていたことは、キリストにあって救われ新しいいのちを与えられた私たちには、良い行いに歩むようにと、その良い行いを備えてくださったということが教えられていました。その良い行いは、神の家族としての教会の交わりをともに築き上げることと大いに関わっていることがわかります。

適用:交わりを育てる

神の家族としての教会の交わりをともに築き上げるという新しい使命は、一緒に交わりを育てていくというふうに言い換えることができるでしょう。神様は私たちが信仰の根無し草にならず、根を張る場所として教会に属することを願っておられます。しかしそれ以上に、私たちが属する教会の交わりをともに育てることに仕えるようにと招いてくださっているのです。

使徒パウロが神様から教えられた教会の交わりを育てるということが具体的に何を意味するかは、先ほども言ったように4章以降で教えられるのですが、もしかすると皆さんが想像していることとちょっと違っているかも知れません。

それは改めて学ぶとして、今日の箇所から、交わりを育てるために何をすべきか一つあげるとするなら、私たちのうちにある隔ての壁を取り除くということではないでしょうか。

私たちの教会にはユダヤ人と異邦人の間にあったのと同じ意味での隔ての壁はないかも知れませんが、どんな時代のどんな教会にも、ある種の壁が存在し得ます。戦後の日本に多くの宣教師を送り出したアメリカでも、長い間教会の中に白人と黒人という人種の壁が厳然とありました。日本ではそういう差別ははっきりとした形では表れませんでしたが、考え方の違いで教会や教会グループが何度も分裂する歴史を繰り返して来た、愚かしい面があります。

キリストにあって一つとされたとは言っても、もともとが、違う環境に生まれ、違った生育歴があり、違ったことを経験し学んで来たのですから、当然考え方だったり習慣、価値観が違うのは当たり前のことです。それを「違うのは当然だよね」と認め合えたら何事もなく過ごせるのですが、神の家族として交わりを保ち、様々なことを一緒に考え、一緒に判断し、一緒に行っていこうとすると、やはりそうした違いがぶつかってしまうことがあります。

新しい人が教会を訪ねて来たとき、大抵は歓迎したり、温かく迎えるのですが、例えば服装や振る舞いに違和感を感じ、警戒してしまうことがあると思います。それくらいはしかたがないかも知れませんが、相手のことをよく知りもしないうちに「あの人はなんだか違う」と決めつけ、距離を置いてしまうことがあります。

私は、押しの強い人がとても苦手なので、お店に入ってもできるだけ店員と会わないようにしたいタイプなのですが、初めて会うのにぐいぐい来る人には本能的に警戒心を抱いてしまいます。でも牧師だからと自分に言いきかせて相手に合わせて会話をしようとしますが、だいたいそういう日は一日の終わりにぐったりしています。

そんなふうに私たちの中に、他者を否定したり遠ざける内なる壁があることをまずは自覚し、内なる壁を取り除くためにイエス様の助けを求めましょう。それは簡単にはなくならないかも知れませんが、無自覚に他人を否定したり遠ざけるより、そうしてしまいがちな自分を自覚して、自らを戒めたり、寛容であろうと心がけたりするほうがずっと良いです。失敗するかも知れませんが、実際にやってみなければ失敗しない代わりに何も得ることが出来ません。イエス様も囲いの外にいた私たちを愛して受け入れてくださったのですから、私たちもそうしようとすべきです。今、ともに礼拝を捧げている兄弟姉妹は、ともに交わりを築き上げる神の家族なのだと確信を持ち、それを妨げる内なる壁を取り除く決心をしましょう。

祈り

「天の父なる神様。

イエス様を信じた私たちを、神の民、また神の家族としてくださりありがとうございます。

私たちをキリストにあって一つとするよう召してくださり、交わりをともに築く、家族としてくださったことを心から感謝します。この交わりは、私たちが根ざすべき場であり、また育てるために使える場です。そのために喜んで仕える者にしてください。うちなる壁があるなら、どうぞそれを取り除かせてください。そのために力を与え、神様の愛とイエス様の恵みで満たしてください。

主イエス様のお名前によって祈ります。」

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