2025年 3月 9日 礼拝 聖書:エペソ5:1-20
中学生くらいの頃、アディダスのスポーツバッグが流行りました。今の日本はブランドの偽物に厳しいですが、当時は「バッタもん」と言って、デザインやロゴをよく真似た偽物がかなり出回っていました。よくみたら「Adidas」が「Adios」になっていたとか、笑うしかありません。
激安だと喜んで偽物をつかんでしまった私たちは、騙されやすかったということで笑い話で済むかもしれませんが、本物を誇りと愛情を込めて作っているメーカーとしてはたまったものではなかったに違いありません。
神様は、ご自身の永遠の救いのご計画をお立てになり、キリストにあった私たちを選び、愛と喜びに満ちた歩みへと招いてくださったのですが、私たちはその愛と喜びを教会家族との交わりの中で、隣人との関わりの中で具体的に見出して、味わい楽しんでいきますが、もし偽物を掴んでしまったら、どうでしょう。神様はとても悲しみ、私たちは空しさを味わうことになってしまいます。
1.愛のうちに歩む
さて、今日の箇所でパウロは、エペソのクリスチャンたち、そしてこの手紙を読む全てのクリスチャンに「愛のうちに歩みなさい」と語りかけます。それが神に愛されている子どもらしい、神に倣う歩みだからであり、キリストご自身が示してくださった姿だからです。
聖書の中には何度か誰かに「倣って歩みなさい」と言われていますが、神に倣うようにと書いているのはここだけだそうです。
神様はとほうもない愛とあわれみによって私たちを赦し、恵みを与え、救ってくださいました。その最たる事柄はキリストご自身の十字架の死です。よみがえって生きておられますが、その死は私たちのための身代わりのささげものであり、心も身体も、いのちのすべてを捧げつくす愛です。そのような愛によって子とされた私たちが愛のうちに歩むべきだと命じられるのは当然のことです。
私たちクリスチャンが歩む「愛」とは、イエス様が示してくださったモデルにならう愛でなければなりません。それは与える愛であり、自己犠牲の愛です。日頃の生活の中での親切であれ、社会的な課題に取り組むことであれ、自分の評判が高まるためや利益を期待してではなく、自分の手を使うことを厭わず、お金や時間を使って、相手の喜びや安心のために仕える、そんな愛です。
またキリストの愛があらわれた十字架は、「芳ばしい香り」だとも言われています。この言葉が表しているのは、私たちが愛のうちに歩む時、神様が私たちの愛のささげ物を喜んでくださり、私たちもまた神様から与えられている祝福を喜び楽しむことができるということです。
神へのささげ物、罪のゆるしのためのいけにえについては律法に様々な規定がありましたが、律法が定められる遙か以前から人々はまことの神様に礼拝を捧げ、ささげ物を捧げて来ました。そして芳ばしい香りについては、創世記8章で、ノアが洪水を逃れ、再び地上に降り立ったときに神に礼拝を捧げる場面で最初に登場します。
創世記8:21を開いてみましょう。「主は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で主はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。」人間の罪深さは変わらないけれども、ノアのささげ物を受け入れ、赦し、続く22節で祝福を約束しているのです。芳ばしい香りは、神に受け入れ喜んでおられることを表し、ささげた者が受け入れられ、与えられた祝福を楽しむことができるようになる、ということを表していたのです。
イエス様の十字架に表された愛もまた、神様への芳ばしい香りとして受け入れられ、事実、イエス様はご自身の犠牲を通して多くの人々が救われ神の恵みに満たされるのを喜び、楽しむことができたのです。
同じように、私たちが愛してくださった神様と、救いのためご自分を捨て、モデルとなってくださったイエス様にならって愛のうちに歩むなら、神様は私たちを喜んでくださり、私たちもまた与えられる祝福を喜び楽しむことのできる恵みを十分に味わうことができるのです。
2.愛ならざるもの
さて3節からはいきなり、雰囲気が変わって「不品行を避けなさい」という内容に変わっていきます。この段落は3節から14節まで続きます。ここで大きなテーマになっているのは、私たちは愛のうちを歩むべきだが、その愛に似て非なるもの、愛ならざるものに気をつけなさいという警告です。
3~5節に、聖徒にふさわしくない行動として上げられているリストはすべて、不品行というくくりに入れられる、性的な関係に関する罪です。
なぜこのようなことが言われているかというと、理由として考えられるのは実際にエペソ教会のクリスチャンたちが日々こうした誘惑にサラされていたということがあるかもしれません。
今でもエペソの遺跡巡りをすると、アルテミス神殿跡やとても立派な図書館の遺跡を巡ることができるのだそうですが、観光案内の人たちが喜んで話してくれるのが、図書館の奥にある抜け道の話題だそうです。図書館の隠し通路を抜けると裏通りに出て、目の前には娼館、つまり売春宿があったというのです。エペソの男たちは図書館に本を読みに行った風を装って、裏の娼館で女の子たちを買う。当然そういうことをしているのは女たちも知ってはいたわけです。大らかとも言えますが、そうしたことが当たり前の雰囲気。たとえ夫婦関係や家庭に好ましい影響を与えないとしても、「しかたがない」と受け流されるような文化であったことが想像されます。当然、人々が集まるときの話題にもそうしたことが取り上げられ、下品な冗談が飛び交っていたわけです。それはエペソだけでなく、ローマ社会どこでも見られた光景ですし、それは現代の日本でもそんなに変わっていないのではないでしょうか。もっとも現代は、娼館なんておおっぴらに商売できません。それは下火になって消えるどころか、社会の闇やネットの世界にどんどん潜り込み、結果的に子どもでも簡単に手を出せるものになっています。
もう一つの理由としては、このような不品行は愛ならざるものを愛であるかのようにすり替えることだからです。5節では偶像礼拝者という厳しい非難が向けられています。不品行は単に不道徳で汚らわしいというだけでなく、本質的には愛ではないものを愛であるとする偶像礼拝と同じような罪です。
愛という言葉ほど、美しく気高いのに、下品で自己中心な欲望にまみれている言葉はありません。どんなに綺麗な言葉で飾っても、不品行は自分の欲望を満たすために他者を利用するものであり、騙したり、秘密を作ったりして本当に愛すべき人たちとの関係を破壊するものです。だから聖書は、性的な関係を最も親密で互いに誠実であることを誓い合った強い絆である結婚関係にだけ限定します。
ところが、この世は「いやいやそんなことはない」と性的な逸脱を正当化し、これも愛、あれも愛と唄の文句じゃないですが、6節にあるように空しいことばで騙そうとするのです。しかし私たちは光の子どもとされたのだから、本当に主に喜ばれること、真実な愛とは何かを吟味しなければなりません。
13節にあるように、私たちが本当の愛のうちに生きるなら、この世の人々に、彼らが愛と呼んで目をつぶっていた醜さ、罪深さは明らかになり、真の愛を求める糸口になるのだ、闇の中に光を差し込ませることになるのです。
3.喜びならざるもの
パウロは15~17節で、再び自分の生き方について細かく、十分に注意を払うように命じています。
私たちもよく「注意して」とか「意識して」と言いますが、それは時として漠然としていて、具体的な行動が伴わないことがあります。先日、教会の話し合いの中で子どもが時々玄関を飛び出して怖いから、注意を促す張り紙をつけてはどうかという意見があり、早速注意喚起の紙を貼りました。
注意するというのは、危険があることを認識し、飛び出したらどうなるか予測し、飛び出さないで良く見て、慌てず玄関のドアを開ける、という行動を全部含めたことです。
愛を偽物の愛と取り違えたり、偽ブランドの愛にだまされたりしないために私たちは、注意深くあらねばなりません。私たちは主が喜ばれる事は何かを悟り、行動する力を聖霊によって与えられている者ですから、理解を深めたり、考えを改めたり、どういう振る舞いをすべきか判断したり、悔い改めたり、愛を表したりする、そういう機会をちゃんと活かして主が喜ばれる真の愛を表す者となるべきです。
しかし、そういう理解のための理性や行動のための意志を鈍らせ、弱らせるものが私たちの周りにはあります。その最たるものはお酒です。寒い冬の朝の炬燵もだいぶ私たちをダメにする力があるかもしれませんがお酒の力は侮れません。
聖書全体を調べても、お酒自体を完全に禁じているわけではありませんし、お酒を飲むこと自体が罪だということは言われていないのですが、それでもお酒が問題になるのは、愛の場合と同じように、偽物の喜びとすり替える力があるからです。大洪水を救い出されたノアはぶどう酒で大失敗をしてしまいますし、最初の大祭司アロンの息子たちも酔っ払ったままで礼拝の奉仕をしたせいでとんでもない失敗をしてしまいます。ですから、特別な誓いを立てた人や、民を代表する立場や奉仕をする際にはお酒を禁じたり控えるよう命じられたほどです。通常は私たちの自制心と良心に委ねられているのですが、まず求めるべきは御霊にみたされる事です。聖霊の導きに委ね、信頼し、従うことをもめるなら、私たちは喜びを楽しみ感謝に溢れることができるのですが、お酒は本当の喜びとは別のものを楽しみとして与え、私たちを捕らえる力があります。
もちろん「ぶどう酒」と書いてあるから、ワインは危ないけれどビールは大丈夫とか、そういう意味ではありません。ワインは当時の世界でのアルコール飲料の代表だからそう書いているだけです。
聖霊に満たされることより、お酒に溺れることを求める時、何が起こるでしょうか。主のみこころを求めたり、判断するかしこさは失われ、理性の働きや意志の力はどんどん弱くなります。よく飲酒運転で捕まったり、事故を起こした人たちの言い訳を聞きます。大丈夫だと思った。少しの距離だからいいと思った。真の喜びの代わりにお酒に頼り始めると、アルコール依存や暴力、借金の問題まで引き起こし、本当に愛すべき人たちの交わりを分断し、本当に喜びをもたらしてくれるはずの親しい交わりを破壊してしまいます。少しの期間、アルコール依存の方と関わったことがありますが、怯えと悲しみと諦めの入り交じったまだ幼さの残ったお子さんの表情は今でも忘れられません。
適用:愛と喜びを楽しむために
今日の箇所全体が私たちに教えていることは、あれやこれは罪だ、というリストではありません。私たちは神様に愛された者として、愛のうちを歩み、聖霊が与える喜びを楽しんで生きなさいということです。しかし、そのためにはまがい物の愛や偽りの喜びに、本当によく注意して、見分け、良いものを選んでいかなければならないのです。
私たちは、罪や律法から自由とされ、愛と喜びを楽しみ、味わうことができるようにされました。しかし、偽物の愛や喜びに騙されるためではありません。
ときどき偽ブランドに騙されて笑い話にしているように、こうした罪を軽く考えてしまっているかもしれません。神様は、私たちクリスチャンがせっかく神の愛を知り、光の子とされ、私たちの心を照らし悟りを与える聖霊が住んでくださっているのに、偽りの愛やまがい物の喜びに浸って満足していたらどんなに悲しいことでしょうか。
重要なことは、私たちが自分の寂しさを紛らわせるためであれ、自分の欲望を満足させるためであれ、不品行やアルコールに身を委ねてしまうとき、そこに真の愛と喜びはないということです。
もっとも、本当かどうか私には分かりませんが、最近の若い人たちは恋愛やお酒にはあまり興味が無いか、積極的でないと言われます。そうしたら、エペソ書が取り上げているような問題はそれほどないのでしょうか。
人間が数十年の間に本質的に変化するわけではないので、愛や喜びを求める生き物であることには変わりませんし、見つけるべきところで見つけられなかったら何かほかのものを探し、偽ブランドを掴まされるように、「空しいことばにだまされる」ことが起こっているのではないでしょうか。それが具体的に何なのか私には分かりませんが、この時代に生きるクリスチャンとして、自分の生き方についてはよくよく注意して、良いもの、主が喜ばれること、真の愛と喜びを見分けて歩むことが、やはり必要です。
もちろん、若者だけの問題ではありません。青年期を終えて成人中期から壮年期になると、若かったころほどの感情や様々な欲望に振り回されたり、悩まされることは少なくなり、ある程度落ち着くかも知れません。しかし逆に、自分の弱さや衰えを受け入れられなかったり家庭生活や社会生活で思うようにならない寂しさを不品行やアルコールで紛らわす誘惑に会うこともあります。
新しい人に造りかえられて行くというのは、人生の全体を通したことがらですので、人生の段階が変わって行けば、その時々の新しい課題、新しい悩み、新しい誘惑があります。だから、いつでも、誰でも、自分の歩みを吟味し、注意深くする必要があるのです。
どんな場合も、しっかり覚えて欲しいことは、神様は私たちをやっちゃいけないリストで雁字搦めにして、自由も喜びも楽しみもない生活をして欲しいわけではありません。むしろ、私たちが神様から学んだ愛のうちにいき、喜びを楽しんで生きるようになって欲しいのです。しかしこの世界はバッタもんに溢れた世界だから、偽物を掴まないよう、よくよく注意しましょう。そして、本当に愛すること愛されること、うちからあふれる喜びを楽しむ者とされていきましょう。
祈り
「天の父なる神様。
愛されている者らしく、神様に倣って愛のうちに歩むように。聖霊に満たされて、喜びを楽しみ感謝に溢れるようにと、私たちを招いてくださりありがとうございます。
この世には愛のふりをしたもの、喜びのふりをしたものがあふれています。そのようなものに騙されてしまうことがありませんように。自分の歩みを吟味して、良いものを見分ける注意深さと理解力を与え、良いものを選び取っていく力を与えてください。そのために聖霊に満たし、聖霊が与える喜びを楽しんで歩めますように。
イエス様のお名前によって祈ります。」