2025-03-30 堅く立つために

2025年 3月 30日 礼拝 聖書:エペソ6:10-24

 サッカーや野球、ラグビーなど、スポーツの試合開始前には選手やコーチがエンジンを組んで、キャプテンから選手たちに激励の言葉がかけられます。有名になったのは昨年のワールドベースボール決勝で大谷選手がスピーチした場面かもしれません。こうした戦いの前の激励の時というのは、もとをたどれば戦場に送り出す王や将軍からの激励と備えよとの命令に遡ります。敵の攻撃を前に、ひるみがちな兵士たちを力づけ、防具と武器を取って大事なものを守るために勇敢であれと励ますわけです。今日はそんな箇所です。

今日はエペソ書最後の箇所になります。これまで、パウロは前半で私たちが召された神様の救いのご計画について語り、後半でその召しにふさわしく歩むようにと教えて来ました。具体的には神の計画の中心には教会があり、教会における歩みのふさわしさは、まず最初に私たちの心と行動の変化、そして家族の関係性に表れるのです。しかしパウロは、召しにふさわしい歩みをしようとするときに、戦いがあるということを良く知っていました。

1.戦いの現実

第一に、主の召しに応える歩みには戦いがあります。ですから、10節でパウロは「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」と励まします。

この「大能の力」という言葉をパウロはこの手紙の中の重要な部分で使っています。1:19~20です。私たち信じる者のうちに働く神の力を大能の力と呼んでいます。その同じ大能の力によって、神はキリストを死者の中からよみがえらせて、すべての権威にまさる真の王として立たせました。そんな力によって強められなさいというのです。

主の召しに応える歩み、クリスチャン生活に引き起こされる戦いを前に、私たちは弱く力がありません。だから、主の力によって強められる必要があります。

自分に力がないのに、立ちあがらなければならないとき、どこから力を持ってくるか、とても重要な問題です。中から絞り出せるものはありません。

一昨年の入院生活で、手術後約1週間完全に寝たきりでした。体重もかなり落ちていました。立ち上がり歩き出すためには、外から力をもらう必要がありました。しっかり食べ、支えてもらい、リハビリを指導してもらいます。もちろん自分でも努力し、練習して外から受けた力を自分の力としていくことでしっかり歩けるようになりました。

私たちが主の召しにふさわしく生き、堅く立ち続けるため必要な力もまた外から、神様ご自身からいただく必要があります。そうする必要があるのは、私たちが安全な病室で立つ練習をするのではなく、戦いの最前線で立ち続けなければならないからです。

ただしこの戦いは、文字通りの戦争ではないし、暴力によるものでもありません。また敵対する人間や社会を打ち倒すようなものではありません。この戦いは11節にあるように悪魔の策略に対する戦いであることが明らかにされています。といっても呪術廻戦みたいな戦いがあるわけではないのです。

12節には悪魔がどのような手段で教会や一人ひとりのクリスチャンを攻撃するかが書かれています。迫害を想像するかもしれませんが、それも私たちの信仰を揺るがすために悪魔が用いる手段の1つに過ぎません。その影響力を用いて人々やこの世の権力者や力ある人たちをそそのかして、私たちを愛に根ざした、光の子、神の子どもとされた者としての生き方や希望への確信を揺るがし、離れさせようといろいろやってくるということです。エペソ教会の時代に実際にパウロが経験していたような迫害という形をとるかもしれないし、嫌がらせや、社会的な圧力もあるでしょう。また科学万能や経済優先、楽しければ良いといった思想的なことかもしれないし、罪によって歪められた社会のシステムが抱える不公正や無慈悲といったことかもしれません。ありとあらゆる形で、私たちの希望や愛に根ざした生き方についてのみことばの教えに疑いを抱かせ、迷わせ、希望を奪おうと悪魔は霊的な戦いを挑んで来るのです。

イエス様も旅の途中で弟子たちを遣わすとき、「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです」と言われました。その手強さと私たちの弱さを考えたら、神様からの力を頂かずに戦いに出るなど無謀もいいところです。

2.神の武具

そこでまず、パウロは戦いに備えて神の武具を取るようにと語りかけます。当時のローマ兵たちが戦場で自分の身を守るため実際に身につけた武具になぞらえて、私たちの信仰の確信をしっかり保つために身につけるべきものを挙げています。

13節に、これらを身につける目的は、悪魔の攻撃があったとしても、それに抗い、与えられた使命を成し遂げ、堅く立ち続けていられるためです。では一つ一つ見ていきましょう。

まず14節には「腰には真理の帯を締め」とあります。日本語にも「帯を締める」「襷を締める」という着物を着ていた時代の名残のような慣用句がありますが、ローマ人たちが着ていた服はわりとゆったりしたものでしたので、戦いには不向きでした。だから帯をしっかり締めて動きやすくする必要がありました。帯を締めることは戦いに出向く最初の実際的な準備であり、気持ちを切り替えるものでもあったのです。パウロは真理の帯を締めなさいと書きましたが、これはイザヤ11:5から来ています。福音の中身としての真理というより、心のうちに正義と真実をしっかりと据えるということです。それが私たちの行動に自由を与えます。

次に「正義の胸当てを着け」とあり、これはイザヤ59:17から来ています。胸当ては心臓や肺を守る大事な防具です。正しいと分かっていることを無視せず、正しいこととして行えること。神様の教えや原則に忠実であることが私たちのクリスチャンとしてのいのちを守ります。

16節には「平和の福音の備えをはきなさい」とあります。足元がしっかりしていることはどんな場合でも基本です。私たちは常に平和の福音を与える備えをしている必要があります。霊的な戦いの現場では、目の前にいるのは敵対的な態度でつっかかってくる人かも知れませんが、私たちが相手に最終的に与えるものは敗北でも屈辱でもなく、罪の赦しと福音がもたらす平和であることを忘れてはいけません。

16節では体全体を覆う「信仰の大盾を取りなさい」と言われています。この世界では信仰なんか役に立たないとか、キリストに望みを置くのは愚かだという人たちがいるでしょうし、悪魔は火矢をあびせるように、あらゆる方法で私たちの信仰を非難し、疑いを抱かせ、あざけるでしょうが、神様に対する信頼、信仰だけがそれらを跳ね返す力があります。

17節「救いのかぶと」、頭という決定的に大事な部分を守るかぶとは、「救い」という神様からの贈り物です。人生における霊的な戦いを生き延び、堅く立つために私たちに与えられる守りの要として救いが与えられているのです。この戦いをうまく戦い抜いた人が報酬として救われるのではなく、私たちを守るために救いが贈り物として与えられており、それは揺らぐことがないのです。

そして最後に「御霊の剣、すなわちかみのことばを取りなさい」とあります。みことばは真偽と善悪を見分け、救いをもたらします。他人をさばくためというより、自分自身の心の深いところまで探り、私たちを救い出してくださいます。もっとも良い例はイエス様が荒野の誘惑で悪魔の攻撃を退けたときの使い方です。聖句を呪文のように唱えるのではなく、みことばの教えの本質を理解し、拠り所とすることで堅く立つことができます。

3.祈りの習慣

こうした神の武具、と呼ばれているものは、実際には特に目新しいものではなく、様々な機会にクリスチャン生活、教会生活の基本的な原則として繰り返し教えられて来たものだというこに気付かされます。私たちは聖書を通して学んだこれらの原則を実際に身に付けることで、霊的な戦いが実在するこの世界でしっかりと立ち続け、神様から委ねられた務めを果たしていくことができます。

そのためにもう一つ重要なのが祈ることです。18~20節で、パウロは祈るようにと何度も何度も繰り返しています。

18節で、祈りについて教えられていることは、祈りを日々の習慣にしなさいということです。「どんなときにも」「目を覚ましていなさい」「忍耐の限りを尽くして」といった言葉が、祈りを困った時だけのものや、良かったことがあったときのものとしないで、状況が変わろうとも、忍耐強く継続していくもの、習慣にしなさいと教えています。

皆さんも、いろいろ習慣になっていることがあると思います。食事の前に手を洗うとか、食事の後には歯を磨く、疲れてもお風呂には入る。使い終わったらもとの場所に戻す。出かける前に天気を確認する。いろいろなことが生活の習慣になっていて、一度身についたことはよほどの緊急事態でもない限りほとんど考えなくてもできます。そのように祈りを日々の暮らしの一部になるよう、忍耐強く継続しなさいというのです。

しかもこの祈りは自分のためというより、すべての聖徒のために、つまりとりなしの祈りです。またパウロは自分自身が福音を語るべきときに大胆に語れるように祈って欲しいと19節で付け加え、さらに福音のために迫害され、投獄されながらも、置かれた場所で使節の役割を果たしているから、語るべき時に語れるよう祈って欲しいとも加えています。

これらのみことばの意味をよく考えるとき、とりなしの祈りとは何を祈ることなのかを考えさせられます。

多くの場合、たとえば教会指導者が無実の罪で捉えられたとなると、一日も早く解放されるようにと祈るのだと思います。それは誰かが病気になったとか、特別な困難の中にある時もです。しかし、私たちは、必ず病気が治るわけではないことを知っているし、無実の罪であっても迫害の果てにいのちを奪われることがあるという現実を知っています。もちろん、同じ人間として、苦しみから解放されるようにと願うのは当然ですが、とりなしの祈りとして重要なのは、そうした苦しみのただ中で起こる霊的な戦いの相手は牢獄でも病気そのものでもないということです。困難の中で、私たちが持っていたはずの希望や喜び、愛に根ざした生き方の核心がゆらいでしまうとき、私たちの心は弱くなり、諦めや自分はだめだという気持ちに負けてしまい、正義と真実に生きるなんてどうでもよくなってしまいます。あるいは神様はなぜこの病気や苦しみから救ってくれないのか、という事にばかり心が支配されがちです。それは人間として当たり前の感覚かも知れません。みんながパウロみたいに牢獄にいても自分は福音の使節だ、なんてすぐには考えられないでしょう。だから、私たちは互いのために祈ることが必要なのです。困難の時も、愛する兄弟姉妹が福音の希望と愛に根ざした生き方にしっかり立てるために神の力が注がれるようにと祈るのです。

適用:堅く立つために

最後に、手紙の終わりの挨拶の部分を見て終わりにしましょう。ここまでパウロは手紙の前半で神の救いのご計画とその奥義である教会について教えました。手紙の後半では神の家族としての教会に加えられた私たちが、神様の召しに応えて個人的な生活や家族や社会でどう歩むべきか、どんな使命が与えられているかを教え、最後、今日開いた箇所で、この召しに応える生き方のためには、神様の大きな力が必要だということを教えてきました。

そして手紙の最後の部分に記された内容を見るときに、パウロは手紙を通して教えて来たことをパウロの現実の生活と働きの中で、また教会の交わりの中で生き生きと生きていたことが伝わってきます。

パウロ自身は結婚をしなかったと言われています。彼に与えられた特別な使命を考えると、通常の結婚生活、家庭生活はかなり難しかったでしょうから、パウロもそれを理解した上で、独身であることを選んだようです。しかし、代わりに彼の周りにはキリストにある神の家族の仲間がいつもいました。

ここではティキコという、愛する兄弟であり、主にある忠実な同労者の名前が挙がっています。使徒の働きや手紙の中に度々登場するティキコは、パウロと行動をともにした仲間の一人です。パウロの伝道旅行というと、パウロが孤独に厳しい旅を続けたようにイメージするかもしれませんが、実態は逆で、ほとんどの場合、共に旅をし協力しあう仲間がいました。むしろ、そうした仲間から離れて一人にならなければならない時の寂しさというか、早く仲間と合流したいという気持ちが所々に記されていますから、やはり普段は労苦を分かち合い、祈り励まし合う神の家族が共にいることがパウロの力だったことが分かります。

そして仲間の一人であるティキコをエペソ教会に送り、自分の様子を詳しく伝えることにしました。それはエペソ教会の励ましのためです。私たちの教会でも時々宣教師を迎え、報告を聞くことがありますが、海の向こうのあったことのない教会の様子に励まされたり教えられることが良くあります。パウロはそのようにして、エペソのクリスチャンたちがますます力を得て、福音の希望と愛に根ざした生き方、そして宣教の使命にしっかりと立つことを願いました。パウロ自身がそうやって支えられ、力づけられて来たのと同じです。

手紙を締めくくる最後の祈り、23節と24節は、定型句と言って良く用いられる祈りの言葉ですが、24節はちょっと変わった言い方です。朽ちることのない愛をもって、というのはイエス様が私たちを愛する愛について言っているのではなく、私たちクリスチャンのイエス様に対する愛が朽ちることのない愛だと言っているのです。そのような愛でイエス様を愛する者であって欲しいというパウロの心からの願いだったと思います。

クリスチャンとしての生き方、教会家族や私たちが生きる社会での行動について、神の救いのご計画に根ざして教えられて来ましたが、それらは突き詰めて言うなら、永遠の愛をもって愛してくださったイエス様に対して、私たちもまた愛をもって応えるということになるのです。この愛ぬきには、あらゆる教えがあっという間に色を失った規則のようになってしまい、私たちから喜びを奪ってしまいます。だから、主の召しに応える歩みに堅く立つために、神の武具を取りなさい、祈りなさいという教えに応答する時も、私あっちを召してくださった神様の永遠のご愛、私たちに対するイエス様の愛を思い起こし、愛するゆえに応答する者でありましょう。

祈り

「天の父なる神様。

私たちを愛して、私たちのために救いのご計画を立て、キリストによって救いをもたらしてくださってありがとうございます。

イエス様にあってすべてを1つにするという偉大な奥義のために私たちを召して、神様の家族である教会に加えてくださり感謝します。神の家族の一員として、福音の希望と愛に根ざした生き方をするようにと教えられていますが、私たちはあなたの力なしにそのように生きることはできません。そしてあなたの愛を絶えず思い起こさずには、私たちの歩みからは喜びが失われてしまいます。

霊的な戦いの現実がありますが、どうぞ私たちを強め、また互いに祈り合い、交わりの中で励まし合いながら、イエス様に対する愛のゆえに、堅く立っていけますように、力を与え祝福してください。

イエス・キリストのお名前によって祈ります。」

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