2025年 4月 6日 礼拝 聖書:イザヤ64:8
新年度に入り、新しい歩みを始めた方もおられますが、教会としても、心をまた新たにされて歩んで参りたいと思います。
さて、今年度の主題聖句としたイザヤ書には「私たちは粘土で、あなた私たちの陶器師です」という言葉があります。粘土と陶器師を比喩に用いた、私たちと神様との関係はどのようなものでしょうか。
たぶん小学生の時だったと思うのですが、陶芸クラブというのに入っていたことがあります。それ以来、回数は多くありませんが、何度か陶芸に触れる機会があり、その度に不格好な器が増え、今でもその一部が我が家の食器棚に収まっています。あまり使う機会はないのですが、捨てるに捨てられずにいます。陶芸家の古い知人もいて、何度か陶芸についての考えを聞いたことがあります。今日はそんなことも思い出しながら、しかし、聖書自体の文脈とメッセージを見失わないように、神様が預言者を通して語っておられることに耳を傾けたいと思います。
1.苦難と不安の中で
第一に、このメッセージを受け取った預言者イザヤの時代の人々は、大きな苦難と不安の中におりました。
預言者イザヤは、紀元前720年頃から活動しましたが、それは丁度南北に別れた王国のうち、北のイスラエル王国がアッシリア帝国による滅亡に向かっている時期でした。イザヤは南のユダヤ王国に遣わされた預言者でしたが、イスラエルの滅亡を警告しつつ、南のユダ王国もまた神の前に遜らなければ、やがて来るバビロン帝国の脅威に飲み込まれ、同じように滅びると警告しました。
しかしまたイザヤは約束のメシヤ、キリストによる救いも約束します。64章も、約束のメシヤがおいでになることを預言者した章であることが分かるのですが、メシヤの到来は希望だけでなく、不安ももたらすものだったようです。私も子どもの頃から、やがてイエス様がもう一度おいでになって私たちを天の御国に迎えてくださると聞かされて来ましたが、それは嬉しい約束というより、「いざその時が来て自分は大丈夫だろうか。ダメ~!って言われるんじゃないか」と、不安にも感じていました。
64:1~3にはメシヤがおいでになる時は、あらゆるものが揺り動かされるようです。イエス様の神、また王として、人々が予期しない時においでになり、その権威、栄光、聖さは全地を揺り動かします。文字通り地震のように揺れるということなのか、人々の感じる同様を表しているのかはその時にならないと分かりませんが、少なくとも、人々の心は揺り動かされます。
イエス様がおいでになることは待ち望む者にとっては5節にあるように救いのはずですが、5節後半から7節にあるように、自分たちの罪や弱さを考えると「私たちは救われるのでしょうか」という疑問、不安がよぎります。
実際、この預言が成就するイエス様の最初の来臨の時、人々は、メシヤを待ち望んでいたにも拘わらず、いざイエス様がおいでになってみると、人々は揺れ動きました。ある人たちは直接イエス様にどうすれば御国に入れるかと質問し、またある人たちはイエス様の言葉に動揺しました。
イザヤの時代の人々はアッシリア帝国の強大な軍事力を前に、自分たちが置かれている危機的な状況と重ね合わせながら恐れ、不安になっていたのではないでしょうか。
しかしイザヤは8節で主に呼びかけます。「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。」
イエス様が人としてお生まれになり、救い主としておいでになったときに人々が恐れ惑ったように、イエス様がもう一度おいでになり、王として来られる時、また人々は恐れ惑うでしょう。待ち望んでいる私たちにとっても、イエス様の到来は希望であるはずです。しかし5節の「私たちは救われるでしょうか」と同じように、もしかしたら、自分の罪や弱さがあることに気付かされ、その罪のために、イエス様の前に立つことができるだろうか、拒絶されはしないだろうかと恐れたり、不安になったりするのかもしれません。けれども思い出しましょう。主は私たちの父なる神様です。神様を「父」と呼ぶのは、神様の父親的な性質という以上に、変わることのない契約で結ばれた関係を表しています。神様は子としてくださった私たちを決して見捨てたり、放り出したりはしないのです。
2.主は陶器師
では、私たちが生きている間に経験する苦難や、この不安にはいったいどんな意味があるのでしょうか。
イザヤは主が父であることを、陶器師に喩えています。陶器師は行き当たりばったりに器を作るというようなことはしません。彼は奇抜な作品を造る芸術家ではなく、生活に必要な道具をつくる技術者です。ただし、その作品には芸術的な美しさがあります。
そして肝心なことは、陶器師は行き当たりばったりに器を作るのでなく、造ろうとする器のイメージを最初から持っているということです。そして器を作るには様々な工程があり、たとえ小さな湯飲み程度の器であっても、それなりの期間を掛けないと完成に至りません。
陶芸をやったときのことを思い出すと、最初にやることは土を捏ねることでした。空気を抜きながら粘土の固まりを捏ねていくとだんだんと柔らかくなめらかになっていきます。そして土を捏ねながら、どういう器にしようか、何に使おうか、とあれこれ想像します。土から伝わるひんやりした湿り気のある感触は子ども時代を思い出す、とても楽しい時間です。
十分捏ねたら、いよいよ器を作っていくのですが、よくテレビや動画で見るような、ろくろを回させ、くるくる回っている粘土を両手で成形していくのはとても格好いいですが、初心者には難しいので、最初は紐作りというやりかたをします。粘土を細長い紐状にして、それを土台の上に積み上げて器にしていきます。
紐を重ねて造った器はデコボコなので、それを平らにしたり、用途に応じて薄くしたり厚くしたり、形を変え、時には取っ手をつけたりします。直接口をつける器と小鉢のようなものでは縁の仕上げ方が変わってきます。
最後は水を含ませた布や革で表面をなめらかに仕上げ、しばらく乾燥させ、水分が抜けてからいよいよ窯で焼き、素焼きの状態にします。冷めたら今度は色づけをします。素焼きの陶器は水を入れてもしみ出してしまうので、器の表面にガラス質の膜をつけるために、釉薬とかうわぐすりと呼ばれる液体を掛けていきます。これが不思議で、焼き上がりと綺麗な色になるのですが、液体自体は真っ黒かったり、変な色だったりするのです。そしてまた乾燥させ、それからまた窯に入れて焼き上げます。
古代イスラエルの陶芸の技術がどうであったか詳しいことは分かりませんが、基本的には粘土を成形して焼くわけですから、同じような手順があったと思います。
陶器師が粘土を捏ね、あらかじめイメージした姿を目指して成形し、削ったり、磨いたり、窯に入れたりする作業を、私たちに対する神様の取り扱いとして描いていることはすぐに分かると思います。特に、この文脈を考えると、私たちは苦難や試練を通して練られ、教えを通して形尽くられ、また不安でさえも私たちを仕上げるための経験として用いてくださるのだということを表しています。
そして、とても重要なことは陶器師は器を作るにあたって、とても真剣に、愛情を込めて取り扱うということです。ろくろから半乾きの作品を持ち上げる時には形を壊さないように、焼き上げる時は割れたりしないように細心の注意を払うように、私たちを愛し、良いものにしようと、真剣に取り扱ってくださいます。
3.私たちは主の作品
そういうわけで8節の最後の行にあるように、私たちは「あなたの御手のわざ」、つまり神様の作品なのです。
もしかしたら、「私はわたしだ」と言いたい現代人は、自分が誰かの作品だなんて言われると侮辱された感じがするかもしれません。自分の個性を他人にどうこういじられるのではなく、どこまでも自分らしくありたいという考え方は分からなくもありません。
粘土はあくまでも比喩であって、私たち人間が粘土のように意志も感情も自由もない存在で、なすがされるままに任せればいいということまで言っているわけではありません。ただ、神様の恵みの器として用いられるよう、神ご自身の御手によって練られ、形作られることを表しています。
私たち現代人は、自分の人生は自分のものだと言いたいのですが、それはそうなんですが、だからといって自分の人生を思うがままにできるわけでもありません。むしろ、私たちの人生に起こることのほとんどは、自分の意志や願いとは無関係に起こります。
私たちは自分が生まれる家を選ぶことはできないし、性別を選ぶこともできません。どんな町に生まれるかも、生まれ育った家庭の経済的な状況や親の仕事も選べません。生まれながらの体格や体質も多くが親からの遺伝情報で決まります。生まれた環境によって、通える幼稚園や保育園、学校などの選択肢はそうとう限られます。幼少期に経験することは、ほとんどが自分で選択したことではなく与えられたものです。
粘土がどの土地で採れたかによって性質が異なるように、私たちはめいめいがもって生まれた性質があり、環境があり、6歳ぐらいまでに得たもの、経験したことが私という人間の人格の土台を形作ります。神様が永遠の昔から私たちをお選びくださったという聖書的な視点を通して見れば、神様が私という人間に生を与えたのなら、そもそも神様によって与えられたあらゆるものが私という個性の土台になっていると言えるのではないでしょうか。
そして私たちは人生の中で様々なことを学び、経験しますが、それらを通して神様は私たちを器として形作ろうとしてくださいます。少し前に開いた箇所ですが、エペソ2:10をもう一度見てみましょう。
ここでも私たちは神の作品であるという比喩が用いられています。私たちには神様から託されたことがあり、私たちがこれまで経験したり学んだり、身につけたことを通して何を託されたかを知り、自分自身をそのために献げていくことができるのです。
イザヤの預言と非常によく似た、そしてもっとリアリティのある預言がエレミヤ18:1~6です。エレミヤが陶器師のもとを訪ねると、ちょうど作りかけのろくろの上の作品を一度壊して新しく作り直している最中でした。これはイスラエルが悔い改めないなら、一度滅ぼして作り直すよという警告でした。神様がもともと私たちをご自分の器として形作ろうとしていたのに、それに背を向けるなら、それでも神様は私たちを良いものに形作ろうとするでしょうが、その時に味わう取り扱いは、作品が一度壊されるような厳しい経験になるかもしれません。それでも、神様は私たちが憎いからそうるとか、壊して捨ててしまうということではなく、新しく作り直すために練り直すのです。愛のゆえです。
適用:恵みの器として
さて、今日は今年度の主題聖句となっている箇所から、神様が私たちにとって陶器師のようなお方であり、私たちは神様の御手によって練られ、形作られた作品だということを見てきました。
皆さんのお家にも、多かれ少なかれ、何種類からの器があることでしょう。陶器のものじゃなく、樹脂製のものとかも多いかもしれませんが、それはそれとして、どうしてそんなに何種類も、あるいはいくつも器があるのでしょうか。学生時代、下宿していたときに自分が持っていた食器は家から持っていったコーヒーカップと近所の生協で買ったラーメンどんぶりくらいでした。朝と夜は下宿のご飯だったので、十分それで間に合ったのです。でも、結婚したり、子どもが生まれたりすると、飛躍的に食器が増えました。飾るためのものを持っている人も居るかも知れません。とにかく、それぞれに使い道が違っていたり、人数分必要だったり、来客者用に準備したりとなにがしかの使い道がそれぞれにあって、いつの間にか増えていたりします。
神様にとっての作品である私たちもまた、異なった形の器です。そして私たちは神様の恵みを入れて誰かに提供するために器として形作られました。
神様の恵みを受け取った私たちは、まず自分自身の内側から新しくされ、新しい生き方をし、それから周りの人に恵みを与える者としての役割を果たすようになります。
それぞれが違った仕方でこの役割を果たすことになります。
もちろん私たちは、完全な意味で陶器の器ではありませんから、無意識のうちに神の恵みが注がれ、自分の意志と無関係に器として用いられるのではありません。私たち一人ひとりが神様の恵みの器なのだということを自覚し、自分なりのあり方を見つけ、ぜひ私を神様の恵みの器として用いてくださいと、自分を献げる必要があります。
たまには自分でも思っても見なかった用いられ方をすることもありますが、それでも基本的には、自分を献げようとすること、神様がこんなふうに用いたいと願って備えてくださった仕方で用いられることで、私たちは使いやすい器となっていきます。
今年度、毎月第一週は、聖書に登場する様々な人物を取り上げ、神の器としてどのように用いられたのか、どのように取り扱われたのか見ていきたいと思います。ぜひ、皆さんそれぞれ、自分はどうなんだろうかと考えを巡らしながら聖書に向き合っていきましょう。そして、ぜひ、自分はこういう仕方で恵みの器として用いられるんじゃないかと思ったら、ぜひ思い切って、何かを始めてみてください。
また、どうやって探したらいいか見当もつかないという方がおりましたらご相談ください。今月から神学校の講座で担当するクラスはまさにそういう内容なのですが、教会でも出来ますので、興味のある方々でグループを作って学んでみるのも楽しいと思います。神様が自分の人生に与えたびっくりするような備えの豊かさに気付かされると思います。そして、これは何歳になっても、どんな年代でも取り組む価値があることです。神様は私たちを生涯を通して整え、用いてくださる方です。教会のあっちでもこっちでも恵みの器が活躍して、恵みがたくさんあふれる姿を私は夢見ています。
祈り
「天の父なる神様。
あなたは陶器師のように、私たちを練り整え、恵みの器として形作ってくださいます。私たち一人ひとりがあなたのあふれるほどの恵みの器としてくださって感謝します。
どうぞそのことを自覚し、またどんなふうに自分が用いられるのかを見出して、喜んで仕えることができますように、私たちを導き、励まし、祝福してください。
教会のあちらこちらに、恵みの器によって、多くの恵みが溢れ、また周りの人たちにあなたのご愛、福音の自由と喜びが届きますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。」